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第一話 Girl Meets Girl



「二年三組の渡辺志織です。忘れものを取りにきました」
 当直の警備員に志織が学生証を提示すると、いやそうな顔をされた。志織だって、こんな時間にわざわざ学校になど入りたくはなかった。
 時刻は午後九時三十分。どの部活もとっくに活動を終了している。本当なら志織も自分の家でのんびりテレビでも見ていたはずだった。しかし、閉館ぎりぎりまで図書館で勉強をして帰宅したのは八時を回ったころ。そこで学校に自宅の鍵と父の形見のネックレスを忘れてきてしまったことに気づいた。
 父は志織が小学生のときに亡くなり、唯一の家族である母は夜勤で一晩中留守だった。ネックレスはともかく、家に入るには鍵を取りに戻るしかなかった。近頃は物騒で高校生の出歩きも厳しいので、外で時間つぶすのも躊躇われた。
 さいわい制服姿のままだし、学生証を持って行けばすんなりと通してもらえると踏んでいた。黙って忍びこんでもよかったかもしれないが、さすがに平凡な公立校とはいえ、最低限のセキュリティシステムは施されている。下手に侵入して騒ぎになるよりかは、正直に堂々と理由を言って入れてもらうほうがずっと手間がはぶけた。
「すみません、今日は親がいないから、鍵がないと家に入れないんです」
 若い警備員は舌打ちをして、鍵の束を取り出した。志織はノートに学年と名前を書かされ、学生証はコピーをとられた。昔はもっとゆるかっただろうな、と志織は面倒くさく思ったが、そもそも忘れ物をした自分がいちばん悪いので、粛々と言われたとおりにする。
 手続きは短時間で終わり、警備員に付き添われて職員用玄関から校舎のなかに入った。
「先生たちはもう帰ってるんですね」
 この時間だとまだ残業している教師がいても不思議ではないと思ったが、来るときに見上げた二階の職員室は暗く、玄関も施錠されていた。
「今日ちょっと何かあるみたいだから」
 そっけなく、歯切れも悪い口調だった。その様子を見て志織はどこか違和感をおぼえたが、そもそも自分が手間を増やしているのだから何も口にしなかった。
 来客用のスリッパは床に貼りつくような感触だ。ぺたぺたと音を響かせながら、二人は階段をのぼった。警備員が手に持つライトの照らす先はくるくると動いて定まらない。それをずっと見ていると酔いそうだと感じるほどに。
 二階に到着して廊下を出るとき、警備員は立ち止まって注意深く左右を確認して、やっと左に曲がった。本校舎の二階、長い廊下のちょうど中ほどに三組の教室がある。
 夜の学校というものは、思いのほか空虚だ。昼間は生徒であふれて騒々しく、ときには呆れるほどの大声の会話がなされるほどだが、いまは誰もいない。あるべきものがない。それは、不気味というよりも寂しく思えた。
 真っ暗で誰もいない中庭を窓から眺めながら、ここまで来て見つからなかったら恥ずかしいな、と志織は声に出さずに思った。どこで忘れたのかは確証がなかったが、鍵もネックレスも今日の昼間に教室にいたときまでは確実に手元にあったことは覚えているので、まずは学校に戻っただけだった。
 警備員に教室内の鍵を開けてもらう。このときも、彼は恐る恐る戸を開けた。真っ暗な教室に誰かがいるわけでもなく、電気をつけるのも面倒に思えた志織はすたすたと自分の席に向かう。
 床に膝をつくと、ひやりとした温度が伝わってくる。机のなかを覗きこんだが、目当てのものは見つからない。教室後方のロッカーを開け、ようやく探し求めていたふたつを発見した。
「すみません、ありました」
 鍵を目の高さに持ち上げて見せてやる。土産物の人形のキーホルダーがゆらゆらと揺れ、金属音がかすかに発せられた。警備員は微かに安堵の表情を浮かべた。それを見て、志織もなんだか緊張がとけた。
「では、すぐ出ましょうか。今日はあんまり人を入れるなって言われてるんで」
 そういえば、志織が名前を書かされている間、彼はトランシーバーか何かで誰かと話していた。目的を果たした以上、志織だってここにいる理由はない。できればネックレスだけは身につけたいところだが、ここで悠長に首に巻くのは気が引けた。急いで鍵と一緒に鞄に入れ、小走りで彼を追って教室を出た。
 鍵を発見し、来るときよりも戻るときの方が気持ちは軽い。まだ用心深く周囲の様子を窺っている警備員の姿を見て、つい志織は口を開いた。
「学校に泥棒とか出るんですかね」
 警備員は一瞬びくつく。見た目は三十前後なのに、ずいぶん怖がりな男だ。彼はひきつったように笑う。
「泥棒だったらいいんだけどね、最近、ちょっとね」
 ああ、と志織もその言葉に頷く。どうやらこの高校、何かが出るらしいのだ。妙な音を聞いただの、怪しい影が走っただの、よくある怪談がここ数週にわたって噂されている。ちょうど半月ほど前に文化祭があり、遅くまで残っている生徒も多かった。そのせいで、こういった怪談が広まったのだろう。
 この近くに刑場があったことも噂の拡散につながった。無実の罪人の怨念など、面白がって話を脚色して広めた生徒がクラスにもいて、志織は彼らをひどく軽蔑した。刑場といっても明治よりも前の話で、いまでは碑がひっそりと立っているだけである。それでも、夏休みになるたびに、肝試しをする生徒たちが出るようだが。
 しかし、噂自体は毎年の名物でもなんでもない。今年になって突然発生したものだ。一年生のときはどんなイベントでもそんな話が出てこなかったし、最近の校内は妙な気配でどこか空気が濁っている。何らかの変化が生じたのは間違いないと思う。
 それが幽霊とか物の怪とか、そういう類のものが関係している現象だということも、志織は知っている。彼女はいわゆる「見える人」であった。幼少のころから、幽霊とは彼女にとって当たり前に存在するものだった。
 幽霊が見えるというと、ちょっと特別な自分に憧れる中高生からは羨ましがられるかもしれない。しかし、志織はこの能力を持っていてよかったとはまったく思えなかった。彼女は見えるだけで、小説やドラマに登場する霊能者のようにお祓いする力など一切持ちあわせてない。せいぜい霊を避けることくらいしかできないのだ。
 彼女の経験上、霊は自分が見えると判断した相手には何らかの反応を示すことが多い。厄介なのは、助けを求める霊である。志織はどうやって除霊とかいうものをすればいいのかわからない。
 そうして中途半端に関わったあげく何もできないとなると、裏切られたと逆上する霊もいる。実際、過去に彼女はそれで恨まれ、家には不幸が続き、生まれ育った町から去らなければならなくなった。
 そのときのことを考えると、心臓のあたりが押さえつけられたようになって、苦しくなる。彼女の周囲には難が続いて、大好きな祖父と父を相次いで亡くした。偶然だったらどんなによかっただろう。何度も自分の苦しみを軽くしようとした。しかし、あのとき自分が関わらなければ、と志織はどんなに時間が経っても思わずにいられなかった。
 だから、志織は一切を無視すると決めていた。普通の人間は何にも気づくことなく過ごして、普通の生活を送っているのだ。自分もそうすればいい。結局、それが一番安全だった。
「――」
 階段で、ふと志織は立ち止まった。それに怯えて、警備員も縮こまる。
「あの、何か? さっさと出ない?」
「上に誰かいますか?」
 具体的な言葉は聞き取れないが、声が聞こえる。高い、子供か女性の声だ。なんとなく言っただけなのに、警備員は狼狽する。
「ちょ、ちょっとやめてくれない? 俺、本当に駄目なの。肝試しとか本当無理でさ」
「静かに」
 少し考え事をして歩いていたが、気づけば気配が強くなっている。確実に何かいることは間違いない。しかし、それが声の持ち主のものかどうか志織には判別できなかった。声の主からは、霊特有の空気というか雰囲気というか、そういうものは何一つ感じられなかった。
「まだ生徒残ってたり」
「ぎゃあああああああああ!」
 いきなり悲鳴が聞こえた。ぎょっとして二人は顔を見合わせるが、警備員は既に顔を歪めて恐怖に震えていた。
「な、なに? なんなの?」
「とにかく落ち着いてください。上、行きますか?」
 高速で首を横に振る警備員をなだめる。その瞬間、ごろ、と音がした。階段の上からだ。
「え、何?」
「え、ちょっと、勘弁してよ。ねえ、お願いだからさ」
 ごろ、ごろ、ごろ。ゆっくりと発せられる、鈍い音だ。断続的に響いていたそれは、途中からリズミカルになった。
「階段下りてきてる?」
 志織の言葉に警備員はもはやパニックを起こしていた。
「下りよ、下りようって」
 それについては志織も賛成だった。幽霊の気配には慣れっこだが、関わっていいことなどひとつもない。怯えた警備員に手を引かれて、駆け下りる。しかし、背後の何かはこちらが走れば走るほど近く感じる――それは、明らかに加速していた。
「迫ってきてます!」
「やめろって、本当に勘弁してよ!」
 もはや断続的な音は一続きになって確実にすぐ後ろまで来ていた。そして肩に衝撃が走り、志織は転倒してしまった。
「痛……」
 とっさに顔を上げると、それはすぐ側にいた。志織ははじめ、それが何なのかよくわからなかった。いつもの経験で、追ってきているのは人間の霊だと思っていた。しかし、それは人ではなかった。木でできた車輪に黒い靄が巻きついていた。恐らく後ろから志織にぶつかったのだろう。勢いを殺されたそれは、やや前方で、きいきいと音を立てながらゆっくりと回転していた。
 靄が動く。だんだん形を変化させて、笑った。そう見えた。
 思わずびくっとした志織をよそに、車輪はそのまま行ってしまった。志織はそこで座り込んでしまった。久々にまともに目を合わせてしまった。
 もしかして笑った? ターゲットにされた? でも、行ってしまったし。混乱して考えがうまくまとまらない。
 肩が熱い。確認すると、制服が割けていて出血していた。傷を見た瞬間に心拍数が上がっていき、その分だけ寒気も増した。
 警備員はいなくなっていた。きっと恐怖にかられてそのまま出て行ってしまったのだろう。まずはここを出なくては。一刻も早く立ち去ったほうがいい気がする。なんとか立ち上がろうと志織が床に手をついて力を入れようとした瞬間、また声がした。
「こらー、いいかげん、出てきなさーい」
 明確な声だった。自分と同じくらいの少女のもの。今度はあっけにとられて固まっていると、その主はどんどん近づいてきた。
「お前は完全に包囲されているー。もう逃げられないぞー」
 角を曲がって現れたのは、ヘルメット姿で棒を胸に抱いた女の子だった。
 目が合う。志織が息をのむより先に、相手は叫んだ。
「ぎゃあああああああああああああ、出たああああああああああああああああっ!」


「あー、もう、びっくりさせないでー。心臓止まるかと思った」
 腰を抜かした少女を、立ち上がった志織が起こしてやることになった。
「ところで、誰ですか? うちの学校の人?」
 失礼とは思いつつも、志織は彼女の全身をじろじろと見てしまう。カットソーにショートパンツ、靴下にスニーカーという、ありふれた服装だ。目を引くかわいらしい顔立ちだったが、少なくともいままで会った生徒のなかにはいないように思える。友人ならともかく、クラスメートくらいなら、制服から私服にかわってしまえば印象も違って見知らぬ他人に見えるかもしれないが。
「えー? あ、生徒じゃありません。霊能者です霊能者。はい」
「は?」
 いきなり飛び出した単語に、志織はうさんくさそうな目を向ける。その様子を見て、少女は慌てて手をぶんぶんと振った。
「本当、名刺とかないけど、本当だから!」
 自分も霊が見えるのだから、他に見える人がいても不思議ではないし、霊能者という職業もあるかもしれない。けれども志織には、すぐ目の前にいるこの少女が、とてもそんなものには思えなかった。
「証拠は?」
 そう尋ねられた少女は困ってしまった。単にどこの学校に通っているかであれば、学生証を出せばいい。しかし、霊能者にはその身分を証明するものなどないのだ。
「これ! これが家宝の霧風です」
 そう言って志織に差し出したのは一本の棒だ。
「何これ?」
「代々霊能者である我が祝家に伝えられる霊刀ですよ。人間は切れないけれど、霊とか妖怪はばかすか切れます」
 刀のような形をしているが、刃はない。志織が手を当てても、確かに特に皮膚や肉が切れたりはしなかった。持ってみても、特に良いものも悪いものも感じなかった。まったくの無だ。何かが憑いているようには思えなかった。あえて言えば、見た目よりも軽く思えた。
 腑に落ちないまま、志織は少女に霧風とやらを返す。少女はヘルメットをかぶり直して、周囲を見渡す。
「ここの学校、幽霊というか物の怪が出てるんですよ」
 それは知ってる、などとは志織はあえて言わなかった。少女は気分が昂揚しているのか、やや早口で説明を始めた。
 噂が出回りはじめたのは九月だが、本格的に物の怪の目撃談が増えたのは十月に入ってからだという。まず、警備員が学校内を巡回中に、妙な音が聞こえるようになったことがきっかけだ。
「それだけなら別にどうということもなかったと思います。そのうち、夜まで残っていた職員が、廊下に影がちらつくと訴えるようになりました」
 怪現象が発生するのは、主に日が沈んでから。部活によっては遅くまで残っていたりするが、遭遇するのは主に教職員だという。廊下を歩いていて突然激痛が走り、腕や足に切り傷を負う者もいれば、妙な音が耳に残って離れなくなったあげくに不眠になった者も出た。
「それで、完全に参ってしまって休職された先生が出てきて。うちはそういうちょっとした心霊相談を受け持ってて、それで有志の先生方が相談にきたの」
「有志?」
「ここ公立でしょ? 本格的に学校が調査とかになるとややこしいみたい。だから、先生たちが自腹切って、権限の範囲で出来ることをって」
 報酬を聞くと、そこらのよくわからない占いよりもずっと安価で、むしろ学生の小遣いといってもいいくらいの金額だった。
「安いね」
「うん、まあね。私だってまだ修行中だし」
 少女のけらけらした笑い声に交じって、ごろ、と音がした。先ほどと一緒だ。少女の声がぴたりと止まった。二人で、廊下の奥を注視する。
 ごろ、ごろ、ごろ、ごろ。ゆらりと姿を現したのは、先ほどの車輪だった。
「で、出たああああああああ!」
 叫んだのは志織ではなく少女のほうだった。志織はあやうく鼓膜が破れるかと思った。少女はへたりこんだまま、せめてもの威嚇にと息荒く霧風をかざす。その瞬間、車輪はゆっくりと揺れて溶けるように消えてしまった。
「ど、どこ行ったー? まだ滅してないのはわかってるんだぞー。出てこい、出てこい……」
 言葉とは逆に、勢いは徐々に失われていって、最後のほうは声にすらなってなかった。車輪の出現よりもこの少女の間抜けさが際立って、すっかり気を削がれてしまった志織であった。
 彼女の言うとおり、まだ気配は残っているのは志織にもわかっていた。この世のものではない、独特の匂いがする。慣れたものではあるが、それでも嗅いだ瞬間に嫌悪感が生じるような匂い。
 怖くはない。ただ関わりたくないだけだ。志織はまだ床から立ち上がれない少女に声をかけた。
「とりあえずどっか行っちゃったし、私、帰るから」
 逃げてしまった警備員は玄関前で待っていてくれるだろうか。もしそこにいなくても、せめて校門の警備室にはいてほしい。そう思いながら志織が歩き出そうとすると、いきなり足首をつかまれた。ぎょっとして視線を落とすと、そこにいたのはもちろん霊でもなんでもない。
「何? もう帰らなきゃいけないんだけど」
「いま、『どっか行っちゃったし』って言いました?」
 ぎらついた瞳で問いかけてくるものだから、思わず志織は気圧されて頷いた。
「さっきも、あれに気づいてましたよね? ね?」
 嫌な予感がして、思わず後ろに下がろうとするが、少女は情けないほどに弱々しい姿だというのにその力は強かった。
「見えたんでしょ? 見える人なんでしょ? 見えるんですよね? そういう人? お願い、だったら一緒にいてぇー」
「何で」
 部外者がわざわざ付き添う意味がわからなかった。むしろ邪魔じゃないのか。もしも自分と彼女の立場が逆なら、絶対中途半端な人間には同席してほしくない。もしかして偽物? いや、それならもっと無関係の人間の介入を嫌わないか。
 混乱して、疑問符を脳内でぐるぐると回しつづけている志織に、少女は思いも寄らぬ言葉を発した。
「お願いお願いお願い! 私、幽霊怖くてダメなのー」
 志織は自分の耳を疑った。
「はああ?」
 霊能者のくせに霊が怖いなんて聞いたことがない。
「本当さー、私、昔からお化けとかって苦手だったんだよね。だから一人だと怖いの」
「意味わかんない。じゃあなんで霊能者やってんの?」
「うち、一応代々霊能者ではあるんだけど、血がだいぶ薄まっちゃって、霊が見えるのもう私しかいないんだよー」
 志織は踏ん張って、脚に絡んだ少女の手を振り払おうとする。しかし、少女の力のほうが上だった。
「だったら廃業しちゃえばいいじゃん」
「長くやってると、しがらみとかあるんだよー。だから私でも除霊しなきゃいけないんだよー」
「そんなこと言ったって、私を巻き込まれても困るって」
「お願い!」
 少女は志織の脚を囲むようにして手を合わせる。ぱん、と乾いた音が静かな廊下にこだました。
「人助けだと思ってぇー。家族もほとんど見えないから、見える人仲間っていないんだ。本当さ、そういう人って貴重なんだよ。お願い、せめて友達になってよぅ」
 志織は呆れて長い溜め息をこぼした。それでも、なんとなくこのまま彼女を見てるのは罪悪感があった。こういう思いをしたくないから、なるべく霊感なんて最初からないものだと思っていたかったのに。
 考えてみれば、この少女の言うように、同じような能力を持つ人間は志織の周囲にはほとんどいなかった。志織も、特殊な人間を気取っただけの似非でなくて、自分と同じように見える仲間がほしかった。もしかしたら、ちょっとした愚痴のひとつやふたつくらい、受け入れてくれるかもしれない。理解してくれるかもしれない。
「私、除霊なんてできないよ? 見てるだけしかできないよ?」
 それでもいい、と少女は笑った。
「とにかく、そばにいて。それだけで心強いから」
 そうやってすがりつく様は、むしろ哀れにも思えた。心強いっていったって、実際に志織が立ち会ったところで、彼女が心穏やかに仕事をまっとうできる予感など全然おこらなかった。幼いころに夢みた霊能者とはまさに正反対の姿だ。
 けれども、思えばこの少女の言うように、同じような能力を持つ人間は志織の周囲にもほとんどいなかった。志織も、特殊な人間を気取っただけの似非でなくて、自分と同じように見える仲間がほしかった。もしかしたら、ちょっとした愚痴のひとつやふたつくらい、受け入れてくれるかもしれない。理解してくれるかもしれない。
「じゃあ、ついててもいいけど」
 それは、完全に自分のための答えだった。自分以外の……いや、自分以上の能力者というものを知りたい。ボランティアでもなんでもなく、ただそれだけだった。それでも、少女がまるで志織を神のように崇めるから、どうも複雑な気分だった。
 少女としては、本当に何の疑いもなく、願ってもない存在の出現に心を踊らせただけだったが。
「ありがとう、ありがとう!」
 腕がちぎれそうになるくらい、少女は握った志織の腕をぶんぶんと振り回した。
「あ、なんて呼べばいい? 私は祝みさきっていいます。高校二年生です」
 そういえば自己紹介していなかったことに、志織も思い当たる。
「私も同い年。渡辺志織です。ここの学生です」
 制服を着ているのだから、それは一目瞭然であったことに、言い終わってから気づいた志織は、少し顔を赤くした。それは、暗闇のなかではしゃぐ少女――みさきには気づかれなかった。


 少女二人で歩く廊下は静かで、二人の会話がやけに響く。
「渡辺さん、渡辺さんもやっぱり生まれつき見えるの?」
 さきほどまでの弱気な態度はどこへいったのやら、みさきはやたらと浮かれていた。志織はどうも調子が狂ってしまう。
「うん、気づいたら。だから、幽霊自体はそんなに怖くないよ。人間でも、好きだったり苦手だったり怖く思える人もいるでしょ? あれと同じで相手によってはやっぱり怖いよ」
 実を言えば、一度逆恨みされた霊への恐怖も、不思議と他の霊には影響を及ぼさなかった。家族を二人も亡くしたはずなのに、関わりたくないだけで、霊に対して無条件に怯えているわけではなかった。
(あらためて考えると、私って薄情なのかな)
 祖父だって父だって大好きで、相次いで亡くしたときは悲しかったし、思いきり泣いたのに。
(私のせいじゃないって思いたいだけかも)
 二人の死と、自分の出会った霊を結びつけたくないといえば、その通りだ。偶然かもしれない、と何度も思おうとしている。もしも自分のせいだと認めてしまったら、自分を許せなくなって自己嫌悪で押しつぶされそうだった。
「ね、渡辺さん」
「え、なに?」
 話を聞いていなかったというのに、みさきは嫌な顔を見せなかった。
「さっきね、私、四階の階段であいつと出会ったの。それで、次は一階の廊下でしょ? なんか法則あるかな」
「まだ二回だけだからなんとも……」
 志織は、はたと気づいた。
「あ、あの階段のときの声、あんたか!」
「聞こえてた……?」
 みさきは恥ずかしそうにする。
「最初に遭遇したときも叫んじゃったの。そしたら逃げられちゃって」
 もしもそこで叫ばなかったら、自分や警備員が追いかけられることもなく、少し遠回りしただけの平穏な夜を過ごしたのかもしれない。志織はあらためて大きな溜め息をこぼす。
「何がそんなに怖いの? 霊感あるなら存在には慣れっこでしょ」
「慣れっこでも苦手なものってあるでしょ。それって、ゴキブリとか爬虫類が嫌いな人に『何が嫌なの? 珍しいもんじゃないでしょ』って言うのと一緒だよ」
 確かにそう言われると、志織は何も言い返せなかった。しかし、それでも幽霊が苦手な霊能者とは不思議なものである。
 みさきもそれについては既に承知していた。彼女だって本当はこんなことしたくはないが、何せ人手は足りないのに依頼は次々に舞い込んでくる。家の大変さは幼いときからよくわかっているし、困った人々を無視できない性分でもあった。
「霊能者の家ってどんなの?」
「うーんとね、基本的には悩み相談なんだよ。紹介とかでうちに依頼が来て、状況を聞いて、それが霊由来かどうかをまず判断するのね。うちに来てもらう場合もあるし、今回みたいに出向く場合もあるし。で、問題があれば除霊するし、なければないって言う」
「手に負えない場合は?」
「そのときははっきり言うよ。それで、他のところを紹介してもらって、あとはお客さんの判断にお任せ」
 みさきの話は志織にとって新鮮で面白かった。みさきはみさきで、そんな当たり前のことを聞くのかと不思議に思っているが、それはそれぞれの育った環境の違いだった。
 二人で雑談しながら校内を回って車輪を探す。話しているうちに、みさきの緊張はすっかり取れているように見えた。志織もすこし気が緩んだが、その瞬間寒気がして思わず立ち止まった。
 みさきの顔を見る。彼女は、志織以上にガタガタ震えていた。顔面はすっかり白くなっている。
 いる。志織が視線を上にやると、音楽室の表示が目に入った。
「開ける?」
 志織は小声で尋ねる。みさきはしばらく泣きそうな目で志織を見ていたが、黙って頷いた。
 ためらうように少しずつ引き戸を開ける。その先には、ゆっくりと揺れる影があった。もう三度目の出会いで覚悟もあったせいか、志織は思いのほか冷静な自分に気づいた。みさきはやはり恐ろしいらしく、相変わらず腰が引けていた。それでも、なんとか霧風を向ける。
 みさきは何かを唱えた。日本語であることは確かだったが、志織にはなじみのない言葉だった。みさきの言葉に反応するように、車輪の揺れが大きくなる。右、左、右、左、右……左……。
 車輪の軸には人面が張り付いていた。それは、芝居で使われるような鬼の仮面に見えた。深いしわ、つり上がった目、大きな口。
「ひいいいいぃぃっ!」
 みさきが間抜けにも悲鳴をあげる。それで我に返って、再びぶつぶつと言い始めるものだから、いちいち恐怖心が殺がれる。しかし、ここまできたら志織にできることなど何もなかった。せいぜい邪魔にならないように立っていることくらいだ。
 ――あ、動く。それは直感だった。
 志織は急いでみさきの手を引いた。驚いて宙に上がったみさきの指先を車輪が掠める。
 みさきは驚きのあまり声が出なかった。自分の左手を見ると、あれに触れてしまった部分からは血がにじんでいる。
「何あれ!」
「知らないよ!」
 みさきの手首をつかんだままの志織もやや混乱していた。こういう場面に出くわすのは初めてで、何をどうすればいいのかもわからない。みさきが魂が抜けそうな顔でがたがたと震えていなければ、自分だって怯えていた。
 彼女たちに突っ込んできた車輪は、制止しているものの、一部が壁に溶け込んでいた。それが、にちゃりと音を立てながら離れた瞬間、いやな予感がして志織はみさきを引っ張って廊下に出た。
「ちょ、ちょっと! 戦わなきゃ……!」
 廊下を駆ける。昼間にこんなに全力疾走したら即刻厳重注意だ。
「あっちはともかく、狭いところじゃこっちが不利だよ! もっと広いところのほうがいい。私たちは生身なんだから」
 車輪は実体がないから壁なんてすりぬけられるが、志織たちはそうもいかない。身動きがとりづらいとあちらにやられるだけだと志織は判断した。
 けれども、校舎内で広いところなんてない。あっても机や椅子、機材が置いてあって、動きが取りづらいところは音楽室とあまり変わらない。
「あ、あ、来るううううう! 来てるううううう! いやあああああああっ!」
 走りながら振り向くとやや後方にあの顔があった。きりきりと音を立てながら方向転換し、こちらに転がってきた。
「落ち着いて! 霊能者でしょ?」
「だから、霊能者でも怖いものは怖いんだってー!」
 ちらりと後ろを確認する。もうすぐそこまで来ていた。
「危ない!」
 ちょうど階段があって、無理やりみさきと一緒にそちらへ曲がる。車輪はそのまままっすぐ行ってしまった。けれども、追ってくるかもしれない。志織とみさきはそのまま一階へと移動することにした。
「どうしよどうしよ」
 みさきは混乱しているだけでなく、この学校の生徒ではない。場所に関しては自分がどうにかしなければならないという責任感がなぜか芽生えていた。
「ああー、もう、それなら私が切りかかっていきたいくらいだよ」
「それができたらとっくにお願いしてる……! 持ってみて」
 みさきから霧風が差し出される。志織は先ほどと同じように持とうとするが、今度はいきなり弾かれた。火花の似た強烈な光が散った。
「え?」
「除霊するときになると、お父さんもお兄ちゃんも受け付けないんだ」
 最初に握らせてもらったときは何ともなかったはずなのに、いまでは手を近づけようとするだけで目眩に似た不快感が出る。思わずその場でしゃがみこみたくなる。
「さっきと何が違うの?」
「とにかく除霊モードのときはこうなの!」
 もっとまともな説明はないのかと言いたかったが、いまの彼女にそういうことを求めても仕方ない気がした。とにかく、こちらにはゆっくり談笑している暇などない。
 志織は走りづらいのでスリッパを脱いでしまう。靴下越しの床は相変わらず冷たく、滑りそうになるが必死に走った。
 階段を下りた先には扉があった。考える間もなく志織はノブに手をかけて鍵を回し、その先の空間へ自分とみさきの身体をねじこんだ。
 そこは本校舎と特別教室棟に挟まれた中庭だった。三分の一は花壇と数本の木と芝生、残りはアルファルトで覆われた地面が広がっていて、ダンス関係の部活がよくここで練習している。
 その空間に飛び込んだ瞬間、さすがに限界でそろって立ち止まる。お互い息が上がっていた。
「ごめん、広いところじゃないほうがやりやすい?」
 志織は我に返った。なんとなくの判断で動いてしまったが、素人の自分がいったい何がわかるというのか。勝手にみさきを引き回してしまったことが急に恥ずかしくなった。
 みさきは首を横に振る。
「ううん。渡辺さんの言うとおり、さっきの部屋よりいい。私はまだ、きちんと見えないと辛いから」
 みさきもまだ未熟だった。達人は天井や壁ごしどころか、目隠ししても相手の気配を察知できるけれども、彼女にはできない。なるべく視界が広いほうがいまは都合が良かった。
「ごめん、そっちから来たら教えて」
 そう言うみさきはしっかりした態度で、先ほどまでの怯えようはなんだったのかと志織に感じさせた。
 ふと地面の影が気になった。いままでと何も変わっていない。それなのにどこか歪んで見えた。
 見上げると、校舎の三階の窓が目に入る。
「あ」
 無意識に、志織はぽつりと声をこぼした。
 整然と並ぶ窓の一角だけが黒かった。たとえるならば、それは暗い水面だった。波が立つように黒は動き、底から何か浮かんでくるようだった。それはどんどん姿を現していく。どうして動かずに見入ってしまうのか志織にはわからなかった。
 ジェットコースターの最初の山を上っていく、あの静かな緊張があった。もしくは、満杯のコップに落ち続ける雫を見ているときの。
 車輪はほぼ全身をすりぬけていた。進む、進む、進む――落ちる。果実の落下よりもそれは早かった。
 実体はないはずなのに、着地した瞬間、車輪は跳ねた。しかし、音の衝撃に耳をふさぐ余裕はなかった。跳ねて落ちて、もう一度地面に触れたと同時に、車輪はこっちに向かってきた。
「うわあああああ、来ないで来ないで!」
 みさきは逃げながら威嚇するが、ただ子どもが無邪気に棒を振り回している様子と大差なかった。
「あっちが来るかこっちが向かうかしないと。そのままじゃいつまで経っても切れないんじゃないの?」
 みさきよりは冷静だからか、どこか上から目線な言いかたになってしまう。そんな自分が志織はいやだった。これで自分が彼女の分まで立ち向かえるならいい。けれども、その力がなかった。みさきに頼るしかないのだ。
「つっこめない、つっこめないよー」
「じゃあ、なんか技とかないの? 離れても切れるみたいな!」
「そういうのまだできないー」
 腰は抜かさなかったものの、再び半泣きになるみさきに、さっき一瞬見せた姿はいったい何だったのかと言いたくなった。
「とにかく落ちついてよ! これじゃ私がいてもいなくても関係ないじゃん」
「そう言ったってぇ。渡辺さんがいなかったら、もっと取り乱してるよ!」
「これで?」
 そう返さずにはいられなかった。志織の目から見たら、みさきは十分取り乱して見えた。もしかしたら、ここで逃げ出していないだけましかもしれない。
 そうやって言いあう二人をからかうように、車輪は執拗に追ってくる。
「うわあああん、どうしようー」
「結局祝さんが動かないとどうしようもないよ」
 こんなに頼りない自称霊能者に何ができるのか、志織は把握していない。情けない姿しかまだ見ていない。それでも、自分にできることは本当にわずかだと志織は理解していた。彼女には、みさき以上に可能性がない。それをひしひしと感じていた。ただひとつはっきりしているのは、まだ自分のほうがみさきよりは落ちついていること。
「祝さん、二手に分かれない?」
「え?」
「私が追いかけられる役になるからさ、そっちはどこかに隠れててよ。それで隙をついてそれで切りかかって」
 みさきはぽかんと口を開け、目を丸くした。
「え、え、だって、そんなことしたら渡辺さんが……」
「いつまでも鬼ごっこしてられないでしょ」
「でも」
「とにかく、早めにケリつけてよ。私、あなたが側にいてって頼むからいるだけだよ。巻き込まれてるんだよ。だったら早めに片づけるくらいの誠意見せてよ」
 それを言われると弱いみさきであった。
「うー、でも、やっぱり危険だよ」
「一応見えるからさ、ただの人よりは逃げるのうまいと思うよ。とにかく、どこに隠れるか決めて。そしたら適当に走り回って最終的にそっちに誘導するから」
「もしも、分かれて、私のほうに来たら……?」
「そのときは頑張って」
 絶望したような表情のみさきの肩を、志織は軽く叩いた。
 みさきと早口で相談し、一度角を曲がって校舎の陰に二人で向かう。みさきとはそこで離れた。みさきはすぐに身を隠し、車輪が角を曲がったときにはもうそこには志織の姿しかなかった。
 車輪はまっすぐ志織を追いかけてくる。
 正直、こんな経験はしたことがない。わけもわからないままみさきに付き添って、こんなことになって――夢ではないかと思うくらい奇妙な夜だ。もしかしたら、現実の自分はまだ図書館にいて、居眠りでもしているんではないかと思いたくなるほどに。
 しかも、頼みの綱は霊能者のくせに霊が怖いなどと言う。そもそも彼女は本当に霊能者なのだろうか。疑わしいにもほどがある。それでもいまは彼女を信じなければどうしようもなかった。
 志織は走りつづけた。動きまわりすぎて体がおかしくなりそうだった。けれどもいま止まってしまったら、何が起きるだろう。車輪に掠っただけで傷ができた。もしもまともにぶつかったらどうなってしまうだろうか。未知への恐怖だけで身体を動かしていた。
 隠れているみさきに気づいていないのか、ただ単に志織に目標を定めているだけか、車輪は絶えず志織のあとを追った。
 志織の経験上、霊というのは何らかの感情をこちらに訴えてくるものが多い。しかし、あれからは何の意志も感じない。それがまた恐ろしかった。
 息を切らせて、志織は特別教室棟周辺を巡り、再び中庭へ戻ってきた。もうすぐそこまで黒い霧が迫っている。蛇のようにうねる影が視界の端にちらついた――追いつかれる!
「祝さん!」
「うん!」
 木の枝に上って常緑樹の葉の陰に潜んでいたみさきが、飛び降りながら霧風を叩きつける。
 霧風はいとも簡単に車輪を真っ二つに割った。同時に甲高い叫び声が少女たちの鼓膜を攻撃した。志織は思わず転んで、とっさに耳を押さえる。まるで巨大なガラスをひっかいたような、目眩を引き起こしそうになる音だった。
 片目だけ開けて見ると、車輪だったもののひとつはその場で倒れ、もうひとつはそのまま脇へ転がり、やや離れたところでかたかたと音を立てながら地に伏せた。そして、そのまま飛散するように無くなってしまった。いくらかの黒い靄が宙をさまよっていたが、それらも数秒後にはふっと消えた。
 志織は瞬きを何度もするが、もう何の音も臭いもしない。荒い息を整えることも忘れ、呆然とその様子を眺めていた。何が起きたのか、見て理解しているはずなのに脳の処理が追いつかない。
 みさきもその場でへたりこんでいたが、霧風の無事と車輪の消滅を確認すると、すぐに志織のもとへと向かっていった。
「渡辺さん、大丈夫?」
「うん、さすがに、疲れたー……」
 二十分は全力疾走していたのではないか。喉はひりひりするし、ふくらはぎは一気にだるくなった。靴下を脱ぐと足の裏は皮が何カ所もめくれていた。心臓の音はやかましく、横隔膜も穴があいてしまうのではないかと思うほどに激しく上下している。汗で濡れたブラウスが胴や腕に貼りつく。
「え、除霊できた?」
「うん、ばっちり。渡辺さんのおかげだよぅ」
 みさきは志織に抱きつく。それに大きな反応を示す気力は、いまの志織にはなかった。なんとなく、ぽんぽんとみさきの肩を叩くと、彼女はまだかすかに震えていた。
 先ほどの光景が浮かんでくる。自分はとんでもないものを見てしまったのかもしれない。みさきは力なく呟いた。
「祝さんって、本当に霊能力者なんだね……」
 みさきは一瞬その意味もわからず首をかしげたが、すぐに大笑いした。志織も自分の言ったことが馬鹿馬鹿しくて、思わず笑ってしまった。
 職員用玄関にある志織の靴を取りに行くと、泣きそうな顔の警備員と青い顔をした三年生担当の教師が立っていた。
「あ、来た! ごめん、置いてって本当にごめん!」
 いきなり警備員は志織に向かって土下座する。どうやら、玄関を出たものの志織を置いてきてしまったことを後悔し、かといって中にもう一度入る勇気もなく、警備員室とここを往復していたらしい。教師のほうは、みさきに依頼をした有志の代表とのことで、警備員から話を聞いたけれどもやはり入ることができずに一緒に待機していたとのことだ。
「どうでしたか?」
「はい。俗に言う……妖怪みたいなものですね。人の魂ではありませんでした。これが正体です」
 みさきは仕事中の彼女と同一人物とは思えないほどしっかりした態度で、手のひらに乗せた木片を見せた。
「なんですか、これは」
「百年、二百年前のものではないと思います。元は……刑場のものだと思います」
「あ」
 志織は納得する。元刑場からは、百メートルも離れていない。
「事前に古い地図を見たのですけれど、ここがちょうど刑場への道が通っていたようですね。壊してしまったので、何に使われていたものかはこの状態だと判別がつかないのですが」
「車輪?」
 志織が尋ねると、みさきは曖昧に頷いた。
「かも、しれない。資料だと、罪人を市中引き回しにするのは馬がよく使われていたようなのですが。どちらにしても、そこで過ごした人々の念が実体化したんだと思います。原因は……多分、誰かが碑にいたずらしたんでしょうね。側面にテープとインクの跡がありましたし、地面を掘り返したあとがありました」
 教員は頭を抱えた。毎年、肝試しについては口酸っぱく注意しても高校生の好奇心は止められず、近隣から苦情がくることもしばしばだったという。
「供養とかしたほうがいいですか?」
 不安そうに尋ねる教師に、今度は確かに首肯するみさきだった。
「そうですね。いまちょっと行ってみませんか?」
 他に待機していた教員二名とも合流して向かった刑場跡は、志織の通学路とは反対方向だ。肝試しにも参加したことがなかったので、志織は噂でたびたび耳にしていたけれども、初めてここを訪れた。何もない、静かな公園だった。人も動物もそれ以外も、誰もいない。
 片隅に碑があった。状態については、みさきの言ったとおりだった。碑まで行った証拠となる物を事前に土に埋めて、参加者は一人ひとつずつそれを掘り返して持ち帰ったのではないか。そんな想像をしながら、志織はみさきを見る。
 みさきは地面をきれいにならして榊を差し、瓶を取り出して中身の液体を周辺に撒いた。そして拍手を一回。その音は音楽ホールで鳴らしたように響いた。残響がその場を満たして、ゆっくり消える。
「これでひとまず大丈夫でしょう。また何かありましたら……その、ご連絡ください。今回に関連したご相談でしたら、追加料金なしでよいので」
「ありがとうございます」
 教員たちはゆっくりと頭を下げ、反射的に志織も頭を下げる。みさきは、大人びた笑顔でそれに応えた。
 時刻は十二時近かった。こんな遅くまで学校にいたことはないが、それよりも、あれだけ動き回っても三時間にも満たなかったことに志織は驚いた。ずいぶん長い夜に思えた。
 警備員室に預けた荷物を取りに行き、駅に向かう。背後から声がして振り向くと、みさきが走って追いかけてきた。
「渡辺さん、本当に、本当にありがとう!」
「え、私、何もしてないよ?」
 ぶんぶんとみさきは首を振って否定する。
「ううん、助かったってもんじゃないよ! 今回は特に怖かったから、いてくれてよかった」
 志織は、さきほどのみさきの様子を思い浮かべていた。最終的にはきちんと対処し、依頼人とも問題なく仕事の話をできていた彼女は、自分なんかよりもずっと優れた人物に見えた。
 そして、自分は本当にただ見えるだけの人間なのだと噛みしめた。今夜だって無様に走り回っただけだった。それでも、みさきがそう言ってくれるのは嬉しく、気が軽くなった。
「怪我大丈夫?」
 みさきは心配そうに尋ねる。裂けたセーターとブラウスは仕方ない。傷は職員室の備品を拝借して、簡単な手当だけは済んでいた。
「平気。思ったよりたいしたことないから。あ、それより祝さんだって」
 志織はごそごそと鞄を探った。みさきは不思議に思って、それを見つめる。志織が取り出したのは絆創膏だった。女子高生らしいかわいらしさはあまり持ち合わせてないので、どこにでもありそうな無地のものだったが。
「音楽室で指かすったでしょ? これ使って」
 手当をしたのは志織だけで、みさきはその様子を見ていただけだった。みさきはいたずらがばれてしまったように舌を軽く出し、手を見せる。血は止まっているものの、赤く染まったままだった。
「ありがと。なんか、こういうの初めてだ」
 みさきは大事そうに絆創膏を受け取り、それを摘まんでにこにこと眺めていた。そして、満面の笑みで志織に提案を持ちかけた。
「ね、メアド交換しようよ!」
 勢いに負け、みさきに言われるまま連絡先を教えあった志織であった。
 駅に着くと、みさきは反対方向だというのでそのまま別れた。電車の窓ガラス越しに無邪気に手を振る彼女に、ついつい笑いがこぼれた。
 終電も近く、気づけば傷やらなんやらでボロボロになった女子高生の姿は目立った。志織はなるべく身を小さくして、端の席に座った。
 深く息を吐きながら、携帯電話のアドレス帳を見る。すぐに見えるあ行の「祝みさき」の文字。志織はこの夜の出来事が夢ではなく現実だったのだとしみじみ感じながら、その文字を眺めた。



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