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第三話 Welcome To The House



 五月は気持ちのいい季節だ。寒すぎず暑すぎず、出かけるにはちょうどよい頃合いだろう。ゴールデンウィークという、旅行に最適な連休には感謝したいところだ。
「うえええええ、怖いよおおおおお」
 それなのに、微妙にさわやかではない場所にいる。
「し、しぃちゃん、手握っててね。離さないでね」
「わかった。わかったから、もうちょっと力抜いてよ」
 みさきの平均よりもずっと強い握力に、志織の右手は悲鳴をあげていた。
 天井からぶら下がった血まみれの男。床に放り出された上半身だけの幼女。水槽に詰まった人の手。棚に陳列されている生首。
「あ、ここ、注意してください」
 案内人の男――加藤がそう言いながら通り過ぎると、いきなり首を吊られた女が降ってきた。
「いやああああああああああああああっ! 死ぬううううううううううううううっ!」
 さすがに驚いた志織の声も、みさきの悲鳴でかき消された。
 ここは都内より車で二時間ほど走らせたところにあるテーマパークだ。少し距離はあるが、話題性のあるアトラクションが人気で客入りはいい。志織たちはその敷地内の片隅に位置する建物のなかにいた。
「ずいぶん精巧ですね」
「スタッフが頑張ってくれました。資料の標本もたくさん集めたんですよ」
 標本というのが中途半端に生々しかった。
 六月から始まる新アトラクションは、この夏最大の目玉となる予定だ。しかし、ここに来て問題が発生し、みさきに依頼がきたわけだ。
「お化け屋敷って幼稚園のとき以来ですよ。ここまで凝ってなかったなー」
「そうですね、ここ十年ちょっとでだいぶ様変わりしましたね」
 ホリブルキャッスルは、家屋がいくつか組み合わさった歪な外観をしている。加藤によると、実際に住まいとして使われていた屋敷をいくつか持ってきて移築したとのことだ。つなげるにあたって、わざわざ家を横倒しにしたり傾けたりしているのだから、労力は並大抵のものではない。
「そういうデザインの建物を一から造ったほうが手っ取り早かったんじゃ?」
「ええ、予算のうえでは。けれど、それをしなかったのは私どものこだわりです。なんて言ったって、本物の幽霊屋敷を集めたのですから!」
 ほとんど城といってもいいくらいに豪勢なメインの屋敷は、わざわざイギリスで持ち主と交渉に交渉を重ねて契約を成立させ、運んできたという。他の屋敷も、持ち主が不幸な死を遂げたり、特定の条件を持った住人だけが呪われたりなど、どれも不可解な事件が起きたという曰く付きだ。
「あのー、それなら別に幽霊出たっていいんじゃないんでしょうか」
「そこなんですよ」
 加藤は眉を八の字にしながら、こめかみのあたりをぽりぽりと人差指で掻く。
 幽霊屋敷をドッキングし、ホリブルキャッスルは見事に幽霊の集合住宅地となった。ところが、霊同士の相性が悪すぎて、トラブルが絶えないとのことだ。
「まさかの誤算でした……。実は、私どももあくまでも幽霊というのは話半分だったんですよ」
 一般人というのは結局これだ。志織はその無神経さに陰ながら舌打ちをした。
「ちょっとリアリティを追求しすぎたというか。さすがにここまでだと業務に差し支えがあるんではないかって一部から言われましてね」
 すでに役者を雇い、オープンに向けてテストは重ねている。しかし、聞こえるはずのない声が聞こえたり、開くはずのないドアが開いたり、逆に開くはずの扉が開かなかったりとトラブルが続いた。そのうち、備品が飛んできたり固定していたライトが落ちたりとあからさまに危険な現象が起こり、とうとうスタッフに負傷者が出た。そこでアトラクション公開に「待った」がかけられているのだ。
「霊を説得すればいいんですか?」
「減らしてもらっても構いません。最終的にほんの少し出てもいいかなーくらいで」
 それならなおさら、本物の幽霊屋敷など持ってこずに一から造ればよかったのにと思わずにいられない志織であった。
「しぃちゃん、しぃちゃん」
 みさきはぶるぶると震えながら上を指す。少女の人形と並んで霊がいたが、こちらが完全に焦点を合わせる前にさっと逃げてしまった。
「落ちついて。行ったから」
「うん、うん」
 みさきは目をつぶっていた。霊はまだ活発化していないらしく、気配は弱い。それでもみさきが人前だというのに遠慮なく怯えている姿を見せているわけは、単純明快だった。
「血塗れやだよおおおおおおお、怖いよおおおおおおおお」
 どうやら彼女は、グロテスクなものも苦手なようだった。そういう霊を見て卒倒した過去があるという。
 アトラクション本番のときは夜のように暗くなる予定らしいが、いまはひとまず一通り見て回るということで、館内の明かりはすべて最大にしてもらっている。そうすると、セットにとりつけられた小道具もはっきりと見えるようになるわけで、なまじリアリティを追求した人形たちは確かに不気味である。
「だからってそんなに怖がらなくてもいいじゃん」
「しぃちゃん、わかってない、わかってないよ。ゴキブリ嫌いな人はゴキブリの絵だっておぞましく感じるんだよ」
(あーあ、言っちゃった)
 小声だが聞こえていないか心配になり、志織は加藤を振り返る。彼はきょとんとした顔で、志織とみさきを見比べていた。
「えっと、霊能者の先生は、そちらの方でよいんですよね?」
「はい、私が助手です」
「本当ですか?」
「本当です。いざというときに動けるのはあちらです」
 とはいっても、いまのみさきの姿に説得力はなかった。本当に、霊を切りつける瞬間と霊が絡まないときはまともなのに、と志織はどこかもどかしい思いだった。
「さっさと終わらせよ? 明日までに解決しなかったら、お兄さんたちももう一泊しなきゃいけないんだから」
 彼女たちをここまで連れてきたのは、みさきの兄の勝士だった。勝士は現在大学生で、車でここまで二人を連れてきた。とはいっても、目当てはこのテーマパークで、いまは友人と二人で絶叫マシーンめぐりをしているところだ。
 元々は祝家にきた依頼に応じて、みさきと志織の二人で行く予定だった。そこに運転手として便乗してきたのが、勝士とその幼馴染の秀平だ。彼らの分の宿泊費は出ないが、ちょうど予定が空いていたからと割り込んできた。
「お兄ちゃんが勝手についてきたんだもーん」
「でも、おかげで車出してもらって助かったじゃん。電車より楽だし。ほら、今日頑張らないと、明日ももう一回ここ来るんだよ」
「それはいやぁー」
 志織は苦笑いしながらみさきを引きずるように歩く。そして、首に下げたネックレスを大事に握った。


 志織は、数日前、初めてみさきの自宅を訪れた。祝邸は閑静な住宅地に位置し、広い庭とひっそりとした佇まいの日本家屋がよく調和した家だった。
 志織はこういう類の家を訪ねた経験がまったくなく、手土産に持ってきた菓子を持つ手が緊張で震えた。呼び鈴を押してからみさきが出てくるまで、粗相をしたときのシミュレーションを脳内で繰り返してしまった。
 みさきの父は平凡な勤め人、母も兼業主婦とのことだ。それに大学生の兄である勝士、そして霊能者として活躍していた亡き祖父の妻である祖母の典子の五人家族として暮らしている。
 みさきの案内で広い部屋に通されると、その典子が出迎えてくれた。
「孫がお世話になっているようで、本当にありがたい限りです」
 典子は深々と頭を下げ、反射的に志織も同じように会釈した。ただでさえ正座に不慣れなのに、こんなに緊張したのではすぐに足がしびれそうだった。
「みさきは、腕は申し分ないのですが、恥ずかしながら精神が未熟で。もうご存じでしょうが」
 横川の依頼のあと、細かい依頼にも志織は同行している。けれども志織は、そこで「ええ、よく知っています」とはとても返せなかった。
「こればかりはどうしようもなく、向いていないと言ってもよいのかもしれません。しかし、祝家はもう三百年、拝み屋をやっております。ここで止めてしまったら、ご先祖さんにお詫びのしようもありません」
 典子は背中を丸める。
「それを酌んで、みさきはなんとか続けさせようとしてくれる、優しい子なのです。つい私どもが甘やかしてしまいますが、悪い子ではないのです。どうか、見捨てないでやらないでくださいね」
 懇々と述べる典子に、志織はどう返事をしていいのかわからなかった。出会ったころ、廃業すればと軽々しく言ってしまった罪悪感が、いまごろになってじんわりとしみてくる。みさきはすこし恥ずかしそうに、祖母を止める。
「もう、お祖母ちゃん。そう言われるとしぃちゃんも困っちゃうでしょ」
「あの、みさきさんは全然、未熟とかではないですよ」
 遠慮がちだけれどもはっきりとした声で、志織は口を開いた。
「逆に私が教えてもらうことが多くて。私は退治とかできないから、最終的にはみさきさんにお任せなので、本当にお手伝いというか見学というか」
 しかもバイト代までもらっているし、と加えようとして、あわてて口をつぐんで一呼吸。
「だから、大丈夫ですよ。確かにあんまり怖がりなんでびっくりして、いまでも時々素人が口うるさいこと言っちゃいますけど」
 大人へも毅然とした態度をとっていて、あとは本当に怖がりさえ直せば、みさきに自分など必要ないのだ。
「最終的にはきちんと仕事するみさきさんのほうが、私の何倍もしっかりしてます」
 そう言うと、典子は嬉しそうに笑った。志織も昔は祖父とともに暮らしていたので、年寄りの喜怒哀楽には弱いところがあった。
 それからは雑談が続いたが、ふと思い出したように、典子は別の部屋に引っ込み、拳三つ分ほどの大きさの黒石を持って戻ってきた。それを見て、とぐろを巻いた蛇のようだ、と志織は首のあたりにぞわぞわした空気を感じながら思った。
「お嬢さんにも霊視はできるとのことですから、すこしこれで調べてみましょうか」
 全体の質感は滑らかで、磨かれたような光沢があった。それは、祝家が霊能力の有無を調べるために使っているものだという。
「祝家の人間は、嫁いできた者も含めて、これで稼業に携われるかどうかを判断されます」
「え?」
 みさきの顔が引きつる。
「お祖母ちゃん、いまじゃなくていいでしょ? 別にしぃちゃんはそんなことしに今日来たんじゃ」
「いいから」
 典子は容赦なく孫娘の言葉をさえぎる。みさきはぐっと言葉をのんでしまった。
 そのやりとりを横目に、志織は見慣れぬそれと向かい合ってじっと眺めた。
「あの、これは何の石なんでしょうか」
 志織の視線は石から典子に移動した。典子は何の感情の窺わせない顔で、黙って首を傾げた。その仕草はみさきにどこか似ていた。
「私も実を言うと、夫や孫に何度言われてもよくわかりません。志織さんのほうがよほど、おわかりになると思います」
 石はつやつやとしていて光が反射しているのに、どこか柔らかそうな印象があった。しかし、包み込む優しさという性格は持たない。石の周りに黒い霞が見える。ふと、志織は自分の高校で遭遇した車輪を思い出した。あれに似ていた。
「いかがですか?」
 そう尋ねる典子の声は穏やかだったが、どこか厳しさをはらんでいる気がした。
 志織はすっかり困ってしまった。これは正直に答えていいものなのだろうか。実は大切な家宝で、侮辱するような真似は厳禁ではないのか。さまざまな考えで頭がいっぱいになる。もしもここで答えを間違えてしまったら、みさきにも迷惑がかかるのではないかと、志織は脇にいる彼女をちらりと見やる。
 志織の不安を察したみさきは、座布団のうえでやや身を動かして囁いた。
「しぃちゃん、見たままでいいよ」
 その声が助け舟となった。気が楽になった志織は典子に向き直す。
「あの、率直に言いますと、あまりいい気はしません。以前、同じようなものをまとったものを見たことがありますが、そのときも散々な目に遭いました」
 志織が一通り感想を述べると、典子は石の横に置いた古い和紙を広げ、そこに書かれた内容を確かめると、頷いた。
「そうですね、ええ」
 口調はのんびりとした様子なのに、その場の空気は張りつめていた。典子は拍子木のようなものを取り出して、石を叩いてみせた。
 鼓膜がびりびりと震えた。空気の振動が耳から入って脳へ到達するのを感じる。それは、低くかつ長く響いた。唸り声のようにも聞こえる。地の底から響くような音だった。
「いかがですか?」
「なんか……低い声でずっと唸っているような」
「ねぇ、おばあちゃん。しぃちゃんは遊びにきただけだよ? あんまりこういうテストみたいなことはほどほどにしようよ」
 みさきが身を乗り出すが、典子は無視した。
「志織さん、それ、持ってみませんか?」
 強制力のある声だった。志織が何の考えもなく従って手を伸ばす。黒い霧はすっと逃げていく。意外と軽い。霧風を最初に触ったときと同じような印象を受けた。
 しかし、持ったところでどうすればいいのかわからない。志織は困って典子を見る。典子は一分ほど志織の手元をじっと眺めていたが、わずかに声を漏らした。
「ああ、これは何も起こらないのですね」
 典子はみさきに向き直る。
「みさき、持ってごらんなさい」
 志織はみさきに手渡す。彼女の顔はひきつっていた。みさきの指が黒石に触れた瞬間、いままでただの置物同然だったそれは、急に跳ねた。
「うわっ!」
 まるで生き物のような動きを見せ、みさきの手のなかで暴れる。みさきは心底いやそうな顔をした。
「ここまでくると、本格的に霊能者として修行をつんでもよい段階ですね。霊感がある人の大半は、志織さんと同じく、見えて聞こえるだけです。それでも、霊感があるだけよいのですけれど」
 典子は拗ねたように口をふくらませた。
「うちは長男が本当に少しだけ見えて聞こえるだけでした。次男と長女はまったくの一般人で、孫にいたってはみさきだけがその石に触るとこのように反応します。他家から嫁いできた私が言うのもなんですが、残念ですね」
 志織は黒石を凝視した。その様子を見て、最初の印象が蛇だったことを思い出した。確かに、蛇のような動きをしている。
「あの、これ中身は何なんですか?」
「一応秘密ということになっています。二代目か三代目がとあるお社で眠っていた神様を捕まえてきて封じたという伝えですが。霧風と同じく、我が家の生業には欠かせない存在ではありますね」
「おばあちゃん、これ戻すね!」
 みさきは大慌てで片づけた。あとで、本当なら絶対に触りたくないものだとこっそり打ち明けられた。もしかしたら、みさきには自分には見えないものまではっきりと見えているのではないかと、志織は思った。
「それにしても、こうして霊感がある人とお近づきになれて、本当にありがたいことです。不甲斐ない家族で恐縮ではありますが、どうか私どもの代わりにこの子のお尻を叩いてやってください」
 自分よりもずっと年輩の女性に丁寧に頭を下げられると、志織はなんだか居心地が悪かった。
「ところで、志織さん」
 典子が顔を上げると同時にまっすぐ志織を見て声をかけてくるものだから、つい焦ってしまう。自然と背筋が伸びる。典子は、志織の胸元に注目していた。
「なにかお守りをお持ち?」
 志織は一瞬制止したあと、襟元からネックレスを取り出した。小さなチャームと、剣に似た大きめのトップがついたものだ。
 これは父の形見だった。小学生のときに、大好きだった祖父が亡くなって沈んでいる志織に、父が「特別だ」と与えてくれたものだった。それから一月も経たないうちに、その父も亡くなってしまったが、それ以来持ち歩いている。
「お祖母様は何か見えるのですか?」
 典子は苦笑しながら首の動きで否定した。
「何も。一般人ですもの。ただね、良いものと悪いものの見分けはなんとなくつくのよ。女の勘みたいなものかしら。それは良いものね。なんだか心が穏やかになるわ。大事になさったほうがいいでしょう。そういうのはね、きっとあなたを守ってくれるわよ」


「しぃちゃん……」
 はっと我に返り、志織はみさきを振り返る。彼女の肌はすっかり涙で傷んでいた。
「大丈夫? しぃちゃんもさすがに怖いよね……」
「あ、いや。ちょっと考え事してただけで、怖いとかはまったく」
 みさきはほっとしたようながっかりしたような顔をしてみせた。
「私はもう、帰りたい……」
 いつも以上に顔色が悪いみさきであった。ちなみに彼女は絶叫マシーンも身体の芯からありったけの力で絶叫するくらいに苦手で、このテーマパークで楽しめるものは半分もない。
 強化ガラスを張られた窓の床を進み、板を抜いたドアの枠を越えると、アンティーク調の空間に出た。
「ここがメインですよ。本物のイギリスの幽霊屋敷です」
 できれば、残すならこの屋敷に憑いている霊にしてほしい。加藤は小声でそう告げた。
 上下左右の回転もなくどしりと中央に構えた屋敷は、日の当たる場所で見ればさぞかし少女たちの夢をくすぐるような風情だったろう。壁も窓も家具もそのままだというが、どれも比較的状態はよく、ファンタジーか昔の翻訳文学の舞台になりそうな造りだ。
「うわぁ」
 さすがのみさきも見とれていた。彼女の自宅は伝統的な日本家屋だが、このような西洋風の邸宅にも憧れはあるのだ。
「なんでこれが幽霊屋敷なんだろう……」
「先生、イギリスでは幽霊屋敷ってとても人気なんですよ」
「えっ?」
 濁点がつくのではないかと思うほどの声を出し、みさきは顔を歪ませた。
「幽霊が出るからって家賃が高くなるくらいですから」
 みさきは首をぶんぶんと振った。
「私、イギリスの人理解できないー。日本人でよかったかも……」
 それはここで言っていい台詞ではない。志織はその一言を飲み込んだ。
 ばたばたばた、と天井から走る音が聞こえてくる。
「きゃあっ!」
 みさきは志織に抱きついて離れない。
「えっと、いまのは仕掛けじゃないですよね?」
「ええ、まあ……」
 やっかいなのは、幽霊の気配と仕掛けが混ざっていることだ。一通り紹介したいとのことで、現在は役者以外の仕掛けの電源が入っている。先ほどのように人形が降ってくることもあれば、タンスがいきなり揺れる。笑い声が聞こえたと思えば、物が飛んでくることもある。慎重に探れば、それが幽霊か仕掛けかの区別は志織でもつくけれども、油断するとどちらがどちらなのか判断に迷う。
「みさき、大丈夫? あれは霊でいいんだよね?」
 みさきは、自分は何もきこえなかったと主張するように耳をふさいでいた。
「仕掛け、切ったほうがいいですかね?」
「えーっと」
 みさきを見やると、ここにいること自体もう駄目らしい。志織は頭を下げて、仕掛けの作動停止を依頼した。
「はい、わかりました」
 加藤は無線を取り出した。
「すみません、照明と空調以外の電源落としてください」
 スピーカーからは雑音しか聞こえない。案内人と志織の二人で耳を澄ませる。
「――ぁ」
 よく聞こえないと音源に耳を自然と近づけてしまう。
「――して――」
「うん?」
 いきなりノイズが消えた。
「ここ、ぼくのおうちだよ」
 子どもの声だった。
「ぎゃあああああああああああっ!」
 叫んだのは他の誰でもなく、みさきだった。彼女はジェットコースターなどに乗らなくてもここまで声が出せるところがすごい、と既にみさきの声に慣れてしまった志織は妙に冷静な気分でいた。
 加藤は固まっていたが、気を取り直して呼びかける。しかし、意味ありげな笑い声を最後に、無線はまったく反応を示さなくなった。加藤は図面のメモを見つめた。
「あー、このエリアが最も怪奇現象の報告が多いんですよ」
「それって、この屋敷に憑いていた幽霊がいちばん怒ってるってことですかね?」
 かもしれない、と加藤は急に弱々しい口調になった。
 志織は気配を探ろうとするが、どうもうまくいかない。ざわついていて、ひとつひとつがはっきりとしない。何か奥に隠されているのに掴めないようなもどかしさがあった。
「……どうしましょう……」
 加藤は青い顔をして、すがるような視線を志織に送ってくる。
「とりあえず、出口はどこですか?」
「この奥に、途中リタイア用の非常口がひとつあります。最後まで行くとしたら、一度向こうの屋敷に行って、階段を上って二階へ向かって、折り返してこの上を通ります。そこから階段を下りたところにある正面玄関がゴールです」
「ここから正面玄関に直接行くことは」
「移築したときにセットで一階を分断してしまいました……」
 志織は天井を仰ぎながら悩む。まずは一通り見て回るのだから、自分とみさきはこのまま残るとして、彼にどこまで来てもらうかが考えどころだ。
 外はまだ昼間。あまり活発ではない時間帯だというのに、霊たちは志織たちに反応を示している。へたに巻き込んでしまったらやっかいかもしれない。
「加藤さん、機械の仕掛けはあといくつですか?」
 加藤は図面を広げる。無駄に長い。自分で歩くには少々距離がありすぎるような気がする。
「こ、コースターとか、そういう機械で運んじゃったほうが回転早くないですか? 怖がりな人も目をつぶってれば出口まで行けるし……」
 冬の屋外に放り出されたかのごとく、みさきの声は震えている。加藤はそんな彼女を尻目にけらけらと笑った。
「まあ、いまとなっては、予算はどっこいどっこいだったかもしれませんね。その場合、よっぽど案を練らないと子どもだましになりますけど」
「じゅーぶんです! こういうのは子どもだましでいいんです! 霊能者の私が言うんだから間違いありません!」
 本当か? 志織と加藤は、疑わしい視線を同時に送ってしまった。それを無視するように、みさきは拳を握って熱弁をふるう。
「だいたい、こういう人形とかだって置いちゃダメですよ。幽霊ホイホイじゃないですか。人形だってそこらうろついてる魂が入っちゃうんですから。しかも、こんなに怖いやつなんて、絶対にいけません。いけませんったら」
 みさきが必死にお化け屋敷におけるリアルさの不必要を早口で説くが、志織はあえて耳を傾けなかった。
 加藤は図面に赤ペンでどこにどんな仕掛けがあるのかを書きこんでいく。あくまでも役者とセットで驚かせるのがメインなので、仕掛け自体はそんなに多くはない。音声が再生されたり、家具ががたがたと動いたり、それだけだ。これなら頭の片隅に置くだけでよいだろう。
「わかりました。加藤さん、なんならその途中リタイア口から先に出てもいいですよ。あとは私たちでどうにか――」
「――しぃちゃん、私も出」
「私たちは最後まで行きますから」
 志織はみさきの言葉を一段階大きな声で遮った。みさきはそのまま化けて出そうなほどに恨めしい声を出しながら、あまりセットが視界に入らないところまで移動しながら体育座りした。
「あのー。本当に、本当に、本当にあちらが霊能者の先生でいいんですよね?」
「……すみません。あの人は、こういうセットが苦手で」
 それ以上どう伝えればいいのやら。なまじ付き合いがあっていい格好をしたくなる横川のような客ではないため、みさきはある意味気が抜けているようだった。
「あ、もしかして逆に霊のほうが怖くないタイプですか?」
(もしそうだったらとっくにこの仕事も終わらせてます)
 志織は言葉を口にせず、笑顔を彼への返事とした。もうそろそろ、みさきの怖がりにどう思えばいいのかわからなくなってきた。
 加藤が脱出する非常口を未練がましく眺めるみさきを引っ張りながら、志織は奥へと進んだ。
「もうやだよー。こういうの良くないよ。お化け屋敷なんて自然にできるもので、人間が作っちゃいけない代物だよー」
 元々アトラクション用に建てられたものではないので、廊下の幅はあまりない。そこに演出用の人形や家具を置いているから、個人宅としては広いはずなのに狭く思える。場所によっては、霧風が無事振り回せるかどうかも怪しい。
「挟みうちされたらどうしようっかねー」
「うにゃー、怖いこと言わないでよ」
「怖いのは私だよ。盾にしかなれないもん」
 そこで霧風を使うとなると自分がどこにどう避難すればいいのか。志織は渡された図面と睨めっこする。
 聞いた話では、屋敷についた霊同士の相性が悪いということだが、そもそも霊の気配が想像よりも弱い。作られた小道具や大道具のほうにみさきの注意がいく程度には、影が薄いのだ。わざわざみさきが出るまでもなく、いっそこのくらいだったら本当に幽霊が出るお化け屋敷として売り出しても問題ないのでは、と志織も考えを改めていいかもしれないと思ったほどだった。
 ホリブルキャッスルの内部は、一本道とはいえ迷路のようだ。簡単に終わらないように、わざわざ回り道を作っている。もしも屋敷内を霊たちが自由に移動できるとしたら、追いつくまでがやっかいだ。できれば、一カ所に集めたい。
 地図と加藤の注意書きを指でなぞりながら溜め息をつく。自分で集めておきながら、いざ面倒が起こると霊能者に丸投げなんて。みさきはそれが仕事とはいえ、危険が起こったら彼らの責任はどうなるのか。面白半分に霊を商売道具にする真似が、そもそも志織には信じられなかった。
 そういう大人にはなりたくない。まだ将来どころか進路すらも確定していないが、行く先はともかく、生きかたは自分で決められる。目先のことにとらわれて、何かをないがしろにする姿は、大人として正しくない気がした。志織はつい唇をとがらせる。
 二人は続きになっている部屋への扉を開ける。乾いた草の匂いがした。他の家に比べると、ここはあまり荒れた印象は受けない。もしかしたら、この屋敷がイギリスにあったころは、本当に人が住み続けて大事にしていたのかもしれない。
 そこはベッドルームだった。年代物の壁紙や調度品は洒落ているが、残念ながら死体に似せた血まみれ人形がベッドに横たえられていて雰囲気はだいなしだった。
 これまでに通った順路でもう散々似たようなものを見てきたのにも関わらず、みさきは悲鳴をあげる。加藤がいなくなって、余計に声に磨きがかかった。これでも部外者に考慮していたと知り、志織もある意味驚いた。そして、彼女はいつも新鮮な気持ちでいることが、ある意味羨ましく思えた。志織はもう、本番同様の演出ならともかく、何もしてこない人形にそこまで恐ろしさを見出せなくなっていた。
(しょせん、ただ驚かせるためのものだからなあ)
 ふう、と溜め息。一瞬間を置いて、それが自分のものではないことに志織は気づいた。みさきでもない。さっきから喚きっぱなしでそんな声を出す暇もない。
 志織は周囲を窺った。姿は見えないけれど何かがいる。怒りの感情が強いが、これまで会ったことのあるものと少し違う。
「えーん、しぃちゃーん。怖いよぉおおお」
 みさきがしがみついてくる。人形に怯えつつも、彼女も同じ気配を感じているらしい。
 どこだろう。四方をぐるりと見渡す。すると、扉がいきなり大きな音を立てた。
「ぎょえええええええっ!」
 みさきのいまひとつ可愛らしさに欠ける悲鳴にまじるように、怒号が聞こえる。しかし、それは早口のうえ、聞き取れない言葉だった。
 打音は壁に移る。ひとつどこか叩かれるたびに、声の主の姿が鮮明になっていく。
 彼がこちらを向く。明るい青の瞳が、志織たちの姿を捉えた。
「で、で、出たああああああああああああ!」
 みさきが、他の人間だったら間違いなく声が枯れているに違いないほどの声で叫んだ。彼は、それにびっくりして、後ろに下がる。どこか人間くさい。
「あ、あの……」
 志織はつい声をかけてしまった。男の霊は志織を見ると口を開いた。が、何を言ってるのかわからない。興奮しているのだけは理解できる。
「ねぇ、みさき」
 志織は素朴な疑問をぶつけた。
「私、いままで日本の霊しか見たことないんだけどさ、外国の霊って言葉通じるの?」
 いつも通り取り乱していたみさきも静止する。そして、ふるふると首を横に振った。
「どうだかわからない。うち、基本的に地域密着型で、こういうグローバルなのと縁がなかったから」
 素朴な疑問に出会い、すっかりみさきは恐怖が抜けてしまった。恐る恐る、彼に話しかける。
「は、はろー?」
 みさきが必死で笑顔を作りながら話しかける。その笑顔はかなりひきつっていて、大根役者のようだった。
「はーわーゆー? あいむ、ふぁいん」
 彼女にしてはありえないほど積極的だ。しかし、英語そのものは壊滅的だった。彼は顔をしかめたあと、ペラペラとまくし立てた。
「ちょ、ストップ! ストーップ! 全然わかりません! あい、きゃんと、すぴーくいんぐりっしゅ」
 彼はますます苛立っているようだった。その感情だけは、二人の霊能力を通して伝わってくる。空気がぴりぴりとし、触れてなくても家具ががたがたと揺れる。
「とりあえず、中途半端な英語使わないほうがいいんじゃない? へんにそこだけ通じても困るし」
「え、でも……。あの人、霊じゃなくても怖いぃ〜」
 みさきが怯えて後ろに隠れてしまったので、志織はしかたなく前に出る。
「すみません、私たちは、その、霊能者? はい、霊能者です。あなたの話を聞きに、ここまで来ました」
 ゆっくり、心をこめて喋る。言葉が通じなくても、魂がむき出しの状態であれば、感情は肉体を持っていたときよりも通じやすい。彼は志織とみさきの顔を何度か見比べ、その場にあぐらをかいた。
 彼は、このイギリスから移築した屋敷の主であった。生前は貴族だったらしい。家に思い入れがあり、死後もここで暮らしていた。しかし、持ち主となった子孫が不況のあおりを受けて金に困り、そこに好条件で加藤の会社が話を持ちかけ、売却となった。
 志織はそんな話をぼんやりと輪郭だけ理解した。みさきは、彼の記憶や来歴も見ることができるので、通訳のような役割をした。志織も修行を詰めば読みとることくらいはもっとできるらしいが、いまはまだ話に耳を傾けるだけで精いっぱいだった。
 せっかく平穏に、文字通り第二の人生を満喫していた彼だったが、いきなり見知らぬ土地に放り込まれたあげく、自慢の邸宅はわけのわからない形にリフォームされ、しかも奇妙な連中との同居を強いられた。彼の貴族としての誇りはすっかり傷だらけにされてしまった。その悲しみが直接ぶつけられるものだから、みさきに比べたら感情的ではない志織も、なんだか気の毒に思えてしかたなかった。
 もとはといえば元凶は加藤たちなのに、問題が起きたから退治する。この貴族の霊も本来なら消される必要などまったくなかったはずだ。同情心がわいてくるのも不思議ではない。
 その気持ちを感じとったのか、貴族は志織のほうに振り向いて、嬉しそうに手をとろうとする。しかし、それは簡単にすり抜けてしまった。霊を触れるかどうかは、お互いの能力や相性によるのだという。それでも、志織やみさきが共感してくれたのが嬉しかったのだろうということだけはよくわかった。
 彼の身の上話を聞いていると、いきなり屋敷全体が揺れた。みさきが挙動不審になる。男は舌打ちをする。
「え、なに?」
 地震のようだった。床は横に揺れる。赤ん坊がはしゃぐような声が右から左、前方から上へと移動する。
「きゃああああ!」
 みさきは這いながら、テーブルの下を目指した。最初に志織と会ったときにかぶっていた私物のヘルメットを忘れたのは、彼女にとって痛恨のミスだった。もちろん、幽霊に対しては特に効果はないのだが。
 男は乱暴に立ち上がって、強い語気でわめきながら壁をすりぬけてしまった。同時に、振動は止まった。志織は膝と手をついて、みさきのところまで移動した。みさきは霧風を抱きしめてぷるぷると震えている。
「みさき、出る?」
 その言葉に、みさきは一瞬拒否しかけた。けれども、ここにいつまでも留まっていてもしかたないことは彼女も理解しており、いやいや頷いたのであった。
 順路のとおり、部屋に入ったときとは別の扉から廊下に出る。男はきょろきょろと周囲を見渡しながら、英語でひたすら怒鳴っていた。そして――。
「あ、危ない!」
 男をめがけて、いきなり陶器が飛んできた。男の身体をすりぬけ、ガラスは床に落ちて飛び散る。その破片を眺めて、男はますます顔を赤くした。
「トラブルってやっぱりあの人が原因……?」
 こそりと志織が問いかけると、みさきはそれを否定した。
「ううん。むしろ他に原因がある」
 奥から二人の方まで、風がふわりと吹く。みさきは大げさに溜め息をつく。
「たぶんね、むしろあの人が邪魔なんだと思うよ。他にタチのわるいのがいて、それが指図してるみたい……。もう、ここごちゃごちゃしすぎだよ。家も霊も混ざりすぎて、わけわかんないことになってるぅ」
 みさきが頭を抱えながらうなっていると、ふと二人の周囲が暗くなった。
 照明はちゃんとついているはずなのに――。
 見上げると、布のかたまりのようなものが天井にはりついていた。
「で、で、出たああああああ!」
 それは暗幕を身にまとった女だった。いきなり飛び下りてきて、床にはりつく。その際、天井に飾られていたバラバラ死体も一緒に落ちてきて、みさきの叫び声に拍車がかかった。
 びたり、びたりと女はみさきに焦点を合わせながら迫ってくる。みさきはしゃくりあげながら、蹴るふりで威嚇する。
「来ないで来ないでっ」
「ちょっと、みさき。こういうときの霧風でしょ」
 みさきは右手の中身に気づき、志織に頷いて振り上げた――が、その先が何かに引っ掛かり、落下してきた。上半身しかない少女の人形だった。ちぎれたワンピースから内臓がちらりと覗いているデザインだ。
「うげああああああああああああああ!」
 みさきは半狂乱になって霧風をめちゃくちゃに振る。しかし、床に這った標的には届かない。
「み、みさき落ちついて……」
 みさきに触れようにも、へたすると志織に霧風が当たりそうだった。
 女は確実に二人との距離を縮めてくる。無表情の白い顔に貼りついた深い色の髪に、背筋が寒くなる。彼女が近づければ近づくほど、重力が増した。
 胃のあたりが圧迫される。志織は生唾を飲み込んだ。
「みさ――」
 その瞬間、暗幕ごと女がふわりと浮き上がって後ろに飛んだ。みさきも何が起きたのかわからず静止した。
 先ほどの男が何かを叫んで、剣を女にかざす。女は恨めしい目で男を見つめながら、床に沈んで消えた。
「しぃちゃん! だ、大丈夫?」
 我に返ったみさきが肩をつかんでくる。
「それはこっちが言いたいよ……」
 みさきは男に近寄る。
「あ、あの、ありがとうございました」
 男は溜め息をつき、べらべらと喋る。きょとんとしたみさきだったが、意を解したようで、表情が変わった。
「しぃちゃん。ちょっと作戦タイム」
 三人は、先ほどのベッドルームに戻った。みさきはポケットからお札を取り出し、四方に貼った。これで即興の結界になるのだ。
「さっきの人がどうやらリーダーみたいだね」
 男はともかく、他の霊がくる心配がなくなると、急にみさきは冷静になる。その落差に男が驚き、その戸惑いが志織にも伝わってくる。
「多分、もとはこっちの家にいた人だと思う」
 みさきは地図を広げ、一角を指す。四国から引っ張ってきたという、女性住人の事故が絶えない洋館だ。
「連れてこられた霊にも格があるの。ぶつかりあって、勝者が敗者を使役して。あの人は、そうしてこの城を完全に自分の支配下におきたいみたい。それで、この人だけがなかなか従わないから苛立ってる」
「あの短時間で、そこまでわかるの?」
「うん」
 あれだけ興奮しておきながら情報はしっかりつかんでいるという感覚が、志織には不思議だった。もちろんみさきは下調べも行うが、霊に接しなければわからないことも多いという。本当に、極度の怖がりさえなければ彼女は優秀のような気がする。
「支配下においてどうするの?」
「とにかく敵意だけが頭に残っていて、理由はないみたい。もう、自分がどうして人を攻撃するのかも忘れてる。」
 志織は女性の霊の顔を思い出す。表情はないのに、目だけはやけに恨みがこもっていて空気が重かった。
「あとの霊は面白がっているのと、逆に怖がっているのとかで小物だね。もう一人強そうなのいるけど、女の人ほどじゃないよ。さっきいきなり物を飛ばしてきたのは完全に愉快犯。とにかく、あの女の人を消せば、問題の大部分はクリアできると思う」
 できれば、全員お引き取り願いたいけれど。みさきがそう呟くと、男は悲しそうな顔をした。それに気づいてみさきも慌てる。
「もしも、このまま開業してたらさ、どうなってたかな?」
「一週間で何件事故るかなんて考えたくもないよ。注目されてるからお客さんも多いでしょ? 放っておいたら、事故って死んだら確実に取り込まれるよ……」
 みさきがうなだれる。男は彼女の頭をぽんぽんと叩く。みさきは彼を見上げて、小さく微笑んで礼を言った。志織はそのときになって、ようやく疑問がわいた。
「そういえば、名前はなんて言うんですか?」
 男は時間差で問いの内容を理解し、返事をした。
「え? ウィリアム……何?」
 復唱してくれたが、二人は聞き取れなかった。
「私、リスニング弱いんだ……」
 今年は受験だ。英語への危機感が募り、志織は頭を抱えた。みさきは、いつもの恐怖はどこに行ったのやら、自ら進んで彼に話しかけた。
「とりあえず、ウィリアムさんでいいのかな? ミスター・ウィリアム? おーけー? おーらい?」
 怪訝そうな顔をしたが、ひとまずウィリアムは頷いた。みさきはしばらく指で顎を弾きながら思考をめぐらし、ぽんと手を叩く。
「そうだ! この人にリーダーになってもらおう!」
「え?」
 志織の驚きをよそに、みさきは勢いよく立ち上がった。
「言ったでしょ? 他の霊は基本的に、あの人と力関係で負けているから従っているだけだって。ウィリアムさんに代わってもらったら、開業しても問題が起きにくいと思う!」
 私は絶対来ないけど! みさきは朗らかにそう付け加える。
 みさきは、ウィリアムにわかるように説明する。通じたかどうか志織にはよくわからなかったが、ひとまずウィリアムはにこりと笑って頷いた。そして、勢いよく立ち上がる。
「よし、じゃあ行きますか!」
 志織も同じく立ち上がると、みさきは笑顔で座ったままだった。
「みさき?」
「しぃちゃん、私、ここにいてもいい?」
 霊の通りぬけができないようになっているこの部屋は、彼女にとってとても居心地がいいようだ。
「ダメ。だいたい、霊が通れないんだったら、ウィリアムさんも出られないじゃん」
 志織はみさきの手をひっぱるが、普段から腕力はみさきのほうが強く、さらにてこでも動かないというみさきの意思が加わると、本当に持ち上がらない。
「一度解除して、二人が出て行ったあと、また結界張り直すから。なんならウィリアムさんだけ行って、しぃちゃんもここにいていいから」
 そんな意見を、志織は認めるわけにはいかなかった。
「ウィリアムさんだけでどうにかなるんだったら、とっくにどうにかなってるでしょ? みさきがお手伝いしないでどうするの」
「うえーん、やだよぅー。私、ここにいたいよー」
 安全な場所限定で出てくるみさきの凛々しさが恋しくなる。やだやだと駄々をこねるみさきの身体が、突然ふわりと浮かんだ。
「ぎょえええええええっ」
 ウィリアムがみさきの身体を抱え上げ、ゆっくりと立たせた。彼は志織に触れることはできなかったのに、みさきは触れるようだった。それは相性なのか、霊能者としての実力の差のせいかは判別がつかなかったが。
「な、なんですか?」
 みさきはとっさに霧風を構えるが、この場合しゃれにならない。
 ウィリアムは二言三言何を話したのちにみさきの手を引いた。
「え、え、ちょっと?」
 ウィリアムは大きな声で笑う。どうやらみさきがついてくるものだと思っているらしい。
「……じゃあ、行こっか」
 志織も彼に合わせてみさきの反対側の手を握る。両側を交互に見たみさきは、観念したように息を吐いた。
「じゃあ、ウィリアムさん先頭で。次は……私が行きます。しぃちゃんは最後」
 みさきは貼っておいたお札を一枚はがした。そして、ウィリアムを追い出すように急かし、ドアを開ける。
「ぎゃあぁ!」
 みさきは廊下に出たとたん、悲鳴をあげた。なにかと思えば、先ほど落ちてきた人形だ。バラバラ死体と上半身しかない少女の死体は、ある意味芸術的だった。
「もうやだぁ……」
「みさきが暴れて落としたんじゃん」
 そういえばセットを壊してしまったことになるが、加藤は許してくれるだろうか。妙なところが気になってしまう志織だった。仕事の契約について志織はまったくのノータッチだが、こういう場合の補償はどうなるかが気になってしまう。
 ウィリアム、みさきと続き、志織が最後尾だ。みさきを挟んだ方が彼女の精神上もいいし、後方で何かが現れてもペースが乱れない。しかし、そもそも志織は霊への対抗手段を持たない。みさきの家で対魔法を習ってみても、この短期間では何も効果があがらなかった。そんな状態なのに最後尾を任されるのも、それはそれで気が重い。
(お父さん……)
 みさきの家で典子に言及されてから、父の形見のネックレスに頼るような思いを抱くことが多くなった。こうしたところで効果があるのかどうかはわからなかったが、やらないよりはマシだという気がした。なんとなく勇気づけられるような気がするのだ。
 三人は離れないようにしながら進む。そこにいきなり飛んできたのは、生首のマネキンだった。
「いやああああああああああああ!」
 みさきは野球選手がバットを振るように、それを弾き返した。生首は壁に当たって床を跳ね、何度かその場でバウンドして止まった。
 けらけらと笑い声が聞こえる。志織は周囲を睨みつけるが、気配だけが蝶のようにひらひらと移動するのを感じるだけだった。
 みさきは肩で息をしながらも、どうにか平常心へ持っていった。ウィリアムが心配そうに見つめてきたので、ひきつった笑顔で頷いてやった。
 順路通り、ウィリアムの城を抜けて、別の家屋へと進む。つなぎ目を越えた先にある大きな客間で、いきなりみさきが立ち止まった。
「来る!」
 じわりと壁がにじむ。志織が凝視していると、さきほどの女が姿を現した。
「ひぃいっ」
 みさきが別のほうを見て震えるので視線を移すと、そこにも誰かがいた。形が定まっていないが背の高い男だということはわかる。
「み、みさき……どうする?」
「しぃちゃんは下がって。え、えっと……ウィリアムさん! まずは男の人お願いします!」
 みさきの指示は、ウィリアムにはよく伝わらなかった。首を傾げたものだから、みさきは男を指して、大声で何度も叫ぶ。
 ウィリアムは男に剣の切っ先を向けた。思えば、霊同士が争う場面を志織は初めて目撃した。ウィリアムの刃が男の腕を捉えて裂く。男は叫び声こそあげなかったが、姿勢は崩れた。そこにウィリアムが切り込んでいく。みさきに慣れたせいか、志織の目には彼はずいぶん勇敢に見えた。
「ふええええええ」
 対照的に、みさきはおなじみの情けない声を発した。それでもけっして逃げずに、志織をかばうように立つ。
 女はあいかわらず感情を見せない顔で、ゆっくりと迫ってくる。空気が粘度をおび、志織は呼吸することもいやになってくる。無意識にネックレスを握った手に汗をかいていた。
 ウィリアムは男に何度も切りかかっていく。男は刃を受け、その身は分断されるがすぐに元に戻る。そこに別の霊もわらわらと彼の周囲に群がって、ウィリアムは苛立ちながらそれをなぎはらう。
 二人を助けたい。志織は志織で、自分がもどかしかった。いつもこうだ。ここまでくるとじっと守られるだけだった。志織には度胸と霊視能力以外の何もなく、いざ霊と対峙するときは完全にお荷物だった。それが悔しかった。何もできない自分に苛立つ。
 女は不気味なほどに静かに、みさきを見つめていた。みさきは怯えながらも牽制する。
(あ)
 自分たちの足下へとするすると布が伸びていく。みさきは気づいていない。
 志織はとっさに前に出て、それを足で払おうとした。しかし、寸でのところで動けなかった。足下を見ると、何人もの子どもの霊が志織の足に絡みついていた。
「は、離して……離してよ!」
 腕や脚で追い払おうとしてもそれにも勝る力だった。そうこうしているうちに、女の布がすぐそこまで来て、志織の靴を上ってくる。
「しぃちゃん!」
 みさきは志織を押さえつける霊たちを霧風で払いのけた。しかし、次の瞬間、女の本体が起きあがってみさきに覆いかぶさろうとした。
「みさきっ!」
 みさきの構えが一瞬遅れた。女の手が彼女の頭に触れようとしたそのとき、一条の光がきらめいて、女が弾き飛ばされた。
 驚いて脇を見ると、男を下したウィリアムが息を切らして立っていた。彼は女が起きあがったのを確認すると、みさきに合図を送った。みさきは助走をつけて飛び上がり、女を勢いよく切りつけた。
 突風が吹いてとっさに腕で顔をかばった志織が手を下すと、女はもういなかった。空気も軽く、光の量も増えたように思えた。
 他の霊たちはあわてふためいたが、逃げるように消えていった。しんと静まりかえる。
「ウィ、ウィリアムさん、ありが……」
「しぃちゃん、大丈夫? 怪我はない?」
 志織の言葉を遮って、みさきは彼女の肩にしがみつく。無傷を確認するように、ぺたぺたと志織の身体に触る
「ごめん……」
「え?」
 志織は意気消沈してしまった。ウィリアムがいたから救われたものの、みさきが危険にさらされたのは自分が不用意に前に出たからだ。
「みさきの役に立とうと思えば思うほど、逆に足引っ張ってるよ」
 みさきが怖がりで、自分はそうではない。たったそれだけで、自分にも何かできるのではないかと志織は思ってしまった。結果、むしろ事態をややこしくしてしまったのだから、落ち込んでしまう。自分はいつもそうだ。
「本当に役立たずだ……」
 霊が見えていても、いや、見えているからこそ調子に乗って中途半端になっている。みさきよりもずっと自分のほうが情けなく思えた。じわりと涙が出てくる。
「卑下しないで」
 みさきはそんな志織の両頬をぺちんと叩く。
「今日だって、いままでだって、しぃちゃんがいなくてよかったって、私は一回も思ってないんだからね。これからだって、しぃちゃんがいてくれないと困るよぅ」
 みさきは涙ぐんでいた。その姿を見ていると、罪悪感がわいてくる。
「ごめん……」
「役立たずだなんて思わないでね。これからも、ずっとずっとそんなこと思わないでね」
 約束。そう言って、みさきは志織の指を握った。志織がおずおずと頷くと、そこに突然、真っ白で大きな手が突然視界に現れた。
「うええ!」
 みさきの反応は早かった。横へ飛び退くように立ち上がって、霧風を向ける。
「あ、ウィリアムさん……」
 にこにこと笑う彼の姿があった。
「なんだ、びっくりしたぁ。驚かさないでくださいよー」
 ほっとする仕草をするが、見るからに心拍数が上がっていそうなみさきであった。それでも、彼に対しては必要以上に騒いだり怯えたりしていない。
 みさきと出会ってから初めて、彼女が霊を恐れずに接するところを見た。志織はウィリアムが霊であることも忘れかけていた。自然に笑えるみさきの姿に、志織は嬉しいような寂しいような複雑な心境でいた。みさきの怖がりが解消されたら、その分自分の重要性は軽減されるのだから。
「え?」
 みさきの声に、志織は意識の焦点を二人に合わせた。ウィリアムがゆっくりと優雅に礼をしている――。
 ごろん。そこにあるべきものが消えた。むき出しの切断面がみさきの正面に現れる。みさきは金魚のようにぱくぱくと口を動かした。
 固まっていると、ウィリアムの胴体が肩をすくめて、床に転がった頭を元の位置に乗せた。にっこりと微笑む彼の首の傷は、みるみるうちに癒え、元のとおりになった。
「うわあああああああああっ!」
 みさきはまるでムンクの『叫び』のような表情とポーズを取った。そして、白目をむいたかと思うとその場で倒れてしまった。ウィリアムはそんな彼女の様子を見てしょんぼりとしていた。
「あ、あの……」
 あまりにも落ち込んでいるので、志織はつい彼に声をかけてしまった。
「この子、こういうの苦手なんです」
 志織の言葉を理解したのか、ウィリアムは血相をかえて気絶したみさきに謝罪する動作を何度も行ったが、みさきが目覚めることはなかった。
「最後の最後にすみません。でも、それは相手を選んでやってください」
 ウィリアムは悲しそうに頷いた。ちょっとした悪戯であったことはわかっているので、彼には同情する面もある。しかし志織は、自分はまともに見ないでよかったかもしれないと陰でほっとした。
 安全なところまで志織に引きずられ、そこで目を覚ましたみさきが、その後いっそう怖がりになったのは言うまでもない。


「はははっ、受けるー」
「笑いごとじゃないよ!」
 帰りの車のなか、みさきと彼女の兄の勝士の会話が響く。勝士の友人の秀平は絶叫マシーン全制覇したためか、心地よい疲労感とともに熟睡していた。
 その後、みさきはアトラクション内をかなりごねながらももう一周して、霊たちのほとんどがおとなしくなったことを確認した。ウィリアムには、これからたくさん来るであろう客をすこし驚かせるくらいなら問題ないことを伝えたが、どこかよそよそしくなったみさきの態度に寂しそうな表情を浮かべていた。
「もうね、すっごくすっごく怖かったんだからぁ! あ、思い出しただけで気持ち悪くなってきた……」
「おいおい、吐くなよ。父さんに叱られるの俺なんだから」
 ホテルに泊まった昨夜、みさきは夢でもうなされていた。よほど心の傷になったようだ。霊嫌いがますますひどくなりそうだ。
「あ、みさき。そういえば、加藤さんからあのお化け屋敷のタダ券いっぱいもらったよ。また来てくださいねって」
「行かない!」
 こういうときのみさきは、他のどんな場面よりも主張が強かった。
「しぃちゃん、お友達に分けてあげていいよ! 私は絶対に、もう二度とここにはこないっ!」
 志織と勝士はミラー越しに目が合い、お互い苦笑いになった。今度はみさきがお気に入りのキャラクターがいるテーマパークにでも誘おうかと、窓の外で流れていく新緑の景色を見つめながら志織は思った。
 夏になり、あのホリブルキャッスルは盛況で、他の絶叫マシーンに並び人気スポットとして好評をはくした。テレビ番組の特集で流れる館内の映像を見るたびに、志織はいまでもまだあそこにいるはずの彼の姿をなんとなく探してしまうのであった。




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