HELP! 第四話 Silent Dolls 夏も徐々に終わろうとしている。同じ高校三年生の生徒たちは受験勉強の追い込みにかかる季節だったが、志織とみさきは新幹線の窓から景色を眺めていた。 八月といえば、本来なら時間を惜しんで知識を詰め込む時期だろう。しかし、志織は前月の模試で、志望校に合格圏という結果を出したので、どうにか出かける時間を確保できた。でなければ、さすがに志織の母も許さなかっただろう。 みさきも受験生のはずだが、志織以上に勉強しているそぶりを見せなかった。けれども、彼女は進学校でそれなりに良い成績を修めていて、よほど高望みしなければどこにでも受かるらしい。その余裕が志織は少し羨ましかった。そんなみさきと、名門大学に通う彼女の兄の勝士に勉強を教わっているのだから、自分だって恵まれているわけだが。 みさきは面倒見がよく、移動時間は問題の出しあいに付き合ってくれた。そうして新幹線で終点まで行き、そこからはローカル線に乗り換える。数十分ほど、安穏としたワンマン列車に揺られて着いた駅からはタクシーだ。バスは時間が合わなかったうえに、次の便までだいぶ間が空いていた。 目的地に着いたころには、すっかり身体がだるくなってしまっていた。三時間のほとんどを座って過ごしたのだから当たり前だろう。タクシーから降りると、志織は大きく伸びをした。 木々に囲まれた小道の先に、依頼主のいる建物がある。自動ドアが開くと同時に、二人は立ち止まった。まるでセキュリティの厳しい場所に来てしまったかのような、張りつめた空気に満ちていた。ほのかに花のような香りがするけれども、それに心が和むような思いも抱けないほどに。 正面の受付と小さな販売スペースが目に入った。売られている小物たちに興味津々のみさきの手を引き、志織は受付に足を進めた。 「恐れ入ります、祝と申します。青木様はいらっしゃいますか?」 受付の女性に呼ばれて出てきたのは、五十代と思われる女性だった。上等なスーツを身にまとっているが、柔和な雰囲気で、近寄りがたさはなかった。 「青木です。駅まで迎えにいけなくてごめんなさい。遠いところまでありがとうございます」 彼女が今回の依頼人だった。普段は地元で生活しているが、時折用事で東京に出てくる。そのつながりで横川と知り合い、彼女はみさきの存在を知ったのだった。 「ちょっと館長さんが席をはずしているの。まずは、館内を見学なさってください。一回りするのに時間はかかりませんから」 青木は二人を展示の入り口まで連れて行くと、自分は上の喫茶室にいると言い残して階段を上がってしまった。 展示スペースの通路はまっすぐ奥まで続き、突き当たりのところで右に曲がるようになっている。通路の壁付けのケースには、衣装もデザインも多種多様の人形が飾られていた。 「うわー。かわいいー!」 みさきはフランス人形のコーナーで立ち止まると、ガラスに顔をつけるような勢いで、展示物を眺めた。目がきらきらと輝いている。 「人形は怖いんじゃないの?」 テーマパークでの記憶を呼び起こす。あのとき、人形はよくない人形はよくないと声高に主張していたのは誰だったか。みさきはぎくりとしながらも、笑ってごまかした。 「いや、あれはグロかったしー。私ね、こういう人形って憧れだったんだ」 みさきが幼稚園に通っていたころのことだ。周囲の友人はみな、西洋風の人形を持っていた。みさきも親にねだったが聞き入れてもらえなかった。それを見た祖父がみさきに人形を持ってきてくれた。それは、髪が腰くらいまである日本人形であった。 それは、もともと人形に憑いた霊を供養してほしいと、客が持ち込んだ物だった。中にいたのは小物だったので、すぐに祓うことはできたものの、依頼人はもう見たくもないと言って引き取りを拒否した。しかたないので、祖父はみさきに流したのだ。 「なんかさ、さすがにしょんぼりしちゃったよ。みんなでドレスの着せかえっこがしたくても、一人だけ明らかに系統がちがうから浮いちゃったんだよね。曰くつきで不気味でいやだったのもあったけど」 みさきはそこで、自分の家は余所とはちがうことを悟ったらしい。もとは幽霊が憑いていたという人形は、みさき以上に他の子どもたちを怯えさせた。 もう霊はいないとはいえ、みさき自身、その人形を持っていたくはなかった。結局、祖父がまた引き取って、知り合いに譲ったらしい。 「こういう、ひらひらのドレスとか着せたかったんだぁ……。でも、特別悪いわけじゃないけど、なんか刺々しさがあるよね、この子たち」 志織は人形のひとつひとつをまじまじと見つめる。微弱な何かは感じるが、へたな干渉ははねつけるような意識が感じられた。みさきが言うには、こういう人形は浮遊霊の魂が入り込みにくいようだった。 「警戒されてるみたいな」 そっとみさきは呟く。それぞれの瞳からは心の壁のようなものを感じる。けれども志織には、まったく何も感じない人形に比べたらやや気後れする程度に思えた。 「みさきは平気?」 「とりあえず血まみれでもなんでもなくて、悪霊も入ってなければ、かわいい人形は多少何かあっても平気だよ。これはちょっと落ちつかないけどね。でも、かわいいよねぇ……」 前回があそこまでセットに気合いの入ったお化け屋敷でなかったら、もう少し効率がよかったかもしれない。志織はみさきに隠れて溜め息をついた。 通路は時計回りのスロープになっていた。ぐるりと一周すると、中二階の広いスペースに出る。時期によっては、大量の雛人形や五月人形が飾られるらしい。事前にインターネットで検索した画像を見ると、実に壮観だった。 そこをさらに囲むようにもうひとつスロープがあり、奥にある展示室へと続いている。それとは別に階段がふたつ。一方は受付、そしてもう一方は中二階全体と外の景色を眺められる喫茶室にそれぞれ続いている。建物自体はこじんまりとしているが、居心地の良さそうな設計だった。 青木は喫茶室の窓際で本を読みながら二人を待っていた。若い職員が喫茶の店員も兼ねており、志織とみさきに菓子と緑茶を運んできてくれた。 「いかがでしたか?」 「素敵ですね。昔、ああいうお人形に憧れていたんです」 彼女は服の趣味も女の子らしいし、こういうものには目がないようだ。 さっそく出された茶をすすりながら、志織は問いかけた。 「ところで、ご依頼のときにお話頂いた人形は、展示されていないんですよね? 表に出ているものは……」 みさきに確認するように横を向いて視線を送ると、彼女も頷いた。 「はい、あれはさほど……。あのお人形は大事にされていたことはわかりますが」 青木はおだやかに笑った。 「ここは市の施設ではありますが、会館当初より私の母のコレクションを主に展示する場でした。母は人形と旅が大好きでね、いろいろな国に行っては人形を買い求めたの」 青木の母は名前を房江という。貿易会社を経営しており、世界各国を飛び回っていた。ある国でふと気まぐれに子どもたちへの土産に人形を購入して持ち帰ったが、家族の誰より房江自身が気に入ってしまった。それ以来、仕事に行くのか人形を買いに行くのかわからなくなるほど、コレクションが増えてしまった。 「その土地の伝統衣装を着ているのがお気に入りでね。見比べてみると、いろいろ面白いでしょう。母は、このお人形さんを見れば、人々がどこでどのように暮らしているのかがよくわかるって言っていたわ」 青木は、手元に置いた人形たちの写真集に視線を落とし、表紙を愛おしそうに撫でた。そこに印刷されたフランス人形は、一地方の伝統的な衣装を着ている。あまり見ない形のレースの髪飾りが華やかだった。 「だから、母の死後、みなさんに楽しんでもらえるように市に寄贈したの。正直、私たち姉弟は、母ほど力を入れて管理できる自信はなかったし」 同じように人形がたくさん置いてあっても、ホリブルキャッスルとはえらい違いだった。管理が行き届いており、どれも化けて出るような類のものではない。 「では、いったい何が……」 青木が言いよどんでいると、突然彼女の横の椅子が引かれ、大柄な男性がどっしりと腰を下ろした。 「どうもどうも、すみません。私が館長の遠野です」 豪快に笑う姿に、志織もみさきも唖然として返事ができなかった。 「こちらが霊能者の先生がた? いやあ、東京から遠いところまでありがとうございます」 遠野は職員に緑茶だけ持ってこさせると、一気飲みする勢いであおった。まるで、日本酒か何かを飲んでいるようだった。 「あ、渡辺です。助手です」 「えっと、祝です。本日はご依頼ありがとうございました」 ようやく気を取り戻して、二人で頭を下げる。 「それで、ご依頼のものとは……」 みさきの質問に、遠野はあごをさする。 「ああ、うちは基本的には青木さんのところのコレクションを主軸にしているんです。それで、時々人形作家さんの作品並べたり、他の人から寄贈してもらったものを使ったりしているんですけれどね」 拝み屋でもなんでもないので、人形の供養や引き取りは受け付けていない。それでも、勘違いした近隣住人からは、いわゆる呪いの人形が持ち込まれることもある。 「あれは、物はいいんです。でも、うちは別に拝み屋じゃないし、近所の寺にもいちいち持ってくるなって拒否されてしまってるし」 その人形は、夜中に館の入り口に置き去りにされていた。さる姫君が所有していた由緒のある品だが自分の手には負えない、引き取って供養してくれ。そんな内容の手紙が一枚添えられていた。持ち主はわからず、返す宛もない。 「とりあえず状態はいいからと預かることにしました。その直後からです」 誰も触れていないはずの人形が倒れたり、破損が多く見つかった。しかも、壊れた人形の多くは、定位置から離れた場所で発見されるという。 ひとつ引っ込めて修理している間に、またひとつが壊れてしまう。そうこうしているうちに、現在の展示数は、元の七割ほどしかない。 「前から、曰くつきのものを引き取ると、多少何かあったんですよ。でも、ここまで何かが起こるのは初めてでね。もうね、うちは呪いの人形博物館じゃないって壁いっぱいに主張したいくらいですよ」 力なく遠野は笑う。 「それで、その人形は……」 志織が尋ねると、遠野は残っていたわずかな茶をすべて飲み干した 「全部飲み終わったら、行きましょうか」 志織とみさきは急いで残りの菓子を平らげ、茶で流し込んだ。みさきがむせる。 遠野と青木によって案内されたのは、事務室の奥にある応接間だった。その更に奥にあるのが収蔵庫で、出番がくるまで人形たちが眠っている。 みさきも志織も博物館の裏側に入ることなどめったにないため、きょろきょろと周囲を見渡してしまう。事務室は、展覧会のポスターが貼ってある以外は学校の職員室のような場所と変わらない。 「ここで待っていてください。いま持ってきますから」 遠野は収蔵庫の鍵を持って、出て行った。 「あの……」 沈黙を切るように、青木がおずおずと口を開いた。 「さきほど仰ってましたよね。表の人形には悪い感じはしないと」 志織とみさきは顔を見合わせて、同時に小さく首肯する。すると、青木は肩の力を抜いて、花が咲いたように笑った。 「よかった」 「お母様はとても大切になさっていたんですね」 みさきの言葉に、青木はかすかに頷く。 「ええ。異国の空気が感じられるとね。母は、その土地で暮らす人々の生活をとても大切にしていたから。本当は、会社をうちの弟に譲ったら引退して、移住する予定だったのよ。でも、その矢先に倒れてしまったの」 青木は母親である房江の思い出話を語り始めた。房江は裕福な商家の一人娘で、婿をとったものの戦争で寡婦となり、財産の多くも失ったけれども一人で子ども四人を育てたという。終戦後に興した貿易会社は、代替わりした現在でも業績がいいらしい。 そんな話をなごやかに聞いていた志織たちだったが、突然空気が張り詰めるのを感じた。一瞬で二人の少女の笑顔が消えたのを見て、青木は戸惑った。 「え? 私、なにか悪いことでも……」 「はい、失礼しますよー」 遠野が場にふさわしくないほどの明るい声で入ってきた。抱えていた木箱を卓のうえに置く。二人は表情を固くして、それを見つめる。 「これなんですよ」 遠野の声の軽さとは裏腹に、そこに立ちこめる気配は重い。みさきの手が震えた。 ふたを取ると、ガラスケースに収められた日本人形が現れた。傍らの小さな器には、古くなった砂糖菓子が盛られていた。大きな目がかわいらしかったが、それよりも特徴的なのは髪の長さだった。 「……伸びてますねぇ」 「ええ。測ってみたら二十センチほどでしたね」 腰をゆうに越えるほど長かった。丁寧に化粧を施されており、身にまとっている着物も、一目で上等な生地を使っているとわかった。 「私が持ってた人形もこんな感じだよ」 ぼそりとみさきが耳打ちする。これを幼稚園女児の集まりに持って行ったら気味悪がられてもしかたない。 建物全体を取り巻く空気は、この人形周辺になるとずっと凝縮されていた。 「触ってみますか?」 遠野はガラスケースも取り除く。その瞬間、生温かい風が内側から外に向かって吹いてきた。むせかえるほどの香りが漂う。花というより、香の匂いと言うべきかもしれない。 冷房が利きすぎているわけでもないのに、鳥肌がたつ。彼が人形の髪に触ると、頬がひりつくような気がした。 「それは、人の髪の毛ですか?」 自分は触れないまま、みさきは尋ねた。 「まあ、時代が時代ですからねえ。江戸初期のものだそうで」 遠野の乾いた笑いが響く。みさきは足をぱたぱたと動かし、さりげなく恐怖を表現する。 「それで、除霊はどうします?」 「あ、どこか広い空間をお借りしたいのですが。できればこの建物ではなく」 みさきは挙手し、展示室の方角を見やる。展示物は固定されているとはいえ、ここで暴れられたら、安全は保障できない。 遠野はしばし考えたあと、市の施設に空きがないか確認してみると、役所に電話をかけに行った。そして数分後、市の施設で小体育館に空きが出ているので押さえたと言いながら戻ってきた。 「よほどのことがない限り壊れたりはしないでしょう」 そのよほどのことが起きないことを、志織は祈るばかりだった。 「もう移動しますか?」 みさきは人形を見つめる。 「……そうですね。まだ何のアクションもないので、できれば夜を待ちたいのですが、運ぶだけならいまでもいいかと思います」 小体育館までは、車で二十分ほどだった。遠野に車を借り、人形を移動させる。 念のため、箱に戻してお札を貼ったが、すぐに風で飛ばされてしまった。何度も直しても同じだった。仕方ないのでそのまま運び出そうとした瞬間、箱はいきなり落ちて、その角は遠野の足を直撃した。遠野は喉をつぶすような声をあげる。さいわい靴越しだったので大事には至らなかったが、うっすらと靴下に血がにじんでしまっていた。 みさきの顔が険しくなる。 「わ、私が持ちます」 みさきが止める前に、志織がひったくるように受け取る。重い。まるで大石でも抱いているような重さだった。それでもなんとか意地で車まで運ぶと、遠野がエンジンをかける。しかし、何度鍵をひねっても、エンジンが回らない。 「あれ?」 「遠野さん……」 みさきは青い顔で口を開いた。 「車は使わないほうがいいかもしれません。多分、事故起こします」 遠野は口をあんぐりと開いた。 「え?」 「いやがっています。この博物館を自分のテリトリーだと思っていて、離れたくないようです」 みさきは博物館を振り返る。灰色の建物が、こちらを見つめているように佇んでいた。 「じゃ、じゃあ、どうすれば?」 そこに志織が加わって口を挟む。 「別の車でもだめ?」 みさきはこくりと頷いた。手で運ぶとしても、道中でなんらかの事故に巻き込まれる可能性が高いという。 「霊ってテリトリーとか気にするの?」 志織は、ゴールデンウィークに訪れたホリブルキャッスルを思い浮かべた。 「気にするのはね。場所にこだわる霊もいれば、物にこだわるのも人にこだわるのもいるよ。それは霊それぞれだけど。一度自分のものと決めたら、執着心が高まって攻撃的になる」 途方に暮れていると、血相を変えた職員が走ってきた。厳重に固定されていたはずの展示台が、突然倒れたという。幸い近くに客がいなかったからよかったものの、子どもでもいたら確実に下敷きにされていた。 青木は白い顔になった。 「あの、もう動かさないほうがいいんじゃありませんか?」 倒れた台に飾られた人形は、房江のコレクションではなかったものの、首がぽきりと折れてしまっていた。ただでさえ母親の人形がいくつも破損しているのだから、これ以上同じことが起きてほしくないという。遠野と志織とみさきは、それぞれ顔を見合わせてしまった。 「先生としてはいかがですか?」 「……ここに留まったとして、そのまま大人しく除霊されてくれるような代物ではないと思います。行くにしても留まるにしても、多少の覚悟をお願いするかもしれません」 それぞれが沈黙し、お互いの判断に対してどう折り合いをつけようか悩んだ。ふと志織は、場の空気が変化したように思えた。香りも薄い。それはみさきも同じだったようで、彼女は箱を改めて見て蓋を開けた。そのなかに人形はなかった。ガラスケースには砂糖菓子の器だけが残されていた。 「嘘……」 青木は呆然とした。遠野も志織も言葉を失った。志織たちの目の前で、ケースは木箱に納められた。それから誰もが目を離した瞬間などなかったはずだ。 志織はちらりとみさきを見る。無表情を装っていたが、目には涙がたまっていた。 「探してみますか?」 志織の提案に、まず頷いたのはみさきだった。それから遠野と青木が遅れて同意した。 再度扉をくぐると、館内の空気が出る前とは一変していた。汚れが混じった水のなかを歩いているようだった。花のような匂いは一段と濃くなっている。二手に分かれ、みさきと遠野はバックヤード、志織は青木とともに展示室を回ることになった。 「あの人形がやってきてからのこと、もう一度お聞かせ下さいますか?」 収蔵庫に向かったみさきは、遠野に尋ねる。 「確か、あれが放置されてから二週間は経ってないね。その間に壊れたのは、房江さんのコレクションが二十体ほど、それ以外のものが三体……さっきのを合わせれば五体か。それと、道具が五セットほど。一日に何体も壊れて、だいたいそれは夜間」 「青木さんのお人形に集中していますね」 「元の数が多いからね」 遠野は大きくて頑丈そうな扉を開ける。真夏に似合わない、ひんやりとした空気が手前に滑りこんできた。薄い上着でも持ってくるべきだった、とみさきはむき出しの腕をさすった。 棚にはさまざまな人形が保管されている。むきだしのもの、ケースに入っているもの、木箱に収められているもの、薄紙に包んだだけのもの。 例の人形がどこにいるのか、意識を集中させても気配は曖昧だ。けっして弱くなったわけではないはずだが、建物に入ったとたんに相手の存在感が固体から気体になったように変化した。そして、それは建物の全体に染みついている。このなかにいるだけで、敵の巣に入っているも同然だと思った。 「カメラを設置すれば壊れるし、警備員は話し声がするって怖がるし。それで、職員の何人かが泊まり込もうとしたんだ。そうしたら、揃いも揃ってその日の勤務中にいきなり高熱が出るし。話し声はいままでもあるっていえばあったんだけど、健康被害は初めてだよ」 遠野は力ない笑みを浮かべた。もともと怪奇現象の気配はしばしばあったので、不審者の犯行の可能性ありと警察に通報するかどうかは保留していた最中のできごとだった。 相手はたやすく人間へ干渉できるほどの力は持っている。いざとなったら彼らを守らなければならない。みさきの手を握る力が強くなった。兄の勝士のように遠慮がいらない相手でもなければ、志織のように自分で動けるわけでもない。あちらの気配に気づかないうちに危害を加えられることも十分考えられる。それを考慮したうえでの行動が必要だ。 みさきは自分の力不足をひしひしと感じている。怖がりを抜きにしても、まだまだ渡り合えるほどの実力はない。だからこそ、いっそう取り乱してはならないのに、霊や物の怪を見ると恐れ叫ぶのは本能といってもいいくらいだった。 (私、本当に、ダメだなぁ……) せいぜい、遠野の前で霊が姿を現さないのを祈るばかりだった。 一方、志織と青木は展示室内を丁寧に見回っていた。その最中、青木は物憂げな顔で、ガラスのなかの人形たちを眺めた。 「ときどきね、心苦しいのよ」 「え?」 「博物館が作られて人形が飾られて、それでいいと思ったの。母が愛した人形を、みんなにも同じように愛してほしいというだけだった。だから、あのお人形みたいに、呪いとかそういったものが持ち込まれる場になってしまったのがね。遠野さんたちだって、お寺さんでもなんでもないのよ。普通の人たち。それなのに、こういう風にトラブルに巻き込んでしまうきっかけを、私が作っちゃったようでね」 志織はどう声をかければいいのかわからなかった。言葉少なく、二人で順路通りにスロープを上がり、中二階のホールに到着する。現在は企画展示が行われており、人形道具が国や地域別に並べられていた。 かり、と足首に爪を立てられた。志織がぎょっとして見下ろすと、テーブルにかけられたクロスの裾から細い腕が出て、彼女の足をつかんでいた。 「わ!」 志織が声をあげたのを聞き、青木も視線を下にやる。同時に、腕は引っ込んでしまった。 「どうしたの? 虫?」 青木の問いに答えるのも忘れて、志織は布をめくった。 ――薄暗いなか、二つの目が光っていた。 覗き込んできた青木が息をのむ。志織はとっさに布を下ろした。 (いた……) 驚きのあまり、呼吸が乱れる。目の光がまぶたに焼きついてしまった。志織は震える手で携帯電話のメールで、みさきを呼び出した。 人形が出られないように、布はしっかり押さえる。送信から数分も経たぬうちに、みさきと遠野がやってきた。 「いた?」 「うん」 志織はもう一度クロスをめくってみせる。しかし、そこに人形の姿はなかった。 「え?」 志織と青木は同時に声を出した。台は壁につけられたうえでクロスをかけられている。志織たち以外に展示室に人はなく、誰かが持ち去ることはできないはずだった。 (自分の目で見張ってればよかった……) 不覚。志織は自分のこめかみを小突いて、自分に向かって舌打ちする。みさきに比べたら怖がりでもないのに、なぜか見たくないと思ってつい視界に入らないようにしてしまった。 「本当にいました?」 遠野の疑わしげな声に、青木が反論する。 「だってね、遠野さん。私も見たんですよ」 そこにみさきも口を挟む。 「今日初対面の二人が同時に見たんだから、信用していいと思います。その……残念ながら? 移動する人形っているんですよ」 捨てても捨てても戻ってくる。置いてきたはずのものがいつの間にか荷物のなかにまぎれこんでいる。そんな事例はいくつも存在する。 「それはお人形さんが自分の意思を持ったってこと?」 不安そうな青木にみさきは言いづらそうに答える。 「主に二つ。まずは、仰るとおり、人形に意思が生まれた。古くて使われつづけた人形に多いです。もうひとつは、そこらへんをうろついてた霊が人形に入り込んでいること……」 遠野はざっと展示室を見渡す。構造上、大部分の展示物をここから確認することができる。視線をめぐらせると、遠野はかすかに声にならない声をもらした。 「展示室も含めて、人形をすべて点検することは可能ですか?」 遠野は担当の学芸員に確認したが、あまりいい顔はされなかった。扱いかたも知らぬ部外者に変にいじられたくないと言う。そこを青木が懇願して、白手袋とマスクを着用して、学芸員立ち会いの元なら何体かは触れてもよいと許可を得た。 「どれか見たい人形はありますか?」 学芸員の大田がそう尋ねてきたが、できれば自分で適当なものを選びたいという感情が、彼女の表情と声色から透けて見えた。みさきは迷った末、房江のコレクションとその他の寄贈分を三体ずつと指定した。 持ってこられた人形を、志織とみさきは二人並んで見比べる。はっきりと何かを感じられるのは、房江のコレクションのほうだった。 「警戒されてる……」 ぽつりとみさきが呟く。つられて志織も小声になる。 「中になにかいる?」 「ちょっと弱くてわからない。でも、触るとちょっと反発するよ」 みさきが志織に渡そうとすると、別の意味で緊張感が走った。 「もうちょっと丁寧に扱ってくださいね?」 大田の声には念がこもっていた。下手な霊よりもこの学芸員のほうがよほど怖く思う志織だが、みさきは不必要に慌てずに謝罪して、志織への手渡しかたを変える。 人形に触れた瞬間、静電気が起きたときと似た反応があった。霊がそばにいるときによくある、ぴりっとした感覚。志織は驚いて落とすことはなかったものの、なんだか落ちつかなかった。 次に、一般市民から最近持ち込まれたという人形を手にする。こちらは房江の人形のような反応はなかった。その代わり、あの日本人形と同じ香の匂いがした。房江の人形に比べると、やや強い。 それを志織がみさきに報告すると、みさきも同意した。 「すみません、壊れたという人形は見せてもらえませんか?」 前々日までに壊れてしまったものは、専門の職人のところに送ってしまっていたが、前日に破損してしまったものだけは見せてもらえた。 「どう?」 志織がみさきの顔を覗き込むと、みさきは苦い表情を浮かべた。そして口を閉ざしたままなので、志織は首を傾げた。 「どうしたの?」 みさきは志織に囁く。 「しぃちゃんさぁ、霧風扱えるようにならない?」 ここで何を言うか。志織は呆れて物も言えなかった。 ホリブルキャッスルのあとも、志織はちょくちょく祝家を訪れ、簡単な退魔法だけは習った。しかし、志織にはみさきほどのことはできず、たいした成果は得られなかった。攻撃も、霊の背景を鮮明に見抜くこともできない。せいぜい、みさきお手製のお札を手に持って、下級霊からの干渉を控えることしかできないのが現状だった。ましてや、霧風など扱えるわけがなかった。 志織が首を振ると、みさきが小さく唸る。大田も疑わしげに見つめるほどの挙動不審ぶりだった。 「どうしたの?」 みさきは歯切れの悪い話しかたをする。 「んーとね……夜の展示室に……その、ね。一晩いるのがベストかなって」 「じゃあそうしようよ」 みさきの仕事に付き合っているうちにすっかり慣れてしまった志織の提案に、みさきは電光石火の速さで拒否する。 「いやいやいや、ちょっと待って」 「怖い?」 直球の質問に、みさきはつい固まってしまった。図星だった。 「だって、だってさぁ、いくらかわいいお人形さんでもあのなかで一晩過ごすのはぁ……」 ホリブルキャッスルで一泊よりもはるかにマシだと思うが。志織はそう主張するが、みさきは唇をかむ。言葉をかえて説得しても返事が不明確で、困った志織は溜め息をついた。 「もう、横川さんの紹介でしょ? お仕事でしょ? あの人の顔つぶしちゃうよ」 はっとしたみさきは、志織の顔を見つめる。横川の顔が思い浮かんだ。本来なら、駄々をこねている状況ではないのだ。仕事をすると決めた以上は、責任をもたなければならない。そんな簡単なことも守れない自分が、みさきは心底情けなかった。そこまで自覚しながらもまだ躊躇いを捨てきれないことも。 みさきは志織の手を握る。 「しぃちゃん、一緒にいてくれる?」 頼りない姿のみさきだったが、志織はもちろん承諾した。みさきは腹を決めて、不審そうに二人を見る大田に頭を下げた。 「すみません、展示室に一晩いさせていただけないでしょうか?」 大田は頷きたくないようだった。そもそも、彼女の同僚の三人が泊まり込みを試みて、一斉に倒れたのだから、それは仕方なかった。そこを必死に食い下がる。 「お願いします。今夜解決させてください。何かあったら責任はとります」 大田はそれでも了承をしぶったが、上司の遠野がそれを聞いて許可してしまったため、何も言えなかった。ただ、展示物は絶対に傷つけないようにと何度も念を押した。 青木は自分も展示室に留まりたいと申し出たが、それは断った。危険をすこしでもなくすためでもあったが、彼女経由でみさきの怖がりが横川へ漏れるのを防ぐ目的もあった。 念のため遠野と青木が館外で待機することになり、閉館時間を過ぎてその日の業務が終わると、青木は彼と一緒に博物館から出た。名残惜しそうに何度も振り返るのを、志織とみさきは何度も手を振って送りだした。 公立の施設は電気をむやみに使えない。職員たちが全員去ったあとは、非常灯以外の明かりはすべて落とされた。暗闇に薄い光だけがぼんやりと見える展示室は不気味だ。みさきと志織は展示室が一望できる喫茶室の給湯スペースにしゃがんで潜み、時を待った。 「はい、どーぞ」 自由に使って構わないと言われたのをいいことに、喫茶室で使っているポットで茶を淹れ、志織はみさきに手渡した。 「ありがと」 声をひそめて礼を言ったみさきは、ほうと息を吹きかけ、茶を冷ます。空調だけは効いているとはいえ、さすがに真夏のホットティーはすこし時間をおかないと口をつけられない。 「それ、懐かしいね」 志織が苦笑しながらみさきの頭部を指す。今日のみさきは、きちんとヘルメットを装備している。ちゃんとライトもついているすぐれものだ。結局仕事にこれを持参したのは、志織の高校以来となる。 「うん……」 ようやく温度が下がってきたカップに口付けながら、みさきは数ヶ月前の出会いを回想する。思えばずいぶん長く一緒にいる気がするが、二人が出会ったのはつい最近だ。 「しぃちゃん、ありがとうね」 「なに、いきなり」 志織が目を丸くすると、みさきは微かに笑う。 「しぃちゃんの学校のときさ、本当はすっごくすっごく怖かったの」 「本当はも何も、最初から恐怖全開だったじゃん」 志織のつっこみに、それはそうだけどとみさきも肩をすくめる。 「知らない学校っていうのは平気なの。でも夜で、出るとわかっている場所で、相手がどこから現れるのもわからなくて。それが怖くて、頼れるのは自分だけって状況が心細かった。だからね、しぃちゃんがいてくれて助かったんだよ」 「助かったって、私はあのときだって走る以外に何もしてないよ?」 志織は志織で、わけもわからず全力疾走したあの夜が懐かしかった。あの頃もいまも立場はあまり変わらない。変化があったとすれば、度胸に磨きがかかったことと多少の身の安全は確保できたことだ。 それでいい、とみさきは言う。 「いまは隣にしぃちゃんがいるだけで、気が楽なんだ。こうして話すだけで緊張が取れるし。本当にありがたいかぎりですよ」 志織はこそばゆい気分だった。思わず頬を掻く。みさきは、ふふっと笑う。 「私さ、やっぱりまだまだ未熟で、依頼人をちゃんと守れないなって思うんだ。今日だって青木さんを立ち会わせられなかったのは、私の力不足もあるし。うん、頑張りたいな」 みさきはカップを床に置く。その瞬間、展示室で音がした。 あの香りが、空調の風に乗ってほのかに漂ってくる。 志織はこっそりと展示室の様子を窺う。中二階の中央に、小さな影があった。 「あれだ……」 志織はみさきを振り返る。そこにあったのは毛玉のように丸まった彼女の姿があった。 「ちょっと……!」 「ふえええええええ」 みさきの顔は、暗がりのなかでもわかるくらい真っ青だった。 「さっきまでの、緊張が取れるだの、頑張りたいだのはなんだったの?」 気づかれないようにと小声のやりとりではあったが、本当は大声で言いたい志織であった。 鈴のように軽やかな笑い声がホールに響いた。 「さあさ、皆の者。今宵もよき宴の始まりじゃ」 気配が騒がしかった。見ると、ぼんやりとした靄をまとった人形たちがケースをどうやって抜け出したのかは不明だが、中二階に集まっていた。 人形たちは姫の人形を囲むように集う。まるで歓談をしているようだった。 「こういう童謡があった気がするわ」 「うーん、霊じゃなかったら微笑ましいかもしれないけどぉ……」 みさきは震えながらも様子を観察する。 「みさき、あの人形ってどういうものかわかる……?」 答えるみさきの表情は硬い。 「とりあえず、あのなかにあるのは、遺髪の持ち主の心だと思っていい。正確には、本人のじゃないけれど」 「え? それって」 志織が問いかけようとした声は、みさきの制止の声で遮られた。志織が視線を中二階に戻すと、姫の人形の前に一体の人形が引きずり出されていくところだった。遠くて見えづらいが、房江のコレクションのひとつだったと志織は記憶している。 「さて、そなたらもそろそろ私とともに過ごさぬか」 拒絶の匂いが漂った。それは、引きずり出された人形のものだった。 姿はよく確認できないのに、姫がにっと笑ったような気がした。 「さよか。ならば要らぬ」 次の瞬間、天井から刀のようなものがいくつも降ってきた。志織は呼吸を忘れた。彼女の言葉を拒んだ人形は、一瞬にして無残な姿になっていた。それは、例えるなら処刑だった。気持ちが悪い。志織は眉をひそめた。 「そろいもそろって強情なこと。何が気にくわぬ。さて、次は誰かの」 姫の笑い声が響き、ガラスのなかに残った人形たちの緊張と反発が伝わってくる。昼間に調べたときに感じたあれは、志織たちに向けたものではなかった。姫の人形たちへのものだったとわかる。 志織はみさきを見る。やはりがたがたと震えている。小動物のようだった。いまにも吐くのではないかと心配になるほどだった。 どうすると小声で尋ねた志織に、みさきは行くと頷いて立ち上がった。まるで正義の味方のような後ろ姿だ。 みさきは息を細く吸って叫ぶ。 「それ以上は、やめなっしゃい!」 噛んだ。しかし、みさきはそんなこと気にできないほどに気が張っていた。慎重に一段一段階段を下りる。人形たちのむき出しの敵意が痛かった。 「なんじゃ。無礼な」 姫の声は怒気をはらむ。かたかたと人形が揺れる。みさきは自分を守るように霧風を構えた。 「いたずらに傷つけたり荒らすなって言ってるの……」 声がだんだんと細くなるのももうおなじみだ。ずんと空気が重くなり、頭痛を引き起こす。 「ここは私の城、私こそが主。主が臣を統べているだけのこと。何が悪い」 「勘違いしないで。あなたはここにいるべきじゃない」 その一言に、姫の人形から、ゆっくりと靄があがる。それは徐々に人の形をとり、はっきりとした女性の姿を映しだした。切れ長の目が特徴の、美しい女性だった。華麗な打ちかけを羽織っている。 姫の視線は射るようだった。みさきはとっさに一歩下がって志織と肩を並べる。 「この者どもこそ、手討ちにせねばの」 がちゃり、と音が鳴る。人形たちが一斉に志織とみさきのほうを向く。 「しぃちゃん」 みさきが前方を見たまま声をかける。 「私はあのお姫様に集中しても大丈夫?」 志織はしっかりと頷いた。それを確認したみさきは、霧風を振り上げながら迫っていった。 周囲の人形たちは、姫と同じように人の姿を出現させて、みさきに襲いかかる。そこを止めるのが志織の役割だった。 もちろん、志織は霊に対して自分からできることはない。けれど、身のこなしだけなら以前よりはましになっている。みさきにとっては、それだけで上出来らしい。 なるべく人形を傷つけたくない。彼らの動きを無効化させることに集中しようと志織は思った。ポケットからみさきにもらった札を取り出す。まずはそれを手当たりしだい人形に貼っていった。けっして人形の肌に直接つけないようにと大田からは口をすっぱくして言われている。もはや迫りくる人形への恐怖よりも、どうやって人形を傷めないかが脳内を占めていた。 志織には父の形見のほかに、祝家から預かったお守りを所持していた。それだけでいままでよりも心強かった。ネックレスを意識したときと同じで、守られている自信が彼女の度胸を増幅させていた。 力を失った人形は倒れていく。もともと数はあまり多くはない。志織は半数以上を片付けると、一度入口側の階段を下りて展示スペースへと回る。ケースのなかにはまだ人形がいる。姫の人形の敵味方関係なく、ガラス面にも札を貼る。志織の使命は、みさきが元凶の姫人形と対峙するのに集中できる環境を整えることである。 通路を回っていると、生き残りが追いかけてきた。それをさばきながら、遠慮なく壁にべたべたと札を付けてまわり、一周して中二階に戻ってきた。 みさきは、依然として姫とにらみあっていた。姫の周囲には、さきほどの刀が何本も浮いていた。みさきは例によって半泣きである。 お札がきかなかった人形をひきつれて、志織はみさきの背後へと回った。 「ここは私の城。誰が渡すものか」 姫の顔が歪み、肌は真っ赤になる。 「最後の最後まで私のもの」 姫が上げた手を瞬時に下ろす。その瞬間、刀はいっせいに襲いかかってきた。 「ぎゃあああああああっ!」 叫びながらも、みさきは一本二本と霧風で払い落とす。床や壁に当たると、刀はそのまま消えてしまった。 志織はみさきに近寄ろうとする霊に札をどんどん貼っていこうとするが、一瞬彼らの力が強まった。紙ひとつでは抑えられない。振るわれた腕で壁まで飛ばされた。 「し、しぃちゃん!」 うろたえたみさきが駆け寄ってこようとするのを見て、志織は怒鳴って制した。 「危ないから来ないで! 後ろ!」 みさきは立ち止まる。彼女の後方からまっすぐに伸びた刃がその頬をかすめた。 「うへえあっ!」 みさきはとっさに、第二撃を霧風で受け止める。甲高い音が室内に響く。姫が握った短刀に、みさきは防衛することしかできなかった。 「うあああ、剣道習っておけばよかった!」 なんとか刃から身を守っているみさきではあったが、明らかに姫のほうが優勢だった。志織は志織で、札が効かないとなると残りの人形たちから逃げることしかできなかった。 「渡さぬ、渡さぬ」 姫は呪いをかけるように、そればかりを呟いていた。鬼のような顔がすぐ近くにあることで、みさきの恐怖は頂点に達していた。しかし、ここで彼女に対抗できるのはやはり自分だけであり、志織には任せられなかった。 姫は打ちかけを脱いで間着だけになり、いっそう攻撃が早くなる。か弱さは欠片もない。刀の扱いに関しては、あきらかに向こうのほうが上だ。どこか洗練されていて、まるで舞っているようだった。 みさきは、相手の意識に集中する。姫の意識を探り、なにか情報を得ようとした。これも、志織にはできない、みさきだけの能力だった。 ふいに彼女の背後に火が現れた。血が見える。ゆらめく景色に、短刀を手にした姫の姿があった。その傍らには刀を携えた武士が立っている。二人の刃が炎にきらめいて――みさきは目を見開いた。 「も、もう、あなたの城はどこにもありません!」 姫の刀が止まる。みさきはつっかえながらも続けた。 「あなたは敗れたんです。もう城は……落ちました!」 姫はわなわなとふるえた。怒りが雷のように部屋のあちこちに放たれるようで、志織はぶるりと震えた。 「落ちぬ! 滅びぬ! 何をぬかすか!」 布を裂くような声だった。いっそう刀の振るう速度が上がった。みさきはますます追いやられる。それでも現実を知ってほしくて、負けないように叫んだ。 「ここはあなたが守ろうとしていた城でもないし、あなたが戦う理由ももうないんです」 みさきが語りかけるたびに、姫の怒気は膨れ上がっていく。しかし、同時に戸惑いもわきあがったのを志織もみさきも感じていた。 お札は残り少ない。自分にできるのここまでだと、志織は唇を噛んだ。ここで無力な自分がへたに介入しようものなら、ゴールデンウィークの二の舞だった。 その瞬間、呼ばれた気がした。みさきではない。志織は周囲を見渡す。ぼんやりと、ガラスケースの一角が光っていた。 出して。そう聞こえた。 志織はケースに駆け寄って、札をとっさにはがした。その瞬間、魂のようなものがガラスから抜け出して、中二階へと上がった。志織も慌ててそれを追いかける。 みさきが防衛に徹していると、急に姫の動きが止まった。まるで磔にされているかのごとき姿に、姫自身が戸惑っていた。その隙をみさきは見逃さなかった。躊躇いはあったが、姫の胸を正面から突いた。 花が散るように飛沫が飛ぶ。姫は目を大きく開き、口から血を流しながら倒れ、気配は飛散した。 志織とみさきは同時に、姫の人形本体があった場所に近寄った。そこには、房江の人形たちが姫の人形を取り囲むように落ちていた。 その後、みさきと志織は遠野たちを呼びに行った。さすがに深夜ということもあり、二人は眠そうだった。みさきは、説明はまた朝にするとして、まずは人形と展示室をすべて清めたいと願い出た。了承した遠野と青木が見ているなか、みさきは志織を助手として使いながら人形を一体一体清めていった。 すべて終わると、志織たちは用意された宿で泥のように眠った。夢をみることさえなかった。そして朝になり、迎えにきた遠野の車に乗せられ、博物館に戻った。圧迫されるような気配はもうすでに消えていた。 青木と遠野、そこに大田も加わった場で、みさきは説明をする。 「この人形の髪なんですけれど、お姫さまの……遺髪だと思います。江戸よりも前の時代ですね」 みさきは、姫の向こう側に見えた景色を思い出す。 「男の人たちと一緒に籠城したけれど勝てなかった。それで城が落ちたときに、髪を逃げた誰かに持たせて、自分は自害したようです。おそらく、この着物にくるんで渡したんじゃないかなって」 みさきの口調は、どことなくいつもよりも重々しかった。 「きっと、持たされた人はお姫さまを慕っていたのでしょうね。その死をしのぶために作られた人形だと思います。ただ、落城で死に追いやられたときの怒りや悲しみが移って、この人形の人格となったのでしょう」 黙って話を聞いていた青木は、ぽつりと呟く。 「そういえば、どうして母の人形ばかりが壊れたのかしら」 そう言われてみれば。志織もそれは疑問だった。 「お姫様の下につくかどうかだったと思います」 みさきはきっぱりと指摘した。青木や遠野がそろって驚いた顔をする。 「それはどういうこと?」 「お姫様が取り巻きに使っていた人形は、房江さんと縁のなかった人形ばかりでした。お姫様は城にこだわっていた。この博物館を、今度こそ自分の城として所有したかったのでしょう。けれど、房江さんたちの人形はそれを拒んだ。彼らは、ここが自分たちと亡き房江さんのために用意された場所だとわかっていたのだと思います」 みさきが言うには、姫が力を持ちながらも博物館を完全に支配できなかったのは、房江の人形たちの抵抗があったからだった。青木の手がわずかに震えた。みさきは続ける。 「壊されたのは、お姫様にとっては罰のつもりだったのでしょう。房江さんのお人形たちは、お姫様に乗っ取られないように抵抗していたみたいです。自分たちの場所を守ろうと」 志織は、昨夜の処刑のような場面を思い出し、苦い気持ちが心に広がった。あの様子は、ある意味滑稽かもしれない。けれども、なんとも言えぬ悲しみを感じてしまう。 「お姫様は強い力を持っていて、しかも生前の無念で自分の城を欲した。そして、房江さんのお人形がそれに反発してしまったのが、今回の騒動になってしまったのだと思いますよ」 青木は同情するような目で、人形を見つめる。みさきは、そんな彼女を励ますように笑顔を作った。 「でも、もう祓ってしまいました。これで普通の人形と変わらないでしょう。ただ、もしも気になるようでしたら神社かお寺に持っていくか、お焚きあげしてください。そのほうが後までひきずらないでしょうし」 もったいない、と声をあげたのは大田だった。遠野は逆に維持に気が乗らないようだった。両者は互いの主張を聞かなかった。意見が合わない二人に割って入ったのは、志織でもみさきでもなく、青木だった。 「あの、みさきさん? これはもう、何もないと考えてしまってもよろしいのかしら?」 みさきはきょとんとしながらも、肯定した。 「では、私が頂くというのはどうかしら?」 想像もしてなかった案に、その場にいた誰もがぽかんと口を開けた。青木は微笑して続ける。 「だってもうお祓いは済んでいるのでしょう? それで処分してしまうのはなんか気がひけるわ。それに、私が引き取れば、館の人もいやなことを思い出さなくていいと思うの」 「……まあ、角はたちませんかね?」 言いながら、みさきは志織に視線を送る。ここまでくれば、あとは館と青木の問題だ。志織は明確な解答を避けて、首をかしげるだけにした。 「一体だけなら、無精者の私でも大事にできると思うの。母みたいにね」 大田はまだ不満そうだったが、青木が自分の死後は博物館に寄贈すると言って押し切ってしまった。手続きがどうなるのかは高校生にはよくわからないが、彼らがどうにかするのだろうと自分を納得させた。 遠野と大田に見送られながら、志織たちは青木の運転する車に乗って博物館をあとにした。山に囲まれた町のなかを走る道中、青木はふと口を開いた。 「みさきさん、志織さん。母の人形を守ってくれてありがとう」 その顔は穏やかだった。 「あれは母が生きた証だから、失わなれなくてよかった。母はもういないけれど、人形がいれば母の思い出はずっと残していける」 駅につくと、ふっきれた顔で青木は二人に挨拶した。 「また来てちょうだいね。私も人形たちも歓迎するわ」 去っていく青木の車を見送りながら、改札までの階段を上がった。 来た電車に乗り、新幹線の通っている駅まで向かう。土地の感覚がないから、窓から見える景色のどこにあの博物館があるのかはもうわからなくなってしまった。 車窓から見える山は青く、夏らしさを感じさせる。志織はまた勉強漬けの受験生としての日常に戻るのが楽しみでもあり、少々気が重かった。 「いいところだね」 ぽつりとみさきは呟いた。 「また来る?」 志織が尋ねると、みさきは何も言わずに座り直す。しかし、ホリブルキャッスルのときとは違い、その表情は明るかった。 「ふわあああ」 電車に揺られ、二人同時にあくびをする。結局深夜まで起きていたのだから、座って電車に揺られていると、急に眠気が襲ってきた。 「しぃちゃん、着いたら起こしてね」 「ごめん、自信ない。降りるの終点だし、どうにかなるでしょ」 どちらが先だったかは明らかではないが、気づいたら二人とも眠りこけてしまった。その首筋を、真夏の陽光がガラス越しに照らしていた。 第三話へ 第五話へ 目次に戻る |