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エピローグ



「ここに住んでたんだ」
 志織はみさきを連れて、出立前にもう一度秋里を訪れてた。区画のはずれに、かつて志織が住んでいた家があった。彼女が祖父や父と一緒に暮らしていたころの家屋は既にない。いまは別の人間が別の家を建て直して住んでいる。それでも、周囲の家の並びはほとんどそのままで懐かしい。
 志織は土地の片隅に、ひょっこり伸びた木を見つけた。志織がいたころと段違いの高さだったが、間違いなく父と一緒に植えた柿だった。志織がいた頃に実をつけることはないままだったが、いまは色づいた果実をわずかに確認できた。
「ずっと取っておいてくれてたんだね、ここの人」
 みさきは敷地内に入らせてもらうかと提案してきたが、母が土地を譲った相手はさらに別の家族にこの家を貸しているとだけは聞いている。おそらく、現在の住人は志織たちのことを知らないだろうし、ここでいきなり訪ねても困ってしまうだろう。志織は首を横に振った。
 前を通り過ぎるだけ。志織は懐かしそうに柿の木を見やり俯く。幼稚園のときは、志織も父の影響で柿が大好物だった。もしも実がなったら一緒に食べるはずだったのに、父の死後になって綺麗な実がついたのは皮肉であった。
「柿、一緒に食べたかったなあ」
 志織がぼんやり思い出に浸っていると、いつの間にかみさきがぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。志織は首を傾げながらも彼女の視線をたどる。その先には柿の木があり――。
「あ」
 一人の男性が、木の頂点を見上げるようにして立っていた。そして、ゆっくりとこちらを向いて微笑む。
(お父さん……)
 まぎれもなく、志織の父だった。生きていたころのままの父だった。
 志織の頬を涙が伝う。まばたきするごとに、視界がにじんでいった。
 父が口を動かす。
(……おかえり)
 ああ、ずっと待っていてくれたのだ。志織は何度も頷く。
「ただいま。お父さん、ただいま」
 悲しいことを思い出すからと、蕗野にくることはなかった。けれど、父はずっとこの町にいたのだ。それを確信した志織は涙を拭うが、とても追いつかない。
 父はそこから動かなかった。けれど、成長した娘の姿に安堵するように笑いながら、笑顔で景色に溶けていった。
 志織はその場に座り込んでしまった。みさきが近寄って、彼女の背中を撫でる。
「あの、どうしたんですか?」
 二人そろってしゃがみ込んでいると、声をかけられた。見ると、品の良い女性が買い物袋を抱えながら覗きこんでいた。どうやら、渡辺家から土地を買った人間のようだ。
「あ、ごめんな、さい」
 まだ涙が止まらず、うまく言葉が出ない志織を代弁するように、みさきは簡単に志織の素性を説明した。婦人はそれを理解すると、家に引っ込み、ペットボトルと手提げ袋を持ってきた。
「そういうことなら持って行きなさい。いつも美味しく頂いているのだけれど、量が多くて食べきれないの」
 渡された実の色はあざやかだった。戸惑っていると、みさきは愛想よく礼を言った。それにつられる形で、志織も勢いよく頭を下げることができた。
 婦人とはほんのすこし立ち話をしてから別れた。少し重くなった荷物が嬉しかった。
「みさき、ありがとうね」
 駅にむかいながらそう呟くと、みさきはからっとした笑顔を返した。
「ううん。私もなんだか嬉しかったよ。しぃちゃんのお父さんにちゃんと会えたしね」
 なんだか暖かい日射しに包まれたような心地だった。志織は彼女の存在に感謝した。彼女と出会って約一年になるが、みさきがいなかったら自分はここにいなかったし、父と再会もできなかった。
「うちのお父さんも幽霊だったけど、怖くなかった?」
「まっさかー。しぃちゃんのお父さんが怖いわけないじゃんっ!」
「あはは。これでもう克服かな?」
 二人で笑いあっているうちに駅に到着し、改札を通ってホームに立つ。フェンスの向こうにある景色に、もう憂鬱は感じない。志織は懐かしさに浸りながら、帰宅後のことを考えていた。
「ね、しぃちゃん……」
 みさきが話しかけてくる。
「ん? ごめん、何? 聞いてなかった」
 みさきの顔色が悪い。真っ青だ。
「え、何? どうした?」
 みさきは手をすっと上げて、下り方面を指す。ひたすらまっすぐ延びている線路の彼方に、何かの影が見えた。ゆっくりとこちらに近づいている。
 それは、人に見えた。というのも、あまり原型を留めていない。かろうじてつながっている手足を動かし、バランス悪いのか、壊れたおもちゃのようにがくがくと躓きつつ進んでくる。どう考えても、生きた人間ではない。
「ぎゃあああああああっ、出たあああああああああああああああ!」
 ホーム上にいるのは自分たちだけとはいえ、人目もはばからず、みさきは叫ぶ。志織は、そんなお馴染みのみさきの叫びに苦笑しながら、彼女の肩を軽く叩いた。




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