第一章 亡霊は放たれた





「ああ、あれが先発隊ですね。将軍たちは、早ければ今週には着くそうですよ」
 四角く切り取られた窓を開け放ち、はるか遠くに引かれた水平線を見つめながら、コリンは明朗な声で言った。仕事が早い彼は、私の言いつけた課題を全て終わらせ、その五割増の量が与えられたライアが終わるのをのんびり待っていた。
 彼らは、常に私の研究室に入り浸っていた。別に他に部屋はあったのだが、やれ何やかんやと理由をつけては、彼らは「次室」にあがりこみ、私物までも持ちこんでいた。彼ら専用の茶器まで持ちこんだときは、さすがに何か言った方がいいのかと思ったが、自分の主張を通せる期間はとうに過ぎてしまったので放っておいた。
 ライアは魔法記号の教本――本といっても今のような立派なものではないが、それに栞を挟んで閉じると、猫のように大きく伸びをした。そして、自他共に認める相棒の肩ごしに青い海に眼をやって、ぽつりと呟いた。
「長かったわね」
 いつも快活なその唇から洩れたのは、珍しく感情のない響きだった。彼女はエアトンに来る前、シェスカ大陸のあちこちを歩き回りながら芸を磨いていた。戦乱の最中、小競り合いにも何度か巻き込まれたそうだから、私たちのように他人事ではない。その時点でもう複雑な心境にあったのだろう。それでも、私の視線に応えるようにいつもの笑顔を作った。
「次はお祭りですね。もう半月切っているなんて早いわ。エアトンのお祭りは初めてだから、今から楽しみです」
「僕も。いつも土産話ばかりだったから、今度は僕が都の友人に自慢する番です」
 エアトンは、首都のような堅苦しさのない陽気で、軍のお膝元とは思えないほど気楽な町だった。何かと騒ぐのが好きな連中ばかりだったよ。海の精霊の力が強くなると言われる五日間は、それこそ魔法にかけられたかのように騒ぐ。その雰囲気が人気なのか、祭りは他の町からも多くの人々が訪れる、国のなかでも指 折りの盛大な行事だった。工房は町はずれの高い丘の上に立っているから静かなものだったが。
 街が騒がしくなるこの祝日の前後は依頼をほとんど受けず、工房は唯一の長い休暇に入る。そのため、仕事が一区切りついたほとんどの弟子は帰郷する。それ以外の者も、余所に発注していた素材や加工の様子を見るため、しばらく他の工房に泊まりこんでいたりした。残っていたのは、ここ以外に住まいがない私とライア、父親がこちらにやってくるというコリンだけだった。毎年、この時期に工房に常駐しているのはカネル師と私の二人きりだったが、あの年はいつになく賑やかだった。
「ねえ、兄さん。当日はどこに行きましょうか?」
 この「兄さん」というのは、この二人だけが呼ぶ私のあだ名だ。ライア曰く、芸人の世界では、実の兄だけでなく兄弟子もこう呼ぶのだとか。それをコリンが面白がって真似するようになって、二人のなかでのみ定着した。こんな呼び名、私は照れくさかったが、二人がかわいかったのでそう呼ばれることにしたのだ。
「町の子に聞いたんですけれど、真珠のケーキは朝一番で並ばないと売り切れてしまうらしいですよ」
「そうそう。僕は、港のカモメ亭で一級コースを食べたいな。あれを食べないと祭りは終わらないってくらい美味しいんですって」
 普段の工房に休みなんてあってないようなものだから、初めてのまともな休日に二人は心を躍らせていた。もちろん、居残り組には煩雑な雑用が義務となっているのだが。祭りの計画を次々と口に出す彼らに私は頬を緩めつつ、苦い気持ちになった。
「俺は祭りに参加しない主義だ。二人で楽しんでおいで」
 ライアもコリンもそろって不満の声をあげた。それはそれは、きれいな和音だった。そして、私の衣服を両側から引っ張った。
「行きましょうよー。兄さんも一緒じゃないと嫌です」
「僕らは初めてなんです。案内してくださいよー」
 この二人は、育った環境も立場もまったく異なるというのに、とても息が合った。前世はきっと双子だったのだろうと思えるほどだ。そうやって、いつも二人で私に好き放題言うのだった。
「案内はできないよ。俺、一回も行ったことないから」
 かわいい妹弟子と弟弟子は示し合わせたかのように、そっくりの驚愕の表情を返事代わりに寄こしてきた。今思えば、とても愉快な光景だった。しばらく固まっていた彼らは、すぐに叫ぶような大声でまくし立てた。
「どういうことですか? アールヴどころか大陸の三大祭りですよ?」
「そうらしいな」
「このエアトンに長らく住んでいながら、何てこと! まったく、信じられない」
「信じなくてもいいが、真実だ」
「引きこもりはいいかげんやめましょうよー。そんなんだから色白なんですよー」
「はいはい、これは生まれつきだ」
「もったいない! そんなの、パンを一口かじって捨てるのと一緒ですよ!」
「はいはい、もったないね」
「兄さん!」
 最後の言葉が見事に重なったので、私は思わず吹き出してしまった。いきり立つ彼らの頭を撫でつつ、私は諭すように言った。
「俺はこれでいいんだ。気にしないで行ってくればいい」
 ライアが私にしがみついた。この子は旅芸人での経験のせいか大変力が強かったので、ふりほどくのは大変な労力がいる。大抵、それが面倒なので本人が離れるまで待つのだった。
「兄弟子は、下の弟子の面倒をしっかり見るものです」
 まるで小動物のような目で見上げてきたが、感情に流されることなくその小さな額を叩いてやった。
「旅芸人の世界のルールは、俺には通用しないよ。言っておくが、そうするとお前らも後輩にちゃんとおごるんだぞ」
 二人の手はすぐに離れた。軽くなった腕は涼しく、私は力なく窓辺を見やった。私からは遠い世界がそこにあった。もしも世界に魔法が存在しなかったら、私もあの中で笑っていただろうか。ありえない想像をし、我ながら自嘲した。
 私から離れたものの、彼らは幼子のように頬を膨らませ、ぶつぶつと不満をもらしていた。私が適当にあしらっているなか、聞こえる笑い声が余分に一つ。戸を見やると、カネル師が気配もなく立っていた。この人はいつもこうで、心臓に悪かった。何百年も生きているにしてはかなり子供っぽい人だから、驚かせるのが好きだったのかもしれない。
「ずいぶん楽しそうだね、次室」
「先生。現れるときは、せめて煙でも伴って現れてください。びっくりするでしょう」
 師は肩をすくめた。
「おや、私はずっとここにいたよ。君も鈍くなったね。後輩にからかわれたくらいで心を乱すなんて、まだまだ修行が足りない」
「師匠の指導が至らなかったんでしょう」
 カネル師は一瞬止まり、笑いを押し殺しながら「降参」というように両手をあげた。
「すまない。確かに、その通りだ。でも何年もここに居座っておきながら、私にこれ以上何を教えろと?」
 その直前に修行が足りないと言ったのはどの口だ。そう指摘したかったものの、あとが怖いので私は黙っていた。そんな私の心を無視して、師は慌てて勉強に戻るふりをする新弟子たちに微笑みかけた。
「コリン、ライア。今日は温室に入った気配がないけれど」
 二人は一斉に立ち上がり、苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。他人で遊んでばかりいるからだ、と私は呟いた。ほとんどは商人から仕入れるのだが、 工房でもいくらかの薬草を育てていて、それを世話するのは下っ端の弟子の役目だった。無論、この場合はコリンとライアだな。
「すみません、今やります」
「兄さんも手伝わせますのですぐに終わらせます」
「駄目だ。決まりは決まり。ほら、行きなさい。雑に扱うとグレンに怒られるぞ」
 私に悪態をつきながら、かわいかったはずの後輩たちは階下へ向かった。嵐がおさまったような静けさのなかに、私と師だけが残された。楽しそうな吐息まじりでカネル師は笑った。
「うまくやっているようで何よりだよ」
「困りますよ。俺だっていろいろ抱えている身です。あんなの二人も押し付けられちゃ、おちおち研究もできない」
 カネル師はこちらの心を探るような目で見てきた。こういうとき、少し心臓が痛む気持ちになる。とくに理由はないのだがな。
「そうかい。君はとても楽しそうに見えるけどね。どうだ、頼られるのもいいものだろう」
「嫌味ですか」
 やや口調を強めると、まさかとカネル師は穏やかに首を横に振った。長い髪は、絹の布を思い起こさせるように滑らかに軌跡を描いた。
「君があまりにも他人を遠ざけるからね。教えるのも学びの一環だ」
 別に私が後輩の世話をするのはコリン・ライアが初めてではないが、たいした交流もないまま事務的な指導で終わってしまった。気がついたらそいつは一人前になり、故郷に工房を構えると独立してしまった。まあ、優秀だったのでどうにか生きただろう。
 私には独立しようとかいう目標も何もなかったのでただ居座っていた。古株になった結果が、次室というわけだ。そのころになると、私は外の人間とはほとん ど接触しなかったし、他の弟子とも仲良くなる気がなかった。心は孤独ではなかったが、客観的に見れば寂しい人生だったかもしれない。
「遠ざけるのはしかたのないことです。俺は、あの中に入ってはいけない人間なんですよ」
 眼下に広がる町並みは、掌に収まりそうなのに遠いものだった。私との間に、地の底まで続く溝をつくり、その向こうで燦然と輝いている世界。私は、そこに加わる気持ちが持てなかった。こんな存在が入れば、たちまち傷がついて光を失う気がしたのだ。
 人々が幸福に暮らす場所。そこに醜い感情が入るのは許されず、その調和に自分が入ることで、混沌を作りだすことへの恐れがあった。窓から見える、絵のように美しい風景。触れずにいればいつまでも綺麗だと思っていたのかもしれないな。棘のある薔薇のように。
「たとえそうでも私は悔しいよ。君が、この世界をまだまだ知らずに終わってしまうなんて、寂しいし悲しいんだ」
「先生が心を痛める必要はありません。俺ですらどうにもならないんですから」
 首を傾げながらにこやかに告げると、師は苦笑しながら何か言いたそうに私を見つめた。この人はたいてい心に一物隠してあり、弟子にはめったに打ち明けない人だった。私も、自分のことをあえて理解してもらうつもりもなかった。お互い、腹の探り合いだった。
「昔の君は、今ほど外に恐れをなしていなかったはずだ。むしろ、世界に希望を夢見ていた」
 胃のあたりが苦しくなった。思わず視線をそらしてしまう。私の声は震えていた。
「あのころの俺は無知で無自覚だったからですよ。だいたい、先生ほどの方が何故そう仰るんです。あなたなら、俺が外に出ることの意味がおわかりでしょうに」
「ああ、わかるとも」
 はっきりした言葉だった。私がうつむいていた顔をあげると、すぐに目が合った。
「君が案じているようなことは何も起きないとね」
 そうは言われても、どうしようもないことだったのだ。私と世界が真に幸せでありつづけるなら、外に出ないか死ぬしかない。そう思っていた。
「まるでこの部屋は結界だね」
 ぽつりと呟いた師は、私の部屋を見渡した。何年もの工房生活でため込んだ魔法の書物や道具が所狭しと並んでいた。部屋は主の鏡だな。この部屋も、見渡 してみるとなんとなくお前の人柄がわかるよ。少なくとも、当時の私の部屋は、私の人生そのものだった。今でも、あれは鮮明に思い浮かぶ。私が一生の墓所として決めた場なのだから。幸か不幸か、それは叶わなかったわけだけれども。
「人間は人間である限り、運命があるものだ。空を飛べない定め、海の深くまで行けない定め、邪に抗えない定め。魔法はそれを打ち破る力なのに、どうして君はあえて繭に包まれる道を選ぶ」
「どうしてでしょうね」
 私はわざと突き放したような言いかたをした。
「確かに、創造主が人間という存在を造ったとするなら、俺たちはその枠組みのなかでしか生きられない。魔法はそれに対抗する唯一の手段。魅力的だと思うのは事実ですよ。でもね、先生。俺は、人間のあるべき姿をもって生きるために魔法を学んでいるんです。その選択のひとつが、世界との交わりを断つことなんです」
 カネル師の追憶するような瞳の動き。私の向こうに、あの人は何を見ていたのだろうか。いろいろあったものの、結局のところ師は誰よりもこの世界や自分の出会ったものを愛していただろうから、私がそれを拒むというのは寂しかったのだろう。それでも、私は拒絶せずにはいられなかった。
「傷つけ合うことがわかっておきながら、どうして触れることができましょう。今の俺は、他人と関わってはいけないんです。悲しみや苦しみを生むくらいなら、このままここで朽ちるべきなんだ」
「私は、それまでずっと君を見張っていればいいのかい」
 鋭い言葉の発し方だった。カネル師は、普段は穏やかなお人柄だったが、時折こういうことを言う。言葉に魔力を少し乗せるだけで、たいていの人間は固まってしまう。私も、そうだった。さらに師は続けた。
「君は、私となら傷つけ合っても構わないと言うのかい」
 喉がやけにひりついた。いつの間にか、背中や手が汗で濡れていた。私は、渾身の力で重圧を撥ね返す。
「構わないわけではありませんが、先生なら大丈夫ですから」
 力が一気に抜けた感じがした。師は肩をすくめ、困ったように笑った。
「何だい、それは。まるで私が人外みたいじゃないか」
 と言われても、ラーディラスに代表されるようなある種の少数民族は、一般の者よりも魔力に恵まれて不可思議な現象を引き起こす。ラーディラスは、他が束になってもかまわないほどの魔力で、ほとんどの不可能が可能になる。たとえば、その長命だな。これは一族全体にかけられた魔法のようなもので、一般人とは 比べ物にならないほどの時の流れの違いがあった。一族全体で共有している魔法というのが、一般人との差だ。それを考えると、ラーディラスに限ったことではないが、彼らは人とは多少異なる存在と言っていいだろう。
「君がどう思おうと、私たちも人間だよ」
 悲しそうにカネル師が掠れ声でつぶやくと、いたたまれない気分になった。しかし、何かこちらが言葉をかける前にあちらが口を開いた。
「まあ、信頼の証として受け取っておくよ。君も、ちょっとは変わったようだから」
 と言いながら、ライアの勉強道具を長い指で叩いた。私は他の弟子たちと極力関わらないようにしており、後輩の指導もほとんど断っていたのに、いきなり強制的に二人の指導を押しつけられたのだ。適当にこなして、さっさと一人前になったら突き放せばよかったのだが、特にライアはどうも放っておけなかった。
 慣れない魔法の勉強は、誰かの協力なしでは不可能だった。彼女が自立するには私が指導をしなければ仕方がない。やる気はあった彼女は、とにかく朝も夜も 質問攻めだ。最初は最も短い言葉で済むように努めたが、それでは納得せずに延々と話しこむ。三日も四日も徹夜に付き合わされたときはさすがにきつかったが、何度もやっているうちに慣れた。
 そうすると、もう一人のコリンに対しても無視するわけにはいかない。二人同時に面倒を見ているのに、彼だけ突き放せるほど私は器用ではなかったのだ。心に凝り固まった澱がありつつも、私は自分が想像していた以上に彼らと頻繁に接するようになってしまった。彼らは人好きな性格で、なぜかこんな私にも懐いた。そうこうしているうちに、私たちは三人一組で扱われる羽目になってしまった。
「こんなはずではなかったのですがね。先生、これを狙って俺にあの二人をつけたんですか?」
「どう推測しようが、君の勝手さ」
 涼しげな笑顔で、そうやってはぐらかす。ふと、師の眼が猫のように細まった。
「君も、入った当初は相当なものだったよ? 私の傍を離れなくて」
 そこを突かれるのは、少し痛かった。
「……先輩たちをだいぶ敵に回しましたね。俺もあの子みたいなものでしたから」
「それを思うと、君も変わったね」
 笑い合って、ふと感じた郷愁に似た思い。その瞬間、あの部屋は過去も未来も全てが満ちていたとさえ思えるような錯覚にとらわれたのだ。私は、不幸であり幸福であった。
「変わりませんよ。先生と二人でいると、いつだってあの頃のままです」
 ラーディラスの民というのは大変な長命で、人間の百倍は生きるといわれている。ラーディラスよりも記録に残す人間の方が早く死んでしまうので実際はわからない。
 師は容姿も人間の目からするとほとんど変化なく、その頃はもう数百年は生きていたはずなのに、私よりもいくらか年下というような容姿だった。ラーディラス特有の銀髪と不思議な色の瞳がそう見せていたのかもしれない。なので、師と接すれば接するほど私は時を忘れやすくなっていた。
 そう言ってみると師は微笑した。
「そうかい? 君は随分大きくなった気がするけどね。私は、君がこんなに小さなころから知っているんだから」
 師は、親指と人差し指をほとんどくっつけた状態で私に示した。大げさだが間違ってもいない。師は私のことなら何でも知っているのだ。
「いえ、変わりません。その証拠に」
 私は窓に手をついて、外の景色を眺めた。楽しそうな祭の準備の様子で溢れている。少し調律のおかしい楽器の音が微かに聞こえてきた。
 眩しい光に目が痛み、細めた。昼の太陽は世界を真っ白に塗りつぶす。まるで、世界が無であるかのように。そこに立っている私ですら幻であるかのように。 いや、きっと私は亡霊と大差なかっただろう。小さな部屋に自ら囚われた愚かな亡霊。誰にも知られず気づかれず、ひっそりと朽ちていくような。
「これだけ先生から言われても、俺はまだ外の世界を恐れている。多分、これからも一生、俺は工房から出ることなく暮らすのでしょう」
「怖いかい、世界は」
 淡々とした口調でカネル師は尋ねた。私は、煌く世界へ向かって宣言するように答えた。
「怖いですよ。本当は工房にいても怖い。正直に言うと、俺はもう、魔法と先生さえ存在すればいいんです」
 カネル師は、銀髪からあの不思議な色の瞳をまっすぐにこちらへ向けてきた。私は、千年経った今でもあの瞳が大好きだ。
「そりゃあ、私よりも君の方が早く死ぬから好きなだけこの工房にはいられるけどね」
 そう言いながらカネル師も並んで、二人で栽培小屋の更に向こう、町の様子を見る。窓を開けているので、丘を上ってくる楽団の演奏が聞こえた。少し聞き入っていると、ただ遠くを見ていた師が口を開いた。
「本音を言うとね、やはり私は君にもっと広い世界を見てほしいと思うよ。この町、この国だけが世界の全てと片づけられたくない。私だって、ここに腰を落ちつけたのはほんの数十年前のことだ」
 その言葉を聞いて、私は苦笑いを浮かべた。
「規模が違います」
「君が生まれる少し前だよ。それまでは都にいて、その前は世界中を巡っていた。最初は私も故郷から出ずに一生を送ると思っていた。君と同じで外が怖くて、中に喜びが足りていたから。しかし、外に出てわかったことはたくさんある」
「それは?」
 師は年に似合わず、外見に相応しく少年っぽい笑みを浮かべた。
「教えない。それを知るために外へ出るんだよ。世界が君を変え、君が世界を変えるんだ」
「世界を、ですか」
 私は苦々しく笑った。
 窓枠に収まった四角い景色。工房と丘と町と海。それが私にとっては世界の全てであり、私が受け入れる唯一のものだった。それは、ある種の永遠である。他は拒んだと言ってもいい。いや、世界が私を拒んだのだろうか。とにかく私は世界を恐れていた。常に、両手に余るだけしかない世界と、その向こうに限りなく広がる世界の両方を。
「今度二人でハロルドに会いに行かないか。彼も戦乱で大変だったろうから。すぐ近くだし、簡単に行けるよ」
「今さらどんな顔で会えって言うんですか」
 私は皮肉っぽく続けた。心が痛むのを感じながらの発言は、自らの喉を掻っ切ってしまいたくなる衝動を引き起こした。
「近くだというなら、お一人で行ってください。それに、世界を広げても俺は何も変わりませんよ。俺が世界を変えることが出来ないようにね」
「……自分はいらない存在だと思うかい」
 師はいつだって痛いところを平気で突く。下手に付き合いが長い分、私の弱い部分もこの人は知っている。それも、長く生きた者に備わる能力だったのかな。
「思いますよ。俺は世間から見捨てられた子供ですから」
「少なくとも、私とハロルドは、君を見捨てはしない」
 力強い調子でそう言ってくれたものの、私の心は解放されなかった。同時に、揺らぎもした。私は動揺を隠すために、わざと作り笑いをした。
「事実、俺が外に出ないことで何か影響でも?」
「そうだなあ。いつまでも次室が空かないことかな」
 カネル師は私の部屋を見渡した。その部屋も私のものとなってから久しくなった。私の都合のいいように改装していたから、師には随分な変化に見えたかもしれない。ただし、カネル師の部屋との通用口はそのままにしてある。用があるときに開かないと怒るからな。
「いつまでもここにいたんじゃ、他の弟子の邪魔になるよ」
「では、ここの隅に自分の工房を作って暮らします」
 カネル師はその日一番の溜め息をつきながら肩をすくめた。
「頑固だね、君は。……誰に似たんだか」
「師匠ですよ」
 すかさず言ってやると、一瞬目を丸くした師は、優しく笑った。そして、栽培小屋から出てきたライアとコリンを見つめて手を振る。二人も大きく手を振り返し、道具を片づけに倉庫へと向かう。その背を見ながらカネル師は言った。
「私は、やはり君にいろんなことを知ってほしい。でも、君が出ない理由を知らぬわけではない」
「知らないふりはお得意ですか、先生は」
 遠い町を見つめながら、師は悲しそうな眼をした。痛いところを突き合うのはお互いさまだ。そうでもしていないと、この人の相手はできない。
「君は、自分が生まれたこの世界を放棄して、平穏を手に入れた。ここにいれば永遠に崩れないだろう平和をね」
「俺の記憶も俺の存在も、この工房の中だけです。それ以外を知るのはあなただけであってほしい。世界が俺を知らなくても、ここの他に俺がいた記憶なんてなくても構わない」
 私は師に依存し、師のそばにいることでしか自分という存在を確かめることができなくなってしまったかもしれない。外に出ても出なくても、きっと自分という人間は存在しないのだから。外に出ないことと他人に知られないこと、どちらが先かは忘れてしまったが、悪循環であった。
「外は、君を傷つけるだけの場所なのだろうか」
 師がふとそんなことを言った。否定することすらも私は怯えて、返答に困った。このころは、自分は傷つくことばかりに怯えていた。むしろ傷つける存在であったことに気づくのは、もっと後になってからであったが。
「世界に希望はありますか?」
 コリンとライアが全ての作業を追え、何かを声を張り上げて言いながら戻ってくる。師匠は話をはぐらかして返答を見送った。てっきり、「あるよ」と即答するかと思ったのだが。
「他人が怖くて、触れ合うことに怯えていた君だけど、あの二人は?」
「……怖いと思わせるタマですか、あいつらが」
「そうだね」
 コリンがライアに何か言ったらしく、ライアは彼の首に手をかけていた。まあ、よくあることだった。我々は思わず苦笑した。
「彼らは君にとってかけがえのないものとなるよ。大切にしなさい」
 確かにそうかもしれない。その言葉を聞くと何故かほっとした。どうした、とカネル師が覗き込んできた。
「まだまだ学ぶべきことはたくさんあります。それが終わらない限りは、俺はここにいようと思います」
 カネル師は両肩をすくめて、呆れた笑顔を浮かべた。
「私が教えられないことのほうを数えた方が早いかな」
 ライアとコリンがこちらに向かってくる足音が聞こえる。騒々しいことこの上ないが、そのときは私たち以外誰もいなかったので咎めることもない。
「じゃあ、久しぶりに言い付けをしよう。外へ出なさい」
 あまりこういう言い方は好きではないと付け加えながら、カネル師は言った。その横顔は、師のものとは思えない別人のような雰囲気を漂わせていた。いつもどこか不思議な人ではあったが、長い付き合いの私も見たことのない様子だった。
「君が知らなくて、私がまだ教えていないこと。帰ってきたらわかるだろう」
「でも」
 師は、私の肩に手を置き、まっすぐ視線を合わせてきた。
「どんな結果でもね、ないよりあるほうがいいんだよ。大切なのは、一歩踏み出すこと。たとえ君がどんな間違いをおかしても、私は君を拒まない」
 開け放した窓から心地よい風が吹き込んできて、カネル師の髪を揺らした。水平線の向こうからやってくる船の影が徐々に濃くなるのを私たちは見つめていた。あの先には、戦を終えたばかりのシェスカがあった。
「まずはもっと広い風を浴びなさい。たまに換気しないと、君の人生腐ってしまうよ」
 その言葉の前半に比べて、後半はやけに軽い調子だった。私は思わず苦笑した。
「とっくに腐ってますよ」
「いいや、今が一番いい時期だ。果実だって、腐る直前が一番美味しいものじゃないの」
 何を言っているんだ、この人は。呆れつつも何か言い返そうとしたとたん、突然大声がし、廊下が一気に賑やかになった。師と目を見合わせていると扉が開き、二人が息を切らせて駆け込んできた。また何か口論があったようで、二人とも口を膨らませていた。思わず、カネル師と一緒に笑ってし まった。
「なんだい、二人とも」
 揃って、コリンがライアがと言う。喧嘩するほど仲がいいとはこのころから使い古された言葉であるが、私はついつい微笑ましく彼らを見てしまう。それは、師も同じだっただろう。年々、この人は若者に甘くなっていて、弟子というよりも孫のような接し方だった。無論、年齢差で言えば孫でも済まないのだが。
「まあまあ。次室がね、祭りに連れていってくれるそうだから機嫌を直して」
 二人揃って笑顔になるのがかわいかった。こんなに素直に感情を表に出す人間は、なかなかいない。だからこそ、私は怯えつつも、彼らという新しい存在を受け入れたのかもしれない。こんな私のことを一度も奇妙な目で見ることがないこの二人を。いや、最初は多少意思疎通が難しかったかもしれないが。
 だらだらと考え事をしていると、期待に満ちた四つの眼が私に向けられた。ついでに、様子を窺うような金色の瞳も。多少、直前のやり取りで気が緩んだ とはいえ、私にはためらいがあった。そのとき、確か十年以上もまともに工房の外に出ていなかったし、出入りの職人や商人以外の余所の人間との付き合いもなかった。壁で囲った小さな世界に満たされ、誰かと心を通わすのを避けていた。そんな人間が、今更何をすればいいのやら。
 開けたままの窓から、突風が吹いた。自分用に広げていた冊子がぱらぱらとめくられる。温かくも冷たくもある風は、時に心地よさを、時に厳しさをこの部屋にもたらす。世界に苦しみがあるのなら、その分だけ幸福も存在するのだろうか。自分にも、それを分けてもらう権利はあるだろうか。
 世界と傷つけ合うことが怖かった。自分は異物で、完全なる存在を歪にするだけの存在であると信じていた。私が表に出なければ、平和が保たれるのだと。
「たとえ君がどんな間違いをおかしても、私は君を拒まない」
 カネル師はそう言った。信じてもいいのだろうか。師を見ると、何を考えているのかわからない笑顔だった。この後の全てをわかっているような表情。人間はな、帰る場所さえあればどんな遠くに行っても心強いものだ。見えない力で背中を押された気がして、私は思わず頷いてしまった。
「仕方ないな。ただし、おごりはほどほどに」
 声が震えた。たったそれだけの言葉なのに、心臓と胃が痛くてたまらなかった。かわいい年少者たちは火がついたような喜びで、それには気づいていないようだったが。
「先生、先生もお祭り行きますよね?」
 ライアの問いかけに、嬉しそうなカネル師は軽く手を振って否定した。
「いや、年寄りだからね。人ごみももうきついさ。外出せずにのんびり過ごすよ」
 人には出ていけ出ていけと言うくせに。私は、自分の心を隠すように師をからかった。
「そうですね、腰にきたら大変ですものね」
 カネル師は私の頭を少し本気で叩いた。いつも子どもぶって、身の回りの世話をやらせていたくせに。
「私はいいから、若者は楽しんでおいで」
 その年寄りくさい台詞が全く容姿に似合わないので、私たちは大いに笑った。それは、幸福だったあのころを締めくくるのにふさわしいものだった。





2008/10/26


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