第一章 亡霊は放たれた





 祭りから数えること……すまない、細かい数字は忘れた。おそらく、五日ほど前だったと思う。祭りには間に合わないかもしれないと思われていたシェスカへの遠征軍本隊は無事、群衆の大歓声に迎えられた。工房の丘は若干遠いのだが、街全体を見渡すにはなかなかいい場所だった。コリンとライアはいつもどおり、工房二階の街側にある私の部屋に居座って、景色を眺めていた。
 道に人がごった返して、祭りのときのように人間の頭頂部が町の隙間という隙間に詰めこまれていた。ああ、私もあの中に入るのか。ただそれだけ、当たり前のことではあるのだが、私には人生の分岐点に立ったような心境であった。それでも、二人が機嫌よく課題を片づけるようになったのは喜ばしく、私に当日の計画を楽しそうに話してくれることは嬉しかったのだが。
「軍隊が海を渡るって変な感じね」
「君はシェスカの方が長いものな。シェスカには海を渡っての遠征はほとんどないけど、アールヴだと珍しくないよ」
「そりゃあ、造船も発達するわね」
 我らがアールヴは、シェスカに隣接した弓型の大陸グランリージの端にあるが、他国との境目は険しい山で当時は足を踏み入れることもままならず、海経由で国外とやりとりをしていた。そのため港が発達し、交易も盛んに行っていた。軍隊についても、海での戦いの方が得意だったのではないだろうか。エアトンは条件のいい位置に築かれた、軍事と航海の要だった。
「コリンのお友達は?」
 ライアは自前の遠眼鏡を使って、列を覗き込んでいた。道具に遠くのものを映す呪文が刻みこんであって、こういうものを正確に美しく彫るのがあいつの特技だったのだよ。魔法の文言や理論への理解は今一つだったが、細かい解説さえ与えられたら、どれもすばらしい仕上がりだった。
「よくわからないけど、おそらく将軍のおそばにいるはずだよ。黒髪で少し小柄な感じの人、見えない?」
 コリンも自分で作った遠眼鏡をしきりに覗き込む。彼らに課題を同時に与えていたので、そのようなお揃いの修業の成果はたくさんあった。そのほとんどが、なぜか彼らの寝室ではなく私の仕事部屋にあったのだが。
 アールヴがシェスカに参戦したのは戦争後期であったが、ひとつ大きな戦に臨み、不利だったところを形勢逆転させて勝利に貢献した。しかも、その立役者が まだ子どもといってよいくらい若い士官であり、コリンの友人だというから驚いた。おかげで、シェスカへ国威を示すことができたと世間は浮かれていたようだ。当時から既にシェスカが世界の中心であり、規模で言ったらさほど劣っていないものの、アールヴは田舎者扱いだからな。ずいぶん喜ばれただろう。
 コリンは自分のことのように嬉しそうで、大通りの真ん中にひかれた軍隊の線を辿っていた。
「下に降りて見に行ったらどうだ。せっかくの晴れ姿だろう」
「いいんですよ。見に行っても、おそらくあいつは気づかないでしょうから。それに、砦で式典があります。父も出席するのでそれに紛れて会おうと思っています」
 ずいぶん軽い感じで言った。そういうところに、彼の育ちを感じた。
 この数日後の式典では、今回功績を残した者に勲章が授与される。実を言えば、それは我が工房の作であった。カネル師の過去を考えると引き受けない方がよかった気もするが、少々事情が複雑なんでな。勲章を作るとなると人手がかかるものだが、長期休暇に入る前にあらかた完成してしまったし、あとは責任者で ある私が納品日までに最後の確認をしてしまうだけだったのでたいしたことはなかった。
「みんなが作った勲章の晴れ姿、ちゃんと見届けてね」
「さすがに、部外者は式典には参加できないよ。まあ、屋外の広場でやるそうだから、もしかしたら高いところから覗けるかもしれないな。ライア、君のを貸してくれよ。僕のじゃいまいち細かいところの焦点が合わないんだ」
 窓際で騒いでいた二人だったが、ふと動きが止まった。どうした、と尋ねながら私もそばに立つと、工房に至る丘の道を馬車が上ってくるのが見えた。当時でも特に位の高い人間が乗るようなものの出現に、私とライアは顔を見合わせた。
「軍の方が取りにいらっしゃるのは、今日でしたか?」
「いや、聞いていた日にちはまだ先で」
 工房にやってくるのは、仕入れを任せている商人や、下職を頼んでいる別の工房の人間ばかりであった。無論、彼らの中にも富裕な人間はいたが、それでもこれほどの乗り物を所有するような人間はいなかった。となると、残る可能性は依頼主なのだが、その時期にやってくる依頼主といって思いつくのは、件の軍の者だ。勲章はいつでも渡せるような状態にしてあったが、渡すのはまだ先と油断していた私は少し焦った。
「父です」
 呆けたように呟くコリンに我々は目を丸くした。しかし、誰よりも一番驚いていたのは彼だった。車は工房の入口のところに停まると、一人の男性を降ろした。簡素な装いだったが立派な風貌で、窓から呆然と見ている我々に一礼をした。ライアは私とコリンを交互に見つめ、階下へ走った。それにコリンが続き、我に返った私がそのあとをのんびりと追った。
 一階の応接間に通して、ライアはお出しする飲み物を注ぎに行った。残された私とコリンは、コリンの父レイフォード氏と向かい合って座った。さすが王の懐刀として名高い人物だけあって、堂々とした佇まい。私はただ気おくれした。こういうときは他の弟子に対応を頼むのだが、あいにくいなかった。まさかコリンとライアに任せるわけにもいかないので、私が工房の代表として依頼されていた品を渡した。
「すみませんね、急にお訪ねして」
 突然の来訪そのものよりも、コリンの父が来ることの方が予想もしなかった事態だ。確か、帰還した軍隊の式典に出席するためにやってきたと言うが、大臣ほどの人物がこのような小間使いをするためにわざわざ動くわけがない。けれども、それは口に出せなかった。
 レイフォード氏は、私が箱から出して見せた品をしげしげと眺めて確認すると、頷いた。
「はい、確かに。素晴らしい出来ですな。工房の慣習を曲げてお願いしたというのに、これほどまで仕上げていただき、感謝いたします」
 宮廷では、王家の次に権力のある人物であった。まるでミラルカの家と……ああ、これについては別の機会に話そう。とにかく、身分が高い者にしてはありえないほど丁寧な礼を言われて、私は拍子抜けしてしまった。というよりも返事に困った。
「お気遣い頂く必要のないことです。師の気まぐれで設けられた休みですし、毎年、人は残っておりますので」
 声が震えた。外の人間とは決まった話題以外の会話は、碌にしていなかったのだ。さすがに私の挙動を奇妙に思ったのか、大臣はしげしげと私の顔を見つめて、何か考えているようだった。コリンの父親なのだからもっと気楽にできればよかったのだが、コリン自身が、いつも父のことを話しているときと明らかに異なる様子で黙りこくっているのだから、どうしようもなかった。
「失礼いたします。どうぞ」
 ライアはにこやかに一番上等な器を運んできた。中に入っているのは、シェスカの小国で生産しているという茶だ。これはコリンのお気に入りで、港の人間に頼んで仕入れてもらったものだった。
「ありがとう。こんなお嬢さんもローハイン師の弟子とは、驚きましたな」
 ライアは驚いたような顔をしつつも、控え目に笑った。女性の魔法使いは珍しくないが、カネル師の工房にはあまりいなかった。工房が始まって以来、ライアで三人目か四人目だったはずで、当時、女の弟子は彼女だけだった。とはいっても何の作為もなく偶然だ。まあ、女性の魔法使いで有名なのはやはり、いつの時代もシェスカだがな。
 大臣は箱の中に勲章を収めて蓋を閉め、間をおいてもう一度開けてずいぶんと念入りに隅々まで確認した。そして、穏やかな様子で言った。
「ただでさえ細かい注文をつけているなか厚かましいのですが、これにもういくらか注文させていただいてもよろしいでしょうか」
 我々弟子三人は、一斉に小さな声をもらした。
「いえ、先ほど申し上げた通り、出来は素晴らしいです。あまりに出来がよいので、もう少し欲を出してみたくなったのです。お時間はありますか?」
 私は戸惑いながらも頷いた。名高いカネル師の工房だろうと、職人とさほど変わらない立場の魔法使いは、依頼人の希望に沿うことが求められる。しかし、品を見たときの様子からこのような要望が出てくることが考えられず、不可思議に思えた。私もまだ若かったからな、多少うぬぼれもあったかもしれない。
「この勲章に護符の効果を加えることができますか」
 思わず首をひねってしまった。軍人が戦に臨む際、護符を持ち歩くこともあった。しかし、最初から護符を兼ねている勲章など聞いたことがなかった。
「これを陛下から賜った者は誇りをもって身に着け、次の戦場に赴きます。シェスカは鎮まりましたが、まだ世界は不安定です。できれば、彼らにより厚き加護を」
 そうして、強い者は生き延びるというわけか。勲章というものは誉の証であり、存在そのものに意味がある。それらは国から依頼を受けて魔法工房で作るものの、護りの魔法はほとんどなく、どちらかというと着けた人物の意識を高めるものだ。しかし、それだけで戦に勝てるものなら苦労しない。
 そもそも古い時代のアールヴなどの国で、軍人に与えられる勲章は、その者自身の強さを意味した。守護魔法をかけるとは、次は生きて帰れないことへの不安があるということだった。それは、死を覚悟して戦地へ向かう者としてあってはならないことだった。しかし、生きのびる可能性があるに越したことはない。強き者にさえ永遠の勝利は確約されない。彼の言葉に、時代の移り変わりを感じたよ。
 私は、納期を式典の直前まで延ばしていただけるならと返事をし、大臣はそれを承諾した。細工はライアがいるし、特に不自由はなかった。具体的な指示をもらい、数日でどう作業を行うか頭の中で工程を組み立てていると、レイフォード氏が口を開いた。
「ときに、師は今日いらっしゃるのでしょうか」
 返答に困った。師はなかなか捕まりにくい人間で、気がつくと姿が見えず、気がついたら傍にいるような人なのだ。他の弟子たちもいればまだましなのだが、私以外の誰もいないようなこんな時期は、行方がわからないということもたびたびあった。
 どこにいたのか聞けば、いつも「ラーディラスの民のおつとめ」と言ってはぐらかされた。ラーディラスは不思議な民族で、数も少ないものだから詳細は不明だが、戒律と呼べるものがいくつかあるとのことだった。私にもあまり語られたことはなかったので実態はわからないが、当時の私はカネル師がふらつく言い訳だと疑っていた。
「申し訳ございません。師は……放浪癖がありまして」
 苦し紛れにそう言ったのだが、その場の全員が沈黙した。いい言葉が思いつかなかったのだよ。しかし、レイフォード氏は何がおかしかったのか、けらけらと笑ったので救われたが。
「ああ、そうですか。それなら、安心いたしました。お元気なようで」
 カネル師が宮廷にいたのは、そのときから数十年前のことで、当時の王と対立があったからと言われている。あまり師は直接語らなかったが、アールヴ王家の政策に賛同できず、数百年仕えた城を後にしたらしい。彼とはぎりぎり都で面識があったのかもしれない。昔を懐かしむような様子だった。
「父さん。昔から、先生はあんな感じだったのですか?」
「あんなと言われても、現在の師を知らないからわからないよ。そうだな、私がお会いした印象だと少し厳しい方だとお見受けしたが」
 コリンは目を丸くした。
「信じられませんわ。私たち弟子には大らかで、好きにやっていいといつも仰るのに」
 片づけを終えたライアが末席に座り、私に意見を求めるような目の動きをした。
「年齢を重ねたせいか、最近は丸くなったかと思います」
 コリンとライアもきょとんとしながらも笑った。
「兄さんには厳しかった?」
「いいや、お……私が弟子入りした時点では既に、厳しさはありませんでした」
 本当は、穏やかになりましたと言いたかったものの、そう言うには師の若々しい振る舞いが邪魔をした。けれども、私にとっては優しく導いてくれる師であり、親のように慕うべき存在でもあったのは事実だ。なかなか二面性がある人だったと思う。
 大臣とはその後もしばらく話をしていた。時が経つにつれ、コリンもいつもの彼に戻ったし、比較的心穏やかに会話することができた。言葉を交わしながら感じたのは、レイフォード氏の人柄のよさである。個人的には政は情を優先するべきでないと思うのだが、それを考えても彼は心根まで立派な人で、アールヴは恵まれているとそのときは思った。コリンを甘やかしすぎず、かといって突き放したりもせず、適度に彼へ工房生活について尋ねていた。
 魔法の工房に入るのは魔法を教養として学べる上流階級が多いとはいえ、コリンの家ほどの貴族になると職業に魔法使いを選ぶのは稀だった。魔法工房が珍しかったらしく、いろいろコリンに質問していたのだが、時々予想以上に鋭い問いもあり、私がしばしば回答を助けることもあった。
 結局、他の弟子がおらず邪魔になることもないので、工房全体を案内することになった。温室や各作業部屋、書庫や倉庫を回ったかな。大臣はカネル師が見当 たらないことを心配していたが、そもそも我々弟子も師の寝室の在り処も把握していないことに大変驚いていた。宿舎には弟子たちの私室があったが、カネル師のはなかった。時折、工房長室で寝ていたような気はした。
 そして、元の部屋に戻ってしばらく世間話に相槌を打っていると、足音が聞こえた。ああ珍しい、と思った。あの人は本当に幽霊みたいで、普段はあんな音は立てなかったんだ。神経はこのうえなく大雑把なのだがね。
 乱暴に扉を開けたカネル師はまず私を見て、大臣に視線を移した。室内に、電流のような空気の震えが起きた。それは、師の持つ魔力が影響しているのだ。先生が怒ることはめったにないため、ライアやコリンは戸惑っていたが、私も冷や汗をかくような心境だった。
「ご無沙汰しております、ローハイン師」
 まず行動したのはレイフォード氏で、最敬礼をとった。たとえ都を離れても、大臣よりもカネル師の方が位は高いのだ。アールヴ王家に仕えていた年数は相当なものだったから。
「ああ、久しぶり。どうして君がここに?」
「息子の様子を見に参ったのでございます。非常にお世話になっておりますから」
「とんでもない。君はいい息子さんをもったね。こちらこそ、とても助かっている」
 カネル師は極めて静かな口調だった。カネル師が宮廷を去った理由の仔細は、公にされていない。当事者である師と王、そしてその周囲の限られた人間しか知らないことなのだ。その事情に知らなければ、何ともない会話だろう。しかし、言葉の奥底に、どこか緊張感のある響きがあった。
「で、息子の様子を見にくるだけで君がくるとは考えづらいのだが」
 と言いながら、師は私を横目で見た。反射的に私は答えた。
「はい、それに加えて、ご依頼いただいた勲章についていくらかの変更を」
 ほんの少しだけ首を傾げた師が「何故」とつぶやく前に、レイフォード氏が口を開いた。
「帰還した者たちの話を聞きますと、ただの飾りはもう、今の時代に必要ないものであると思うのです。せめて、我が国の宝となる人々だけでも命を守れたら」
 どこの国の軍も本音は、軍人の装備に魔法の細工をほどこして戦いを有利に導きたいのだ。より強力な武器、より強固な防具を作るのに、魔法の存在は避けて通れない。ただ、残念ながら何千何万の人間に行き渡るほど量産するのは、難しかったんだ。数万の武具ひとつひとつに細工をし、力を宿らせることを考えると、どんな工房の人間でも気が狂っただろうな。すると、結局優先されるのは、要人ばかりだ。
 カネル師はそもそも、戦争に魔法が介入することをあまり好まなかった。自然の摂理に反する行為の魔法が、人間の本能的な営みである戦いに飼い馴らされるようなことに抵抗があったのだろう。それでも、やむを得ないこともある。少し間を置いて師は頷いた。
「納品が当日になる可能性もありますが、ご了承いただけました」
「わかった。コリン、ライア、あとでいいから準備をしておいてほしい」
 はい、と二人は一斉に返事をした。こういうときでも呼吸が乱れないことに、ひそかに感心した。
「品は、出来次第お持ちいただけるでしょうか。できればその場で確認したいので、次室殿においで願いたいのですが」
 カネル師の心が、止まったかのように思えた。レイフォード氏はあえて、師にとは言わなかった。工房に残っている弟子はコリンとライアと私だけで、あとの二人はまだ 大きな仕事の対応ができないとなると、私が出ていくのが筋だ。しかし、カネル師は難しい顔をして、大臣と向き合っていた。カネル師は、私が外界に出ることはともかく、宮廷の人間と接することを良しとしなかった。コリンが弟子入りを志願してきたときも、少し迷っていたようだった。結果的に、カネル師は彼のこともかわいがっていたが。
 私は私で、その前に交わした師との会話を回想した。外に出ることを拒んだ私と、その背を押そうとする師。もしもこれが別の場所ならば、カネル師は喜んで私を送り出しただろう。しかし、行く先がまさに王家の管轄内だ。カネル・ローハインの工房にとってアールヴ王とは、やはり特別な意味を持つのだよ。
え? なぜ と言われても、師がアールヴ内に工房を構えた理由など詳しく聞いていないな。カネル師は一度アールヴを出たが、何らかの目的があって帰って来たとしかわか らない。だが、何となく推測できるような気もするんだ。まあ、待て。これから話すから。
 とにかく、その場をどう収めるべきか。カネル師を行かせるわけにもいかないが、ライアを遣ってもどうしようもない。コリンなら多少の道理が通る可能性もあったが、それを大臣が言外に拒否していた。私が行くのか? よりによって、あの中に? 胸が圧迫されるように痛み、鼓動の速度があがるのがわかった。頭の奥を握りつぶされるような苦しみ。誰かが耳元でささやいているような。ああ、このまま押しつぶされてしまいたい。
「先生? 兄さん?」
 ライアとコリンは、我々を交互に見た。私はまだ残る不快感を出さないように、心配そうな二人に「何でもない」と答えた。そして、カネル師を一瞥してから、本当に弱々しい声で口を開いた。
「失礼いたしました。仰せの通り、私が参上いたします。閣下を直接お訪ねすればよろしいのでしょうか」
 カネル師が何かを言いかけたが、私が目を制したので止まった。空気が少しだけ和らぎ、他の弟子二人は少し安堵したようだった。レイフォード氏は目を細めた。
「はい、お名前を言っていただけたらそのまま私に取り次ぐようにしておきます。以前の係の者に預ける必要はありません」
「かしこまりました。それでは、少々お時間をいただきますが、ご容赦ください」
 心の遠くで笑い声が聞こえた。それは、私が自分を嘲笑しているかのようなものだった。
 大臣が帰り、コリンとライアが細々とした準備をするために退室すると、私とカネル師の二人だけになった。カネル師は、感情を抑えた口調で訊いてきた。
「行くのかい」
「他に誰が出るというのですか。俺が妥当なところでしょう。先方が何を考えているのかはわかりませんが、おそらくこちらが思っているほどのことではないでしょう」
 カネル師の、いつかのやり取りとは打って変わった様子に、少し申し訳なさをおぼえた。まあ、どうしようもないことだが。
「けれども」
「外へ出ろって言ったのは、先生ではありませんか。いつかはぶち当たる問題が二つ重なったのは、むしろ幸運だったのかもしれませんよ」
「避けることもできたはずのことだ」
 椅子に深く座り、師は天を仰ぎながら細く息を吐いた。
「正直、君と城を関わらせたくなかった。生きている限りね」
「城ではなく、あそこは砦ですよ」
「そういう揚げ足はとるんじゃないよ。かわいくないね」
「師匠に似てしまったので」
 私が投げやりに笑うと、カネル師も口を歪めるように微笑した。
「コリンを入れた時点で、予測しておくべきだったんです。まあ、弟子の遅い成長を喜んでくださいよ。何事もなく終わらせますから」
 そうやって師の肩を叩いてみせたが、自分でも手が震えているのがよくわかった。私は、恐怖していた。私の生まれついての欠陥が、私を外の世界から遠ざけた。この生まれを喜ぶべきだったのか憎んだほうがよかったのか、今でも判別には困っている。ただ、やはり欠陥と呼ぶしかないのだよ。私の体を満たす脆弱な精神が、私を蝕むのだった。
 ああ、こういう風に話すと大層な出来事に聞こえるかもしれないが、お前が思っている通り、傍からはまったく大したことないことだ。すまない、自分のことを話すのは案外難しいな。そうだ、ただ外に出て仕事をするというだけのことだったんだ。
「まあ、仕方ない。コリンも当日は向こうへ行くのだろう? せいぜい、彼に保護者役をやってもらうんだね」
 その言葉に、私は苦笑するしかなかった。カネル師は年寄りくさい掛け声とともに立ち上がり、ライアたちの様子を見に行きに部屋を去った。卓上にはまだ箱 に入れられたままの勲章があった。開けてみると、窓からの陽光に金が鈍く光った。ライアだけでなく外部の職人の手も大分かかった代物だったから、この完璧な仕上がりに手を入れるのは少し惜しい気がしたが、私も諦めて部屋を出た。


 追加の注文がきた勲章だが、まあ、最初にできた勲章を下手にいじったら台無しになるので、手を入れるのは最低限にし、新しく作ったものにそれらを取りつけるような形になった。設計は私が行ったが、守護の文様を適度な大きさに収めるのは難しかった。効果も一定の水準を保ち、それでいて胸を飾る勲章としての役割を損なわない。理想は、言ってしまうのなら簡単だが、実現するのは難しいのだよ。どこを簡略化し、どこを緻密にするのか、その判断が重要なのだ。形にすることができたのは、カネル師の存在があったからだ。
 私が自分の部屋で唸っていると必ず、師はどこからともなく現れるのだ。
「今度はどこで詰まっているんだい」
「小ささか緻密さのどちらを犠牲にすべきか、というところで」
 この日程で動いてくれる者は外にいないので、ライアに細工を任せることは確定していたが、複雑な設計は彼女に負担がかかるのは明白だった。勲章が小さかったら文様は細かくなりすぎるし、細工のしやすさを考えると今度は大きくなりすぎる。幾重にも線が重なった図を見せると、師は苦笑した。
「君は凝り性というか過剰というか。それが君の性質だから仕方ないけれど」
 耳が痛い言葉を吐きながら、師はそのままペンをとり、私の描いた完成図に次々と書き込んでいった。
「本格的な護符が欲しいなら、別途で注文させてしまえばいいよ。あくまでも本来の用途を忘れないで」
 私がこだわっていた高い性能を大分省いた図案が、単純な丸や四角、言葉で記されていった。肝心な部分は自分でやれということだ。自分はあくまでも、完成のきっかけを投じるだけ。それが、師の方針だった。他の弟子たちにはもう少し優しかった気もするが。
「あの男も、どうしてこんな妙なことを言い出すのかね。思いつきで無謀を言うほど愚かではないと見込んでいたんだが。ああ、こんなことコリンには言えないね」
 呆れたような溜息とともに、最後の一語を書き終えると、カネル師は無邪気に笑って私を見た。まるで、冒険の企みを考えている子どものような笑顔だった。 あれを見ると、背を押されるわけではないが、自分も楽しくてたまらない気分になった。
師の図案は詳細こそ省かれていたが、一人で完成させるところまでもっていくには十分すぎるほどだったしな。私はライアや本職の彫金師ほど細工が得意ではなく、ただ机に向かってどのように魔法を構成していくかということが好きだった。書物と睨みあいながら、私は無我夢中でペンを紙に走らせた。
 かなり急いで作ったものの、時間の余裕がなかったため、やはり当日に納めることになってしまった。その分、一番の傑作になったと思うよ。三つの石を中心に展開される幾何学模様が、今でも目に浮かぶ。守護魔法の中でも少し特殊なもので、一般的には檻の象徴である蔓を元に、古代の王墓に用いられた神殿文字の 文言をあしらって、さらに……ああ、すまない。お前にとってはつまらない話か。
 あの日、私は、数年ぶりに外の空気を全身にあびた。風は街へと吹いており、私たちを急かすように前へ前へと進んでいった。遮るものが何もない景色は遠くまで続いており、遥か西の山並みも、シェスカ大陸やコスモス諸島まで続く海もよく見えた。ああ、世界は美しいのだ……改めてそう実感した。
 ふと、自分の頬の緊張が少し緩むのを感じ、どこかやりきれない気持ちになった。カネル師には強がってしまったが、私はやはり恐ろしかったのだ。自分が一歩進むごとに、この繊細な風景がどんどん壊れていく気がした。ぴりぴりと痛む肌に、空気は容赦なく風をあてる。幸福であるはずなのに、私はやはり満たされないような思いだった。
 とても雄大な景色の存在が、容赦なく私に押し寄せてくるような思いだった。私は眼前の世界に見とれながらも、まだ遠い場所のような、まるで劇場の客席か ら舞台を観ているような錯覚にとらわれた。工房にいるときも時たま、このような気がしたのだが、そのときは尚更、私がちゃんと現実を生きているのかただの 夢を生きているのか判別がつかない状態だった。それまでずっと、窓の向こうは別世界だったのだから、自分に実感が伴わなかったのかもしれないな。
「兄さん、早くー」
「置いていきますよー」
 二人の呼び声に反応し、ぼんやりとし始めた意識が現実に戻された。
 コリンと、カネル師に途中までの同行を命じられたライアは、二人で追いかけっこをしながら丘を下っていった。真似をするように私は一歩一歩、厳重に封を した荷を手に持ちながら踏み出した。懐かしさにも似た思いがめぐり、朝の匂いの充満した大気が私の胸に侵入した。まだかすかに色が残った空が、天から何か が降臨する兆しを思わせる美しさだったのを覚えている。平原から海、山の稜線の間を埋めるように広がり、上等な絹の質感に似ていた。
 それらを素直に受け入れることができなかったあのころは、それらはまだ異質なものであり、心から楽しむ余裕がない者には強すぎるものだった。もしもカネル師の言葉や大臣の申し出がないまま放り出されたら、きっと私は気が狂っていただろう。
「お祭りの準備も楽しそうね」
「人口密度が高いね。到着する外の人たちの数は、今日か明日が最高らしいよ」
 丘を下ると、港沿いの道にいきつく。街道側とはまた違い、こちらはこちらで品をやり取りする商人や船乗りたちで賑わっていた。町を貫く道々の端では、気 の早い連中が屋台の準備を始めていたよ。布製の日よけは、工房の窓からではただの色の塊でしかなかった。近くで見てようやく、あのまだら模様が何だったのかを理解できた。
 ただ下りてきただけなのに、私はまったく別の町に飛び込んでしまったかのような錯覚に陥った。波の音、海の匂い、鳥たちの羽ばたき、人の気配。それらが私を包んでいた空虚になだれこんで、奇妙な感覚を寄越してきたのだ。
「工房も何か出さないのかしら。絶対楽しいのに」
「何をするっていうんだよ」
「安い魔法具を売ったり、ちょっとした見世物をしたり!」
「おいおい、そんなことしていたら、工房に休みなんてなくなってしまうよ。だいたい、君が大変なだけじゃないか」
 これから軍の中枢に行くというのに、二人はのんきなものだった。私は、そんな彼らが好きだった。確証があるわけでもなかったが、この子たちなら一緒にいてもいいのだと思ったのだ。そして、それ以前に私が拒んだ人々にも同じようにできたら、と自分の人生を感傷的に顧みた。私の生など後悔の連続だよ……千年 経った今でもな。
 エアトンの町を挟んで反対側に、アールヴ軍の本拠地となる砦があった。地理上、エアトンは首都より外敵にさらされる危険性が高く、有事の際もここが要となった。まあ、当時のアールヴは比較的平和な方に含まれるのだが。
 エアトンで最も大きな建築物である砦は、工房の次室からまっすぐ見ることができた。あの灰色の石でできた建物がまるで陰鬱な棺のようで、自分が墓所として選んだ工房とひそかに比較したものだ。
 堅牢な風情は、当時からさらに百年近く前に造られたものだ。もしかしたら、師が建築に携わっていたかもしれない。まだ雑用やお付き役として次室に出入りしていたころから、私はこの建物が苦手でね。威圧感や脅迫めいた雰囲気があった。ああ、胸騒ぎといったほうが正しいだろうか。私は予知や遠視の類はあまり得意ではなかったが、あれだけは例外だった。
 そうそう、カネル師もあまりそういった魔法はやらなかったな。できないのかあえて使わないのかは知らないが、少なくとも好んで使うことはしなかった。もしも未来視が師の趣味だったならば、私たちの未来も大分変わったろうよ。
 戦もそうなのだが、カネル師の中では魔法が使われるべき状況や目的が厳格に定められているようで、やらないものは頑としてやらなかった。傍から見れば、「空を飛ぶ魔法はよくて、未来を変える魔法はなぜ駄目なのか」と思うかもしれないが、何に反するかということが重要なんだと思う。私は師に比較的近しかった人間だとうぬぼれているが、未だにあの人の考え全てを理解することはできないんだ。
 すまない、これは関係あるような、ないような。なるべく魔法のことは話さないほうがいいだろうか。どうも、あのころのことと魔法が重なると、どうも話の筋がずれていくな。蛇足的な話にずれこんだら、遠慮なく言ってくれ。なるべく気をつける。
 あの日はまず、砦の中に入ることで苦労した。コリンの父は、名前さえ言ったら入れるようにしておくとは言ったが、戦後間もない砦の式典の日だったから仕方のないことだ。私とライアは魔法使いの印しか持っていないため、コリンの身分証明から始まった。彼の父との間に何人もの人を挟み、ようやく入る許可が下されたときには、日がすっかり高くなっていた。
 門が開くと、荘厳な建物がより一層威圧的に感じられた。何となく、私は入りたくないと思ってしまった。この時点で、私の未来は決まっていたのかもしれない。拒むことのできなかった、嬉しくも悲しくもある未来が。門番立ち会いのもと中に入り、すぐに扉は閉められた。それは重々しい音に思えた。そして、内部に詰まっている空気は、私の足を引っ張って邪魔をするような違和感に満ちていた。
 引き渡しの場所を案内され、そこで我々はレイフォード氏と再会した。先の言葉通り、大臣が直々に品の確認をした。箱が開いた瞬間はさすがに緊張したものの、彼はこちらを向いて微笑み、私は安堵した。背中には変な汗をかいていた。
「無理な注文を聞いていただきまして、誠にありがとうございました。これほどの傑作は、そうそう生まれないことでしょう。与えられた者にとって、最高の誉れとなります」
 その言葉を聞いて、部屋の隅でおとなしくしていたライアとコリンもほっとした様子だったのが、背中ごしに伝わった。納めた品はすぐに別室へ運ばれ、いつかのように私たち四人がいるだけの状態となった。
「実を言うと、依頼した日の夜、勲章と護符を兼ねるのは厳しいのではないかという意見をもらいましてね。わがままが過ぎたのではないかと思いましたが、杞憂に終わってよかったです。これも、制作指揮は次室殿が?」
「指揮といってもあまりたいしたことはしておりませんが、おおよその設計は私が。ただ、ローハイン師も目を通してくださいましたし、細工はそこにいるライアが引き受けました」
 レイフォード氏はライアを見た。コリンと何か小声でしゃべっていた彼女は、私たちの視線が自分に向いていることを知ると戸惑い、わけもわからない様子で頭を下げた。すばらしいと改めて大臣に褒められると、ライアは顔を真っ赤にした。
「私はただ、手先を使うことに他の方々よりも慣れているだけです。知識など実力は、息子さんの足元にも及びません」
「いえいえ、これほどの腕前なら十分な才能です。将来が楽しみですね。きっとあなたはよい工房士になるでしょう」
 ライアは一瞬停止し、すぐに笑顔を作りなおした。
「そこまで仰っていただけるなんて光栄です。ご評価に添えるよう、精進していかなくてはなりませんね」
 コリンは、そんなライアを複雑そうに見ていた。私も彼らには何も言わず、ただ曖昧にその場をやり過ごすことしかできなかった。
 式典に出席するという大臣も出ていくと、コリンとライアは窓辺に並んで外を見ていた。敷地内には、すり鉢状になった舞台があり、正装をした軍人たちが集まっていた。コリン曰く、ここにいるのは軍の中でも位が高い者だということだったが、その数に圧倒された。ライアが呟いた、「国のために戦う人ってこんなにいるのね」という言葉が印象的だった。
「あ、レナードだ」
 結局自分の遠眼鏡を使うことになったコリンが、友人を見つけた。屈強な男たちのなかで噂どおりの小柄な体格がひときわ目を引き、彼のいる場所だけ少しへこんでしまっているようだった。しかし、彼こそが、後の世に数々の戦での伝説を作り出す武人、レナード=バグウェルだったのだ。
「昔から仲良かったの?」
「うん。一つ年上で、教師が何人かかぶっていたんだ。よく一緒に勉強したよ。本当に、剣は何度やっても簡単にいなされて、悔しかったな。今思えば敵うはずなかったんだけど、昔はレナードに追いつけ追い越せって感じで、ずっとくっついていた。まさか、ここまで出世するとは思わなかったけれどね」
 その声色に何の嫉妬はなく、ただ純粋にコリンは友人の晴れ舞台を無邪気に喜んでいた。その様子がほほえましく、そんな風に祝福できる友人が存在するコリンが羨ましかった。
 私は遠眼鏡を持っていなかったので見えなかったが、ライアとコリンは勲章の授与を見て嬉しそうにしていた。ライアはあまりこういうところが好きではないので、ついてきてもらって悪い気がしたが、その様子をみてほっとした。私にも遠眼鏡を勧めてきたが、さほど興味はなかったので断った。王のそばでレナード少年が誇らしそうに立っていたことだけは、なんとなく肉眼で確認できた。
 歌声が聞こえてきた。アールヴ国民なら誰もが歌える、王と国を讃える歌だ。軍人たちが歌っていたのだろうが、コリンとライアも真似をして口ずさんだ。
「兄さんも、そんなところにいないで。ほら、一緒に」
 コリンがこちらを向いた。私は口を開いて声を出そうとした。しかし、できなかった。耳なりと激しい頭痛がし、寒気が全身を襲った。深い黒の闇が、私の心 に食らいつくような、そんな感覚だった。その瞬間、視界は光で眩んだようになり、全身の力が抜けた。どこかで、ざわめきが聞こえた。





2008/12/30


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