第一章 亡霊は放たれた





 気がつくと、天井があった。
「お目覚めですか?」
「兄さん?」
 見知らぬ男性とライアが並んでいた。わけもわからない顔をしていると、別の男性がさらにやってきた。
「いかがでした?」
「おそらく、お疲れだったのだろう。ご滞在を続けられるか都にお戻りいただくか、上で意見が分かれている。そちらもお目覚めですか」
 訳のわからない会話の直後に話を振られても、うまく受け答えることができない。目の前の出来事は正常なのに、自分の頭が対応できなかったのだ。自分はベッドに横になっていたことをようやく理解した段階だった。
「兄さんも急に倒れるから、びっくりしちゃいました」
 ライアが、ほっと息を吐いた。
「ああ、そうだったのか。心配かけてすまない」
 動こうとすると、頭が猛烈に痛んだ。思わず触ると、額に治療用の布が留められていた。倒れた時に切ったらしい。出血もすぐに止められたので、取りたいときに取っていいと言われた。彼らは医療士でそこが医務室だと、ようやくそのころになって理解できた。
 いくらか問診をし、さほど問題はないということで、医務室を追い出された。扉を開けるとまだ日が照っていて、さほど時間がたっていないようだった。
「すまないな、心配をかけた」
 さっそく当て布を取りながら謝ると、ライアは少し重い口調だった。
「兄さん、まだ休んでいたほうがいいんじゃないですか? 顔色、悪いですよ」
「生まれつきだよ」
 私なりの冗談だったものの、ライアはいつものようにおかしそうに笑ってはくれなかった。
「大事にいたらなくてよかった」
 ライアは私の顔をじっと見た。正確には、私の傷を。
「私がすぐに治してあげられたらよかったけれど、悔しいわ。私、まだ何もできないもの」
 ライアは俯いて下唇を噛んだ。私は大臣との会話を思い出し、尋ねても困らせるだけだと思いつつも、尋ねずにはいられなかった。
「やはりお前は、医療士になるのか」
 一口で魔法使いといっても、何種類かに分けることができる。まず、我々のような工房に属するような魔法使い、工房士だな。前にも説明したとおり、魔法を使う職人だと思ってくれ。少しばかり魔法の才に恵まれ、研究と技術の提供に明け暮れる。
 正確に言うと、工房の魔法使いと相反する立場ではないのだが、特殊能力をもつ魔法使いの希法士というのがいる。定義は難しいのだが、カネル師はこれに当てはまった。炎や水を自由に動かせたり、人を操ったりする魔法使いというのは、昔話のなかにはゴロゴロいるが、実際には数が少ない。工房の人間は常々、人間の限界とのせめぎ合いに悩まされているが、彼らは最初からそんな苦悩とは関係なく、凡人が届きたくても届かない世界の中に最初から存在しているようなものだ。工房に所属している場合もあるが、工房士とは普通とはまったく別の魔法を使って生きている。国によっては重宝されたり迫害されたりするな。
 それと、医療に特化した医療士がいる。条件を満たした魔法使いが専門の教育機関で学んで、ようやく資格が与えられる。これは世界共通のもので、厳格に定められたものだった。魔力を持たない医者は病や傷を患者の治癒能力に頼って時間をかけて治すのに対し、医療士は外傷を瞬時に治すことが主な特徴だ。本当に限られた者しかなれないので、ある意味魔法使いの上流階層に位置する。これも特殊といえば特殊なのだが、生まれついての希法士でなくても、努力次第でなることは可能である。
 ライアは医療士を目指していた。そのためには基礎からの鍛錬が求められる。経験のないライアがいきなり我がローハイン工房の門を叩いたのは、一刻も早く高い技術を身につけたいからであった。それは無謀とか傲慢とか思われて拒否されても仕方のないことだったが、彼女は頑として意志を曲げなかった。
 正直言うと、私は工房に残ってほしかった。これは、自分勝手な理由であり、本人には押しつけるべきではなかった。それでも、あの器用さは何よりもすばらしい才能であり、工房士として大成するのはまちがいないことだった。治療魔法を身につけたいなら、私やカネル師が多少教えられるとも告げたが、彼女の心は変わらなかった。資格がないと職業として認めてもらえないし、自分は苦しむ人を自らの手で助けたいのだと言った。医療魔法を定められてない場所で学ぶことも公には認められていなかったので、もぐりみたいなことはライアの性分には合わなかっただろう。
 案の定、私の言葉を聞いたライアは困った顔をした。そして、私と目を合わせずに口を開いた。
「私はとても、自分の境遇を考えると言葉にできないくらい恵まれていると思います。気にかけてくれる人たちの期待に応えたい。でも……」
「すまない、馬鹿な質問をした。聞かなかったことにしてくれ。ところで、コリンは?」
 少し表情を和らげ、ライアは答えた。
「お父様と一緒に、向こうの建物にいきました。ちょっと、いろいろあって」
 それきり、しばらく黙りこんで、ライアは続けた。
「こういうところにいてわかったんですけど、コリンって本当は全然違う世界の人なんですね。なんか、いつもコリンはああだからつい忘れてしまうけれど。偉い人たちに囲まれても平然としているのを見てると、まったくの別人みたい」
 その瞬間、ライアが一瞬震えたように感じた。けれども、彼女は何事もなかったように笑った。
「ごめんなさい、今言ったことは忘れてください。これでさっきのとおあいこにしましょう」
 そして、最初に通された部屋に戻ると、すでにコリンもレイフォード氏も戻ってきていた。他にも初対面の人物が二人いて、一人はコリンの長兄だった。もう一人は、誰と尋ねることもなくレナードだとすぐわかった。彼は、近くで見てもとても戦場帰りとは思えない風貌だったが、目の力が強い人物だった。
「兄さん、大丈夫でしたか? すみません、そちらに行けなくて」
 まずコリンが立ち上がり、小走りで近寄って来た。私はとりあえず微笑んだ。
「すまない。ただの貧血らしい。今日は気温が高いから、一気にきたみたいだ」
 それを聞いたコリンは胸を撫で下ろした。そして、私をレナードに紹介した。
「コリンから手紙でよく聞いています」
 レナードは溌剌とした様子でそう言った。今思えば、彼が私のどんなことを書いているのか、もっと聞けばよかったかもしれない。
 夜はまたあちこちに引っ張りだこだというレナードを囲んで、酒を片手に束の間の談話が行われた。ライアは、町に用事があるとかで先に出て行った。実のところ、そのとき耳鳴りや頭痛が時折強くなったりもしたので私も帰りたかったが、大臣に引き止められてそのまま居残ってしまった。何となく帰っては悪いと思ってしまったのだ。ライアとコリンは心配してくれたが、とっさに大丈夫だと言ってしまったため後に退けなくなったのもあった。私が愚かなのは、このとき始まったことではないが。
「今度の戦はまちがいなく、後の世にも名を残すだろうね。アールヴが戦勝国側に回れたのは実に幸運だ」
「しかし、閣下。我々は戦争末期に少しだけ戦に加わっただけです。厳密に言うと、戦勝国とは言えないでしょう」
 大臣相手に、レナードは物おじもせずに食らいついた。それは、昔からの馴染みがなせる技なのか、彼個人の性格なのかはわからなかったが、見ている私の方が焦ってしまった。
「レナード、金ぴかを胸につけているくせに、ダリエの戦いをもう忘れたのかい? お前の存在が、その証明じゃないか」
 将来の中枢役人候補であるコリンの兄が、諭すように言った。
「確かにそれも大きいが、そういうことではない」
 さりげなく、大臣閣下はご自分の長男の言葉を否定した。
「形はどうであれ、戦勝国側についたということが重要なのだ。これから先も、アールヴは交易でも政治でもシェスカ大陸を避けることはできない。貸しが一つでもあると、今後がやりやすくなる」
 レイフォード氏は、グラスに注がれたまま残っていた葡萄酒のほとんどを、一口で飲みほした。私は、会話にどう入っていいのかわからず、時たま酒を口に運ぶ以外は何もできなかった。そもそも、どうして自分がここにいるのかも忘れかけていた。
「貸しだなんて。僕にとっては借りです。向こうに行って心底思いました。アールヴは、世界にとってはまだ田舎なんだって」
「おい、レナード」
 鍛えた体でよく通る声を発する幼馴染に、コリンは酒で紅潮した顔を一気に青くさせた。
「他人に聞かれたらどうする? ただでさえお前には敵が多いのに」
「本心を隠しても仕方ないだろう。それに、最初から全部口に出しておいたほうが、相手も僕がどんな人間か疑う手間も省けるし」
 それはそうだけど、とコリンは口ごもった。笑う状況ではなかったので堪えたが、私はひそかにおかしく思った。コリンも裏表があまりない人間だと思っていたが、レナードの極端すぎる性格には到底敵わなかった。ああ、コリンはこんな人物と友人なのか、と思わず納得してしまった。
「アールヴは軽んじられているか」
 息を吐くように呟くレイフォード氏に、一同の視線が集中した。レナードは、はっきりと頷いた。
「すべてのシェスカ人がそうではありませんが、向こうの軍人には多少その意識はありました。彼らにとっては、たとえ何百年という歴史があろうと我々は田舎者なのです。何はともあれ、広い世界を知ることができたのは、今回の最高の収穫でした」
「まさか、同盟相手の兵を殴ったりなんか」
 コリンの問いにレナードは苦笑し、首で否定した。
「上官にたっぷり釘を刺されたからね。それに、僕が配置された先は、恵まれていた。エクシーアのシュリック公の軍に加わったんだ! 評判通りの素晴らしい将軍だったよ。あの方がいなかったから、西軍の勝利は危うかっただろうね……」
 レナードは興奮した口調ではあったが、言い進めるにつれて勢いが緩まった。そして、持っていた杯の氷が溶けるのをじっと見つめた。私たちが想像できないほどの修羅場を回想していたのかもしれない。戦には、その肉体に恐怖を刻み込んだ者しか理解できない領域がある。
 彼は、自分でも意外なほど物思いにふけっていたのかもしれない。はっと顔を上げると、笑顔を作った。こういうところは、ライアに似ていた。レナードとライアはあまり会話をしているところを見なかったが、案外、コリン以上に気の合う間柄になったかもしれない。いや、やはり双方にとってコリンの存在は欠かせないかな。
「あと、マティアスのフランツ王太子殿下。マティアスは魔法が有名だけれど、あの人もシュリック公に劣らない。僕と年は変わらないけれど、西の若き獅子と呼ばれていて、圧倒的な強さでした」
 レナードは少し口調を強めた。
「大将が優れていない軍ほど悲惨なものはありません。有能な者にもっと位を与えるか、貴族たちが常に民よりも優れていないといけません」
「ふむ、心得ておこう」
 軍の大将といえば王であり、そのすぐ下にいるのは貴族というのが当時の主流だった。時代によって多少変動はあるが、こうした体制は心あるものにとって実に歯がゆいものだった。
「あの、マティアス王家はやはり、魔法使いの中でも特別な位置づけにあるのでしょうか? コリンから聞いていた魔法使いとは随分違うようでしたが」
 そこでまさか私に振られるとは思わなかった。思わず、酒を少しこぼしそうになってしまった。レナードの弁によると、フランツは馬上で剣を奮いながら、光を自由自在に操って敵を確実に仕留めていたという。この証言からフランツがどの系統の魔法使いであることが予想できるか、数通りの説をコリンとともに挙げた。その場にいた面々は、教養として魔法を学んではいたが、深い知識は教えられなかったらしく、私たちの言葉に感心していた。貴族には学ぶべきことがたくさんあるにしても、都の魔法使いの怠慢だな。
「無論、マティアスも工房に所属する魔法使いが大半で、産業が活発になるように政府から支援されています。それだけでなく、希法士の保護にも熱心です。初代マティアス王も元は希法士ですから、その子孫であるフランツ殿下もそれを受け継いでいるのでは?」
 魔法を学びたかったらマティアスに渡る人間も多い。王家から離れたカネル師も、一時期はマティアスに身を置いていた。数年経ったらエアトンへ移ってしまったが。
 私の言葉に、コリンがさらに続けた。
「あの国は、魔法が何よりも基準になるところなんですよ。まず、代々、マティアス王は国内の魔法事業を全て取り仕切る立場にあります。魔法の才に恵まれなかった王太子が廃位になったり、王の子女の中で魔法力が高い順に王位継承権が与えられたりもしました」
 彼の父兄は感心したような素振りだったが、レナードは露骨に顔をしかめた。理解できない世界だ、と呟いたのがかすかに聞こえた。
 そこから話題はシェスカ大陸の諸国に広がり、その場唯一の私の出番は静かに終わった。地理や国際情勢のことになると、彼らのほうがずっと詳しいからな。 ふとコリンを見ると、安堵したように笑ったので、私も微笑み返した。正直言うと、これ以上激しくなったらすぐに動かなくなってしまうのではないかと思うほど心臓が早鐘を打っていたのだが。
 やがてレナードは付き人らしき人間に呼ばれ、退席した。そのとき、ようやく私も工房へ帰る口実ができた。
「すみません、父が無理に引き止めて」
「いいや、こちらこそ考えももたず残ってしまってすまなかった。心配かけてしまった」
 コリンと小声で話をしていると、レイフォード氏は腰を上げた。
「次室殿、下までお見送りさせていただきます」
「いいえ、とんでもございません」
 突然の申し出に私は固辞したが、結局押し切られてしまった。コリンもついてこようとしたが、父親の言いつけでその場にと留まった。家族で何やら積もる話でもあったのだろう。
「式典の途中で倒れられたそうですが」
「はい、お騒がせしました。勲章授与のところまでは上から拝見していたのですが」
 大臣と二人、並んで長い廊下を歩いた。正確には、私の方が一歩ほど後ろだったが。
「都から連れてきた魔法使いも、あの勲章には驚いていましたよ。私はあまり存じ上げないのですが、なかなか変わった意匠なのだとか。ご自分の創作ですか?」
「先達より受け継いだ守護魔法研究の知識が七割、ローハイン師の助言が三割というところでしょうか。私一人ではなかなか」
「いやいや、ご謙遜を」
 軽く笑い合いながら階段を下り、入口までさらに歩いた。軍の要塞だけに、あそこは入り組んだ造りをしていて、案内がなければ迷いそうだった。
 ちょうど通路が交わるところで、私はまた眩暈に襲われた。ここで倒れてはいけない、そう思ってこらえようとしたものの、曲がったところで片膝をついてしまった。一瞬遅れて、レイフォード氏の足音が止まった。
「いかがなさいましたか?」
 背中に、冷気のようなものを感じた。振り向くと、奥までまっすぐ続く廊下があるだけだった。それなのに、私には闇がぽっかりと口を開けているように思えて仕方がなかったのである。
「次室殿?」
 はっとして、レイフォード氏を見上げる。少し淡白な視線があった。昼間のときのように、また視界がちらちらと揺れた。頭の中に雑音が広がり、その向こうで誰かが何か話しているのにまったく聞き取れないような不快感に襲われた。もう一度大臣に呼びかけられ、私は無礼を詫びながら何とか起き上がった。
「酒には弱くないのですが、少しまだ昼間の体調を引きずっているようですね。ですが、ご心配には及びません」
「そうですか」
 そうやって優しく微笑む大臣だったが、言いようのない悪寒に抱きしめられる。なんとなく、この人を信用してはいけない気がした。コリンの父親なのだし、 人柄も文句をつけられるような人ではなかった。それなのにそう感じてしまった自分に嫌悪感があった。私は再び歩き出しながら、後方を指して尋ねた。
「あの奥は何かあるのですか?」
 本当に何気ない、無意識のうちに出た問いだった。それなのに彼ははっとした表情で私と奥を一度ずつ見つめた。
「ここの者も滅多に使わないような場所しかありません。……何か?」
「いいえ。こんな広い建物に入ったのは生まれて初めてですから、いろいろな場所が気になってしまって。田舎者で恐縮です」
 彼は少しだけ笑った。そして、入口までたどり着くと、こちらが慌てるほどまた丁寧に頭を下げてくれた。私も何度も招待の礼を言い、早足で砦を後にした。
 外に出ると夜の帳がすっかり下りていて、町は意外なほど静かだった。ただ、通りかかる家の中から時折会話が聞こえてきて、祭りの準備をしていることが窺えた。後でわかったのだが、祭りの準備は昼では屋外、夜では屋内で行うのが慣習だった。思いのほか静寂だった空間で深呼吸すると、清浄な空気が肺を満たしてくれた。
 ライアと医務室をあとにしたときはまだ日も高かったのに、と考えながら、私は工房の丘を目指した。波の音がなぜか優しく聞こえ、思わず涙が出た。
 砦を出て一人になった途端、私を取り巻いていた耳鳴りや頭痛、囁き声などが消えてしまったのだ。ただ存在するのは、無そのものだった。心地よい、安らぎのような静寂に包まれると、私を押さえつけていた空気は姿を消し、やわらかなぬくもりに満たされるかのような思いだった。
 一瞬振り向いたが、灯が盛大について燦々とした砦の雰囲気に気圧され、すぐに私は背を向けた。後ろから得体の知れない不気味な何かが私に抱きつき囁くような気がしたが、振り払うように去った。
 夜もだんだんと深まり、人通りのない街は心が落ち着いた。光が降り注ぐ昼は眩しくて、私の心を焦がしてばかりだった。それに比べて、夜は、全てをひきつ けるような強烈さはなくとも穏やかな安らぎがあった。色に染まりきった夜の風景はいつも私の目に優しく入り込み、染み渡った。その瞬間、慰められる気分になったのだ。闇に包まれて隠された夜こそが、私の世界だった。特に、その日のように体全体が外に浸かったときは、それがよくわかった。私は、昼のような空間に、限りなく不向きな存在であったのだ。
 ふと、胸が熱く締めつけられる気がした。普通の人間のように生きられないことが無念なのか、そんな状況を嬉しく思うのかは自分でもよくわからなかった。 その日、私は一人の人間として外界で他者と触れ合った。確かに、それは私にとって幸運だったのは、当時の愚鈍な私でも自覚した。しかし、きっと自分はこのまま人に知られることなく、永遠にエアトンの片隅でひっそりと朽ちていくべきなのではないかという思いは、相変わらず私の心に根をはっていた。
 砦を出たときの解放感が、私の正直な気持ちだったのだろう。歩きながら考え、そう結論付けるとなぜだかひどく悲しい気分になったのである。いつしか、私 は街中を進んでいるという感覚がなくなり、目の前の光景をまるでどこか別の場所から遠視しているような気分になった。ふわふわと漂うように景色が動いていく。ああ、このままどこか遠くへ行って消えてしまったら何も考えずにすむのに。自嘲しながら、工房の丘まで上っていった。


 意外なことに、私の部屋に明かりがついていた。逆光になった人影の端が銀色に光り、ああカネル師だと思ったとたん、ほっとした。そして同時に、ようやく私の日常に戻ってきた実感がわいてきた。のろのろと工房の二階へあがって扉を開けると、遠くを見るような表情の師が窓辺に立っていたのだった。
「おかえり」
 首をかしげて笑う師に、私は頭を下げた。そして、そのまま倒れてしまった。師は一瞬息を飲んだ後、腕を軽くふるって、そばの長椅子へ私を手で触れること なく運んだ。希法士としての師の魔法に触れるのは久しぶりだった。ああ、そうだ。念じて物を動かすのは希法のひとつだよ。ついでに師は、机に置いてあった 布に触れてすぐに私の額に寄越した。直前に乾いていたはずのそれは濡れていた。師ならたやすくできる魔法だった。難しいんだよ、一般の魔法使いがそういったことをするのは。
「無事戻ってきて何より、と思ったのだが」
「ご心配おかけしました。でも、用事は果たせましたよ」
「本当に?」
 間髪入れずに、師は尋ねてきた。私は、その日にあった出来事を正直に話した。師は、複雑な心情を隠した様子でそれを聞いていた。
「不甲斐ないばかりです」
「あの砦の中にしばらくいられただけでも立派だよ。この工房とは良くも悪くも真逆だからね。君はレイフォードをどう思う?」
 普段私が座っている席に、師は腰を下ろした。おそらく、師がその椅子に座ったのは初めてのことだろう。
「俺は政治のことなんか全然詳しくないから、大臣としてどうかは判りませんが、丁寧で良い人だと思いましたよ。さすがはコリンの父親ですね」
 窓の向こうには、ぼんやりと灯りに包まれた砦があった。見慣れたものであったはずなのに、まるでもっと遠くにあるような、不思議な感じだった。そのときは、戦後で平常時ではないからだと思った。
「コリンはよくできた息子だと思うよ」
「俺もそう思います。ただ、大臣閣下とは気が合わないかもしれませんね、やはり」
 カネル師は金色の瞳をこちらに向けた。確か、あの人は夜の方が目がよかった覚えがある。
「優しい方ですが、同じ立場であってもコリンほど親しくはできないでしょう。こう言うのも大変申し訳ないのですが、相性が悪いのかもしれませんね」
「砦に何かあったのではないかい?」
 言われてみると、砦を取り巻くような不快感が、風に乗ってこちらまで届いてくるような気がした。私は肯定も否定もできず、あいまいにごまかした。
「あそこは、俺の行く場所ではなかったんです。ちょっと居ただけで倒れてしまうのですから」
「すまなかったね、押しつけて」
 カネル師は珍しく謝罪した。冗談まじりの謝りなら数え切れないほど耳にしたが、師が真面目にそういった態度をとるのはめったにない。というのも、謝るまでの状況自体を師が作ることがなかったからなのだが。
「先生が行くよりもずっといいでしょう? 陛下もいらしていたんですから」
 特に意識したわけではないのだが、つい陛下という単語に力が入ってしまった。気まずかったが、カネル師はそれには触れないでくれた。
「まあね」
「……今でも、王宮に戻るつもりはないんですか?」
 カネル師は、眉を下げるようにしながら笑った。
「ついてきてくれるかい?」
 無理です、と私は首を横に振った。すると師は、自分も無理みたいだと言って、肩をすくめた。私は、カネル師の口から無理という言葉が出たことも意外だった。いや、ラーディラスとはいえ師も人間なのだから、そうなのかもしれないのだが。
「向こうが私を必要としていない。それなら、私から近づいても仕方ないんだよ」
 このとき、私はまだ師の言葉をきちんと理解することができなかった。ああ、お前はカネル師に疑問があるようだが、それはこれからきちんと話すから少し待っていてくれ。最初は細かく話すつもりなんかなかったから、この間は誤解を招くような言い方になってしまってすまない。ちゃんと話すから。
「先生、もし俺がいないときにあの人が申し出ていたら、断りましたか?」
「いや、もしも君がいなかったら、彼は来ていない。来ても意味がないからね」
 師は、どこからか酒瓶を取り出し、杯に注いだ。そして、もう一つの杯にも同量を注ぐと、私に差し出した。
「禁酒はどうしたんですか。それに、俺はもう飲んできました」
「いいじゃないか。あっちとこっちでは質が違う」
 そのやけに自信のある様子に、目眩がありながらも私はしぶしぶ酒を受け取った。それというのもやはり、カネル師の言葉にはそうさせられる力があるからだった。
「言っておくけど、これ、あとで片づけてくださいね。コリンとライアがここで酒飲むことを覚えてほしくありませんから」
「君の部屋なんだから、君が片づけない限りは置かれ続けるよ」
 そう言って、意地悪くライアとコリンの私物をつつく師に、私は何も言えなかった。少しむくれて杯をあおると、不思議な味が体全体に広がった。喉は熱く、皮膚は冷たかった。私が思わず口を押さえると、師は楽しそうに笑った。
「面白い味だろ? これは薬として昔に飲まれていた。目眩によく効くんだ」
「目は冴えました……」
 カネル師は窓を開けた。夜の匂いを孕んだ風が一気に部屋に入ってきて、私を覚醒させていった。その清涼な空気を吸いこむたびに、生命力をもらっているような気分になった。砦の気配はなかった。町は静かで、祭りの準備をしていると思われる室内の灯りがちらちらと揺れていた。エアトンほどの都市になると、町は地上の星空のようだった。
「先生、味音痴になりましたね」
「いや。昔は、大人になればこれは美味しく感じると思っていたんだ。やっぱり、私の味覚は間違ってなかったよ。ああ、この不味さが懐かしい」
 カネル師は、味を慈しむように目を閉じた。何を想っているのか、私には見当がつかなかった。大人になるといっても、この人の場合は数百年単位のことだったからな。
「懐かしいものを見つけたから、ついね。こっちは普通の酒だよ」
 別の瓶がどこからか出現した。実を言うと、師が酒を飲む姿などそのときまでまともに見たことはなかった。先ほども言ったように、カネル師は私よりも少しばかり若い容姿だったから、飲まなくても不思議な気はしなかった。自分が子どものころからずっとそばにいたが、大人ぶりたいときも行動には移さないで、いつも言葉だけで 年寄りぶっていた。
「先生と酒を飲むってなんか変な感じですね」
「昔のことを考えると、ふと飲みたくなるんだよ。過去を語る相手は……もうどこにもいないから、いつも一人だ。だから、君が飲める年になったのは感慨深いね」
 その言葉を隅から隅まで噛みしめると、先に飲んだ酒の味が口の中に広がったような気がした。
「まるで親のようですね」
 私が苦笑すると、カネル師も私の真似をしたような表情を浮かべた。
「親だよ。ずっと面倒をみているからね。君はもちろん、弟子たちはみんな私の子だ。君ほど難儀な人間はなかなかいなかったけれど」
 胸が痛かったが、どこか笑えた。それほどの時間がこの工房で流れたということなのかと、いささか感傷的になった。カネル師がそんな話題を出せるのも、長い時とその間のやりとりがあったからだと考えると、やはり私は工房での生活が愛おしくて仕方なかったのだ。
「なんとなく最近は昔の夢をよく見るのさ。もしかしたら、良いことか悪いことの前兆かもね」
 カネル師は多くの魔法を自由に使いこなせる能力があったが、未来予知などは使うことができなかった。それが師の素質なのかラーディラスの性質なのか、 今考えると判断が難しいな。なんとなく師の性質のような気がしてきた。ラーディラスの血は半分だからな。他のラーディラスも、一つか二つの能力に特化して いる者が多かったからな。それを考えると、師は広い分野での……ん? ああ、他のラーディラスか。何人か会っているんだ。いや、二人だけではない。
 このとき、もしも私に未来を知る力があれば、カネル師に何らかの進言をしただろう。しかし、何も知らなかった私は、また年寄りぶりたいが故の発言だとしか思っていなかった。本当に、私は馬鹿ものだな。しかし、たとえ知っていても、自分に何ができたのかもよくわからないんだがな。
 そうして、私はゆっくりと破滅への道を転がっていくのだった。
「酒もね、ただの懐古の延長。仲間は大酒飲みばかりだったけど、見かけが子どものせいで、誰も飲ませてくれなかった。あの中では二番目に年上だったのに。で、ようやく見かけも大丈夫になったころには、誰もいないときた」
 そう言って自嘲するように笑うから、私はどう言葉をかけようか悩んだ。それに気づいた師は、少なくとも私の目からは全然そう見えない調子で謝った。
「すまない、君の立場じゃ何も言えないね。気にしないで、ただの独り言だよ。もう一杯どうだい?」
 返事を待たずに酒を注いできた。仕方ないので、そのまま口をつけた。ここなら、寝こんでしまってもどうにかなると思ったから。
 砦で飲むよりかはずっと心地よい気分で、私はエアトンの夜を眺めた。次室は町側なので、海は少ししか見えなかったが、その分美しく整えられた町や街道が伸びる平原、神聖なる山々まで見渡せた。私は昔から、そのような景色を見るのは好きだった。だから、ここにいるのもなかなか好きなんだ。少々狭いけれどな。
「砦以外はどうだった? 少しは歩いたんだろう?」
「さすがにうろちょろはできませんでしたよ。時間があまりなかったものですから。でも……」
 たった少し近づいただけの景色。ただ壁がなくなっただけの世界は、思いのほか心地よかった。それは、しがらみがなかったからで、もしも人や物に縛られたらきっと不快になるだろう。しかし、単純に向き合うだけなら、私はこのうえなく幸せになれたにちがいない。
 こちらの出方を窺う師に私は笑いかけ、出てよかったと思いたい、と答えた。
「先生は、故郷から外を出るとき、どうでしたか?」
 ラーディラスはずいぶん数が少なく、現在は世界各地に散っている。しかし、もとは一つの島で暮らしていた。師も、世界を旅する前はそこでずっと生活していたのだった。
「そうだな、あんまり感慨はなかったよ。何せ、外は碌でもない場所だと思っていたから」
 杯を片手にそう言うものだから、私は思わず吹き出してしまった。そんな私を見てカネル師も笑い、しばらく意味もなく二人で笑い合った。
「だから、島から出るのが面倒くさくてね。すごく嫌がったものさ。案外、出てみたら面白かったけれど。迎えにきた人間がよかったからね」
「怖くありませんでしたか?」
「いや、怖くはなかった」
 くいっと酒をまた一口飲んでいた師だが、急にまじめな調子になったので、私は少しだけ戸惑いを覚えた。それはすぐに消えたのだけれども。
「一人ではなかったから」
 私はそれを、迎えにきたという仲間だと解釈した。
「仲間がいると心強いものでしょうか」
 ふと、その日のことを思い出した。外に出ても思いのほか何もなかったのは、ライアやコリンがいてくれたおかげかもしれない、と。自分一人ではどこにいても居心地が悪く、精神はもっと激しく乱れ、どうすることもできなかったと思う。
「ああ、だから、君も彼らを大事にしなさい」
 いつの間にやら説教されている気分になり、私は思わず苦笑した。そのときには、額に当てた布の水気はだいぶ蒸発していた。
「今夜はずいぶんおしゃべりですね、先生」
 開け放した窓から、急に少し強い風が吹いた。師の銀髪があおられ、水面に浮かぶ月のように揺れ動いた。
「年をとったってことさ」
 師は、瓶の中に最後まで残っていた酒を、無理やり自分の杯に注いだ。
「自分はああはなるまいと決めていたんだが、やっぱり時が経つとその分話したくてたまらなくなるらしい。君もすぐにわかるさ」
 このときはまだ、そんなのどれくらい先なのか見当もつかなかった。若かったんだな、やはり。今は師の気持ちがよくわかるよ。
 ふと、鼻歌が聞こえた。懐かしい、師の歌だった。私が弟子入りしたころはよく歌っていた。師の母親か誰かから教わったのだと、そのときに聞いた覚えがある。
「久しぶりですね、先生が歌うのは」
「そうかい? じゃあ、きっと今日はそういう気分なんだね」
 カネル師はあまり歌が上手ではなかったが、幼かった私にとっては子守唄のようなものだった。その前の師の言葉通り、工房に入ってからは、カネル師と……もう一人、兄弟子が親代わりみたいなものだったからな。なんとなく安心するような気分になったのだが、自分が子どもに返ったみたいで少し恥ずかしい気もした。
 開け放した窓から、また風が吹いた。すると、今度は寒気がして、そんな季節ではないのに私は思わず歯を鳴らした。脳の重力で全身がつぶされそうな気分だった。
「どうした?」
「酔ったみたいです」
 自己認識がどうも薄い私がそう告げると、師は、それはすまないと返してきた。いつものように全然すまなそうに見えない態度で言うのだから、苦しかったものの、少しほっとしてしまった。カネル師は私の方に歩いてくると、布に手を当てた。その瞬間、カネル師の魔力の気配を感じ、すぐに布はまた湿った。
 師は優しく笑っていて、それに安心する自分が情けなくなった。どうしてもっと普通に生きられないのだろう、どうして誰かに世話を焼いてもらって、頼らないと何もできないのかと自己嫌悪に浸ったが、どうしようもないことだった。幼い自分の性質を恨み、他の手段をとらないことを軽蔑した。
 せめて、誰かの役に立ってから死にたい。その考えが浮かんだ瞬間、泣きそうになったが、師が話しかけてくるのでこらえて、何もなかったように相槌を打った。
 師は、残り少ない酒をちびちびと飲みながら他愛もない話を続けたが、いきなりぽつりと呟いた。
「レイフォードのことだけれど」
 それがいつもよりもずっと低い声だったので、私は動揺して酒を少し床にこぼした。
「今後は関わらないほうがいい。憎むほど悪いやつではないけれど、信用しないで。彼は、国と王のためなら何でもやる人間だ。私だろうがコリンだろうが、君ですら利用するだろう。コリン伝てに干渉されても、できればはぐらかしてくれ」
 信用しないほうがいいというのは自分も思った。そう言ってもよかったのだが、あえて言わないでおいた。
「忠告ですか?」
「命令はしたくない。あえて言えば、頼みだね」
「了解いたしました」
 カネル師は苦々しい顔つきで星を睨んだ。
「コリンにはこの話に触れないでおいてくれ。彼に申し訳ないから。それと、私に会いたいと言っても、どうにか言い訳を考えて断わってくれないか。強力な魔法使いよりも、ああいった魔法とは無縁の人間のほうが付き合いづらい」
 カネル師と大臣の間に何があったのか、私はついに詳細を知ることができなかった。しかし、師がここまで言うからにはよほどの事情があり、私は師のために自分ができることをしたかった。まさか、それがこんな結果になるなんて思いもよらなかった。
 私は、結果を読み間違えたのだよ。もしもあのとき……いや、過去に「もしも」は不要だな。私の人生、後悔ばかりだとは言ったよな。本当に、もしもを言いたくなる状況には何度も出会ったが、すべて仕方のないことだった。まあ、あの事件のおかげで、お前や他の者たちと出会えたのだから、こうなるべくしてこうなったとしか言いようがないな。
 その晩は、結局その話で終わった。ライアは町の友人の家から夜遅くに帰り、コリンはこの翌朝に戻ってきた。一緒に行こうと約束した祭りまで、あと少しだった。





2009/01/30


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