第二章 終わりと始まりの螺旋





 さて、話の続きだ。この間のは、少しお前に不親切な話し方だったかもしれない。すまない、ここらへんの事情は説明しづらいな、なんとも。余計なところや足りないところもあっただろうが、そういうときは遠慮なく言ってくれ。
 とにかく、私は思いついたままに、世界を回りたいなどと言ってしまった。まるで子どものようだな。自分でも笑ってしまう。だから、カネル師にこう尋ねられても、答えることができなかった。
「どうやって巡るつもりだい?」
 あ、と呟いて何も言えずに黙ってしまった私を、師は苦笑しながら見つめた。見てのとおり手足はないし、念じれば移動という器用な真似もできない。
 師は、手の中の私をからかうようにぶらぶらと揺らした。視界はされるがままに動き、抵抗などできなかった。本当に物だからな。
 師の言うことはもっともで、あの日の私はこんな状態でどうするつもりだったのだろう。私が言葉をつなげないでいると、師まで黙ってしまった。師が私に視線を向けたりそらしたりして考えこんでいると、いきなり後ろから声がした。
「先生」
 カネル師が振り向くと、工房の一員であるグレンの姿があった。身体も態度もすこぶる大きな男で、植物の育成に関する魔法に長けていた。工房の中でも特にカネル師に傾倒しており、他の弟子たちの指導においても、次室の私よりもずっと熱心だった。いろいろ私とは正反対で、私はずっと彼に嫌われていた。
 その前夜は特に意識しなかったが、私やコリンが死んでから少し時間が経っていたようで、工房を空けていた面々もぽつぽつと戻ってきていたらしい。そういえば、最初に目覚めたときにも何人かいたな。グレンは確か、エアトンからそう離れていないところで仕事があったため、比較的早めに帰ってこられたのかもしれない。
「ここにいらっしゃったのですか」
 グレンは私の墓標を一瞥すると、顔の片側だけで苦い表情を作った。しかし、すぐにいつもの仏頂面に戻り、姿勢を正した。
「また外のやつらがやかましいのですが、本日はどうしますか」
 カネル師は私に一瞬だけ目をやると、首を傾けた。
「そうだね。とりあえず今日も帰らせてくれるかな。理由は昨日と同じでいいよ」
「はい、かしこまりました」
「悪いね」
 師の言葉を受け、グレンは一瞬だけ言葉に詰まり、首を横に振った。そして、そのまま踵を返して工房の方へと戻って行った。
 グレンの足早に去っていく様子を、私は不思議な思いで見ていた。私のことが嫌いだった彼は、顔を合わせるたびに私を睨んでばかりだった。その彼が、私にあからさまな敵意を飛ばさないことに違和感を覚えた。
 ああ、そうだ、自分は死んだのだ。私はその事実に気がついた。彼といると居心地の悪い思いをしていたことは確かだったが、こうなると自分の存在が認識されないほうがよほど空しかった。もちろん、今は慣れたよ。
「今、立てこんでいてね。しばらくは今回の後始末に追われることになりそうだね」
 そう言いながら目を細め、師は近くの壁に手を置いた。エヴァム――ではなくヴィーエが好き勝手に暴れたせいか、崩れていたり表面がえぐれていたりしていた。
「結構頑丈にしてたんだけどなあ。……ハロルドたちと作ってさ」
 カネル師はこの建物に思い入れがあったようで、表面では笑っていたが、その背中に落胆の気配が見て取れた。
「さっさと直したいんだけど、依頼人たちとの調整もあるし、余所の連中はいろいろ言ってくるし、うまくいかないもんだね。いっそのこと、あっちの孤島にすればよかった」
 乾いた笑い声をあげながら、師は工房へと歩き出した。今となってはもうとっくに慣れたが、そのときはまだ視界や感覚の変化に戸惑っていた。足を進めたわけではないのに勝手に変わっていく景色が妙に落ちつかなかった。
「ねえ、もしも、私が一緒に行けないというなら、君はどうする?」
 不意の質問に、私は最初、妙な気分を抱いた。一瞬あっけにとられた私に、「さっきの話」と師は付け足した。
 外に出てみたいと宣言したものの、師と一緒にとは思い当たらなかった。けれども、師は自分が私に同行することを前提にそう問うてきたのだ。
 私が質問をよく飲みこめないでいるのを察したのか、師はふざけて私を指にかけて回し始めた。空と海と地面が交互に視界を横切った。酔って気分が悪くなるということはなかったが、あまり愉快ではなかった。
「……先生と一緒とは、考えてみませんでした」
 私がそう言うと、師は一瞬止まって小突くように私を指先で弾いた。
「君はどうやら自分では動けないみたいだけど、それなら人の手が必要だ。運び手がね」
「はい」
「本当なら私が一緒に行けたらいろいろと安心なんだけどね、他の子も抱えているし、エアトンを今動くわけにはいかない。そうだな、五十年ほど待っててくれるかい?」
 まるで、一杯の酒を飲み干すほどの感覚で言うものだから、私は思わず唖然としてしまった。冗談だと師は付け足したが、当時の私からすればあまり洒落になっていなかった。
 まあ、今の私だったら本当に五十年待っただろうな。いつの間にか、私にとってそのくらいの時間は特に長いものではなくなってしまった。うん、少し嬉しいような寂しいような気分だ。ん? 嬉しいという言い方は変か? でも、そう思うこともあるんだ、どういうわけか。
 私は確かに弟子の中でも位置づけは上だったし、付き合いも比較的長かった。縁はけして希薄ではなかったけれど、その時点ではまだ唯一無二の特別な存在というほどでもなかっただろう。他にも弟子はたくさんいたから。あの人からしたら、皆かわいいのだと思っていた。それまで面倒を見てきた歴代のアールヴ王の一人一人のこともよく覚えていて、思い出話もよく聞かせてくれたしな。
 だから、私は師についてきてくれなんて、言うどころか思うこともできなかった。むしろ、あの発言は意外にさえ感じた。師と一緒だったら心強かったし、妙なことにも巻き込まれなかっただろうし、問題は思いのほか早く解決できたかもしれない。それでも、やっぱり私は師との旅を考えられなかった。実際、それでよかったと思う。そうでなければ、出会えなかっただろう人間もたくさんいただろうからな。もちろん、お前とも。
「その件についてはまたゆっくりと話そう。さすがに私もしばらくは仕事に精を出さなければならないし」
 私が思案に浸っている途中で、カネル師はそれで話を一度終わりにした。とにもかくにも、その時点での優先事項は工房の復旧だった。そのときは、私もカネ ル師もこの問題を一度、保留する予定だった。もしゆっくりと二人で考え合う時間があって、今後についてきちんと相談できていたなら、また違った旅路をたどっていたかもしれないな。ああ、いかん、過去に「もしも」は必要ないのにな。すまない、つい何度も使ってしまうんだ。
 何というか、間がいいのか悪いのか、カネル師の提案はなしになった。工房の二階に上がり、奥にある師の部屋に向かう途中の廊下で、少し荒れた話し声がした。グレンとライアだった。
「だから、どうして俺には言えないんだ」
「わざわざ先にグレンさんに言うものではありませんから。先生に直接お話しします」
「先生だって今は」
 師の存在に気づくと、二人は気まずそうに黙ってしまった。師だって、会話の端々が耳に入っていたはずなのに、何も聞こえませんでしたと主張するような態度で首を傾げた。
「何の用?」
 ライアはグレンを見た。そして、難しい表情のまま顔を伏せた。
「ご相談があるので、お時間いただいてもよろしいですか?」
 師はグレンに向き合って、その日の予定を確認し、少しだけならと答えた。わずかにライアの顔が緩み、グレンはますます不機嫌さを露わにした。
 カネル師は彼女を部屋に招き入れた。グレンはそのまま立ち去ってしまったので、二人分の杯を用意したものの、肝心の茶葉を保管していた容器が空になっていた。元々埃をかぶっていたので、ライアの健康を思えば幸運なことだった。
 師は他の容器も探していたが、ごちゃごちゃした棚に紛れたのか、淹れられるものが何もなかったようだった。
「ああ、これしばらく使わなかったから。ごめん、ちょっと待ってて」
 その「しばらく」が具体的にはどれくらいの年月か気になったが、知りたくはなかった。だって、恐ろしいだろう? でも、そのときは工房ができて三十年あるかないかだったのかな。師の感覚からすると……いやいやいや、考えてはいかんな。
 師は私とライアを置いて、私の部屋であった次室へつながる扉を開けた。ライアは視線だけで師を追ったが、師が隣へと姿を消した途端、泣きだしそうな顔になった。もう一度きちんと見れば生気を失ったような佇まいで、今にも消えてしまいそうで、コリンや私と笑い合っていた彼女とは別人のようだった。
「ライア」
 声をかけてみたけれども、返事はなかった。ライアはただ、膝の上においた拳を強く握っただけだった。その指には切り傷や火傷がいくつかあって、私は不思議に思った。
「すまないね。飲み物がないことすっかり忘れてた」
 飄々とした様子のカネル師が戻ってきて、ぞんざいに次室への扉を閉めた。そして、水を入れた瓶を指でつついてすぐに湯を沸かし、茶を入れた。匂いを感じない私は最初気づかなかったが、師が机に置いた茶葉入れの文字を見て、コリンがいつも飲んでいたものだと知った。
 ライアは少し震えた手で、それを一口飲んだ。
「それで、用件を聞こうか。あ、でも、魔法に関する質問ならまた後日にしてほしいな。今は手いっぱいだからさ。人手は足りなくなったし、まだ戻ってきてない子もいるし」
 彼女の手がぴたりと止まった。視線は器の中。
「君のこと、これでも頼りにしているんだよ」
 俯いて黙りこくるライアを、師は考えを悟らせない微笑で見つめ、答えを待った。やがて、垂らした髪で表情を隠すように、ライアは顔を上げないでゆっくりと口を開いた。
「すみません、やっぱり、なんでもないです。お邪魔してごめんなさい」
 乱暴に茶器を置いたライアはそのまま立ち去ろうとしたが、師が彼女の手をつかんで引きとめた。ライアの半身が一瞬、宙に浮いた。
 あの人は、私と大差ないくらいに細い腕をしておきながら、不思議と力が強かった。まだ私が幼く見習いだったころ、失敗をしたらよく師に放り投げられたりなどしたものだよ。
「待ちなさい」
 薄く笑った師の顔を見上げたライアは、怯えに近い表情を浮かべた。いや、師は怖い、確かに怖いが、カネル師自体を恐ろしく思ったという感じではなかった。うまくはいえないが、悪事がばれてしまったかのような様子だった。
「せっかく淹れたのだから、最後まで飲んでほしいな。師匠に対してちょっと失礼だと思わない?」
 ライアの視線は卓の上。私はただ見ることしかできないが、よほど力のせめぎ合いが行われているのか、捕えられた手はぶるぶると震えていた。
「グレンを不機嫌にしたくらいの価値はある話を期待していたのだけどね。彼だって、怒り損でしょう」
 ライアは黙々と席に着き、一言も発せずに茶を一気に飲みほした。
「忘れてしまいました」
「嘘つき」
「嘘じゃありません。すみません、戻ります」
 ライアは駆けるような足どりで出て行ってしまった。師は頭を掻きながら、茶器を持ち上げて私の前で揺らしてみせた。
「どうしよう、まだ残ってるんだけど、君は飲めないよね?」
「当たり前じゃないですか」
 私はわざと大げさに溜め息をついてやった。
「彼女、すっかりあの調子なんだ。君もコリンも死んでしまったし、今はグレンが面倒をみてくれているんだけど、彼女らしくない失敗が増えて」
 師はもう一杯、自分の器に湯を注いだ。コリンが見ていたら思わず悲鳴をあげそうなほど杜撰な淹れ方だった。
「コリンの死が大きかったね。手当をしてずっと付き添っていたんだけど……残念だった。彼だけが傷を負ったことを悔やんでいてね。我々が叱っても励ましても、耳に入らないらしい」
 どうしたものだかと言うように、師は首を傾げた。
「あの調子が続くと、どうしようもなくなるかもしれない」
「どうしようも?」
 私の言葉と同時に、扉を叩く音がした。師は困ったように笑った。
「見ていればわかるよ」


 そのころ、ローハイン工房には本来の半数しか人手がなかった。事情はいろいろさ。仕事の状況だったり、物理的な距離だったり。あと、町の出入りが制限されて足止めを食らったという話も聞いたな。そういうわけですぐに復旧とはならなかった。
 育てていた薬草や保存していた材料は使い物にならなくなっていたし、作業場も被害を受けて道具が破損あるいは行方不明になっているものが多かった。書物もだいぶ灰となった。私の部屋は外壁だけで済んだのは幸いだったが、持ち主は死んで持ち物は残るのは皮肉だな。
 弟子たちが寝起きする宿舎もほぼ無傷で、どうせならこちらを破壊してくれたらよかったのに、と私は他人事のように思っていた。え? なぜって、宿舎には服と寝台くらいしかないだろう? 魔法使いにとって大事なのは、魔法に使うものに決まっている。
 工房を再開するには、とにもかくにも環境を整える必要があった。町自体も復旧に追われていて応援を呼ぶどころではなく、限られた人数で工房の復旧を行うのはなかなか大変だったようだ。
 あっという間に業務は滞った。カネル師は新しい依頼の全てを断るように指示を出していたが、弟子の中には癖のある依頼人を抱えている人間も少なくなかった。師が出ていけば引き下がるのもいたが、人質を取られているも同然の者もおり、完全に排除するわけにもいかなかったのだ。それで完全に工房を立て直すのに専念できず、工房の復旧に従事する人間、依頼された仕事を進める人間の二つに分かれなければならなかった。
 私だって生きていれば手伝えただろうに、ただ見ているしかない自分がもどかしかったよ。生前は他人に対してさほど積極的ではなかったのに、いざ生者の輪から締め出されてみると、何もできないという現状が馬鹿らしくなるほど悲しく思えた。
 この状況で実感したのは、私と意思の疎通ができる人間が本当にいないことだった。私の声を聞けるのは素質のある人間だけと言ったとき、私は話半分に捉えていた。師は普通に話すことができたからな。しかし、私がちょっとしたことで声をあげても、誰もが無視した。無視というのは変か、元々聞こえないのだし。
 神の力がなんだ、ヴィーエが強大な神ならば、素質のない人間にも声が届けられる方が自然ではないか、と隠れて愚痴を言いたくなった。このときはまだヴィーエについての理解も少なく、自分がその神に取りこまれているという意識もなかった。ただ、会話ができないことに寂しさを感じる自分はとても不思議だった。コリンとライアが来る前は、弟子同士でもあまり言葉を交わさずにいて、その方が気楽だったのに。いつの間にか二人といることに慣れてしまっていたせいだろうか。
 そのライアはというと、彼女の能力を考えれば妥当だが、急ぎの依頼分をこなす役目を任されていた。普段の彼女ならとても頼れる存在だろうと呑気に考えていた私だが、師はやけに彼女のことを注意して見ていた。そして、その理由はすぐにわかった。
「比率が違う。四六でなくて五七だ」
「ここ、余分に切りすぎている。これじゃ使えないよ」
「指定と形がちがう。もっと鋭く」
 他の弟子たちからの指摘がたびたびライアに出された。別に彼らの意地が悪いわけではない。彼女にしては信じられないほど多くの失敗が発生した。どれも単純なものであるが、まさかこの子が、と言いたくなるような予想外の問題が相次いだ。どうしたんだ、と彼女を叱責する声が聞こえることも少なくなかった。
「医療士になったら失敗はもっとできなくなるぞ」
 肩に手を置かれて確認するような口調で言われると、ライアはますます俯いて、小さな声で謝り、淡々とやり直していた。事件前は多少の皮肉も平然と交わしていたのが嘘のようだった。ライアを嫌っていた者でさえ、同情的な視線を送るようになった。
 工房の修理に回しても、結果はあまり変わらなかった。失敗するか、心ここにあらずという状態でいるかのどちらかだ。こちらは力と速度を求められていたこともあり、すぐに別の男の弟子と交代させられた。
「先生、ライアに仕事を振らない方がいいと思うのですが」
 彼女の様子に苛立って、そう進言してくる弟子もいたが、カネル師の答えはたいてい一緒だった。
「この状況で何もしなかったらますます萎縮するだろう。今、あの子はここを出てもどうしようもないし、私がついているから」
 手先が器用なことを除けば、ライアは魔法使いとしてまだまだ力不足だった。他の弟子たちに負担をかけさせないなら、師が補助に回るしかなかった。師はライアを自分のそばに置いて細かく状況を監視するようになった。
 私は手を出したくても、出せないどころか声すら彼女には届かない。カネル師がそのときそのときで適当に置いた台の上や棚などの、遠い場所から何もせず黙って見守るしかなかった。まだ肉体があったときと同じ感覚でいた時期だったから、とにかくもどかしくて仕方がなかった。手を伸ばそうとしても、その手がもうないのだから。
 それがどれくらい続いたか。敷地内の目立った瓦礫がなくなったころだったと思う。自分のもとに届いたまま放置していた書簡に目を通していた師は、一通だけ除けて束から離したところに置いた。そしてライアを呼び、それを手渡した。
「君宛のものが私のところにまざっていたよ」
 頬のあたりが痩せこけて、眼下の隈が濃くなっていたライアは、宛名を見て訝しみながら紙をひっくり返す。そして、差出人の名を見つけたのか、まん丸に目を開いた。
「知り合い?」
「はい、シェスカのプリムサズにいる……。すみません、ありがとうございます」
 プリムサズは、シェスカの内陸にあったベネディーラという国の一都市だ。宝石の採掘と加工が有名で、そこで作られる装飾品はシェスカ西部の王侯貴族に好まれていた。
 ぼんやりと部屋を出ていくライアを見送って、私の疑問をわかっているかのように師は口を開いた。
「昔の仲間かな」
「確か、以前は何度かやりとりをしていましたね」
 ライアはたびたび、シェスカに残してきた仲間に何通か自分の近況を知らせていたのだった。戦の最中だったから届くかどうかもわからなかったが。
「無事を知らせるものでしょうか。それであの子が少しでも元気になってくれたらいいんですけど」
 私の言葉にカネル師は何も応えず、難しい顔をして窓の外を見やった。そんな師の様子に、私は強い不安を感じた。だから、翌日以降のライアがやけに穏やかで、時々にこやかにさえしている様子を見たときはほっとしたんだ。グレンをはじめとする他の弟子たちも、安堵する者もいれば、心配して損したような表情を 浮かべる者もいた。
 しかし、師だけは依然として、いや、もっと渋い顔をしていた。異様にさえ思えるほどで、どうしたのかこっそり尋ねてしまった。カネル師は深く溜め息をついた。
「油断ならないね」
 私は最初、この人は何を言っているんだと呆れた。ライアは見るからに変化があり、元通りとまではいかなくても、ずっと雰囲気が明るくなった。むしろそこは安心すべきところだろう、と。
「もうちょっと様子を見たい」
 理由は語らずに師はそう呟くと、自分の仕事に取りかかって私の言葉なんか耳に入らないような態度だった。
 それから数日経ってもライアは元気に見え、師の言葉は杞憂にしか過ぎないと安心したものだった。一時よりも集中して仕事をしているように見えた。
「ようやくあいつを気にかけなくてもよくなりましたね」
 グレンはライアに対しては普段から毒を含ませたような物言いをしていたが、このときばかりは少し嬉しそうに見えた。いや、さすがに気持ち悪いなどとは思わなかったよ。珍しいとは感じたが。
 そう話しながら、彼と師と私が廊下を歩いて師の部屋に向かっていると、その隣、つまりは私の部屋だった場所からライアが出てきた。師たちの姿が目に入って、あちらもぎょっとしていたが、こちらだって驚いた。
「やあ、ライア。どうかした?」
 真っ先に声をかけたのはカネル師である。彼女がいないときとはうってかわって、その笑顔と朗らかな声の調子と表情は、まるで詐欺だった。
「別に、何でも」
 何だか久しぶりにライアの顔を間近でじっくり見たような気がした。にっこりと笑いながら首を横に振る彼女を、私は奇妙に感じた。ライアは、こんな風に笑う子だっただろうか。確かに朗らかな様子なのに、何かが違った。表面的な笑顔なのだ。以前の心の底からの笑みではなく、腹に一物抱えているような。私はふと、コリンが別の世界の人のようだと砦で話していたときのことを思い出した。何となくあのときと似ていた。
「探しもの?」
「はい。ちょっと必要になって」
「でも、勝手に荒らすと次室に怒られちゃうかもしれないよ」
 そこで何故私の名前を出す、と軽く抗議した。グレンが眉をひそめたと同時に、ライアの目から大粒の涙があふれた。自分でもびっくりしたらしく、彼女は慌てて手で拭おうとしたが、指の隙間からこぼれつづけた。
「ごめんなさい、私、どうして」
 口を挟むべきか迷いながら師とライアを交互に見るグレンと、ただまっすぐ彼女だけを見つめる師は対照的だった。
「とりあえず私の部屋に来なさい。グレンも一緒でもいい?」
 返事を聞かずに一人だけ先に自分の部屋の扉へ向かう師の背後には、涙を拭くことを諦めて立ち尽くすライアと、とにかく彼女に歩くように促すグレンの姿があった。


 ライアたちが入室してきたのは、師から遅れること数分だった。その間、カネル師は無言で地図を広げながらシェスカの国々を指でなぞっていた。
 グレンに引かれるようにやってきたライアは、魂が抜けたように無表情だった。グレンはライアを師の向かいに座らせ、自分は壁際に立っていた。自分がここにいてもいいのか考えているようで、視線は定まらなかった。
「何かあるなら率直に言ってほしいな」
 師にそう言われても、ライアはしばらく口を開かなかった。
「ここが嫌になった?」
 問われて彼女はすぐに首を横に振った。
「勉強が辛い?」
 次の問いに、ライアは一瞬迷って同じ動作を繰り返した。
「二人がいなくて悲しい?」
 今度は何も反応がなかった。グレンがじっとライアを見つめていた。
 ライアの顔色は真っ青だった。思わず駆け寄ってやりたかったが、私は師の机から三人の様子を見ることしかできなかった。死んだなら本来この会話も聞くことはなかったのだから、何もできなくても仕方ない。そう思おうとしても納得できないでいた。
「近頃ね、君があまりにも元気にふるまうから、心配だったんだ。無理しているのを隠そうとすると、逆に不自然だよ」
 師は薄い微笑みをライアに投げかけていたが、ライアはきちんと師の顔を見ようとしなかった。
「忙しさにかまけて、君のことちゃんと考えてやれなかったね。それについては申し訳なく思っているよ」
 ライアは無言でその言葉を否定したと同時に、師は続けた。
「この状態は望ましくないとも感じているんだ。どうだろう。今の君の気持ちを、正直に語ってくれないだろうか」
 ライアは口を少し開けた。声にすらなってなかった。聞き返そうとするように師が笑顔のまま小首を傾げたが、ライアはうまく言葉に表すことができない様子だった。
 グレンが何か助け船を出そうと身を乗り出したが、師はライアを見つめたまま、彼女から見えないような位置で手を挙げて彼を制した。
 もう片方の手で、師はライアの肩を軽く叩いた。
「言えない理由が私への遠慮か自己嫌悪なら、構わないで言ってごらんよ。私は別に何を言われても君を疎ましく思わない。そして、君も君自身を嫌う必要はない」
 ライアははっとした表情で師を見上げた。師はにこりとしつつ、頭を撫でた。
「己を恥じることはないよ、ライア。人間ね、苦しいときほど正直になったほうがいいんだ。それがどんなに低俗で卑小で醜いと思っていてもね。言わないで抱えこむと、本当にそうなってしまうから」
 無言の時間が流れた。ライアよりもグレンの方が気まずそうだった。カネル師は、あの不思議な色をした猫みたいな瞳で、にこやかに弟子の反応をまった。
 ライアの唇が震える。それを隠そうとするように、彼女は俯いた。
「言いたくなったら、いつでも言いなさい。五年くらいなら私も待てるから」
 五年なんて、あなたの感覚では短すぎるのではないか。そう言おうとしたのを私はついこらえてしまった。どうせライアにもグレンにも聞こえないからそう言ってしまっても良かったけどな。
 話に区切りがついたと思ったようで、一つ息を吐いたグレンが去ろうとしたとき、ようやくライアが口を開いた。
「先生、しばらくの間だけお暇を頂きたいと言ったら、軽蔑しますか?」
 一瞬間があったが、師は表情を変えなかった。
「全然」
「昔の仲間に会いたくなったと言ったら?」
「そうだね、それはシェスカかい?」
 頷くライアを見て、グレンが慌てて開けかけた扉を閉めたが、反動で跳ね返り、半開きになってしまった。
「おいおい、何を言っているんだ」
 つかつかとグレンは歩いてきた。彼は大柄だったから、力を入れて歩いていると床がミシミシと音を立てた。本人もそれを自覚して、二階にいるときは歩き方に気を使っていたが、このときばかりはそうも言っていられなかった。
「まさか、シェスカに行くってわけではないよな?」
 片手で机を叩くグレンに動じず、ライアは彼や師の目も見ないで言葉を返した。
「その……まさかです」
 グレンが嘆くように額に手を当てて天井を仰いだ。驚いたのは彼だけではない。私も、いきなりの発言に戸惑った。知り合いがいるからって、それがわざわざこの時期に行く意味になるのか理解できなかった。
 たった一人、カネル師だけが動揺もなく、姿勢を少しだけ変えながら口を開いた。
「一応、言わなかった理由も聞いていい?」
「危ないって、言うだろうから……」
「そうか」
 師は目を伏せて、広げていた地図を閉じて、傍らに置いてあった本に挟んだ。なんだったか忘れたが、地理とはまったく関係のない内容だったことはよく覚えている。そんな状況にあっても、私は「そんなところに適当に入れると、あとで探すはめになりますよ」と言いたくなったのだから。
「他には?」
「ちょっと、先生」
 さっきからどうしてこうもしつこくライアの口を割らせるような真似をするのだ。ここまでくるとただの尋問じゃないかと私は進言したものの、師は何の反応も示してくれなかったし、他の二人にも届かなかった。
 ライアはもう挙動不審なところは見られず、いつの間にかまっすぐ師を見つめていた。
「修業中だから……」
「そうだね、私だってその二つの理由で止めたいと思っていたよ」
 グレンの動作が大きくなる。
「俺だって。ライア、今の状況をわかっているか? 世間のことも、自分のことも」
「わかっています」
 やけにきっぱりとした言い方だった。
「それでも、私は……」
 それを聞いて、師は静かに細い息を吐いた。
「私はね、その判断を好ましくないと思っている。もっとはっきり言えば、賛成しない。プリムサズは一応西側だが、あのあたりの治安がいいとは考えられない。わざわざ君を旅に出したいとも思えない。けれど、君の行動について一つ肯定的な言葉が出すとしたら――」
 師は私を手にはめて、くるりと回した。
「人間、いつ死ぬかどういう形で別れるかわからない。会えるときに会っておいた方が後悔は少ない、ということかな」
 その言葉を聞くやいなや、グレンは一気にまくし立てた。唾が大量に飛んで、生身でそばにいなくてよかったとこっそり思ってしまった。
「先生、あなた止めるべきでしょう! ライア、今は修行に励め! もう俺が紹介状書いてやるから、ただちに学校に行け。そこでもまれてこい、落ちこぼれて落第して修了が遅れたらもっといい。今のお前なら確実だ! そうしてシェスカも安定してるころになってから潜りこめ」
「グレン、一応止めてるよ」
「肯定的な言葉とか何とか言って唆さないでくださいということです」
 それについてはもっともで、私だってグレンの言葉を支持したかった。
「なぜ反対するのかは私が伝える前に、彼女が既に理解している」
 両者の視線がライアに注がれた。
「じゃないと、今日になる前に何か言っていたでしょう」
 ライアは複雑そうな顔をしながら、微かな声で肯定した。
「言えません。だって、私、ここで行ったら……今まで何だったのか」
 握りしめすぎた彼女の拳が震えていた。
「でも、先生の仰るとおり。まさに、そのとおり。だって、いつどこで会えなくなるか、誰も教えてくれないもの」
「だからって――」
 グレンの声を師が遮った。
「ライア、行くにしても、道中はどうするつもり? 何か当てでもあるの?」
 ライアは黙って師をしばらく見つめていた。師も視線をライアに定めたままで、二人はしばし見つめ合うというか睨み合うというか、無言で相手の出方を窺っている様子だった。
 グレンと私は、意志の疎通こそできなかったものの、同じようにどちらかに動きがあるのをただ待っているしかなかった。私はまだいいが、ここに居合わせたグレンは気の毒といえば気の毒だったかもしれないな。私も生きてここに立っていたら、身の置き場に困っただろう。
 さて、その膠着状態を破ったのはライアだった。本当は何も話したくないと言いたげに頷いた。
「一応は」
「……そう」
 それまで質問攻めだったわりには、師の反応はあっさりとしたものだった。グレンが何か口を挟もうとしたが、うまく言葉が出ないようだった。
「先生、行ったら破門になりますか」
 ライアの問いに、師は頬を掻いた。
「別に。一度弟子になったら自由にすればいいと思っているよ。独立しようとしまいと、出来が良かろうと悪かろうと、私にとってはみんな弟子だよ。戻ってきてまた勉強する気があるなら、場所は空けておくけれど」
「ちょっ! それではまるで……」
「落ち着いてよ、グレン。私の言い方も悪いけれど、ただ単にライアのことを考えれば反対だ。それだけは今、しっかり主張させてもらうよ。行く意味はあってもそれが今である必要は、ライアだけを見れば感じられない。むしろ行ってほしくない」
 念を押すように、カネル師は語気を強め、すぐに緩めた。というか、少し力が入らなくなったようだった。
「でもね、誰もその人を縛りつけることはできないんだよ。何百年生きていて、それはよくわかっているんだ」
 グレンは机を叩いた。
「今! 今、ここで止めればいいじゃないですか! 彼女はただの素人に毛の生えた程度の弟子の小娘ですよ? あなたがなぜ止められないのです?」
 必死なグレンだったが、その内容は先ほどからなかなかライアに対して失礼な気がした。しかし、彼としてはなんとかライアを留まらせたかったのだろう。そういう男だ。
 私は私で、ここで師がライアをもっと積極的に引き止めないことがなんだか不思議だった。賛成しないと言いながらも、行くなとはっきりとは言わない。
 そのとき抱いた感情は「狡い」に似ている気がした。もしも何かライアにあったら後悔しないのだろうか、あの子自身の判断に委ねすぎではないかと。
「先生、俺も行かせない方がいいって思いますよ」
 口出ししても、やっぱり無視された。ここで師に意思疎通を拒否されると、私はただの幽霊と変わりがなかった。
 ライアははっきりと、私たちにも聞こえるように大きく呼吸をした。それで我々の視線が彼女にしっかりと向いたときに、まっすぐな眼差しで言葉を発した。
「先生、グレンさん。私、行きます」
 カネル師は目を伏せた。長い間そうしていた。寝ているのではないか、もうそのまま動かないのではと思わせるほどに。
 不意に長く伸ばした師の髪の一房が静かに揺れた。
「わかった」
 師の手が少し強めに握られた。ライアは力の入った微笑を浮かべ、深々と礼をした。
「……ありがとうございます」
 グレンは顔を歪めて黙りこくった。
「君が帰ってくるのを待ってる。私と……グレン、君もそうでしょう?」
「そりゃあ、帰ってくるのなら」
「じゃあ、決まり」
 師はライアに向き直った。
「君の希望に合わせて船の手配はしておこう。こればかりは私がやらないとね。ついでに誰か信頼のおける同行人――」
「それは、いりません!」
 ライアは慌てて手を振った。
「一人で行きます」
 カネル師は一瞬何か言いかけた。しかし、ライアが遮った。
「大丈夫です。さっきも言ったでしょう、当てがありますから」
「信用してもいい?」
「……はい」
 師の頬に、長いまつげの影が落ちた。いつの間にか部屋に差しこむ光が鋭くなっていた。
「わかった」
 泡のようにすぐに弾けて無くなるような返事だったが、師はそれ以上の追及を諦めたようだった。とにもかくにも、ライアは自らの言葉でシェスカ行きを口にした。こういうときカネル師が必要以上に口を挟まない性格なのは長年の付き合いでわかっていたため、私もそれ以上は何も言えなかった。
「戻ってくる?」
「迎えてくださるのなら。そうしたら、今度こそちゃんと勉強します。そして、立派な医療士になって、弟子として先生の名誉も汚さぬよう人々の助けに」
「別にそこまでしなくていいよ。私の名誉なんてどうでもいい。では、君の居場所は残しておこう」
 ライアはほっとしたように笑った。しかし、一瞬、それが泣いているような表情に思えた。師も同じように見えていたかどうかは知らないが。
「まあ、しばらく抜けるのだから、修業はだいぶ後退したところからやり直しになるだろうことは覚悟しておいて。あとは、君が抜けると仕事の進行はちょっと心配だけどね。君の技術は本当に貴重でありがたかったもの。でも、ほら、そこはグレンが補ってくれると期待しておこうかな」
 いきなり話を振られたグレンは嫌そうに眉をひそめた。
「先生、俺はあんまりそういうのは」
「だって今度からは君が頼りなんだよ。頼むよ、私もこの歳だから結構きついんだ。頼る相手が減った」
 私が死んだ以上、今度は彼が次室となるのは明白だった。次室というのは代々こき使われる運命にあった。師の無茶な言いつけにも問答無用で従わなければならない。いい気味だと私がこっそり言うと、カネル師はにやりと私に向かって微笑みかけてきたので、私は口をつぐんだ。
「先の次室は工房から出たがらなかったし、他人との関係は見渡す限り壊滅的だったけれど、君はそんなことないからいろいろ頼みがいがあるなあ」
 カネル師が明朗な表情を浮かべているその向こう側で、ライアは魂が抜けたような様子だった。
「いろいろ支度しなくちゃいけませんね……。向こうにも報せを送っておかないと」
「そうだね、一応空き時間は多めに作ってあげる。その間に出立の準備をするといい。ある程度進めば、いつ出発できるかの見込みがわかるだろう。そうしたら私に知らせてくれれば、あとは用意しておくから」
 こくりとライアは頷いた。
「今から始めてもいいですか?」
「もちろん。ああ、すぐに出て行けって意味じゃないからね」
 その言葉に困ったような笑みを浮かべながら、ライアはふらふらと出て行った。それを見計らってから、グレンは口を開いた。
「本当に行かせるのですか?」
「うん……」
「もしも、もしもですよ。あいつが死んだら、あるいは死ぬと同じくらいに辛い目にあったら、どうするおつもりですか?」
 カネル師は椅子に深く座り直し、背に重力をかけて椅子の前脚を持ち上げた。木のきしむ音がかすかに響いた。
「そうしたら、行かせた責任を感じるね。それでも」
「それでも?」
「今は帰ってくることを祈って待つことしかできないのさ」
 その答えをグレンは気に入らなかったようだ。不満そうな表情を隠さずに挨拶して、乱暴に扉を開けて出ていってしまった。
 残された師は姿勢を元に戻し、細く溜め息をついた。私はしばらく黙ってその様子を窺っていたが、そのうち唐突にカネル師は口を開いた。
「ところで、いい気味ってなんだい、君」
「え、なんのことですか?」
 とぼけてみせると、そのまま置かれているところから軽く払い落された。ころころと床を滑り、壁の直前で止まった。
「グレンに言ってたろう、さっき。きちんと聞こえていたよ」
「そのままです。死ぬほどこき使われるといいってね」
 ライアの心配をしていたというのに申し訳ないが、この妙な会話がそのときの私にはやけに楽しかった。例えて言うなら、いたずらが成功したあとの反省会をしているときの気持ちというか。
 その答えに、師はくだけた笑みを浮かべ、席を立って埃を払うと私を元の位置に戻した。
「死ぬほどって、君はさんざんこき使われる前に死んじゃったじゃないか。説得力ないな」
「いや、死なない程度にこき使われていたと思いますがね。もう何もできない存在ですからね。せめて何かやらなければならない人のことを笑わせてくださいよ」
「確かに、君は今とても無力だね」
 耳が痛い限りではあったが、力がないままこの場に存在しているのは不可抗力だから仕方ないと思いこむことにした。
「ああ、私も本当に無力だ」
 机の上に両肘をついて指をくみ、その親指に頭を押しつける師に何か言葉をかけているうちに、その日の太陽は沈んでしまった。





2012/05/31


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