第二章 終わりと始まりの螺旋 二 ライアの出立は、予想以上に早いものだった。彼女はさほど大きくもない袋に詰めた荷物だけで事足りると言った。部屋もそのまま残しておくという師の言葉に甘えたらしく、身のまわりのものはほとんど置いていくことにしたらしい。 「いいのか?」 不審がるグレンを、ライアはおどけたように鼻で笑った。 「これだからお坊ちゃんは。荷物を運んでくれる召使いもいなければ、安全に送り届けてくれる優雅な馬車もないんですよ。いざというときにすぐに自分で抱えて走っていける荷物だけ。それが庶民の旅の基本です」 むっとするグレンを見ておかしそうにライアは忍び笑いをした。 「そうだ、グレンさん。そういうわけで、あまり本を持っていけないんです。二つ持って行くならどれがいいですかね?」 「二つ? 最低でも二十は」 「私の話もちゃんと聞いてくださいよ。十冊もこれには入りませんよ。それに、もしまとめて盗まれたりなんかしたら、私、一生働いても返せません」 そう言われてむっとしながらも、わざわざ書棚にあるもの一つ一つをじっくり眺めて吟味するグレンは、なんだかんだ言ってやはり面倒見のよい男であった。工房の他の弟子たちはライアを遠巻きに見ているだけで、グレンを介していくらかは話すことがあっただろうか。あとは残りの仕事のときか。 見たところ、出発を決めてからのライアは変にうろたえたりせず、空回りすることもなく、粛々と回された仕事をこなしていた。むしろ私やコリンがいたころよりも冷静だった。静かに集中して、作業する自分の指先をどこか淡白な目で見つめていた覚えがある。 師はあれほど彼女のことを気にしていたというのに、あの日以来は放任するようになり、同じ部屋にいても絡むことは少なかった。二人が再びきちんと会話をしたのはライアが発つ前々日だったと思う。師が彼女を自分の部屋まで呼んだのだ。 「いよいよ明後日だね」 そう師のほうから声をかけると、ライアは薄く笑って応えた。 「おかげさまで。先生」 改まった声で師に呼びかけたライアは唇を震わせながら静かに頭を下げた。 「ごめんなさい、ありがとうございました」 「どうしたんだい、いきなり」 「私は、わがままだから、いつも、いつだって勝手なことを言って」 師は苦笑しながら肩をすくめた。 「まだ一回くらいしか君は私にわがままを言ってないよ。最初にここに来たときだけだ」 「いえ、もっとたくさん言ってしまったと思います」 カネル師は自嘲気味に首を横に振った。 「ごめん、そうだったら覚えてない。もう歳だからさ。だからもしまずいことを言ってしまったと思っているなら忘れてしまうがいいよ」 そうやって都合のいいときだけ年寄りぶる。私がそう言ってやると、師は私を手首にはめたまま、自分の太ももに打ちつけた。そんなことをしても痛覚なんてないのに。 ライアは困惑しながらも少しだけ気持ちを緩めたようだった。 「なら、お言葉に甘えて。では、これが二つ目ですね」 「何が」 「出ていくこと」 カネル師はやや間をおいて口を開いた。 「ライア、何度も聞いている気がするけれど、戻ってくる?」 その問いに、ライアはとっくに慣れきったようにすぐに答えを返した。簡単な答えだった。 「はい」 そのあとライアは何か続けようと少しだけ唇を動かしたが、止めてしまった。二人はしばらく、窓の向こうの微かな潮騒を聞いているようにお互い黙っていた。 「ライア。船で最初にシェスカに着くとしたらアブファムだろう?」 アブファムは、シェスカ大陸の中でもアールヴに最も近いランデンドという国の港町だ。エアトンからシェスカに向かうとしたら、まずはアブファムに向かう者も多い。 「港ですか? はい。まあ、おそらく即日か遅くとも翌日には、また別の船で出港すると思いますけど」 ん? ああ、またあとで話すが、ランデンドはそういう港だ。たくさんの船が頻繁に出入りするから、どんなに長くても一日待てば乗り換えられるんだ。当時、既にそういうものがあったんだよ。 師は顎に手を添えた。 「すまない、一つお使い頼まれてくれないか」 ライアはきょとんと差し出された手紙を見つめた。 「あの町にハロルドという男がいる。私の最初の弟子のうちの一人だ」 その名前が出た瞬間、私は魂がしめつけられるような思いになった。 「彼の家に行けば、きっと旅の役に立つ何かが得られるだろう」 「え、でも」 「手間かけるけど、寄ってくれないかな? 単純に私が彼に用事があるんだ」 師は一枚の紙を取り出してさらさらと何か書いて体裁を整えると、ライアに手渡した。赤の封蝋に、師を表す刻印が浮かび上がっていた。 「よければ、ついでに届けてくれないか。彼ときたら、まったく返事をよこさない。私が怒っていたと伝えてくれたら嬉しいな」 ライアはためらいながら受け取るのを見て、師は安心したような素振りを見せた。 「悪いね」 「いいえ。その人のこと、話には聞いていますから、私も会ってみたかったですし」 伏せた目でライアは笑った。 「ついでに、先生。私からも一つお願いがあります」 「なんだい?」 「隣のお部屋……開けていただきたいんです」 師の部屋の隣といえば、つまりは私の部屋だったところ、ライアがコリンとさんざん入り浸って騒いでいた場所だ。その一日か二日前から鍵がかけられ、他の弟子たちが入れないようになっていた。 「忘れ物?」 師がこう尋ねたのは、おそらく彼女らの私物があちこちに置かれていたからだろう。 ライアは首を傾げながらも頷いて、師は立ち上がると同時に手をかざして次室の鍵を開けた。 私には鼻も口もないが、入った瞬間に埃っぽさを感じた。人間の出入りがないと空気は目に見えて淀むのだな。あの嫌な息詰まりが自分の記憶を通して蘇り、私は押し黙ってしまった。 ここにライアの姿があると、自然とコリンの姿も探してしまった。どこにもいないということをわかっていても。ライアもきっと同じだったのだろう、部屋を見渡すと悲しげな息を漏らした。 彼女は棚に並んだ品々をいくつか手にとっては眺めていた。それは彼女自身のものだけではなく、コリンの所有物であったり私が使っていたものであったりした。 「これ、持って行ってもいいですか」 不意にライアが持ち上げたのは護符の一つだった。彼女の修行の最初期に、ライアへの製作の課題にした覚えがあった。最初、私はそれがあの子が作ったものだと思った。しかし、よく見ると、細部から私が手本として先に作って渡したものだとわかった。 元々ライアの方が器用だとはいえ、このころはまだ彼女の魔法についての素養がまったく足りていなかったので、まだ私も指導役として面目を保てていた。これより数回の課題を経て、私は隠れて基礎を学び直すはめになった。 「ライア、それじゃなくて、その隣にお前のがあるだろう」 そう声かけても無視された。聞こえるはずがないのだから仕方ない。代わりにカネル師が彼女に声をかけた。 「次室の作ったものだね。指導者としての彼のやる気が不足していたことがよくわかる」 「先生、それはないでしょう」 私は一応抗議した。確かに新入りの指導なんて他の弟子にやらせればいいのにと思っていた時期ではあったが。 「コリンがまだグレンさんのところにいたから、私と兄さんの一対一でしたね。まだお互い警戒心があって、何をするにしてもぎこちなくて。でも」 ライアは窓を開けた。泥を水で流すように、清浄な外気が室内になだれこんできて少し眩しかった。彼女は護符を陽光にかざした。 「私、これが好きなんです。あのときの兄さんの貴重な自己紹介ですから。自分のこと、あの人は全然話そうとしませんでした。皆さんそれぞれ得意分野があるようですけれど、次室さんはどういうことをするんですかって言ったら、これを押しつけてきて」 「私の躾が足りなかったね。こんな、人を選ぶようなものじゃなくて、誰でも簡単に動かせるものを作ればよかったのに」 いちいち師の言葉が突き刺さった。本当はこの人、私がこの場にいることを忘れているのではないかと思うほどに。 「結局、私のは形が一緒でも全然護符としての効果は出ませんでした。あとで別の先輩に聞いたら、こんなの次室じゃないと無理だよって。嫌がらせじゃないかって思いました」 え? わざとではないよ。疑うなよ。 ライアは、何が違うのかわかったときは詐欺だと思ったとかなんとか、護符をいじりながら散々ここに存在しないはずの私を笑顔で責めたあとにこう加えた。 「兄さんがどういう人なのか垣間見える出来事でしたね。あんまり印象のいい話ではないんですけれど、あとになればなるほど、兄さんらしい話だと思いました」 カネル師は天井を仰いで色々思いを巡らせるような仕草を見せながら、なるほどね、と小さく呟いた。 「だから、自分のではなく兄さんのを持っていきたいんです。身を守るため……というよりも、私のために」 その言葉でようやく私は自分の方が思い違いをしていたことに気づき、決まりが悪くてつい黙り込んでしまった。そして、自分のためという彼女の言葉を、もう少しきちんと受け止めるべきだったと後に悔んだ。 無論、ライアはそんな私のことなど知る由もなく、まだ棚を物色していた。それは私こそが部屋の主だからよくわかったさ。彼女が見ているのは、コリンゆかりの品だってことはな。 コリンと一緒に作った品々、よく使っていた道具、何かの拍子に私たちに分けてくれた嗜好品、そういった物を眺めていると、あの部屋の思い出が浮かんできた。その前の十年の孤独を無にするような、賑やかな一年だった。 ライアは何か小さなものをつかむと、師に向きなおった。 「では、これとこれは持っていきます。二人なら……きっと見守ってくれるのでしょうね、私が行って帰ってくるまで」 陰を含みながら笑うライアはどこか自虐的だった。少し前までは無邪気にコリンとからかいあっていたのに、当時の私にはあの日々がやけに遠く感じた。 「ライア、二つ持っていくというなら、もう一ついいかい」 唐突に師がそう言い出すものだから、ライアはきょとんと目を丸くした。師は私を彼女の目の高さまで持っていった。 「これもハロルドに」 思いも寄らぬ発言に、私は驚きの声をあげた。二の句をつげないままわけのわからぬ言葉を発しているうちに、ライアはきょとんとしながらも頷いてしまった。 「よかった。これはまだ少し時間があるから調整したい。さっきの手紙も書き直すから、出立のときに改めて渡そう」 師はライアから手紙を返してもらうと、彼女を連れて自分の部屋まで戻り、適当に話を終わらせてライアを退室させた。 「先生、渡すって、いったい、その」 私があいかわらずきちんと文章として言葉を発せないでいると、師は積み上げた本の上に私を置いた。そして、金の瞳でまっすぐ私を見つけた。 「言ったとおりだよ。彼女に連れて行ってもらおう」 「いったいどうして」 「賭けたいんだ」 返してもらった手紙を惜しげもなく破り、新しい紙を取り出した師は、ペンをくるくると回した。 「賭け? 何を言って」 「ああ、そうだ。これは賭けなんだよ、次室。長い人生で三回目の賭けだ」 今となっては、長い人生で三回目というところに言及したほうがよかったかもしれないが、あいにくそんな余裕はなかった。 「別に、俺は先生に一から十まで頼るべきとか、そんなことは思っていません。けど、急にそんなことをなんでそんなことを言い出すんですか」 尋ねたものの、師は黙ってしまった。 私は途方にくれてしまった。この身は言葉しか使えない。師の肩をつかむことも髪を引っ張ることも頬を叩くこともできないのだ。それなのに、唯一私に残っている言葉を無いものにされると、どうしようもなくなってしまうのだ。 「ライアは俺がこんな姿になっているとも知らないんですよ」 師はようやく返事をよこした。ただし、私の方は見ないで。 「うん、わかってるよ。そして、私は今後も言わないつもりだ」 「それで俺をあいつに預けるんですか? いったいどうして」 疑問符の洪水で思考は決壊寸前だった。私はカネル師がどうしてそんな無謀に無茶を重ねたことをするのかまったく理解できなかった。 師は苦い顔をして、私に向き直った。 「私は当分動けないだろう。けれども、君にはなるべく早く外を見てほしいんだ」 そんなにさっさと厄介払いしたいんですか。そう言うと、違うと弱々しく笑った。 「君は孤独かもしれないが、私と離れることで見えるものもあると思うよ」 こういう状態なので、私には自分の身の振り方を決定する権利など無きに等しかった。 師の言うことにまだ完全に納得できてはいなかったが、私は了承するしかなかった。そう返事をすると、師は安堵した表情をわずかに浮かべた。 「君、ライアを頼むよ。あの子はとても危ういから、そばに誰かいた方がいい。どうか見守っていてくれないか」 「……俺は、見ているだけしかできませんよ」 師は力なく笑った。 「それでもいいんだ」 そうして私の出立は、唐突に未消化のまま決められたのである。外の世界を見てほしい、と師は言った。こう告げられると私が工房から一歩も外へ出たことがないようにお前は思うかもしれない。けれども、実はまだカネル師の弟子入りして日が浅いころは、件のハロルドさんに連れられてよく旅をしていたんだ。 そんなに広範囲ではなかったけれどな。魔法の素材や職人との交渉に立ち会ったんだ。私が晩年、そういう仕事をほとんどやらなかったから特別に聞こえるかもしれないが、そういうのは本来、魔法使いとしては基本の仕事だよ。 確かにあのころが懐かしく思ったな。だが、それは外の世界がどうのというわけではなくて、ハロルドさんに対して感傷的になったんだ。私が工房に入ってから親のように接してくれたが、結局、あの人がシェスカに帰ってからは手紙一通のやりとりもなかった。私が……私の事情で拒んだんだ。別にハロルドさんに何の非もないよ。 「そうだ、君の貯えはライアの旅費にしよう。それがいいね。私の見立てではだいぶ残されていると思うのだけれど」 悪戯っぽく師は片目をつむった。まあ、見立ても何も、私が金を使うことなどほとんどないことは師も前々からよくわかっていたはずだが。 「居候迷惑料をさっ引いてもまだまだあっただろう? ああ、君って本当にいい兄弟子だ」 「コリンの分まで言い出さないあたり、先生もいい師匠ですよ」 軽く言葉に出したあと、私は自分の肉体のどこかに小さなとげがささったような気分の悪さを味わった。彼はいない。自分のように人知れず存在しているのではなく、本当にいなくなってしまった。言葉にした途端、空虚が広がった。 「ああ、そうだね……」 私の沈黙に寄り添うように、師は瞼を閉じた。 私が考えても考えてなくても時は過ぎ、人々はそれぞれのやるべきことをする。それは、千年前でも今でも変わらんな。 カネル師にときどき話し相手になってもらう以外は退屈な時間がようやく終わった。ライアの出立の日になったのだ。 ライアは私の墓に花を供えて祈ってくれた。安らかに眠るどころかすぐそばにいたわけで、この立場では奇妙な光景に思えてしまった。 「次室はちゃんと見守ってくれているよ」 師が彼女にそう囁いた。ライアは頷こうとしたが、瞳をわずかに動かした。 「コリンは……どうでしょうか?」 もちろん彼も、とカネル師は答えた。ライアは師を見上げながら唇を軽く噛んだ。そして、膝についた土を払い、丘を下る道へ向かった。 港まで見送るのはグレンだけ、わざわざ工房の外に出て別れを告げるのも師を含めて三人だけだった。あとの弟子たちはすれ違えば挨拶くらいする程度に軽いものだったよ。 師は私を手渡した。ライアはそれを大事そうに受け取ったが、中身は私で申し訳なかった。ああ、一応エヴァムとヴィーエもいたか。 ふいに師は一度私を自分の手に戻して、ライアの腕にはめた。 「先生?」 「こっちのほうがいいな。ハロルドに渡すまでは君が身につけててよ」 師は寂しそうに微笑む。 「じゃあ、ライア。くれぐれも気をつけて」 彼女の手を握りながら師は私へと視線を落とし、頼んだよと小声で呟いた。 「はい」 私よりもライアが先に返事をした。おそらく、これをハロルドさんにきちんと渡すようにという意味合いで受け取ったのだろう。 「別に、今になって行かないって選択肢でもいいんじゃないか」 グレンは変わらず不機嫌そうだった。ライアは苦笑して、首を横に振った。 「では、行ってきますね」 ライアは手を振って、グレンと連れだって丘を下る道へと進み出た。 まだ直っていない工房の屋根や壁を見て、私は急に名残惜しい気持ちになった。本気で、ずっとここで生きていくのだと思っていたんだ。人生の大半を過ごしたあの建物から、自分は今去っていく。哀愁が心に湧いてきた。 だから私は、ライアの真似をするように言ったのだ。 「行ってきます」 その言葉に気づいてくれたのは、師だけだった。心配と期待が交じった顔で手を振ってきた。そうして私は、十年以上も世話になって暮らしていた工房からひっそりと去ったのであった。劇的でも何でもない、妹弟子の付属品として――ただの物として。 二人はゆっくりと丘を下った。祭りがとうに終わって静かになった港では、私が生きて外に出たときには気づかなかった、不思議な光景があった。服も肌も汚れた物乞いたちやそれを取り締まる軍人たちが目立っていた。のちに私は、彼らがシェスカからの難民だと知った。 「規制ももう限界だろう。これからこっちに渡ってくる奴らがもっと増えるんじゃないか」 顔をしかめながらのグレンの言葉に、ライアは薄く笑った。 「今でも思ってるでしょ。私が馬鹿だって」 「ちがう、大馬鹿者だと思っているんだ。まともな頭の持ち主とは思えないな」 突然ライアは吹き出した。その意味がわからないグレンは少し慌てた様子だった。 「それ、グレンさん、最初のときも言ってた」 「最初?」 「弟子入りさせてくださいって頼んだとき」 グレンは複雑そうに視線を逸らした。 工房にも色々あるが、うちの工房は入った時点で既に最低限の能力を持っている人間しか入れない決まりがあった。カネル師が決めたことだ。王と決別して王家の子女の教育係を辞したとき以来、他人の面倒を一から見る気が失せた、とか。そのあと、「まあ嘘だけどね」とすぐに付け加えたから、真相はやっぱり不明だった。 この時代から既に魔法教育を専門に行っている学校もあったことだし、学問を修めてから魔法職人として工房に所属する場合も珍しくなかった。それでも、まだ七割近くは最初から工房に入って魔法を学んでいたのではないかな。 ライアがうちで異端だったのは、教育を前もって受けていなかったことだけでなく、工房で勉強したあとは医療士の学校に行きたいと主張したことだ。 彼女はそれまで魔法とは無縁の生活で、医療士になるには前もって魔法使いとしての修行が必要だという情報だけ入手していた。ライアも、自分のような身分の人間が中途半端な経歴を持っているだけでは門前払いとわかっていたらしい。どこか名のある工房で修行して、生まれついての遅れを取り戻そうとしたらし い。 まあ、実際は医療士の学校に入るのもうちの工房に入るのも同じような条件で驚いたらしいが。こっちだって、身の程知らずがやってきたと大騒ぎだったよ。 グレンとライアは歩きながら、わずかな思い出を辿っていく。ライアが修行のあれこれを語っていると、ふいにグレンの顔が曇った。 「俺は……あいつらが嫌いだった。次室は、さんざん先生からも兄弟子からも出入りの職人からも可愛がられていたのに、そういうの全部切り捨てて、工房の中に閉じこもって人を遠ざけて。それなのに先生は相変わらずあいつには甘いし。コリンは、俺の実家でもお目通りがかなわないような大貴族で、都に籠もっていればいいものをわざわざ魔法使いになるし。俺が指導役だったのにお前に対抗して、自分も次室に見てもらいたいとか言い出すし」 グレンは淡々と語ったが、コリンが自分の指導から外れたくだりになると、やや拗ねたような口調になった。 「絶対あいつら苦労するだろうと思って眺めていたら、何だか二人とも次室とうまくいくし」 「あら、実際苦労したんですよ私たち。だって、最初はすごく暗くてとっつきにくくて、グレンさんの方がまだ良かったかもって思ったくらいなんですから」 これも耳が痛かったが、ライアの言葉に反応したグレンの様子がおもしろかったので、流すことにした。 「『まだ』ってなんだよ。俺の方がずっと親切だぞ」 ライアは声をあげて笑った。 「そうですね。あのとき最初に対応してくれたのがグレンさんじゃなかったら、私、今ごろ工房にはいなかったと思います。グレンさんって口と愛想が悪いだけで、実はいい人ですよね」 「なんだよ」 彼はむっとした様子だったが、照れを隠すように視線を逸らした。ライアよりも私の方が付き合いは長かったのに、彼がこういうような態度を取ってきたことは一度もなかった。 「でも……兄さんもいい人でした。少なくとも、私とコリンにとって」 コリンの名前を呟くたびに、ライアは喉に引っかかるような声になった。長い沈黙のあと、彼女は一瞬で布に染み渡る滴のような声で呟いた。 「ずっと、このままでいられたらいいのにって、そう思っていました」 グレンは対応に困ったような表情を浮かべたあと、そっと彼女の肩に手を置いた。 「いつかはお前も医療士の学校に行くだろうし、コリンも都に帰っただろう。次室はずっとあのまま引きこもりだっただろうが、お前たちもいずれは変わっていくものだったんだ」 グレンが言い終わると同時に、二人は港に着いた。馴染みの人間に手配してもらって、ライアは客船に乗せてもらえることになっていた。 最後に乗りこむ客として渡し板を歩いていたライアは、一度立ち止まって振り向いた。 「グレンさん、どうもありがとうございました!」 彼女が背伸びして手を振ると、グレンも大きく振り返した。 「行ってこい。気をつけろよ、お前無鉄砲で危なっかしいからな! またな!」 船は静かに動き始めた。ライアは岸が遠くなるまでずっと手を振っていて、グレンもその姿が小さくて確認できなくなるまでずっとそこにいた。 「また、か……」 エアトンが遠ざかるとライアは軽く溜め息をつきながら言い、身体の向きを変えた。 「ライア」 私は呼びかけてみたが、返答はなかった。彼女はただ、シェスカがある東の水平線に視線を向けていた。 エアトンから出港し、船はコスモス諸島を進む。まあ、シェスカに渡るなら必ずあそこは通るな。海に散らばる島々を見つめながら、ライアは何を思っていたのだろうか。 船内には、他にもシェスカに渡る客たちがいた。沿岸部に住む身内に会いに行くという者、一度はグランリージに逃げたけれども終戦の報を聞いて戻ることにした者。ライアは加わらなかったが、そういった人々は輪になってそれぞれの身の上話をしていた。そんな類の話題は盛り上がるもので、彼らは飽きることなく、戦争と自分たちの身に起きた不幸を語っていた。 難民生活だったがようやくシェスカに戻れるという女性が、ふと溜め息をついた。 「私ら西側はまだいいよ。アールヴなりコスモスなりに逃げこめるんだから。東側は可哀想だよ。北と西は敵の領地、南は氷だらけ、東に行けば遭難確実の海が広がっているだけなんだ。逃げ場がまったくない」 その言葉を聞いて、隣の男が舌打ちをして立ち上がった。 「おい、ばあさん。俺たちの家や畑を散々荒らしまくったシェスキのクソ野郎どもに同情しようってか?」 「私が言っているのは、東の民のことだよ。国は悪いかもしれないが、民に責任はないだろう?」 「民が集まって国だろうが!」 こういった話は、入れ替わり立ち替わり誰かしらしていた。 あの戦争は、凍った大地しか持たない南の大国シェスキが周囲の国を煽って、西へ北へと進撃したことで始まった。その結果敗北して、国内でもまだまともな領地を戦勝国側に取られ、あとは飢えて全滅するしかないとまで言われていた。 その身の上にひそかに同情する声もあれば、いかなる理由があろうと侵略という罪はけして許されることではないと主張を曲げない人間もいた。 「こういうときこそ、カイ様みたいな人が必要なんじゃないの。あの方がもう少し生きて、世界統一が進んでいたら」 彼は……今では認知度が低いのか? それは残念だ。もっと広く教えればいいのに。私が生きていたころなんか魔法使いでなくても常識だったんだが。 カイは、歴史上初めて世界統一を目標に掲げて実行に移した魔法使いだ。こうした国家間の争いがあるたびに、よく名前が出てくる存在だな。この時点でも、八百年ほど前の人物になるのか。 彼は志半ばで反逆に遭い、不幸な最期を遂げたため、大きな統一構想のうちの一部しか成し遂げられなかった。すると、もし彼の失脚がなかったらと考える人間が出てくるのだ。実際、言葉が通じるようになって一部の共通認識を持ったところで、壁が完全に取り除かれたわけではないから、彼の死の直後からこの仮定 がよく持ち上がった。 国の争いに苦しむ人々にとって、カイはある意味神聖化された存在なのだな。中には、神に准じる者として彼を祀る者もいたな。全歴史においても、三本の指に入るような魔法使いであることは事実であろう。もしも彼がこの世の中を見たら何というか、私も気になるところだよ。 「ふざけるなよ、世界統一なんてしても意味ないだろ。現に、言葉が通じても人は争いをやめないし、国同士が決まりを作ってもどうせ破られるじゃないか」 「ああ、マティアスのことかい」 「まずはシェスキだろう」 人々の言い合いに、ライアは憂鬱そうに顔を歪めた。そして、逃げるように荷物を持って甲板へ上がった。 遠くの水平線へ日は沈みかけていた。アールヴからだとシェスカは近いからな、そのころの船だと四日か五日もあれば到着するはずだった。 ぽつぽつと、コスモスの島々に灯りがともりはじめた。まるで海上に星空が出現したようだった。かつて目にしたかどうかももう忘れてしまったそれを眺めな がら、私は切なさを感じていた。慣れ親しんだエアトンがどんどん遠ざかっていく。たったそれだけのことなのに、どうしようもない寂しさを覚えた。 ライアは積荷に寄りかかって、グレンが選んでくれた本を一冊広げた。それは、もしも私の言葉が通じたなら同じように勧めたかったものだ。ライアはぶつぶつと復習を始めた。 「ライア、今だったら一つ先の章を見るといい。そこからで問題ない」 期待していたわけじゃないが、返事もなければ、彼女の指が私の示した場所まで紙をめくることもなかった。 2012/05/31 第二章 一 へ 第二章 三 へ 戻る |