第二章 終わりと始まりの螺旋





 アルノルドとのやりとりのせいか、ライアはその後、フェリクスとどう距離をとったらいいのかわからない様子だった。彼は相変わらず話が好きで、自分が語るのも相手のことを聞くのも楽しそうにしていた。けれども、時間が経つにつれ、ライアはなるべくフェリクスに話させるようにしていた。フェリクスにはいつもどおり接しつつ、アルノルドの意思も尊重したいように見えた。
「ライアは、プリムサズは初めてなんだよね?」
「ええ。ベネディーラ自体、ほとんど寄らなかったから。フェリクスは?」
「僕は何度か。ここまで来るのは大変だけどね。もっと海に近ければよかったのに」
「こればかりは仕方ないわ。大地の都合だもの」
 フェリクス親子は確かにプリムサズに馴染みがあるようだった。サクラーツェとベネディーラの国境でも、両国の兵の中に顔見知りがいたくらいだった。
 国境を越えて数時間ほど行ったところにプリムサズがある。ベネディーラは賊がはびこっているとのことで、正式な通行証を持っている商隊ですら入国が厳しくなっているらしい。一行は、国境の町で一泊することになってしまった。そして翌朝早くに出発して、ようやく彼らはプリムサズにたどり着いたのであった。
 遠目には、プリムサズは高い山と平原を結ぶ蝶番のように見えた。平原と山、それぞれで人々が暮らしている。思っていたよりもずっと規模の大きい町だった。
 ここでも入るまでにかなりの時間を要した。ライアらが町に入ることが許されたのは、昼を大幅に過ぎたころだった。
 高い壁と門を抜けると、整った広い道とその両脇に並ぶ店の壮観さに目を奪われた。プリムサズには、アブファムとはまた違った活気があった。それは海辺と内陸、港と鉱山の町の差だろうか。そこを訪れる人々は、アブファムよりも無骨な人間が目立った。
 ライアはきょろきょろと周囲を見渡す。そして、吐息まじりにフェリクスを振り返った。
「着いたわね」
「うん……」
 そう笑うフェリクスは、どこか寂しそうだった。
「ねえ、フェリクス。あなた、ここはわかる?」
 ライアは仲間たちがいるという場所の名前を告げる。しかし、フェリクスは知らないようだった。
「町の人に聞けばわかるわよね」
「僕もついていこうか?」
 ライアはアルノルドをちらりと見る。彼は彼で見知らぬ人間と何か話していた。
「悪いからいいわよ。ここまで散々お世話になったんだもの。もう十分。そっちだっていろいろ用があるでしょう?」
 ライアは彼の目を見ながら改めて微笑んだ。フェリクスが一瞬静止する。
「ありがとうね」
「な、なにが?」
「こんな、出会ったばかりの私でも心配してくれて励ましてくれたでしょう? とても……ありがたかったの」
 フェリクスは照れるようにして目をそらす。その様子を見たライアは瞼を一度動かしたあとに苦笑した。
「フェリクスたちは、いつまでプリムサズにいるの?」
 彼は頭の中で計算するように天を仰ぐ。そして、最低でも一ヶ月ほどはと答えた。
「私もまだ具体的には決まってないけれど、しばらくは滞在するつもり。今日はひとまず仲間たちのところに行くわ。でも……落ちついたらまた会えないかしら?」
「もちろん!」
 フェリクスの明るい表情に、ライアも嬉しそうだった。二人はお互いの滞在先を教え合い、一度別れた。フェリクスは名残惜しそうに手を振っていた。
 アブファムのときと同様に、ライアは人々に道を尋ねながら歩き出した。あの港よりプリムサズの方が町の造り自体は整っていたが、ところどころ、物が詰まれて行き止まりになっている場所があった。加えて、後から道そのものを捻じ曲げたと思われるところがあって、ここでもライアは苦労していた。
 そしてやっと坑夫たちが集って暮らす地区に着き、きょろきょろとライアが周囲を見渡していると、彼女の背後からこちらを見ていた男の表情が変わった。
「おい、ライア?」
 彼女がそちらを振り向き、目が合う。ライアの顔も弾けるように輝いた。
「ブラウ兄さん!」
 ライアは彼に飛びついた。その様子で、彼がライアのかつての仲間だと窺えた。
 その男がライアを連れて行きつつ、他の人々を呼ぶ。そのたびに喜びの声があがり、彼女は様々な年齢の男女に囲まれた。
「お前、立派になったな」
「また会えるなんて思わなかったよ」
 彼らは代わる代わる、ライアの肩を叩いたり頭を撫でたりした。
 話に聞く限り、ライアのいた芸人の一座はそれなりの規模だったらしい。ここにいるのはその七割ほどということだ。座長がプリムサズ出身で、戦争で身動きがとれなくなったあと、主に身よりのない者を連れてきて定住したとのことだ。他はライアのように別の場所に行ったり、行方知れずだという。ライアはここにいない人間の所在を尋ねては一喜一憂していた。
「しばらくいられるんだろう? ここでの衣食住は心配しなくていいぞ」
 座長の言葉に、なんならずっといてもいいと誰かが言い、みんなが笑う。
「馬鹿。医療士様になる夢があるんでしょうが」
 女性の一人が微笑みかけると、ライアは同じような表情で頷いた。
 幼いころから一緒に過ごしてきて気心が知れているのか、ライアの周囲に漂う凝り固まった空気がどんどんほどけていった。傍観している私すら幸せだと感じるほどに。この旅を「逃げた」と彼女は言っていたが、こうやって笑うための旅だったのだと私は思いたい。
 その夜は、彼女のためにささやかな宴が催された。肉と野菜の料理が卓にたくさん盛られた。プリムサズの食事は、エアトンでは見られないような色彩で珍しかったよ。別に私には食欲ももうないから空腹に悩まされることもないが、あれは一口くらいつまんでみたかったな。昔食べた料理に似ていて懐かしかった。
 一人が楽器を持ち出してきた。あえて言うなら、現在のヴァイオリンに似ていたかな。それで叙情的な旋律を奏で始めると、その場にいた面々が沸いた。ライアも太陽のような笑みを浮かべた。
「サルマ! 頼むよ」
 ライアの近くにいた女性が立ち上がると口笛が飛んだ。彼女は一度深呼吸をし、一瞬間をおいたのちに歌いはじめた。熟練していて、それはもう上手かったさ。そうだな、重力を感じさせる声だ。聞いているこちらを心地よい力で引っ張るような歌だった。
 楽器が足りない、あいつがいない、と人々は言う。横から誰かの手が伸びてきて、ライアも琴のようなものを渡された。
「もう私、全然弾けないわ」
「いいからいいから」
 これでも少ない編成だというが、全員が一斉に演奏すると迫力があった。味も匂いも手触りも感じない私には、音楽が慰めになったよ。ライアは時々手元を確認しながら、伴奏に徹していた。他の者の視線や彼女の様子で判断するに、一度だけ主旋律をもらったようだが、苦笑いを浮かべていた。
 曲が終わると、拍手で部屋はいっぱいになった。外には、賑やかな宴を覗きにきた部外者もいて、彼らも感嘆したようだった。
「本当に腕が落ちたな。筋が良かったのに」
 座長の言葉に、さすがにライアも頬を赤くして視線を逸らした。
「もう最近はまともに触ってないの。たまに、町で仲良くなった人のを軽く弾くだけで。みんなはいつもやってるの?」
「俺たちも、いつもってほどじゃないよ。まあ、これだけ人数がいればおのずと誰かが始めて、いつの間にか全員が集まっていたりするけれども」
「私は一人だもの。その点ではさすがに負けちゃう」
 座長はライアに笑いかけた。
「工房の修行は順調か?」
 ライアの顔がひきつる。その様子を見た他の団員がはやし立てた。
「もしもいじめられてるんだったら、ここにずっといろよ!」
 再び拍手があがり、ライアは困惑したように首を傾げた。
「おいおい。まあ、たった一年二年でどうにかなるものではないだろう。お前は元々、他の魔法使いとは違うんだ。ゆっくり焦らずやっていけばいいじゃないか」
 座長の口調は穏やかで、娘に言い聞かせるようだった。
「お前は字を覚えるのも早かったし、器用だし、度胸もある。きっと大成するさ」
 ライアは彼を見上げた。しかし、座長が聞く態勢を取ったと同時に、ライアは何でもないと首を振った。
「ありがとう」
 目を細めながら、ライアは手に持っていた琴を適当に鳴らした。


 夜遅くまで騒ぎ、寝床を用意してもらったライアはぐっすりと眠った。起きたときにはもう昼近くになっていて、窓から差しこむ光を見た瞬間に彼女は狼狽した。
「おはよう。眠れた?」
 慌てて開けた扉の向こうには、前夜に歌い手をつとめたサルマという女性がいた。丸みのある大きな目を持ち、肌は薄く色づいていて、北方の生まれと見受けられた。ライアと目が合うと、彼女はくすりと笑った。
「あんた、あんなに寝起き良かったのにね。まあ、でも長旅の直後ならしょうがないか」
 サルマは机の上にスープを出して、ライアに食べるよう促した。ライアは身づくろいをしつつ、椅子に座った。サルマは向かい側に座る。
「みんなは?」
「お仕事。戦争が終わったらもっと忙しくなってね。私? 私は今日はお休み」
「サルマ姉さんは普段何をしているの?」
「ああ、石の選り分け」
 ひたすら、星の数ほどの石とにらめっこ。サルマは石を掻きわけるような動作をしてみせた。それを見たライアは苦笑する。
「指痛めそうね」
「今は芸人じゃないからいいの」
 サルマは軽く溜め息をつく。
「そう、今の私たちはただの石屋さん。まあ、お祭りのときは昔みたいなこともするわよ。正直、気ままな旅生活も楽しかったけれど、今の暮らしもそんなに嫌いじゃないわ。……あんたは?」
 ライアは手を止めてサルマを見る。
「魔法使いの生活はどう?」
 表情を失くしたライアはうつむいてしまった。沈黙が室内に満ちていき、外の喧噪が必要以上に大きく聞こえた。
「やっぱりうまくいってないの?」
「そう見える?」
 サルマは無言で頷いた。
「手紙の内容聞くだけだったら楽しそうだったのに、今のあんた、全然楽しそうに見えないわ。手紙は嘘?」
「それは」
 ライアは立ち上がる。サルマは動じず、机に肘をついてライアを見上げた。ライアは唇を噛んだ。
「……ついこの間まではね、本当に幸せだったの。修行が楽しくて、充実していて。でも、ちょっといろいろあって」
 ――逃げてきた。フェリクスには告げられたその一言を飲みこんだように見えた。
 続きの言葉が出てこない彼女に、サルマはふと微笑んで、ライアの頭を優しく撫でた。
「ごめん、変なこと聞いて。言いたくないなら別にいいよ。私ね、ライアとまたこうして会えて嬉しいんだ」
 サルマはライアを座らせた。
「追い出されたわけじゃないんだよね?」
 ライアはためらいながらも頷いた。その動きは、そうとも言い切れないと暗に告げているような気がして、心配になった。彼女の様子を見て、サルマは笑顔を作った。
「それ食べたら外に出ましょうか。こっち側だったら案内できるから」
「うん……」
 弱々しく頷いたライアだったが、涙を流しそうになりながらも笑っていた。
 プリムサズの町は、平野の区域と山の区域の二つに分けられる。最初は平野の方が広かったが、坑道の規模が広がるにつれて山側に移動する人々も増えて、今は半々とのことだ。
 平野側にも工房はあるが、買い付けにくる客相手の店や宿が山側にはない特徴だ。主に山で物を作り、平野で商売をするという流れか。サルマは通りを歩きながら、その一つ一つを説明していった。
「山の方で精錬したり磨いたりしたものを、こっちで装飾品の加工とかすることが多いかな。私たちの仕事場はちょうど真ん中あたりね。山側の奥には、私はあんまり行かない」
 本当に高級なものは通りから見えるようなところに置かない。代わりに、安物は意外なほど自由に見られるようになっている。
「上等な客はこんなところに置いてあるようなものなんか盗まないし、住人は顔見知り。泥棒するようなやつは怪しいから、すぐに目をつけられて取り押さえられるの。夜盗だって簡単に捕まえられるわ」
 プリムサズの住人は屈強な男ばかりで、女もたくましい容貌をしていた。そこに、わざわざここまで来た豪商なんかが交じっただけですぐに目立った。ライアも浮いていたのではないかと思う。
「ライア、それは置いてきた方が良かったかもね」
 サルマは私を指した。ライアは目を丸くして、こちらに視線を送ってきた。
「そういえば、ずっとつけたままだったわ。手紙は渡したのに」
 私もここで、ハロルドさんに渡すという名目でライアに託されたことを思い出した。二人そろって間が抜けていたな。
「そういう大きい石は狙われるよ。あっという間に持ってかれて別のものに加工されて売られちゃう。どうする、うちに戻る?」
 ライアはしばらく悩んだあと、首を横に振った。
「できれば持っていたいの。なんとなく……落ちつくから」
 その言葉は意外だった。私が中にいるとどこかで感じてくれていたのなら嬉しかったのだが。
「じゃあ取られないように注意してね」
 ライアは袖を引っ張って、私が隠れるようにしていたものの、短いのかすぐに布は元の位置に戻ってしまった。何度繰り返してもそうなってしまうので、いつの間にか彼女は隠すのをあきらめてしまったようだ。私も視界が遮られない方が都合はいいのだが。
 ライアはサルマのことを「姉さん」と呼び、他の男性たちは「兄さん」呼ばわりだった。彼女が誰かに声をかけるときは、一瞬自分が呼ばれたかと思ってびっくりしてしまうくらいだった。別に、私だけが兄弟子というわけじゃないし、むしろ彼らに比べたら私の方が付き合いが浅い。それは事実だが、正直言うと少し寂しかった。そうだよな、むしろ芸人仲間への呼びかけが本来の使い方なんだよな。
 サルマは本当に姉のような存在なのか、彼女と一緒にいるライアは気楽そうな態度だった。工房にいたときと同じくらいよく笑っていた。しかし、ここでも不意にその表情が消えることがあった。そういうときのあの子は悲しそうというか、自嘲するような雰囲気だった。
「ライア!」
 いきなり自分の名前を呼ばれて、ライアは驚いて飛び跳ねた。ちょうど通りかかった加工場からフェリクスが出てきた。
 彼の顔を見て眉をひそめたサルマは、ライアの反応を確認して一歩引いた。ライアは戸惑いながらもにこやかに挨拶した。
「なんだか久しぶりに会った気分だわ……」
 きょとんとしたフェリクスも、一瞬間を置いておかしそうにした。
「たった一日じゃないか」
「だって、これまでずっと一緒だったでしょ?」
 ライアの台詞に、彼も嬉しそうな反応をした。
「知り合い?」
 サルマに問われ、ライアは簡単にこれまでの旅での経緯を説明した。サルマは彼のことを知らなかったようだが、一部のプリムサズの住人とフェリクスは顔なじみだった。この日は、アルノルドが数種類の鉱石を使った実験を知り合いの職人と一緒に行っているのだという。
「僕はちょっと暇でさ。街中を見て回ろうと思ってたんだ」
「あら、じゃあついでに案内しましょうか? それとも二人で回る?」
 サルマの言葉に、ライアが答えるより先にフェリクスが苦笑いした。
「いえ、お構いなく。僕はまた今度」
 手を振りながら去っていくフェリクスを見ながら、サルマは肩をすくめる。
「せっかくなのに残念ね」
「姉さん、何を言ってるの」
 ライアは困惑しながら、彼女の手を引いた。
「あら、ライア。追いかけなくていいの?」
「同じ町にいるんだもの。また会えるわ」
「わからないわよ。ここだって狭くはないのよ。いろんな人は来て、いろんな人が去っていくもの」
 ライアは立ち止まり、フェリクスの歩いていった方を振り返った。そこにまだ彼の姿があったかどうかは私には見えなかった。
 サルマは平野側を案内すると、ライアを山側へ連れて行った。坂道をいくらか上った先が、彼女たちの職場だった。坑道はサルマでも入れないということで、ライアが通されたのは石を採ったあとの選別や加工をする場所だった。
 車を押す、鍛冶を打つ、石を転がす、火を焚く。そこに人々のお喋りや怒鳴り合いが混ざり、騒々しい場所だった。平野の加工場は店舗と合わさっているところが大半を占めているが、山は店の代わりに採掘の坑道とつながっていることが多いという。
 魔法工房でも似たようなことはするし、外の職人と共同で仕事にあたることも少なくはない。あちこちで作業をしている人々を見渡しているうちに、ライアは指を動かしながらうずうずとしていた。
「何もしなくていい日って、意外と居心地悪いわよね」
「そう?」
「座長がよく言ってたじゃない」
 二人は声を揃えて声を出した。
「働かざる者、食うべからず」
 けらけらと女性が二人笑っている姿は華があった。たとえそれが、重大な話でなくてもな。ライアの言わんとしていることを理解したサルマは肩をすくめた。
「別にゆっくりしていてもいいけれど、あんたはそれじゃ駄目なのね。まあ、上の人には話しておくから、簡単なことくらいはさせてもらいましょうか」
 簡単なことですめばいいのだが。私は、ライアが本領発揮をして居候以上の仕事をし、引き留められる図を思い浮かべた。
「言っておくけれど、医療士様のお勉強の邪魔はしたくないからね」
 サルマの釘差しに、ライアは苦く微笑みながら頷いた。
「まあ、ライアがここの専属魔法使いになってくれたら嬉しいんだけどね。マティアスの魔法使いってどいつもこいつもケチだから」
 プリムサズは、マティアスからも遠くはない。これほどの規模であれば、魔法の盛んなマティアスからも重要視されているのは容易に想像できた。
 鉱山の男も強いが、マティアスの魔法使いも交渉に長けている。石や仕事の価値でもめることが多いのだろう。サルマはマティアス側との大喧嘩を面白おかしく語った。
「うちの工房では、あまりそういうことってなかったわ」
「エアトンはきっと上品な町なんでしょうね」
 サルマは投げやりに笑った。プリムサズやマティアスの地方に比べたら、確かにエアトンはまだ穏やかなやりとりで済んでいた。お互い、相手と争ったところでたいした利もなかったし。
 まあ、私が生きていたころも問題がなかったわけではないさ。そういうときは、グレンのような気も強ければ体格も立派な人間が交渉にあたった。別に、私は行かんよ……。役に立つはずがない。カネル師だって、こういうときに私を交渉役に指名することはなかったくらいだ。
 サルマは、坑道から車に載せられてやってきた石を見せてくれた。プリムサズは珍しいくらいに様々な石が出るとのことで、いくつもの荷台に色とりどりの原石が積まれていた。
 ライアの視線がさまよう。何か探しているようだった。そして、笑いながら細く息を吐いた。
「どうしたの?」
 ライアは表情を崩さないまま、何でもないと答えた。


 翌日、ライアはサルマの口添えで採石場の手伝いをすることになった。最初は子どもに交じって簡単な仕事をやらせてもらっていた。しかし、彫金の腕が良いと知られると、案の定、彼女は平野の職人たちに引っ張られてそちらの下職を任されるようになった。
 もちろん、プリムサズもライアよりも優れた技術を持つ職人ばかりで、さすがに彼らに敵わなかったが、概ね彼女は好意的に受け入れられた。ニールの家にいたときと同じだな。
 ただ器用なだけではなく、魔法工房で修業している身だというのも重宝がられた。魔法使いではないとわからない、魔法具の取り扱いや理論を、彼女は拙いながらもきちんと説明していた。修行の成果がきちんと出ていることがひそかに嬉しかったよ。
 平野側にいるということで、フェリクスと会う機会も多かった。彼はよほど心配だったのか、自分の持ち場とライアの持ち場を頻繁に往復し、どっちの人間かわからないほどだとプリムサズの男たちに笑われていた。ばつの悪そうな顔をするフェリクスを、ライアがおかしそうに眺めていることもあった。
 けれどもライアは、自分が笑っていることを自覚すると、急に真面目な表情になってしまうことがよくあった。サルマに初めて町を案内していたときのようにな。そんな彼女はいつも隠し持っていたコリンの銀細工を握っていた。そして呼吸を繰り返し、また元の笑顔に戻る。それは、一種の儀式に見えた。
 ある晩のことだった。早くに床についたライアは、一時間も経たないうちに目を覚ましてしまった。しばらくは暗闇の中でぼんやりとしていたが、ふいに荷物から私の護符やコリンの形見を取り出し、私を腕にはめて部屋の扉を開けた。その先にはサルマや座長の他に何人か集まって酒盛りをしていた。
「あら、どうしたの? 目が冴えちゃった?」
「夜風に当たりたくて……」
 サルマはあまりいい顔をしなかった。しかし、必ず戻ると言ってライアはそのまま外に出た。
 夜のプリムサズは、昼間とは印象が異なった。あの時代の夜は、現在よりもずっと暗かったが、その分、月が美しかった。深い闇で満ちた夜空から、光の降り注ぐ音が聞こえるようだった。
 この姿になると、夜の空気を吸えないのが残念なところだ。あの優しい味が好きだったのに。今ではもう、味や感触、匂いといったものはかなり朧気なものになってしまったな。
 サルマたちの家を離れると、静まりかえった道が四方に伸びるだけで、人の姿はほとんど見かけなかった。兵が詰めている門、あるいはまだ職人が仕事をしている工房の灯りが、ぽつぽつとゆらめいているだけだ。
 彼女は特に目的があったわけではないようで、ふらふらと適当に動きまわっていた。
「ライア、あまりこういうところは歩かない方がいいんじゃないか?」
 まあ、私が忠告したところで帰ってくるのは沈黙だけなんだがな。
 正直、私はこういう景色の中をふらつくのは好きだが、見知らぬ夜の町で少女が一人動き回るのは感心しなかった。今更と言えば確かに今更だよ。エアトンやアブファムくらいなら出歩いてもさほど問題にならなくても、夜のプリムサズはどうも気分をゆるめるには抵抗があった。なんとなくそう感じたんだ。
 しばらくライアに連れられて歩いていると、覚えのある気配に行き当たった。
「フェリクス?」
 あの奇妙な空気だ。家などに遮られて姿は見えないが、彼が近くにいるようだった。こんな時間にふらついているのはライアも同様だったが、彼も不用心だなと思った。
 正体がわかれば、彼に対して少し気持ちに余裕が生まれるようになった。ただ、私はこのときライアのことばかりで、彼のことを深く考えないでいた。
 私の意志に反してライアが気ままに歩くものだから、フェリクスの気配は近づいたり遠ざかったりした。せめて彼と合流してしまった方が安全ではないかと感じ、私はライアに声をかけた。
「ライア、近くに彼がいる。探してみてくれ。一人よりはいいだろう」
 独り言になるのは承知だった。それでも何か欠片でも伝わってほしかった。この際、どんな言葉でもよかった。たった一語でもこの声が届けばいいと思った。
 その願いは虚しく夜の空気にかき消されたが、代わりに、待ちわびていた顔が角からひょっこり姿を現してくれた。
「ライア?」
 フェリクスはすぐに彼女の元に駆け寄って、自分の上着を被せた。
「こんな時間に一人で……何をしているんだ?」
「ちょっと気分を落ちつけたくて、散歩に……」
 ライアはか細い声で返事をした。
 私がどんなに望んでも得られないものは、彼には簡単に与えられる。死んでしまったこの身は、きっとこれからもずっとこんな思いをし続けるのだろう。そう諦めたくても、どこかであがいている自分がいた。どうしてかはわからなかった。生前の私があれだけ他者を拒んだのがまるで嘘のように、ライアに応えてほしくてたまらなかった。
「フェリクスは何をしているの?」
「ちょっとお使いに」
 彼は山の方角を指した。その先には、三つほどの灯りがともっていた。
「あら、こんな時間に?」
「まあね。ここだと僕も下っ端になってしまうんだ」
 ライアはくすりと笑った。
「私もずっと下っ端だったから、大変さはよくわかるわ」
 二人はフェリクスの居候先の工場に移動した。そこでは、アルノルドと職人がもう遅い時間にも関わらずまだ実験を続けていた。部屋の片隅では既に休んでいる者もいたが、金属を叩く音が激しく響く中でも悠然と熟睡していたのに舌を巻いた。まあ、これも慣れだろうが。
 室内をぐるりと見渡したフェリクスは、ライアを裏口へと誘導した。そこは路地裏に面していて、他の小路と同じように、木箱が積まれていた。それを椅子代わりにして、彼らは腰かけた。
 月明かりに照らされたライアの顔を見つめて、表情を崩す。
「ちょっとは元気そうに見えるよ」
「そう?」
 ライアは頬に手を当てた。
「みんなと久しぶりに会ったんだし、話題が尽きないだろ?」
「まあ……」
 彼女の様子を見たフェリクスは、不審そうな顔つきになった。
「どうしたの?」
「別に、何でもないわ」
 ライアの態度に、フェリクスは遠慮がちに尋ねた。
「やっぱり、工房のことを思い出す?」
 はっとして、ライアは彼を見返した。そして俯く。
「来て……よかったと思ってるのよ。小さいころからあの人たちとはずっと一緒で、もう離れてからたくさんの時間が流れたのに、そんな空白を全然感じない。あたたかく私を迎えてくれた。この町の人も親切で、楽しく過ごしているわ」
 薄く笑う彼女に、フェリクスは言いづらそうに口を開いた。
「だからこそ、罪悪感があるとか?」
 ライアの眉間だけがかすかに動いた。
「うん……」
 ライアはしばらく黙って、私をそっと何度か撫でた。何も話さないでいると、アルノルドたちのやりとりと風の音がよく聞こえた。フェリクスは根気強くライアの言葉を待っていた。ライアもそれをわかっていたのか、何度か彼に視線を送ったあと口を開いた。
「ずっとここで暮らしたら、きっと私は悲しみから逃れられる。ここでみんなといれば、もしかしたら過去の思い出にできるかもしれない……幸せになれるかもしれない。けれど、やっぱりそんな自分は許せないわ」
 断言する彼女を、フェリクスは切なさを帯びた瞳で見つめた。そんな彼の様子に気づいたライアは唇を歪めた。
「ここが楽しければ楽しいほど、エアトンのことを考えるの。苦しみをなくすためにあそこを離れたはずなのに、いつの間にか思い出してしまう。そうね、罪悪感というのが一番ふさわしい表現かもしれない。きっとこのままここで暮らしても、もっと遠くに行っても、私は魔法から逃げきることはできない気がする」
 それに、仲間も医療士になるのを応援してくれているし。ライアは空を見上げながら目を細めた。
 そんな彼女に微笑み、やや姿勢を崩したフェリクスは穏やかに尋ねた。
「ライアは、どうして医療士になりたかったの?」
「え?」
「魔法の才能があるって言われて、ニールの家でもここでも認められるほど技術があるんだろ? だから、工房士でなくて医療士を目指すのが不思議だなって」
 それは生前の私も気になっていたことではあったが、ついに明確な返答をもらうことはなかった。彼女はいつもはぐらかして、差しさわりのないことしか言ってくれなかった。
 ライアは目を伏せた。どれくらいそうしていただろう。時の流れがとても遅く感じた。彼女の様子は、まるで思い出を懐かしんでいるように見えた。
「芸人時代ね、流れの魔法使いが加わってたの。もしかしたら、あの人も戦争が嫌で紛れこんできたのかしら。私や年少者のことを可愛がってくれていて……その人が結晶石で私に魔力があるってことを教えてくれたのよ」
「この町で会えた?」
 フェリクスの問いに、ライアは憂鬱そうに首を横に振った。
「……結局、行方知れずみたい」
「どういうこと?」
 ライアはしばらくの間、考えをまとめているように沈黙した。そして、ゆっくりと語りはじめた。
「私たちの団は、戦争中でもなんとか旅を続けられた。でも、途中ね、東軍の攻撃に遭った人たちに出会ったの。幸い、戦地から撤退できたらしいんだけど。重傷を負った人があまりにも多くて、医療士が足りていなかった。その魔法使いはそれを見て、自分は治療魔法を使えるからと、救護にあたった。けれども、あの人は……正式な医療士ではなかった」
 その後のことはすぐに想像できた。
「統一法でね、医療士でもないのに治療を行った魔法使いは厳罰に処せられるの。おかしいでしょ? 人の命を助けることには変わりないのに、医療士の資格を持たないというだけで捕まって、連れていかれちゃったの。私たちに累が及ばないように、団とは無関係だと主張しながらね。そして、それっきり帰ってこなかった」
 フェリクスは眉をひそめながら視線をそらした。
「だからね、私、ちゃんと学校に通って医療士として認められたかったの。本当はその人、最後の最後まで助けるかどうかためらっていたのよ。医療士でないとわかれば、自分の身が危ういから。けれども結局、良心に従って目の前の命を救った。それで罪になるっておかしいと思った。でも、こんな小娘の感情だけでは決まりは変えられない」
 悲嘆の声混じりに息を吐き、ライアは服からコリンの銀細工を取り出した。弱い光が反射して、それはほのかに光っていた。
「だから私、絶対医療士になって堂々と人を助けてやろうと思った。意地になっていたの。エアトンの工房でも、先生や兄さんが治療の魔法をこっそり教えてやると言ったけれど、それも断ったの。でも……もしも教わっていたら、あのときすぐに治療できていたら、コリンも助けられたかもしれない」
 彼女は頭を抱えた。
「駄目ね。駄目、駄目。強がったり見栄を張ったりすると、すぐに自分の首が絞まる。大事なことを全部無駄にしてしまっている。もう、自分の考えがぐるぐる回りすぎて苦しいわ。考えれば考えるほど、何をしたいのか、したかったのか、全然わからなくなってきた」
 あの日いきなり降りかかった災厄は、彼女にとって大きすぎたのだろう。考えれば考えるほど、迷路の奥に進んでいくような気分だと漏らした。
「こんな調子で、私、いったい何ができるんだろう」
 じわりとにじんだ涙を、ライアは手の甲で拭った。
「フェリクスには、みっともないところばかり見せているわね。情けないわ」
 この町でも、ライアにとってフェリクスは、唯一、弱音を吐ける相手だった。昔の仲間はライアの心の慰めになっていても、純粋に医療士への夢を応援している彼らにはこうしたことは何も言えなかったのだろう。
 彼女は、自分をどこまでも追いつめる人間だった。あの事件より前、私が生きているころはその性質に気づけないでいた。きっと、私の知らぬところでも何か悩んでいたのかもしれなかったな。
 精いっぱい笑ってみせながら言ったライアとは対照的に、フェリクスは真剣な表情だった。
「そんなことないよ」
 ライアの笑顔が、すっと消えた。
「ライアは意志が強いじゃないか。そういうところは、僕には立派に見えるよ」
「そんなこと……」
「だって、魔法使いになろうと決めて、実際に工房に入ったんだろう? 腕が良くて、どんなに工房士になれと言われても、医療士への道を捨てなかったんだろう? 全然情けないって思わないよ」
 ライアはまた泣きそうな様子で、フェリクスの言葉を聞いていた。
「今は弱っても仕方ないさ。でも、君のことをみっともないなんて僕は思わないよ」
「こんな話ばかりしているのに?」
 フェリクスは頷いた。
 わずかに震えたライアは、ありがとう、と小さく呟いた。彼のその台詞が、そのときのライアにとって最も必要なものだったかもしれない。
 フェリクスがいてくれてよかった。彼の存在が、ライアには大きな助けとなったにちがいない。きっとあの子も、彼には心の底から感謝していただろう。……むしろ、情けないのは私だったな。
「医療士なんて全然縁がないけれど、なるのは難しいんだろう? 魔法使いになる人間自体限られているんだ。険しい道のりなんだから、迷ってもなかなか進めなくても恥ずかしいことじゃないよ」
「……フェリクスは、魔法使いになるって考えたことある?」
 ライアの唐突な質問に、きょとんと目を開いた彼は大笑いした。
「君も見たろ? あんなひどい魔力なのになれるわけないよ」
 ライアはその答えに、眉を寄せながら笑った。アルノルドとのやりとりを思い出していたのかもしれない。
「じゃあ、お父さんのように、石の研究?」
「……おそらく。僕も石は好きだし、父さんの仕事を引き継いでいけたらって思っている。それに、ニールとは同い年だから、父さんたちと同じようにやっていけるだろうしね」
 でも、とフェリクスの表情に陰が出た。私はこのときまで、彼の暗い表情を見たことはあまりなかったせいか、やけに印象的に思えた。
「父さんの歩んだ道をなぞるだけでいいのか悩むよ。もしも引き継ぐんだったら、僕にしかやれないこともしなければ意味がない気がして。僕はまだまだだから、それを模索中だよ」
 その魔力があれば、そんなものすぐ見つかるさ。私はそう口を挟みたかった。
「あなたにはあなたにしかできないことが必ずあると思うわ」
「だといいね」
 ライアはコリンの銀細工を、祈るように握りしめた。
「私も、私にしかできないことを見つけられるかしら……」
 フェリクスは確信的に首肯した。それを見た彼女は瞑目し、ゆっくりと瞼を開ける。そして、にっこりとしながら口を開いた。
「フェリクス、私、もう一回工房に帰って勉強し直すわ。それで、ちゃんと自分の決めた道を進む」
 あの日以降で、最も良い笑顔だった。ライアの晴れ晴れとした表情に、ほっとしたのは私だけでなく、フェリクスも同じだっただろう。
「ライアはいい医療士になると思うよ。優しいから」
 ライアはけして優秀な人間ではない。けれども、医療士は能力の有無だけでは測れない価値も存在する。「いい医療士」という言葉に、それが込められている気がした。
「どうかしらね。まずいい医療士になる前に、普通の医療士にならなくちゃ。先は遠いわね。勉強も停滞どころか後退しているもの」
「そんなの、君だったらすぐに取り返せるさ!」
 フェリクスの力強い声に、ライアは嬉しそうな様子を見せた。
「きっと時間かかると思う……。でも、いつかそうなれたらいいわね。座長も言ってくれたわ――焦らなくていいって」
「そうだよ、人生は思ったよりもずっと長いんだからさ」
 無自覚だったろうが、それは皮肉な言葉だった。ライアにとっても、私にとっても、彼自身にとっても。
「フェリクス、もしグランリージに来たらエアトンにも寄ってちょうだいね。そのときは案内するわ。美味しいお店、たくさんあるの」
「楽しみにしているよ。これからだったら、きっと父さんもそっちに寄ることもあるさ」
 二人はエアトンで再会したときのことを語らった。どんな店があるのか、どんな人がいるのか。場の空気が穏やかになっていくのを感じた。
 そのときだった。
 大きな鐘の音が何度も響いた。まるで太鼓を打ち鳴らしているかのようだった。思わず二人とも耳を塞いだ。
「な、何……?」
 どこからか悲鳴が聞こえた。ライアたちは顔を見合わせた。
 襲撃だ、と誰かの叫び声が聞こえ、二人は同時に青ざめた。とっさにライアが腰を浮かせたのを、フェリクスが軽く制した。
「待って」
 フェリクスは積まれた荷の陰に自分とライアの身を隠した。すぐ近くで馬の蹄と金属のぶつかる音がいくつも響き、ライアは身を固くした。薄暗い中でも、彼女が震えるのがわかった。
「まさか……賊?」
 鋭くフェリクスが呟いた。
 怒声が生じては消えていった。そして、二人が隠れている路地から見える場所に、一人の男が弾けるようにして倒れた。ライアが悲鳴をあげそうになったのを、フェリクスが彼女の口を押さえてこらえさせた。数分待ったフェリクスは、左右の様子を窺ったあと、木箱を踏み台にして屋根に上った。そこにいろと言われたライアもそれに倣った。フェリクスは周囲の状況を見るのを優先し、ライアが上がってくるのを止めなかった。
 見下ろすと、半狂乱になった住人たちが逃げ惑っていた。住人同士言い争う人々もいれば、呆然と財産を抱えて一人立ちすくむ者もいた。何軒かの家からは既に火が上がっていた。その光景にエアトンを思い出し、私は不快な気分になった。血なまぐさい臭いがよみがえるようだった。
 平野側の門はまさに交戦の真っ最中だった。しかし、プリムサズ側が押され、次々に警護にあたっていた男たちが倒れていった。フェリクスが青い顔で何か呟いていたが、聞きとれなかった。
 そうこうしているうちに次々と襲撃者は侵入してくる。その数はあまりにも多かった。
「山へ逃げよう」
 言いながら、フェリクスは身を反転させた。ライアはがたがたと震えて動けなかったが、フェリクスが引きずるようにして降ろした。
「父さん!」
 扉を乱暴に開けると、作業を中断していたアルノルドたちは渋い表情を浮かべていた。
「賊だ! 様子がおかしい。予想以上に数が多いよ。早く行こう」
「俺たちはやらなきゃならないことがある。まずはお前が逃げろ! 今のうちだ、今なら間に合う」
 そう口を挟んだのは、アルノルドの隣にいた職人だった。
「ちょっと、何を言っているんですか」
 フェリクスは狼狽しながら、父親を見つめた。
「……フェリクス、お前はお嬢さんを連れて先に行け」
 アルノルドは、いつになく低く不穏な声で言った。フェリクスは慌てた。
「ちょっと、何言っているんだよ。こういうときはとにかく、何にも構わずに逃げるものなんだろう?」
「ああ、そうだ。まずはお前たちが行け。お嬢さんを守れ、早く!」
 父親の怒鳴り声に、一瞬たじろいだフェリクスだったが、何とか頷いてみせた。あとで合流するという約束を取りつけ、彼はライアの手を引いて外へと飛び出した。
「フェリクス、おじさまは……」
「今はその話をしている場合じゃない。あとで」
 フェリクスはライアの手を強く握り、狂乱の町の中を駆けた。
「戦えないやつは逃げろ! むやみに抵抗するな!」
 伝令役と思われる青年が声を張り上げる。ライアは無心で走りつづけたが、途中で目を開いて立ち止まった。手をつないだまま走っていたフェリクスは、勢いを殺されて転びそうになった。
「どうした?」
「姉さん……みんなが!」
 何を、とフェリクスは彼女を見つめる。
「みんなが心配だわ」
 ライアが向きを変えて走りだそうとするのを、フェリクスが止めた。
「今行ったら命取りになるぞ!」
「でも、姉さんが、座長が……。フェリクスだって、おじさまが――」
「まずは僕らが生き残ることが先決だ!」
 それまで、フェリクスがこんなにも声を荒げるのを見たことはなかった。ライアはびくりと肩を跳ねさせたが、無言で俯いた。頷いたようにも見えたし、そうではなかったかもしれない。
「きっとあいつらの狙いは平野の高級品を取り扱っている店だ。こういうときは一度山の坑道に逃げる――それが決まりだ。君の仲間もきっとそうしている。父さんだってすぐに追いつくさ」
 フェリクスは乱暴に彼女の手を引いた。ライアは人形のような動きで、再び走りはじめた。フェリクスは振り返らなかった。その背中の向こうでどんな表情をしていたのか、私は知らない。
「大丈夫だと、今は思うしかないよ」
 ライアは泣きながら、今度は確実に頷いた。
 悲鳴や怒号を聞きながら、二人は山を目指した。
「あ!」
 ライアは後ろを振り返った。高い音がかすかに響き、道の中央に落ちた。それは私の作った護符だった。
「待って、兄さんの……」
 ライアはフェリクスの手を振りほどこうとしたが、彼は強く握って離さない。
「早く行かないと」
「お願い」
 フェリクスは苛立ちながらもライアの手を離して、自分が戻った。護符を乱暴に拾うと、それを持ったまま、再びライアを連れて走り出した。
「あと少しだ。あと少しで――」
 フェリクスはライアを励ましながらひたすら前方の山を目指した。ライアの腕にはまった私は流れる景色を見つめていた。しかし、周囲の音に違和感をおぼえた。できるだけ広範囲に意識を向けると、視界の端に不吉な影が見えた。
 それが馬に乗って剣を振りかざしている男だと気づいたときには、すでに刃が炎の光にきらめいて、二人に迫っていた。
「避けろ!」
 私はとっさに叫んだ。空を切る音とともにフェリクスが振り返る。しかし、遅かった。
 刃は二度襲いかかった。一つはライアの悲鳴、もう一つは鉄の弾ける音とともに。フェリクスの身体を光が包んでいた。それが彼の手にあった私の護符の効果だとわかった瞬間には、もうライアが地に伏せていた。
「ライア!」
 私たちは同時に叫んだ。フェリクスは青い顔で短剣を取り出して、ライアを庇うように移動しながら構えた。勢いで彼らの前方へと通り過ぎていった賊は、手綱を握って馬ごとこちらに向き直り、下卑た笑みを浮かべた。挑発するように、剣を左右に揺らす。
「待て!」
 武装した青年が脇道から姿を現した。彼はライアを見下ろすと、フェリクスに怒鳴った。
「ここは食い止める。早く行け!」
 青年はフェリクスを押しやると、代わりに賊と対峙した。
「邪魔だ、さっさと逃げろ!」
 馬がこちらに向かってきた。フェリクスはライアを抱えるようにして、入り組んだ路地へ入った。不吉な音がし、彼は一度だけ戻ろうとするが、ライアの顔を見てそれをやめた。毒を飲んだような、苦しい面持ちだった。
 ライアは胴を斬られていた。じわりと服を伝って赤い血が下がってきた。夜でもわかるくらい、生気を失った顔をしていた。
 そんな彼女を連れていては、フェリクスも走れない。フェリクスは一度ライアをそばにあった樽に座らせ、改めて彼女を背負った。
「フェリクス……私を置いていっていいから。あなただけで、逃げて」
「いやだよ」
 彼の声は涙でにじんでいた。
「言ったじゃないか。僕は、君を置いていかない」
 それは船での会話だった。ライアはわずかに目を動かす。
「あれは、そういう意味じゃ、ないでしょう?」
「そういう意味であってもなくても、君を捨てていけるわけないだろう?」
 フェリクスは怪我人連れで襲撃者たちを避けなければならなかった。やっとの思いで二人が山にたどり着いたときには、平野側の半分以上が火に包まれていた。
 人気のない道を上って平野の景色を見下ろすと、なぜ町が入り組んでいたのかがよくわかる。こうした襲撃に備えていたからだ。しかし、ただの賊とは思えない規模の襲撃には持ちこたえられなかった。
 短い悲鳴とともに、二人は倒れこんだ。フェリクスが何かに足を取られたようだ。
「ライア。ねえ、しっかりして……」
 フェリクスはライアを抱き起こした。もう彼女の目は虚ろで、私は自分の無力さを改めて思い知った。ただ彼女に呼びかけることしかできなかった。
「ライア、死なないでくれ……」
 フェリクスは周囲を見渡す。
「だ、誰か! 誰かいるか? この子を知っている人は……」
 同じように逃げている住人が遠くに見えるだけで、そばには誰もいなかった。フェリクスは自分の服を裂いて、ライアの傷口に当てた。それは布を赤く染めるくらいの効果しかもたらさなかった。
「誰か……」
「フェリクス……」
 ライアがフェリクスを呼んだ。フェリクスはその瞳と涙に彼女の姿を映した。
「もう、もう……いいの……」
「何が! もう少し行った先にみんながいるだろうから、それまでこらえて」
 ライアは、フェリクスに触れる。べたついた血が彼の服を汚した。
「ありがとうね、フェリクス。あなたがいてくれてよかった。じゃないと私……」
「ちょっと、何言ってるんだよ。それじゃまるで死に際の言葉みたいじゃないか」
 フェリクスの声は嗚咽交じりで、裏返っていた。
「フェリクス、お願い、聞いてくれる?」
 ライアは震える手で自分の腕から私を外した。
「これを、ハロルドさんに……。もし……アブファムで会えなかったら、そのときは、エアトンのローハイン先生に、代わりに渡してほしいの……」
「し、知るかよ。そんなの自分で渡せよ」
 ライアの顔は真っ青だった。私は絶望的な思いで言葉もなくそれを眺めていた。
「必ず、戻るって約束したのに、守れなくてごめんなさいって……伝えてほしいの」
「いやだ、いやだ、いやだ」
 フェリクスは子どものようにかぶりを振る。
「いやだよ、ライア。自分で行けよ。付き合うから。僕もエアトンまで一緒に行くから、だから、君自身が――」
「だめ……だって、コリンの声が聞こえるもの」
 ライアの言葉はところどころが掠れて、聞き取りづらくなっていった。彼は泣きじゃくって、何度も首を横に振って否定した。
「違う、違うよ、ライア、それは違う」
「呼んでる気がするの」
「ライア、違う。君を今呼んでいるのは僕だ、僕なんだよ! コリンじゃない!」
 フェリクスは自分の首にかけていた護符を彼女の手に握らせた。護符は護符でも、彼の内側にある力を封じるものだ。そんなことをしても何の意味がないのに、そうせずにはいられなかったようだった。
「生きてくれよ。もう、僕のためでなくていい。コリンのために、君を生かした彼のために……お願いだよ、頼むから」
 置いていくな。絞るように声を出して、彼はライアを抱きしめた。私を握ったライアの手が落ちた。
 ライアは力なく言った。
「これを受け取ってくれたら……フェリクスのお願いも、きくから……」
 そしてそのうち、呻いていた彼女の声も聞こえなくなってしまった。フェリクスは乱暴に私を彼女の手から外して、それをライアに見せる。
「受け取るよ。だから、君も……」
 フェリクスが何度呼びかけても、もう返事はなかった。
 彼は獣のように叫んだ。何度も拳で地を叩き、彼女の身体を揺さぶった。それで起きてくれるなら、どんなに良かったろう。
 私は呆然とライアの亡骸を見つめていた。何が起きているのか認識するのを放棄したかった。
 フェリクスのように彼女に手を伸ばしたかった。見ていることだけしかできない。それはわかっていたはずなのに。
「ライア……」
 どうして何もできないのだろう。私は本当にこの場所にいるのだろうか。動く体もないというのに、精神だけで存在していると言えるのだろうか。心に空虚が広がり、意識が朦朧としていく。
 そんな中、護符を外してしまったことで、フェリクスの魔力は明確に感じられた。生身でいたときよりもこの姿の方が、そうした魔法の気配を捉えやすい。フェリクスの持つ力は……甘い、と感じた。そうだな、そのときはやけに酔いそうな甘味があった。
 ――の力。
 意識が虚ろになりつつあったそのとき、突然、どこかから声がした。
「え?」
 私は辺りの様子を伺った。そこには私たち以外誰もいなかった。
 ――に委ねればいい。
 再び誰かが囁いた。それは、明らかにフェリクスではない。
「じゃあ、誰なんだ?」
 私が呟いたその瞬間、フェリクスが顔を上げた。目を見開き、きょろきょろと左右に視線を送った。
「だ、誰かいるのか?」
「……フェリクス?」
 私は思わず話しかけてしまった。すると彼は飛び上がって、荒い呼吸をしながら私を見つめた。その瞳には、ほのかに光る私が映っていた。
「え? 今のは……」
 私は息をのんだ。
「俺の声が聞こえるのか?」
 そう話しかけると彼は狼狽して私を放り、腰を地に下ろしたまま後ずさった。
「何だよ、これ。何なんだよ!」
 がたがたと震える彼に近づきたくとも、それはできなかった。
「待ってくれ、俺の話を――」
 ――彼女の仇を取りたくないか?
 また響く呼びかけに私は戸惑い、フェリクスは怯えた。
「誰だ?」
 押し殺した笑い。それは、私の内側から出たものだった。声だけでは正体はわからなかったが、その口調には覚えがあった。
「ヴィーエ?」
 私の視界が黒く染まっていった。意識が薄れる。どこかで、エヴァムの呻きも聞こえた気がした。
「力が欲しいだろう? それならあげるよ。これ以上の犠牲を出したくないならね」
 声が明瞭になってきたヴィーエは楽しそうに言う。ふわりと私……いや、私たちの身体が浮いた。フェリクスは口を開けて、何も反応できずにこちらを見ていた。
「逃げるんだ!」
 私はとっさに呼びかけたが遅かった。次の瞬間にはもう、彼の腕に収まってしまった。
「な、何だ?」
 フェリクスは外そうとするが、取ることができなかった。まるで肌と溶け合っているように、この腕輪が貼りついてしまったのだ。
「さあ、行ってごらん。彼女みたいな犠牲者を増やしてはいけないからね」
 ヴィーエの高笑いとともに、世界が消えていく。フェリクスに何か伝えようにも既に遅く、私の意識は遠ざかった。





2012/05/31


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