2 列車を乗り継ぐこと数回。国の南部に位置する、穏やかな平原と川があるだけの、何の変哲もない土地。それが、アーベントロート家の所領ユリードであった。 主要な産業は農業。鉄道は敷かれているものの、栄えているのはほんの一部。あとは牧歌的な光景が広がっている――というのは、コルネリアの父が存命だった頃の話である。 駅から降りた二人は、雰囲気の悪い店がいくつも立ち並んでいる通りを歩く。険しい目つきで周囲を見やるルッツの横で、コルネリアは恥ずかしさに俯く。 「ここはまだ良い方よ。屋敷に近いところは、もっと居たたまれなくなるわ」 ハーゲンの手によって商業が発達した。新しい店が続々と集まり、活気が出て賑やかになったと言える。ただし、外からやってきた者の大半は性質の悪い人間だ。治安が悪化したうえ、元から住んでいた善良な民が駆逐されつつあった。 コルネリアにとってそれは、憂いのもと以外の何物でもなかった。彼女の父親は自領の平穏な風景を愛した。これぞ機械化された今の時代に必要だと考え、保養地としての開発と伝統産業の保護に力を注いだ。それらはハーゲンの手によって見事に潰されてしまったが。 「本当は、私たちの領地はこんなに下品じゃないの」 「確かに、けばけばしくて安っぽいな」 ルッツは首を揉みながら呟く。 「だが、活気はあるし利益もあげている。あなたのお父上の事業よりも」 「それは……」 「ハーゲンだって、領主失格というわけじゃない。ちゃんと領地に金が落ちるようにして、王族との結びつきを強くして」 「でも、外から来た人は領地を荒らすだけよ! 元の領民が流出しては意味ないわ」 「今どき、移住する者など昔とは比べ物にならないほど多いですよ。仕事や環境の変化が合わないなら、新しい場所を探すだけです」 本当に旧時代に取り残されているな、とルッツは煩わしげに漏らす。コルネリアは怒りを抑えるように下を向く。 彼女の父親とて、新しい技術に関心を持たなかったわけではない。機械化していく土地との差別化を図ろうとしたのだ。 彼は自分が新しい産業に明るくないことを自覚しており、ただ真似をするだけでは他の土地に勝てない、ますます取り残されると主張した。そうして周囲の説得を続けて、ようやく事業が順調に動き出すと思った矢先に、事故が起きた。 葬儀やモニカの婿探しの間も、姉妹は人を頼ってなんとか父の遺志を継ごうと奔走した。しかし、ハーゲンはそんな二人を嘲笑するだけだった。 「他がやらないようなことをするなら、見捨てられつつある物よりも新しい物のほうが可能性があるだろ?」 そう言って彼は工場を設立した。他国からの注文を請け負って外貨を稼ぐために。 ただし、地元の人間は一切雇わず、他所から来た者ばかりを従業員にする。彼らのために整備した商業地は、現在コルネリアたちが見ているとおり。 農地を奪われ職も得られず、農民たちがまず去った。次に、新しい店との問題に疲れた商売人たちが出ていった。 財産を築いた代わりに、今のユリードは、昔とは別物になった。 「あなたにはわからないでしょうね。代々守ってきたものを少しずつ奪われていく苦痛が」 「……ああ、わからんさ」 ルッツは、彼女以上に声に嫌味を混ぜる。 「どんなに長く続く伝統でも、壊れるときは一瞬。だったら俺は、今生きている我が身を大事にしたいね」 コルネリアは頬を膨らませる。 「私も姉も、あなたくらい思い切りがよかったら幸せだったのでしょうねっ!」 「ちょ、あんた、声が大きすぎる。今の自分の立場わかってんのかよ」 ルッツが彼女の口を塞ごうとした瞬間、思いもよらぬ方向から声をかけられた。 「コルネリアさま!」 名を呼ばれ、彼女はびくりとする。しかし、懐かしい響きに振り向き、目を開いた。 「ヤン!」 店の扉から顔を出している老爺に、コルネリアは見覚えがあった。 「ちょ、お嬢さま……」 「大丈夫、彼は昔からの馴染みなの」 彼女の父がまだ生きていた頃に屋敷を出入りしていた商人だ。その目は確かで、質のいいものをいつも持ちこんできた。 「立ち話も何ですからどうぞお入りください。今は何もございませんが」 周囲を見渡したルッツは不満げだったが、コルネリアは嬉しそうに彼の誘いに応じた。 「最近外に出られなかったし、あなたも訪ねてこなかったから、心配していたのよ」 「ご婚約の噂は私にも届いておりましたが、てっきりもう発たれたのかと」 ヤンの言葉に、一瞬目を逸らしてしまうコルネリア。その横でルッツは肩をすくめる。 「訳あってまだいるのよ。でも義兄には内緒ね。ああ、ヤン、元気にしていた?」 老いた商人は深い溜め息を落とす。 「正直に頷けたらよかったのですが、残念ながら私もここを去らねばなりません」 「どうして?」 「ハーゲンさまがお気に召す商品をご用意できませんので」 コルネリアは店内を見渡す。以前は宝物の山のようにさまざまな品が置かれていたが、盗賊でも入ったかのようにがらんとしていた。 ヤンが扱う商品は、先代の好みにぴたりと合う、地味でも上質さを感じさせるものばかりだ。ということは、誰もが驚く豪奢な品を愛するハーゲンとは反りが合わない。 「義兄の趣味は、あまり良くないもの。気にしなくてもいいじゃない」 ヤンは顔の皺を動かすように微笑んだ。 「そんなことを言っては、お父上が悲しまれますよ。人の感性とは異なるものです。今回はただ、私の力不足でした」 「そんな……!」 「商売の方針を変える気はないのかい?」 ルッツの言葉に、彼は悲しげに笑う。 「力は尽くしましたが、他に贔屓の業者ができてしまいまして。せっかくですし、新しい土地で一から始めてみようかと」 「待って、ヤン!」 その瞬間、ルッツが動く。 「お嬢さま、こちらへ」 彼は窓越しに外を見やりながら、コルネリアを店の棚の陰へと押しやる。 「な、何……?」 ヤンも外の様子に表情を硬くする。 「コルネリアさま、私が時間を稼ぎますから、折りを見てお逃げください」 「え? どういう」 「静かに」 ルッツはコルネリアをしゃがませ、自分も膝をつく。すると、道に面している扉が乱暴に開けられた。 「よう、主人」 「……いらっしゃいませ」 「ずいぶんと風通しがよくなったな」 複数の下卑た笑い声が響く。 「お望みどおり、ここをお譲りしようかと」 「よかった。こっちとしても、穏便に解決するなら越したことはないと思っているんだ」 コルネリアは、ルッツの肩越しに様子を窺う。三人ほどの男が、ヤンを取り囲んでいた。見るからに堅気とは言い難く、脅すように銃やナイフを見せびらかす。 「せっかくの立地だ。ご領主さまが有効に活用してくださるそうだ」 「そうでしょうね。何せ、悪評や借金まで捏造してまで手に入れたかったのですから」 最も体格のいい男が棍棒のような腕を振るう。鈍い音とともに、ヤンは吹き飛ばされる。それを支えたのは、彼の背後にいた男。 男はヤンの腕を押さえる。すると、最初に彼を殴った男がさらにもう一発。 「穏便にって今、話しただろうがよ、爺さん」 「あんた一人消えてしまっても、町に何の影響もない。それはもうわかっているだろう? そこを、こうして命あるまま去ってもらおうというこちらの温情がわからんかね」 コルネリアは、自分の顔が熱くなるのを感じる。怒りで全身が震える。 制するように、ルッツが囁く。 「飛び出してはいけない。今あなたが出ると、いよいよ危ない。全員の目が彼に向いているうちに、そっちの裏口から出ましょう」 「でも……!」 さらに打音は続く。ヤンの顔が次第に腫れ上がっていく。 「お前の家族も無事で済むと思うなよ。既に逃がしたと思っているのは、お前だけだ」 「幸い、この町もまだまだ人手は足りない。若い娘なんか特にな」 「な……」 ヤンにそれ以上喋らせないように、男は腹に蹴りを入れる。彼を拘束していた男が手を離すと、ヤンは力なく床に倒れた。 「孫たちだけは、どうか」 「聞こえねえな」 その肩を思い切り踏みつける。コルネリアは思わず目を瞑ってしまった。 「さあ、行きましょう」 「行けないわ。助ける」 ルッツは苛立ちながら彼女を無理に引こうとしたが、男たちの会話に動きを止める。 「さて、本題だ。先ほど、ご領主の義妹と一緒ではなかったか?」 「……何のことでしょう」 「さっき、あんたが若い女をそう呼んで店に連れ込んだって情報が入ってるんだよ」 鈍いうめき声が響く。 身を乗り出そうとするコルネリアを、ルッツは必死に抑える。 「あんな状況なら、なおさらあなたを出すわけにはいかない。むしろ一刻も早く去りたい」 「でも、ヤンが」 「こらえろ。あの男はあえて黙っていてくれているんだよ。出たら台無しだろうが」 コルネリアは、彼を睨む。 「私はアーベントロート家の人間よ。目の前で苦しんでいる領民を助けられないなら、貴族を名乗るべきではないわ」 ルッツは溜め息をひとつ。 「では、あなたは隠れていてください」 彼は棚から姿をはみ出させないようにしながら立ち上がり、様子を窺う。 すると、こちらに近づく足音が響く。 「ちょっと拝見するぜ」 声がすぐそこまで来た瞬間、彼は身を翻すように出て男に手を伸ばし、一気にねじ伏せた。続いて、傍らにいたもう一人の口を塞ぎながら腕を首に回し、絞めて気絶させる。 相手の手からこぼれる短銃。それもルッツは地に落ちる前に捕まえる。 あまりに素早い行動に、コルネリアは唖然として瞬きを繰り返すしかできなかった。 「誰だ?」 「通りすがりの者だよ」 言いながら、彼は一気に距離を詰め、ヤンを嬲っていた男の顎に掌底を当てて先手を取ると、そのまま胴に蹴りを食らわせる。さらによろけた相手の項に一撃。それで男は完全に落ちた。 「すまんな。すぐに助けられなくて」 ルッツはヤンを起こす。鼻からも口からも血が出ており、瞼が腫れ上がっている。 「コルネリアさまは」 「ヤン……!」 コルネリアはすぐに駆け寄る。 「ごめんなさい、ヤン……」 「あなたが謝ることなど」 彼はヤンを見やる。 「君、コルネリアさまを連れて、早く去りなさい。彼らが目を覚ますかもしれない」 「あんたはどうするんだ?」 「だてに長くこの町に暮らしていないさ。まだ残っている仲間に」 立ち上がろうとするが、まったく力が入っていない様子で、ヤンは床に倒れる。 コルネリアはルッツを見上げる。彼は、負傷の老人を支えるようにして立ち上がった。 ヤンの指示で、彼を近くの宿屋に運び入れた。宿屋の主人もまた、コルネリアの姿に目を丸くし、ヤンの惨状に絶句した。 「……きっかけは、このあたりを取り仕切っていた銀行商一家でした」 宿の主人は語り始める。 先代よりこの商業地域の取り締まりを任されていた銀行商が、ハーゲンから背任の告訴を受けたのだ。それは、領主に申告もせず巨額の富を隠し持っていたというものだった。 一家は拘束され、現在は行方不明。財産はハーゲンが回収した。 以来、めぼしい家は次々に潰され、その代わりにハーゲンの息がかかった人間がその後釜に座った。去った人間の半数以上は、その行き先がわかっていないという。 残った人間も、ハーゲンの傘下に入るか商売を捨てるかの二択を迫られていた。 「それほどまでだったなんて」 自分が屋敷に閉じこめられている間に聞こえてきた話など、氷山の一角にすぎなかった。コルネリアは言葉を失う。 「コルネリアさま、どうかあなただけでもお逃げください。ユリードはもう終わりです」 ヤンの手当をする宿屋の主人の言葉に、コルネリアは首を横に振る。 「いいえ、私と姉で取り戻すわ。……私はアーベントロート家の人間よ。領地をここまで荒れさせた償いはすべきだわ」 「ハーゲンには関わってはいけない。あれはただのゴロツキとは違う」 「でも」 コルネリアはハーゲンの義妹。それでも、彼らは彼女に恨み言をぶつけない。だからこそ、よけいに彼らの力になりたかった。 「ハーゲンの手下は、自分たちの背後には王子がついたと振れ回っています」 「殿下が……?」 やはり自分の縁談には何か裏があるのだろうか。コルネリアは拳を握りしめる。 そのとき、遠慮がちに使用人がやってきて、宿屋の主人に耳打ちをする。 「町の監視が増えているようです。夜になるとますます動きづらくなる。明日の朝まではここにてお待ちください」 「いや、結構」 遮るのはルッツ。 「え?」 「日が沈む前に、コルネリアさまを安全なところまでお連れする。大丈夫、腕っ節には自信がある。なあ、爺さん?」 ヤンは、きょとんとしながらも頷く。 「では、人を付けます」 「結構。大人数だと目立つ」 呆気にとられるコルネリアは、わけもわからないまま外に連れ出される。 ルッツは何度か角を曲がりながら、背後にも気を配る。 「どうして出るのよ」 「聞けば、あの宿屋が商売を続けられているのは、表向きハーゲンを受け入れていることになっているからだ。ということは、夜になるとハーゲン関係の客も大勢やってくる」 「彼らを疑っているの?」 コルネリアは声を低くするが、ルッツは涼しげに笑う。 「疑うというほどではありませんよ。ただ、敵に囲まれるより逃げたほうが安全かと。それに、もしもあなたを匿っていると知れたら、あそこもタダじゃ済まないでしょう」 「そんな……」 彼は薄く笑いながらコルネリアを見つめる。 「さあ、お嬢さま、どうなさいます? 都に帰って、殿下にこの状況を訴えますか?」 「ハーゲンとつながっている人に?」 ルッツは呆れた視線を投げる。 「では、これから?」 「……姉に協力を仰ぎたい」 「屋敷にいるのでしょう? 目を盗んで接触できますかね?」 「ハーゲンは、姉の部屋にはほとんど近寄らないわ。それに、秘密の通路があるの。何せ、うちは古いから」 「秘密ね……。まあ、いいでしょう」 ルッツはあくびをする。 「ずいぶんな態度ね」 「俺はあなたに協力する立場です。でも、依頼主本人に邪魔をされちゃあ困る。あなたは、元の目的を考えたら爺さんに話しかけられようと無視して立ち去るべきだった。自分がここにいると知れたらどうなるか、わからなかったのですか?」 きつい口調の指摘に、コルネリアは唇を噛む。自分は決して賢くはない。それは自覚していた。 だからこそ、今は彼の力が必要だ。それが、ハーゲンと姉の関係に近くても。 小走りで進みながら、彼女は謝る。 「ごめんなさい」 「本当に、おとなしく殿下の婚約者やってくれたらいいものを。こんな馬鹿娘を娶りたい理由、俺も知りたいね」 何も反論できなかった。 コルネリアをかばいながら、ルッツは周囲の様子を窺う。 「屋敷は、北の方でいいんですね?」 「ええ。通路は川の近くに続いているわ。そこから向かいましょう」 「まっすぐ、姉上のところまで行けますか?」 「分かれ道も扉の解除のしかたもわかるから、案内するわ。子供の頃はよく探検したもの」 二人は川辺に向かい、橋の下にうまく隠された出入り口の前に立った。 「こんなところに?」 「本当はもうひとつ入口があるけれど、そちらは義兄の工場の船蔵になっているの」 扉をくぐり、並んで歩く。採光の小窓がところどころにあってもまだ薄暗いが、ルッツの携帯灯に助けられる。 「意外と空気が淀んでいないわね。よかった」 「外の扉だけ見たときはただの倉庫かと思いましたが、意外と奥まで続いているんですね。しかし、それでも城に通じているなんて信じられませんが」 珍しいのか、ルッツはきょろきょろと通路内を観察する。 「本当は、当主の子供か、結婚して三年になる配偶者にしか教えてはいけないのだけど」 「ハーゲン殿には?」 「彼の様子を見て、絶対に教えまいと姉と相談したから知らないはず」 コルネリアは俯く。 「ごめんなさいね。付き合わせてしまって」 「今更ですか。単に脅されているだけ……と言いたいところですが、確かにハーゲンがまともでないことは、よくわかりました。あんなゴロツキに王子の婚約者を探させるなんて。俺なら、もっと無害装った連中を寄越しますね。相手は無鉄砲の馬鹿だから、油断させやすいし」 彼は咳払いをひとつ。 「それはともかく、あなたに何かあれば、俺の首が飛びますから。殿下のために、あなたの安全を最優先で考えますよ」 「職務に忠実ね」 「もちろん」 彼は小さいながらも明瞭な声で言う。 「生活第一。それが俺の人生の標語です。あなたが、どうせなら納得できる道を歩みたいのと同じで、俺だって自分の考えがあります」 その言葉の力の入りように、コルネリアは首を傾げたが、それ以上彼は何も口にしなかった。 地下通路には、決まった手順を取らないと開かない扉が複数存在する。コルネリアも、仕掛けにある突起や鉤などの種類や順番を覚えるのに苦労した。 「えっと、この次は……」 「大丈夫ですか? また手が止まってますけど」 「話しかけないで、集中できないわ。指折って覚えられるだけの数の手順なら、私だって苦労しなかったわよ」 記憶を頼りにそれらをひとつずつ解除しながら、彼女はルッツを誘導する。奥に行くにつれ、さすがに空気も悪くなっていき、窓もなくなる。 最後の扉の先にあるのは、外壁と内壁の隙間に存在する階段。コルネリアは姉のいる部屋の位置まで移動し、壁に耳を当てる。 「お願いです、どうか……」 姉のモニカの声だ。 「せっかくの好機だぞ。先方からわざわざ話を持ってきたというのに、あの阿呆は!」 そう怒鳴るのはハーゲン。 「殿下は俺の商いも支援してくださるという。大変ありがたい話じゃないか。口出しはご勘弁願いたいが」 「殿下が、ですか?」 「そうだ。資金も提供、人材も派遣するんだと。第二王子が俺の後ろ盾に回るんだぞ」 「それはつまり、違法な行いにも目を瞑るということですか?」 打音が響く。 「黙れ! 俺が、傾きかけたこの家を持ち直してやったんだ。音楽などに浮かれてばかりの世間知らずどもの代わりにな!」 コルネリアは、飛び出したくなる衝動を必死に押さえた。 「何が何でも、殿下に引き渡すぞ」 「でも、行方がわからないのでしょう?」 「俺の部下が、あいつがこの地に戻ってきていると報告してきた」 モニカの声が途切れる。 「多少手荒な真似をしてでも連れ戻せと命じてある」 「あの子に乱暴なことは」 「今のうちに、きちんと躾ておかないとな、駄犬は。嫁いだあとも使えないのでは困る」 乱暴に扉の閉まる音がした。 コルネリアは、遠慮がちに壁を叩いた。 返事がない。もう一度拳を壁に当てようとしたところで、震える声が返ってきた。 「だ、誰……?」 一呼吸おいて、コルネリアは呼びかける。 「お姉さま」 「コルネリア?」 壁の一部がずれ、逆光の貴婦人の姿が現れる。 「そんな……。とりあえず、こちらへ」 妹を部屋に招き入れながら、モニカは見知らぬ軍人の姿に目を丸くする。 コルネリアは、簡単にルッツを紹介しながら、椅子に座った。 ルッツは、室内を一瞥する。 「没落中と言えど、伯爵夫人の部屋ではありませんね」 「元は、衣装部屋です」 モニカもコルネリアも、元は令嬢にふさわしい部屋を持っていた。しかし、ハーゲンは仕事に必要だからとそれを取り上げ、屋敷の隅へと姉妹を隔離した。 「隠し通路と通じる部屋で幸いでしたね」 「ここだけね。今の私の部屋にはないの」 コルネリアに与えられた部屋は隣。一時的に不要なものを置いておくのに使っていた場所だった。 「それで、お姉さま。先ほどの会話、聞いてしまったのだけれど。元は殿下が持ってきた話というのは本当?」 モニカは浮かない表情で首肯する。 「あの人の話では」 「ルッツさん。どういうことかわかる?」 軍人は首を傾げる。 「我が主はとんでもなくロマンチストで恥ずかしがり屋なので、求婚の理由は二人だけの秘密に留めたいようです」 「は?」 姉妹は揃って口をぽかんと開ける。 「……冗談ですよ。俺が直属の部下だからって、何でも話せる仲ではありませんって」 ただ、と彼は声を落とす。 「ひとつ情報を差し上げるなら、確かに殿下はハーゲン殿が何をしているのか、概ねご存知です」 「何、を……?」 顔色を悪くするモニカに、彼は薄く笑う。 「まあ、違法なあれこれを」 「やっぱり……!」 コルネリアは手を震わせる。 「殿下は、味方ではないわ。ハーゲンの商売を通じて、何かお企みなのよ」 「待って、コルネリア」 「お姉さま、もう離縁してちょうだい。きっと、事情を話せばみんな納得してくれるから」 「夫を持つことを前提にして育てられた私たちだけで何ができるの? ピアノと歌?」 モニカは首を振る。 「あの人は、確かに褒められた人間ではないわ。けれども、お父さまよりもユリードに利益をもたらしている」 「またそうやって。私たちが守るべきなのは、領地を好き勝手にしているような連中ではなく、代々の民でしょう?」 「でも」 モニカは目をそらす。 「私たちが王家から託されているのは、この土地なのよ?」 「お姉さま、お父さまの教えを忘れたの?」 「コルネリア。姉妹だから、私は、あなたが縁談を反故にしようとしていることは責めない。でも、ここにはもう近寄らないで」 「お姉さま……!」 「お願い、今すぐ去って。あなたたちはここには来なかった。私もあなたたちには会わなかった。そういうことにしましょう」 モニカはルッツを見る。心得たように彼はコルネリアを抱き上げ、通路に戻った。 「お姉さま、話し合いましょうよ」 再び逆光になったモニカの表情はまったくわからなくなってしまう。 「私は、長女として、この家と土地を守る義務があるわ」 そう言い、隠し扉を閉める。何度呼びかけても応じる気配はまったくない。 ルッツは彼女を下ろさず、来た道を引き返す。 「お願い、もう一度……」 「無理ですよ、出直しましょう」 「でも」 「……もう少し、姉妹で共通意識を持っているものかと思っておりました」 通り抜けてきた扉を元に戻していきながら、入口へと戻る道中、コルネリアは語る。 「昔は、とても仲良かったの。陛下も臨席した会でデュオをしたこともあった」 モニカはピアノ、コルネリアは歌。それぞれ、幼いながらも貴族の令嬢に留まらぬ実力と言われていた。その評判を聞きつけた王が、あるとき二人に演奏を求めた。 とっておきのドレスを色違いで着て大勢の大人の前に出されたコルネリアは、そのときに限ってひどく緊張していた。いつもなら完璧の音程もどこか怪しく、時折歌詞すらも忘れそうになる。 彼女は、期待はずれだと眉をひそめる客たちの反応に、余計に焦った。そして、とうとう盛大に音を外してしまった。 やってしまった。彼女が恥ずかしさで逃げ出したくなった瞬間、練習では耳にしなかった旋律が脇から聞こえる。 モニカは即興で、妹の外した音程に合わせた間奏を作り出したのだ。 呆然と自分を見るコルネリアに、モニカは視線を合わせながら微笑んだ。たったそれだけのことだが、コルネリアは救われた気分になり、表情を一気に輝かせた。 妹の様子を確認したモニカは、徐々に原曲に近づけていき、失敗直後の箇所に戻した。勇気をもらったコルネリアは今までにないほど伸びやかに歌い、拍手喝采を得た。 この件を機に、彼女は姉をそれまで以上に慕うようになった。 なお、そのときがクヌート王子との初対面だった。無表情で自分を凝視する彼に、コルネリアはただ怯えるしかなかった。 その後、何度か顔を合わせる機会はあったが、いつも彼は黙ってコルネリアを睨んでくるだけだった。 だからこそ、コルネリアは、クヌートとの婚約話にひっくり返るほどの驚きを見せた。なぜと尋ねても、使者越しでは何も返事がない。それならば直接問い質したかった。 コルネリアの縁談が決まったとき、モニカもやはり意外に思ったようだが、彼女は素直に喜んでくれた。 ハーゲンが持ってきたのだから何か裏があるにちがいない、とコルネリアが訴えても、そんな妹を宥めるだけだった。 「両親が亡くなる前……いいえ、ハーゲンが来る前は、私たちわかりあえていたわ。どうしてこうなってしまったのかしら」 「ずっと側にいるからって、ずっとわかりあえるとは限りませんよ」 コルネリアが顔を上げると、薄闇に浮かんだルッツの顔がどこか冴えない。 「さて、姉上は期待できない。どうします?」 「私だけでもハーゲンの」 「そもそも、小娘に脅されたからって、あの野郎が引くと思いますか?」 コルネリアは立ち止まる。答えられなかった。 「何も力のないあなたにはもう、おとなしく嫁ぐしかないと思いますよ。殿下のお人柄は保証します」 「ハーゲンの後ろ盾になるような人が? あなたも町を……ヤンが何をされたかを見たでしょう? 殿下とあの人が繋がれば、都までこれが広がるかもしれないのよ!」 「殿下は、あんな小物に染まる方じゃない」 「そんな小物を支援する自体、おかしいじゃない! あの方はやっぱり――」 ルッツは手を伸ばして、コルネリアは壁に思い切り押し当てられる。背中が痛むが、それよりも彼の鋭い眼光に動けなくなる。 「あの方を侮辱するならやめておけ。いくら殿下の婚約者であろうと、丁重に扱えないかもしれない」 呆然と目を見開くコルネリア。ルッツはそっと手を離し、顔を背ける。 「……どうして、あなたはそこまで殿下を?」 「先に言ったとおり、あの方は俺の恩人で、そのおかげで俺は今もこうして生きている。だから殿下のために働く」 「恩って?」 「あんたが……殿下にそんな態度とらなくなったら話してやるよ。とりあえず外に出ますか。暗いうえに埃っぽいところは好きじゃないんでね。服は思ったよりも汚れなかったが」 不意にルッツは瞠目して、入口方面に灯りを向けながら銃を取り出す。しかし、そこに立っていた人物を確認し、安堵の表情を浮かべる。対照的に、コルネリアは青ざめた。 「気は済んだだろうか?」 「殿下……」 クヌートが立っていた。 2015/02/28 1へ 3へ 戻る |