「なぜ、待ち伏せできたのですか? 屋敷に通じているとおわかりだったのですか?」
 琥珀の瞳で問うコルネリアに、王子はあっさりと答えを明かす。
「尾行させていたんだ。ここから城にまで行けるというのは、今の君の発言で知った」
「え?」
「そうか、ここが、城に通じているのか」
 視線を逸らしながら、王子は確認するように呟く。
「まあ、我々よりは堂々と移動できますからね。追いつかれてもしかたありませんね」
 ルッツは納得を強調するように頷いた。
「で、殿下……」
 口を開いたコルネリアを、クヌートは目で制する。
「こんな暗い通路は長話に適さない。ついてきなさい」
 クヌートはわずかな兵を伴いつつ、コルネリアたちを自分の宿まで連れていった。
「ふう。ようやく元の格好に戻れました。緩い服は落ち着きませんね」
 軍服を再びまとって姿を現したルッツが笑う横で、コルネリアは心を乱さないように唇を引き結ぶ。
「それで、私への処罰はどのようにお考えですか?」
「処罰?」
 クヌートは首を傾げる。
「あなたとの結婚を嫌がって、軍人一人を拉致して逃げ回ったのですから」
「ああ……」
 王子は薄く笑う。
「拉致だなんて。彼は列車に落ちた君を助け、今まで護衛についていた。それだけだ」
「殿方と二人きりで、これまでずっと一緒だったのですよ? なかなか返上できない汚名だとお考えになりませんか?」
「すべて手は打ってある。君は安心して都に戻ればいい」
 厳しいはずの彼が、なぜここまで自分に気を回すのだろう。コルネリアは怪訝に思う。
 それほどハーゲンが重要な存在だと思っているのだろうか。彼女は拳を握る。
「いいえ。参りません」
「なぜだい?」
「殿下は義兄が何をしているのかご存知だと伺っております」
 沈黙が室内を支配する。
「……ああ、うっすらとだが」
「それでも義兄と手を組むのですか? この国までも腐敗させようとするのですか?」
「お嬢さま、落ちついてください」
「落ちつけないわ、ルッツさん。あなたも見たでしょう? 何の罪もない民が、義兄の手の者に蹂躙されているのよ。それを野放しにするということじゃない」
 舌打ちするルッツをクヌートは手と目で制しつつ、婚約者に向き直る。
「そのつもりはない。私は彼のやり方に賛同してはいない」
「では、何をなさるおつもりですか?」
「……今後の具体的な話は、まだ言えない。ただ、今は私を信用してほしい」
 コルネリアは、自分の頬が熱くなるのを感じる。
「言えないと仰っているのに、それで私が信用できると本気でお思いですか? 私は、たとえ相手が殿下であろうと、民のためには刃向かいます! 亡き父の遺志を継ぎ、このユリードを守ってみせますわ!」
 ふと、息が漏れる。クヌートが微かに笑ったのだと悟り、コルネリアは真っ赤になる。
 昔から冷たい眼差しで睨むばかり。言葉をまともに交わそうともしない。それで、初めて見せる笑みが、このような状況だとは――。
「どうしても私をこの地から排除するのであれば、修道院に入ります! 一生、歌も歌わず、ドレスも着ずに、慎ましく神と国への祈りを捧げて過ごします!」
「それは困るな。いつだったか、サロンでの君の歌はとても素晴らしかったから。失敗も含めてね」
 まさかそう返されるとは思わず、彼女は怒りに震える。最後は丸く収まったものの、あの盛大な失敗自体は、彼女にとっては忘れたい過去だというのに。
「……どこまで、私を馬鹿にすれば気がお済みになるのですか」
「コルネリア?」
「あなたに嫁ぐくらいなら、今すぐ死んでみせます! 義兄に私の死体でも送り返せばよろしい――」
 そこで口を塞がれる。ルッツが掌で彼女の唇を覆ったまま顔を握りつぶそうとするように力を入れているせいで頬が痛む。
「いいかげんにしろ、暴走列車」
「やめろ、ルッツ」
「不敬罪ですよ、殿下」
「手荒な真似はしないでくれ。私の婚約者だ」
 不承不承で、彼は彼女から手を放す。
 解放され、頬を抑えるコルネリアに、クヌートは近づく。彼女が身構えていると、王子は視線を合わせるように屈んだ。
「だが、そこまで嫌われているならば、しかたあるまい。婚約に関しては白紙に戻そう」
「え?」
「君に不名誉は被せない。私が心変わりをしたということにしておけばいい。適当な話を作っておくから、ほとぼりが冷めるまで君は悲劇の令嬢として振舞ってくれ」
「殿下!」
 ルッツの声が一瞬裏返る。
「今までの苦労が台無しです。それに、ハーゲンのことはどうなさるんです?」
「彼女抜きで話を進める。君のこの数日間の働きには、手当を出そう」
「そういう問題ではございませんよ」
 そのとき、扉が開いた。そちらを振り向いたコルネリアは、息をのんだ。
 豊かな黒髪に派手な服、不機嫌そうな顔。
 彼女の義兄、ハーゲンだった。
 彼は恭しい礼をする。
「殿下、ご連絡くださいましたら、このアーベントロート、お迎えにあがりましたのに。しかも、このようなみすぼらしい宿など……」
 室内を確認するように視線を巡らす彼は、コルネリアの姿を捉えると、悪魔を見たかの形相になった。
「義妹の醜態は、すでに聞いております。心よりお詫び申し上げます」
「耳が早いな。緘口令を敷いたのだが」
「大立ち回りだったようですし、何より、情報は金ですので」
「なるほど」
 愛想笑いのような表情で、クヌートは頷く。
「殿下、何卒お許し賜りたく存じます。これに関しては、私が責任を持って躾けますので」
「いや、その必要はない」
「と、仰いますと?」
「彼女との婚約は取り消す」
 ハーゲンはぽかんと口を開けた後、コルネリアを一瞬睨み、その場に跪く。
「どうかそれだけは。義妹には私からよく言い聞かせます」
「いや、私の心変わりだ」
 コルネリアしか聞こえないほどの大きさで、ルッツが溜め息をこぼす。そらぞらしい、という声とともに。
 ハーゲンは慌ててその場にひざまずく。
「不出来な義妹でございます、殿下のお心を傷つけるような真似ばかりで。しかし」
「いや、彼女の行いはまったく関係ない。むしろ申し訳ないことをした」
 コルネリアは、ただクヌートを見つめる。
 まさか彼が自分をかばうなどと思わなかった。さんざん無礼を働いてきた斜陽貴族の娘に、第二王子とあろう人間がここまでするとは思わなかった。しかも、何を考えているのかわからない、冷たい雰囲気の彼が。
「ただ、あなたとのつながりはまだ失いたくない。姻戚関係でないのは私としても心苦しいが、罪滅ぼしのために便宜ははかろう」
「殿下!」
「あと三日は滞在できる。まずはお互い冷静になろう。三日後、改めて話をしよう」
 クヌートはコルネリアに向き直る。
「無駄に……君を傷つけただけだな」
「そんな」
 そのとき、コルネリアの胸にあったのは、罪悪感だった。
 婚約破棄。当初の目的のとおりだ。だが、コルネリアの心は晴れるばかりか暗雲がたちこめる一方だ。
 なぜ、とコルネリアは王子を見つめる。そこで、手首に強い衝撃を覚えた。
 ハーゲンは無理矢理コルネリアを自分の背後へ回らせると、そのままつかんだ彼女の手をぎりぎりと握りつぶすように力を入れる。コルネリアは顔を歪めた。
「一度、義妹は下がらせます。殿下は、当方で用意しました宿がございますので、そちらにご滞在いただけないでしょうか」
「……ならば、アーベントロート家の屋敷に滞在させてはもらえないだろうか」
「は?」
 コルネリアは、不本意ながらも義兄と同時に声を出す。
「何か?」
「いえ、大変申し上げにくいのですが、当家は殿下ほどのお方をお迎えする支度が整っておりません。宿の者にはできる限りのことをするよう申しつけます。どうか一日ばかりはご容赦いただけないでしょうか」
「そうか」
 ハーゲンの身体越しに、じっとこちらを見つめるクヌートの眼差しはやはりどこか鋭く、コルネリアはとっさに目を逸らしてしまう。
「わがままばかりを言ってすまないな」
「私は殿下の忠実なる臣でございます。ご期待にそえたいと思っております。ただ」
 緩んでいたハーゲンの握力が強くなる。
「この義妹のことだけは、どうか……」
「彼女に責任はない。それだけは重々承知してほしい」
 義妹を解放したハーゲンは恭しく礼をとる。コルネリアは顔を上げられず、赤い跡のついた自分の手首を見つめる。
 宿まで自ら送るというハーゲンの申し出を断り、クヌートはルッツを伴って移動しようとする。
「あ、あの」
 コルネリアの声に、ルッツが振り向く。
「無事お連れできて何よりです」
 困惑しながら、彼女は口を開いた。
「付き合わせてしまって……ごめんなさい」
「いえ。あなたは我が主の婚約者でいらっしゃいましたし、何よりアーベントロート家ご当主の義妹でもあります。このたびお供にしていただきましたことは、誠に光栄でございました」
 これまでの荒っぽい態度が嘘のように、彼は優雅な微笑みを見せた。
 ハーゲンは唇の両端を上げる。
「義妹が世話になったのは君か。便宜をはかろうじゃないか。名は何という」
「いえ、閣下。私は、殿下の僕としての職務を全うしたまででございますので」
 彼はコルネリアに向き直る。
「それでは、失礼いたします」
 クヌートを追うように、彼は行ってしまう。
 溜め息をついたコルネリアは、自分の現在の状況に気づく。同時に、顔に衝撃が走った。
 悲鳴をあげながら、床に倒れる。見上げると、ハーゲンの蔑んだ表情があった。
「どこまで使えないんだ、お前は」
 言いながら、足でコルネリアの身体を突く。
「俺がせっかくここまで整えてやったのに、見事に潰しやがって。何にも取り柄のない、頭の悪いお嬢さまをよ」
「……あなたと殿下を信用できないからよ」
「信用? ふざけたことを」
 ハーゲンは彼女の肩を、押さえるように踏みつける。
「貴族の女は、家の利益を出すために嫁ぐ。それは、お前らご自慢のお父さまだってきちんと教えていただろ?」
「でも、あなたはこの結婚にどんな利益があるのか、まったく教えてくれないじゃない。そんな状態で宮廷に出されて、どうなるの?」
「一から説明してやらなければわからんほど愚鈍なのか! 直系の娘が、聞いて呆れるな。本当、どういう教育を施されたんだか」
 父親を侮辱された。コルネリアの意識は怒りに満ちる。
「民と領地を愛するっていう教えよ!」
 ハーゲンは大笑いする。
「愛だけで金がないほうが、民のためにならんだろうが。古くさい貴婦人の心得だけで、生き抜く術を教わらなかったのは不幸だな」
「あなたのやっていることの何が、ためになっているの。元の民を駆逐して、領地を荒らして。もしもあなたが事業に失敗したら、あとには何が残るの? 徹底的に破壊し尽くされた土地だけじゃない。誰もいなくなるわ!」
「失敗などしない。第二王子だけが俺の支援者だと思うなよ、小娘」
 彼女は義兄を見上げる。
「どういうこと?」
「お前の知ることではない」
 ハーゲンがもう一度蹴りを入れようとしたそのとき、ノック音が響く。
「誰だ」
 舌打ちをしながら、ハーゲンは足を下ろす。
「ヤンです。代理でご報告にあがりました」
 ヤン、と復唱しながら、彼は首を傾げる。
「王子は例の宿に到着しました」
「……ご苦労。あとは、これを屋敷の牢にでも入れておけ」
「かしこまりました」
 扉が開く。そこには、帽子を目深にかぶった男が一人。
 コルネリアはその服装に見覚えがあった。彼女が首を傾げていると、彼は布を取り出す。
「口、塞いでおいたほうがよろしいですか?」
「そうだな、いつものように大声でわめかれても困る」
 男は頷き、コルネリアと目を合わせる。
「あ!」
 彼女が口を開けると、彼は素早くまるめた布を突っ込み、そのまま手を簡単に拘束する。
「下にいる誰にお任せしましょう?」
「ヴォルフはいるか?」
「います」
「じゃあ、あいつの指示に従え」
 承知した彼はコルネリアを担ぎ上げる。彼女はもがくが抵抗できるはずもなく、そのまま階下へと連れて行かれた。
 運ばれた先は調理場。勝手口から外に出ると、農家が使うような荷車があった。麻袋に放り込まれ、荷台に乗せられる。しばらく振動が続き、それがふと止まる。
 何やら話し声が聞こえるが、コルネリアには聞き取れなかった。そのまま彼女の入った袋は持ち上げられ、どこかに運ばれる気配を麻越しに感じた。
 そして、しばらくして下ろされる。袋の口が開くと、そこにはクヌートとルッツがいた。どうやらここは彼らの宿のようだった。
「まったく。芝居ができないな、お嬢さま」
 布を取り出しながら、ルッツは呆れた視線を向ける。
「まさか、あんなにすぐに堂々と戻ってくるとは思わなかったわ。しかも、着替えて」
「上着を脱いだだけに過ぎません。首の周囲がちがうだけで、だいぶ印象が変わりますからね。帽子もかぶっていましたし。しかし、ハーゲンの手勢が自分でも把握しきれない程度に増えていてよかった」
 そう語る軍人を尻目に、クヌートはコルネリアの頬に手を伸ばす。
「赤い。ハーゲンにやられたのか」
 びくりとするコルネリアを見て、彼はすぐに指を引っ込めた。
「い、今さら、なぜ」
「ハーゲンのもとに君を残したら何をされるかわからないからな。彼に動いてもらった」
 主に視線を向けられ、ルッツは肩をすくめながら微笑んだ。
「ああいうのはせめて屋敷でやるべきと思うんですけれどね、よほど腹に据えかねたんでしょうね。ええ、気持ちはわかります」
「ルッツ」
 王子の咎める声に、彼は頭を掻く。
「おかげでこっちは助かりましたがね。いや、俺は今助けないほうが最終的に手間がかからないって思ったんですよ? しかし、殿下が」
「……君の安全が気にかかった」
 コルネリアは警戒に満ちた目を向ける。
「なぜ……私なんかを。あなたは、義兄の味方ではないのですか?」
 クヌートの瞳が、ニ、三度ほど揺らぐ。ひとつ吐息をこぼし、彼は語り始める。
「君との縁談を持ちかけたのは、ハーゲンの行状を押さえる目的があった、というのも理由のひとつだ」
「押さえる?」
 コルネリアの言葉に、彼は頷く。
「彼は外からの評判は悪くない。多少強引だが、領地を盛り立てようとしている若き領主。実際、工業化を進めるべく専門家を招き、工場の建設を進めている。他国を受注先とし、外貨を得ている。雇用を増やすことで人を集め、税の回収の算段も行っている。多少離れた人間もいたが、改革にはよくあることだから、さほど問題視はされていなかった」
 俯くコルネリアを説得するように、クヌートは言葉を強める。
「だが、どうも怪しい」
「え?」
「申告と比較しても金回りが良すぎる。どうも隠れて蓄財しているが、まだ事業は軌道に乗ったかどうか。とても、あれほどの財を確保できる規模ではないんだ。とすると」
 主の視線に、ルッツは煩わしげに口を開く。
「隠れて何かしているのは事実のようだから、密かに探っていた。ただ、肝心の尻尾がなかなか掴めなかった」
 コルネリアは訳もわからず、瞬きを繰り返す。そんな彼女を見つめ、クヌートは言う。
「わざと彼に近づき、私を信用して暴露するのを待った。現在は都からの手勢を、いくつかに分けて町に忍ばせている。幸い新参者が多い地であるから、余所者が多少増えてもさほど不自然ではあるまい」
 本来ならば、もっと時間をかけて行うはずだった。彼らはそう告げる。
「あんたが駅で大立ち回りを演じなければ、もっと円滑に物事が進んだんだがな。おかげで、だいぶ予定が狂った」
「済んだ話だ。本格的に介入する前に、君を都に避難させておきたかったんだが」
 遠慮がちに、王子はコルネリアに触れる。
「アーベントロート家が完全に汚れて潰れる前に解決する。それだけは約束しよう」
 コルネリアは唇を噛む。
 都合がよすぎはしないだろうか。
 第二王子自らが、ここまで力を入れる理由が思いつかない。ハーゲンの作る財が目当てでないなら、尚更。そもそも、弱小貴族の異変に気づくこと自体、彼女には不思議だ。
「しばらくここで待っていてくれ。ハーゲンもさすがにここへは無理に踏みこんでこないだろう」
「殿下?」
「あれも焦って動き出す頃合いかもしれない。ルッツ、あとはよろしく頼む」
「御意」
 名残惜しげにコルネリアを一瞥すると、クヌートは去る。
 残されたルッツは、呻くような声をあげた。
「まったく。こっちがせっかくいろいろ整えてやってたというのに、あんたのせいで」
「あなたは、最初から殿下が義兄を疑っていると知っていたの?」
「ええ」
 コルネリアは思わず、彼の服を引っ張る。
「どうして何も言わなかったの? 私があれほど疑っていたのに」
「あんたみたいな暴走列車に教えたら、こちらの思惑がハーゲンに気づかれてしまうって思ったからさ」
 脱力するコルネリアの頭を、彼は軽く叩く。
「でも、俺は申し上げたよ。わざわざ婚約までしなくてもいいのではってね。でも、王子はあなたを婚約者にするって譲らなくて」
「なぜ?」
「それは俺もわかりません。だから、殿下がなぜあなたを妃に選んだか知っているかって聞かれても、知らないって答えたわけです。正直にね」
「せめて、そのときに計画を教えてもらったら、もっとうまく立ち回れたかもしれないわ」
「無理だろ。まるっきり想像できない」
 説得力がないことは、コルネリア自身理解している。
「とりあえず、俺は殿下が第一。そのために、適度にあなたを守りつつ、へたに暴露されないようにしながら泳がせたというか」
「あなたは、本当に殿下に忠実ね」
「恩があるからって話はしただろ」
「そもそも、何の恩なの?」
 ルッツは時計を確認する。
「昔話をする時間は多少有り、か」
 彼は薄く笑った。
「俺も、没落貴族の出身なんだ」
 ルッツの生家は、アーベントロート家よりもずっと家格の低い家だった。
 しかし、彼の父は誇り高き騎士の末裔であることを誇りに思い、王家への忠誠心に満ちあふれていた。金よりも名誉を重んじる男だった。
 彼は父を尊敬した。幼いときに母を亡くし、二人だけの家族。たった一人の息子として、父を支えようと思い、生きていた。
 ところがある日、彼らのもとに富豪が一人やってきたことで、運命が変わった。
 投資の話を持ちかけてきた彼を、ルッツの父はすぐさま追い返した。しかし、富豪は数日ごとにやってきた。
 ルッツは彼を警戒し、父に何度も忠告した。ちょうど軍学校に入るのを控えていた身、屋敷に一人残される父を案じた。
「大丈夫さ。あんな軽薄な人間の甘い言葉に耳を貸しはしない。どれほど貧しくとも、誇りだけは捨てない。この剣に誓って」
 家宝の大剣は、初代が戦で名を挙げたときに用いていたものだ。架けられたそれを確信に満ちた眼差しで見上げ、彼の父は語った。
「それよりも、お前のほうが心配だよ。クヌート王子殿下と在学期間が重なるではないか。粗相をするのではないよ。まだお若いが、私はあの方をとても頼もしく思っている。お前も見習いなさい」
 この父ならば心配いらない。ルッツはそう安堵しながら、家を出て軍学校の寮に入った。 幸い、性に合っていたようで、彼は下級生のうちから頭角を現した。
 上級生だったクヌートもルッツの名が耳に入り、一度直々に声をかけられたことがあった。彼がすぐさまそれを手紙で知らせると、父はすぐに返事を寄越した。
「さすがは我が息子だ。誇りに思う」
 その言葉に、ルッツは頬が緩んだ。父のためにと、いっそう学業に精を出した。
 しかし、数ヶ月後、彼の父親の悲報が届けられた。借金と汚名にまみれた死を遂げたと。
 急遽帰郷した彼は、空っぽになった家に言葉を失った。家宝の剣すらも既に売り払われていた。
 何があったのか、と彼は呆然とした。手紙にはいつも、王家や息子への思いを綴った父親の姿しか感じられなかった。 
 幼さの残る彼に、家運が託された。ただし、彼を助ける者がいるどころか、親族さえ遠ざかる人間ばかりだったという。
 そこまで語ると、ルッツは皮肉げな笑みをコルネリアに見せる。
「手の平を返されるのは、なかなか辛いよな。結局、俺には何も残らないどころか、負債の山がのし掛かった」
 財産の後始末が彼を悩ませた。どうにかして都合をつけなければならない。ましてや、軍学校に通っている余裕などない。
 そんな彼のもとに、専門の役人たちが遣わされてきた。驚くべき早さで処理を済ませた彼らにより、彼は軍学校の寮に戻された。
 そこで待っていたのが、クヌートだった。
「はじめは驚いたね。とりわけ親しくもない下級生に、第二王子が手を差し伸べるなんて」
 そんなルッツに、彼は無表情で一言。
「君の能力を市井に埋めるのは惜しい」
 ルッツが自分で思っていたよりも、クヌートは彼のことを評価していた。恩を売る代わりに、卒業後は自分のもとで働いてほしいと。
 ルッツはそれを受け入れた。父親の不始末により、彼に当たる風は決して弱くはなかったが、構わなかった。この王子のために尽くそうと決意した。
「実は、まだ負債は残っているんですよ。厳しい取り立てがないだけで。だから、クビになるのは本当に勘弁なんです」
 そうおどけたように言う彼に、コルネリアは何も返せなかった。
 ルッツは目を細める。
「俺から見た父は、立派な人物でした。今でも、なぜああなったのか、わからないままです。だから、どんなに他人が父のことを悪く言おうと、俺にとっては馬鹿みたいに騎士道を重んじる人でしかありません。今でもね」
「……あなたからしてみれば、私なんて」
「昔の自分を見ているような気分でした。無礼はお許しください。でも、同情はごめんだ」
 ルッツは時計を見る。
「お喋りはここまでにしよう。そろそろ交代の時間だ。俺も行かなければ」
「殿下はどちらに?」
「御自ら、あなたの義兄のしっぽを捕まえに」
「わ、私も行くわ!」
 身を乗り出す彼女を、ルッツは押し留める。
「暴走列車に突っ込まれたら、負傷者続出だ。ここでおとなしく待っていてください」
「で、でも」
「あんたが動くと、ろくなことにはならない」
 いつの間にか別の軍人が側に立っていた。ルッツは彼にコルネリアを任せると、出て行ってしまう。
 頬を冷やしつつ、コルネリアは窓から夜の景色を眺める。時間が経つにつれ、不安が募った。
 このまま待っているだけでいいのだろうか。
 もう疑いの気持ちはほとんどない。しかし、彼らに委ねたままにしておくわけにはいかない、と心が騒ぐ。
 アーベントロート家の者として、自分は領民への責任がある。その思いに支配される。
 きっと自分が動かない方が物事はうまくいく。それは、もうわかっている。しかし、人任せにしたまま解決するのをただ待つのは、他の誰かが許しても彼女自身が許せなかった。
 姉はきっと動かない。ならば、やはり自分がその分の責任を負いたい。
 彼女は窓を開ける。
「いかがなさいましたか?」
 訝しげに尋ねる軍人の声を背に、彼女はひらりと飛び出した。
 二階ではあったが、ちょうど倉庫の屋根が近くにあった。それを経由して、彼女は地面に降り立った。
 狼狽した声が降ってくる。同時に、建物の陰から複数の足音が聞こえる。よく知っているようで見知らぬようにも思える夜の町を、コルネリアは走りだした。





2015/02/28

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