自由か死か (後)


 さやかに打ち明けてからは、平穏すぎる幸せが続いた。よくよく考えれば、僕は卑怯だったかもしれない。僕の何気も心もない一言が彼女の同情心を誘ったように思えた。それでも、さやかは彼女なりに精いっぱい受け止めてくれたのだ。僕はただただ感謝するしかなく、絶対に彼女を幸せにしようと誓った。
 さやかへの告白からしばらくして、僕はさやかの希望で彼女に美佳子を紹介した。引き合わせることにいささか不安を感じてはいたのだが、意外なことに二人は馬が合ったようで、僕を通すことなく直接連絡を取る仲になったと、後に各々から聞かされた。
 さやかは常に僕と美佳子を気にかけてくれ、美佳子から突然の呼び出しがかかっても、それまで以上に率先して送り出してくれるようになった。むしろ僕が少しでも彼女に謝ると、妹の命のほうが大事だろう、と怒られてしまうくらいだった。
 地元の妹の主治医は、何年も見てきても僕が美佳子に力を渡すたびに奇妙に顔を歪めた。それが普通の反応だと思う。僕たちでさえ、自分たちのことがほとんどわかっていない状態なのだから。しかし、さやかには何やら僕らの力の受け渡しが神秘的なものに見えるらしかった。
 本当に、僕には勿体ないくらいの恋人だったのだ。既に割り切ったはずの過去、たとえば進学や就職のことが急に僕の心に戻ってきて、どうしようもない悲しみや苦しみに打ちひしがれた日なんかが時たま訪れた。そういう時は、弱さを見せたくなくても曝け出してしまった。荒れた僕に呆れず傍らにいてくれたさやかは、こう言うのだった。
「悲しまないで。人生はままならないけれど、そのおかげで私たちは出会えたのだから」
 辛い状況に陥ったときはいつも僕の支えになった言葉だった。確かに、思い描いていた順調な人生を歩まなければ、さやかという存在を得られなかっただろう。僕にとって不本意な事実の積み重ねで出来た道の先に、さやかがいたのだ。彼女に出会えたのだから僕の運命は良いことと悪いことがちょうど半々なのだろう、と思えた。
 僕とさやかが結婚を決めたのは、美佳子が大学三年生に進級した春だった。付き合いの年月を考えれば少し早い決断だったが、美佳子も父も母もこの上なく喜んでくれた。特に父は、僕ら兄妹がこんな状況だから僕の結婚は難しいと踏んでいたらしく、久しぶりに心から安堵した表情を見せてくれた。
 しかし、問題はさやかの家族だった。厳格な性格らしいさやかの父は、まず僕の職歴に噛みついた。まあ、まともな親だったら、新卒で入った会社を数ヶ月で辞職し、あとはよく理解できない身分で仕事をしている男に娘はやれないだろう。
「まあまあ、妹さんが病気でついてなければならないみたいじゃないの」
 娘から常に情報を得ていたらしいさやかの母が優しく援護してくれたが、さやかの父は唇を噛みしめて僕を睨んでいた。
「それほど重大な病気なのか」
 僕は姿勢を正して、口を開いた。ただの他人なら適当に誤魔化すが、相手は未来の義父である。生半可な説明では納得しなかっただろう。かと言って、この人に僕と美佳子の関係を包み隠さず言って理解してもらえるかも不安だった。探り探りになってしまったのは失敗かもしれないが、余裕がなかった。
「妹は寝たきりでも介護が必要な容態でもありません。しかし、いつ倒れてしまうのかわからない状態ですし、両親は田舎から動けませんので、なるべく僕が傍にいないといけません」
 事前にさやかが何度も説明していたとのことだったが、さやかの父は態度を崩さなかった。たとえ美佳子と僕が特殊な体質でなかったとしても、婚家にいつどうなるかわからない身体の人間がおり、危険なときにはすぐにでも駆けつけてやらなければいけない状態なのだと知ったなら、普通の親は反対するだろう。僕が彼の立場であったとしても、きっとそうだったろう。
 僕らが結婚するとなったら、当時僕と同居していた美佳子の扱いをどうするかが争点だった。一緒に暮らすかと僕とさやかが提案したが、美佳子は固く断った。となると、僕らは美佳子の近所で別居することが一番だという結論に達したものの、さやかの父はそれすらも不満だと言った。さやかと僕がどれだけ説明しようと、僕がさやかでなく美佳子を優先するのが気に食わなかったらしい。
 気がつけば、僕の来歴や妹の存在だけでなく、さやかよりも下である僕の年齢や僕の両親のことにまで話は飛び火し、第一回目の話し合いは散々な結果になってしまった。どのような様子だったのかと美佳子が尋ねてきたとき、僕らは必死にごまかしたのだが。
 一週間に一度か二度、彼女の父を説得する生活が、二ヶ月ほど続いた。時々、僕か彼かのどちらかが激昂して怒鳴り合うこともあった。そんなある日、僕は突然、単独で彼女の家に呼び出された。さやかには内緒だった。
 すっかり慣れ親しんでしまった居間のテーブルを挟み、さやかの父と対峙した。いつもはピリピリとした空気を身にまとって僕をきつく睨む彼が、そのときはやけにやわらかい態度を見せた。何を言われるかわからなかったので警戒したままだった僕が背筋を伸ばしたまま視線を逸らさずにいると、目の前に数冊のアルバムが出された。
「これ、さやかのです」
 生まれたときからまめに記録されていたさやかの人生が、そこには収められていた。兄とは十年近く離れて生まれた、待望の女の子。家族の愛情に包まれて、順調に成長していったさやかが、どの写真でも生き生きとした表情を浮かべていた。自分の知っている彼女よりもずっと幼いはずなのに、まったく変わらない姿に、僕は思わず笑った。
 緊張していたはずなのに、一緒にページをめくっていくうちに、僕の心はほぐれてしまった。しかし、どうして彼がいきなり僕を呼び出してアルバムを見せたのかはわからないでいた。
 さやかが大学を卒業して袴を着た写真を見ながら、さやかの父は口を開いた。
「時々は風邪ひいたりして寝込んだりすることもありましたが、今日まで元気に育ってくれました。いつだって我が家に明るさをくれた子です。ずっと大切に育ててきた、私たちの宝物です」
 彼の言葉には、とても強い力が込められていた。僕はふと、自分の父と重ねてしまった。我が家は結局のところ、一冊もアルバムが完成しないような家だったし、母と美佳子中心の生活だったが、主張をあまりしない父は僕も美佳子も可愛がってくれた。親にとって、子どもは愛おしい存在であるのだと、二人の父を見て思った。
「だから、あの子をないがしろにするような人のところへは行かせられないのです。君にとって妹さんは大事な家族でしょうが、結婚したら君の家族はさやかです。誰よりも君に守ってほしいのは、さやかなのです」
 いつになく穏やかな語りだった。眼鏡の奥にある両の目が、しっかりと僕を見つめた。そこに攻撃的な視線はなかった。
「私たちはあまり看病や介護とは縁のない生活を送ってきました。なので、君の苦労はわかりません。私らがいくら想像しても、きっと君の家が抱えてきた苦労の半分も理解できないでしょう。さやかを妹さん以上に大事にしてほしいのというのは、こちらのわがままかもしれません」
 そんなことはない、と僕は言おうとした。それを言ったら、僕だって子どもの幸せを願う親の気持ちなど、すべて理解できないのだから。しかし、さやかの父は間髪入れずに続けた。
「けれども、結婚して新しい家庭を築くというなら、せめて妹さんと同じくらいさやかを大切にしてほしい。君に私が望むのは、それだけです。どうか、さやかを悲しませないでください。孤独を味わわせることなく、幸せにしてください」
 そこまでゆっくりと、けれども間を開けることなく喋りとおした彼は、僕のほうを向いて美しく座り直し、頭を下げた。
「娘を、頼みます」
 それは、紛れもなく僕らの結婚を許す台詞だった。僕は思わず腰を上げた。
「はい、必ず、幸せにします。どんなことがあっても、悲しませたり一人にはさせたりはしません」
 僕はそのとき、心の底からの誓いの言葉を口にした。さやかの父はすがるように僕を見ながら顔を上げると、瞳をうるませた。そして、もう一度頭を下げた。
「ありがとう」
 その晩、二人で晩酌しているところに帰ってきたさやかは目を丸くした。そして、それぞれの口から事の次第を聞かされると、泣き崩れた。どうやら、その前日に父と娘でじっくりと話し合いをし、それでも父の様子に変化を読み取れないまま朝出勤したとのことだった。まさか、帰宅したら、あれだけ言い争いを続けていた婚約者と父が仲良く酒を酌み交わしている姿があったなんて、想像もつかなかっただろう。
 おそらく、父親の心を動かしたのは、他の誰でもないさやかだった。前日にとことん話し合ったから、彼女の父は僕を呼び出すのに至ったのだろう。僕は父母から慰められているさやかに心から感謝した。同時に、彼女を妻として幸福にしたいという思いが改めて強くなった。
 こうして、僕たちの結婚が正式に決まった。一年か二年くらい時間をかけたいというさやかの意向を酌んでの準備だったが、仕事の合間に行うものだから、どうしても慌ただしくなってしまった。それでも、着々と彼女との生活が近づく幸福感は、僕の人生において最上のものだった。


 光で満たされた僕の人生に、何度目かの影が落とされたのは、その年の秋の終わりだった。今まで自他ともに認める健康を誇ったはずのさやかに病気が見つかったのだ。最初は彼女自身も周りも深刻には考えていなかったのだが、それが本当は重いものだったと知ったとき、僕はあまりのことに呆然とし、始めは事実を受け入れられなかった。
 一刻も早く結婚しよう、式や披露宴は落ち着いてからやればいい。僕がそう言うと、さやかは首を横に振り、むしろ遅らせたいと答えた。彼女の両親も僕の両親も口を揃えて同じ意見を告げた。僕は夫として彼女を支えたいと主張しても反対意見が強く、予定はほとんどが白紙となった。
 最初は通院で治療していたさやかだったが、病状が進行して入院することになり、結局会社は退職ということになってしまった。やりがいを感じていた仕事から手を引くことになり、彼女は悔しさで涙を流した。
 こういうとき、変則の仕事に就いていて良かったとつくづく思った。翻訳の仕事は、どこでもできる。僕は出来る限り彼女に付き添い、入院してから落ち込みがちな彼女を励まし続けた。
 美佳子は三年生だったから就職活動が始まっていた。ときには神経も体力も使い果たして、一日に行う力の受け渡しが数回に増えた。あまり心配をかけたくないからという理由でそのことを僕らは話さないでいたが、さやかはいつも美佳子を心配し、美佳子がちゃんと自分のところに顔を出すと安堵していた。
 闘病生活は、出口が全然見えなかった。医者は治る見込みの数字を何度も訂正し、さまざまな治療法を試みた。不安が煙のように漂い続けた。美佳子がずっと苦しんできたのを知っているから何となく感じ取れたが、さやか自身、周囲にはもらさなくても相当辛い思いをしていただろう。
 できれば、替わってやりたかった。今まで生命力の供給者という立場でいたものの、僕はせいぜい脱力感があるくらいで、本当に健康を害したことは全然なかった。ただ過去に見てきた美佳子の表情や雰囲気に彼女を重ねて、どれだけ苦しんでいるのか想像することしかできなかった。
 さやかは弱音も吐かず、ひたすら治療に励んだ。日に日に痩せていく彼女の姿を見ている周囲の方が暗い顔をして、彼女はいつも明るく振る舞った。
「治ったら、ドレス見に行きたいな。どんどん新しいデザインが出るからね。せっかくだし、もっと素敵な場所を見つけて、披露宴とか二次会の会場も考え直して……」
 病気が治ったら何がしたいか。その話題が出ると、決まって結婚式のことをさやかは語った。結婚式は女の子の憧れなのだと、彼女は力説した。結婚情報誌やパンフレットを見ながら計画を練っているさやかの笑顔は、本当に愛おしかった。病で弱くなった心が嘘偽りなく弾む、数少ない時間だった。
「でも、式だけじゃなくてさ、その後の結婚生活も考えなきゃ。新居を構えるんだったら、色々と買い揃えなきゃいけないし」
「じゃあ今度は家電と家具のカタログ持ってきてよ」
 例え完治したとしても、さやかが子どもを持つのはいささか難しかった。そのことは泣いて謝られたが、可能性がゼロではなかった。だから、当分は夫婦二人でのんびり過ごして、体調に合わせた方法を探そうと約束していた。
 何はともあれ、未来を夢見ることで生きる希望が湧くなら、僕はいくらでも手伝った。具体的なところにまで話は及び、マイホームを何年後のどの土地に建てて、部屋の間取りはどうするかなども全て決まってしまったくらいだ。一見夢見がちなさやかではあったが、変なところは現実主義で、僕がそれを指摘して笑うこともよくあった。
 そうでなければ、本当にやっていられなかったのだ。気丈に振る舞った彼女であったが、時々は本当に不安になったのだろう。思い出したように俯いて僕に寄りかかり、ひっそりと涙を流すこともあった。僕は彼女を抱きしめ、大丈夫と繰り返し囁いた。さやかは黙って頷くのだが、その弱々しさがこのうえなく切なかった。
 闘病は続いて、気がつけば彼女と結婚の約束をした春がまた訪れていた。病室から見える桜並木が美しかったが、さやかがちょうど体調を崩していたので瞬く間にその美しい姿を消してしまっていた。
 ふと気づいたように、がくしか残っていなかった景色を見て、さやかが呟いたことがあった。
「桜、いつの間に散ったんだろう」
 正直、僕もあまりよく覚えていなかった。いつも通っていたはずの道なのに、気がついたら儚い花弁の絨毯が広がっており、あれだけ淡い色と香りで埋めつくされた空が、虚ろになった枝から覗くようになっていたのだ。
「今年も花見したかったな」
 それが叶うなら、どんなに良かっただろうか。僕は感情を抑えて、窓辺に立った。
「いつの間にか散っていたんだ。気がついたらまた咲いているさ」
「来年は遠いよ」
「すぐだよ」
 どういうわけか、僕は焦ったように畳みかけた。少し必死になった僕の顔を見て、さやかは薄く微笑んだ。その表情は、自分の知っている彼女のものとは違う気がして、僕は一瞬意識を途切れた気がした。
 僕を引き戻したのは、マナーモードにした携帯電話が震える感触だった。
「あ、ごめん、電源切ってなかった」
「美佳子ちゃんでしょ。今日はもう大丈夫だから、行ってきて」
 さやかの推測通り、相手は美佳子だった。妹はもう四年生に進級しており、就職活動も中盤を過ぎたところだった。いくつか内定は取っていたものの、まだ自分の行き先を迷っているらしく、業種をさほど絞らないで面接を繰り返していた。
 時々、精神も身体も力を使い果たしてしまって、助けを求める電話が来た。たいていは、さやかの病室まで見舞いに来たついでに僕から力をもらって帰っていくのだが、不意に本人でもどうしようもないくらいに消耗してしまうことがあった。
 さやかの大学生活は比較的に穏やかに見えたが、就職活動を始める少し前から、一日に二回程度の受け渡しではもたなくなる日が増えていた。本人も運動を控えたり無理をしないようにしていたが、それでも年を重ねるにつれ、僕の手をすがるように握る回数が多くなっていた。
 妹は暑さに弱く、七月から九月にかけては本当に彼女にとって憂鬱な時期だった。今からこれだというなら、蝉が鳴くころはどうなっているのだろう。さやかが入院して初めての夏は、気がついたらすぐそこまで迫っていた。


 美佳子とは違い、さやかは夏が好きだった。夏の遠出が一番なのだといった。太陽の光がさんさんと照るなか思いきり楽しむのが心地良いらしかった。家族との思い出も、全員のまとまった休みが重なる夏が多かったと、結婚の許しを得た時に彼女の父から聞いた。
 けれど、健康状態がぎりぎりのところを行き来しているさやかが、まさか山や海などの遠くまで足を運べるわけがない。病院の近くにある小学校から、子どもたちがプールではしゃぐ様子が聞こえてくるのを、わずかに楽しむことが彼女のささやかな楽しみとなった。
「昔、沖縄で泳いだのがすごく楽しかったんだ。関東は関東で良いんだけど、やっぱり南の島だね。水泳は昔から得意だったから、夏はよく海とかプールとか行ったんだよ」
 教員が笛を吹く音が微かに部屋に届いた。
「この病院、沖縄かせめて九州に移転してくれないかな」
 病が現れてから約一年で、さやかは大分変わった。別に気が強かったということもないが、仕事をしていたときの明朗さが薄れた分、穏やかさが増して悟ったような静けさがあった。
 美佳子や何度か上京した僕の父母は、記憶のなかの彼女とは違う気がすると、見舞いの後に僕にこっそり漏らしたことがあった。しかし、医師や彼女の父は、病気をした人間にはたびたびあることだし、気持ちも安定しているので心配ないと言っていた。
 確かに、さやかの様子は急激な変化を遂げていない。別段奇妙なところも見られず、精神も落ち着いていると感じられた。しかし、肝心なところでズレが生じたかのように思えることがいくつもあった。具体的に言い表すのは僕や彼女の家族でも難しかったのだが、いまひとつ彼女の輪郭に彼女が収まらないような感覚があった。
 病は、人間を変えてしまうのだろうか。強くなるのであれば良かった。しかし、その時のさやかからは弱々しさしか感じ取れなかった。どうしてこんなにも傍にいるのに、僕は何もしてやれないのだろう。無力さだけがこだました。
 その夏は、一日一日が長く感じた。成長した蝉の生はたった七日だという。それなのに、まるで永遠に木にしがみついて絶え間なく季節の音を世界に叩きつけるように、彼らの鳴き声は生命力豊かだった。例年は鬱陶しいとしか思えなかった虫の音を、僕は初めて羨ましく思った。
 さやかは一度、体調を大きく崩し、二日寝込んだ末に持ち直した。その間に、彼女の身体はずいぶん細くなり、僕が抱きしめたらそのまま折れてしまいそうなほどだった。
「ごめんね」
 軽くなっていくさやかは少し心細くなってしまったのか、以前は僕がしつこいほど病室にいると呆れて追い出したりしていたのに、むしろもっと自分と一緒にいてほしいと願うようになった。
「目が覚めた時に、陽太の顔があるとすごく安心できるの。ああ生きてるって、嬉しくて仕方ないんだ」
 彼女は、表情もうまく作れなくなっていた。わずかな眉や唇の動きで、読みとるしかなかった。少しでも笑っているのがわかると嬉しかった。僕がさやかの手を握ると、さやかはうとうととし始めた。
「どうしたの? 気分悪い?」
「ちょっとだけ」
「先生呼ぼうか?」
 さやかは、注視しないとわからないほど微かに頷いた。僕はナースコールを使って彼女の様子を知らせた。その間に、さやかの呼吸がどんどん不規則になっていった。僕はさっと青ざめた。つい先ほどまで弱々しくも穏やかであった彼女の急激な変化が恐ろしかった。何が起きているのか把握できず、たださやかの名前を呼んでは、助けが来るのを待っていた。
 最初に看護師が一人やってきて、さやかの容体を確認した。自分の手には負えないと瞬時に判断したのか、すぐに医師を院内無線で呼んだ。数分後に主治医が新たな看護師らとともにやってきた。医師が呼びかけると、さやかは呻いているのかどうか判別がつけられない声をわずかに出したっきりで、ひたすら静かで一定しない呼吸を響かせるだけだった。
 さやかが少し目を開けては、力なく瞬きをする。具合が悪いときは、いつもそれを繰り返して眠りについていた。僕は、こんな状態になったさやかを見るたびに心配でたまらなかった。次は目覚めないかもしれない。誰にも言えない不安が、彼女の眠りとともに襲ってくるのであった。
 邪魔にならない程度に離された場所から、僕は見守ることしかできなかった。大丈夫、この間寝込んだときはもっと苦しそうだったじゃないか。こんなに静かではなかった。少しだけ体調を崩しただけだ。僕は必死に自分へそう言い聞かせた。
 閉じるのが惜しいように、さやかはふと思い出したように再び瞼を開け、視線をさまよわせた。そして、僕の姿を確認すると、動かすのも億劫に見えるのに手を伸ばしてきたのだ。医師や看護師たちは一瞬僕をちらっと見て、場所を開けた。ふらふらと僕は歩み寄り、彼女の手を握った。
「びっくりさせてごめんね。すぐだから」
 僕は首を横に振った。ずっとついててやる。そう言おうとした瞬間、別の看護師が声をかけながら扉を開けてきた。
「あの、奥田さん? 別の病院から電話がかかってきて……」
 僕は無意識に自分の携帯電話を探った。そうだ、一応病院だから電源を切っておいたのだ。看護師はかなり気まずそうに、僕の予想通りのことを告げてきた。
「妹さんが倒れて搬送されたそうで……。できればすぐに来てほしいそうですが」
 そういえば、粘りに粘った会社の最終試験だと言っていたな。僕がその日の朝に妹との会話を思い出しながらさやかに目をやると、彼女がぎゅっと手を握り返してきた。先ほどまでまどろんでいたはずの目がしっかりと僕を見ていて、わけもわからない寒気に襲われた。
「私はいいから……行ってきていいよ……」
「でも」
 とっさに僕は躊躇の言葉を口にした。そばにいる、と彼女に言おうとしたのに、願っていることの反対のことばかりだ。僕が何か言い返す前に、さやかは笑った。
「約束、忘れてない、私……」
 僕は、かつての自分が彼女に言ったことを思い出した。
 僕はいざというとき妹を優先しなけばならない。今までもこれからも、妹中心の生活をせざるをえない。たとえ君になにかあっても、妹が助けを求めているなら僕は彼女のところに行かなければいけないんだ。
 そうしたら、彼女は何て言ったんだっけ。あの話をしたときのことが、やけに遠く感じた。あっという間に過ぎてしまったように思えたが、確かに時間は進んでいたのである。気づけば、桜を惜しんでからも数ヶ月も過ぎてしまっていた。
 僕が迷いを表に出すと、掠れ掠れの声でさやかは続けた。
「大丈夫、私のことは私に任せて……お父さんたち呼んでもらうから。陽太はもっと、私に気を遣わないで、甘えてもいいんだよ。だって……私のほうが年上じゃない」
 ああ、ずいぶんと懐かしいことを言う。そう思っていると、手を離され、力のかからない押されかたをされた。
「行って……。戻ってくるまで、先生たちに診ててもらってるから、だから、行きなさい。美佳子ちゃんのために、行って」
 僕は、彼女の言葉に頷き、妹が運ばれたという病院へ向かった。病室を出る直前に不意に振り向くと、さやかがほんの少しだけ笑っているような気がした。美佳子の運ばれた先へ行く途中、さやかの手は熱くも冷たくもなかったはずなのに、僕の手に感触と体温が長らく残っていた。
 案の定、妹は妹で精神力をおおかた消耗して、顔を紙のように真っ白にしてベッドに寝かされていた。本当に仕方のない子だ。僕はいつものように、妹の手を握った。その瞬間、何故かさやかの顔が頭をよぎった。ああ、大丈夫なのだろうか。美佳子には申し訳ないと思いつつも、目の前の妹に意識を全て集中させることはできなかった。
 僕の生命力をとことん飲み込む美佳子を倦怠感とともに見つめながら、僕はさやかの病室に帰って彼女を安心させたくなった。
 美佳子が目を覚ましたのは、それから数十分後のことだった。思ったよりも衰弱がひどく、意識は戻っても数日は入院が必要とのことだった。いつものように諸々の手続きを終えて一度帰宅し、美佳子の荷物を整えて彼女の病院へ向かった。
 妹の様子を見て、さやかの方に戻ろうとしたとき、携帯電話が鳴った。さやかの母からだった。
「陽太さん、さやかが、今……」
 たいていのことは大らかに構え、闘病中のさやかへ励ましの言葉を送り続けた彼女が、放心したような声を出した。こちらから呼びかけても、言葉にならないような声が何度か返ってくるだけで、何がなんだかよくわからなかった。
「もしもし、聞こえるか?」
 感情を押し殺したような低い声が、いきなり聞こえてきた。
「お義父さんですか。どうしたんですか?」
 問いかけると、彼も黙り込んでしまった。必死に問いかけると、ようやく返事があった。
「さやかが、死んだよ」
 たったそれだけの言葉を、僕は飲み込めなかった。この人は何を言っているのか。さやかが、死んだ? だって、数時間前まで僕らは一緒にいたじゃないか。言葉を交わして、手を握り合ったじゃないか。
「何を仰るんです。今からそちらに向かいますから、それからちゃんと話を」
「死んだんだ。私たちが看取った」
 その言葉の最後の方は、嗚咽に紛れていた。そうして通話は切られ、僕は茫然と立ち尽くした。馬鹿みたいに暑い夏の気温の中、蝉が何回鳴いたのだろう。ふと風を吹いて涼しさを感じたところで、僕は正気に戻った。そして、体中の血液が凍るような感覚を振り払うように駆けだした。手にだけ、さやかが最後にくれた体温が残っているような気がした。
 自宅のごとく慣れ親しんだ病院に到着すると、さやかの家族はみんな到着していた。両親も兄一家も目を真っ赤にして、ひたすら泣いていた。僕の姿に気づいたさやかの父が顔をくしゃくしゃにして何か言いかけたが、それをこらえるように目を背けた。
 ふらふらと足を進めると、そこにさやかがいた。寝台に寝かされたその姿は、いつものさやかだった。ちょっと声をかけたら目を覚ましそうな様子で、ドラマや映画に出てくるような美しい死に顔だった。
「陽太君と入れ替わりで私たちが来たんだけどね、一回持ち直したのよ。皆で安心してて、ちょっとさやかちゃんと話してたら、いきなりまた、あっという間に」
 鼻をすすりながら、さやかの兄嫁が子どもを抱き直した。色々と言葉が飛び交ったが、どれも僕の耳には入らなかった。だって、あれだけ一緒にいたのに、たった数時間いなかった間にさやかは息を引き取ったというのだ。そんな、あまりにも出来すぎの、馬鹿な話があるのだろうか。
 おかしい、これは何かの間違いだ。僕は冷たいさやかの肩に触れ、揺すった。起きろ、起きてくれ、頼む、起きてくれ。周囲の人間が僕を止めに入ったが、構うことなく僕はさやかを起こし続けた。馬鹿らしい、本当に馬鹿らしい。
「やめなさい。さやかは、死んだんだ」
 僕の手を取ったのは、さやかの父だった。掴まれた手首が温かで、じわりと熱が腕全体に広がった。その時点でのさやかとの体温の違いに、僕は絶望してその場に座り込んで号泣した。さっきまで彼と同じ温もりがあったはずなのに、どうしてそばにいてやれなかったのか。僕は恥も何もかもを捨てて、延々と泣きつづけた。


 それから数日をどう過ごしたのかは覚えていない。気がついたら、さやかの葬式も終わっていた。両親も田舎から駆けつけていたが、何を話したのかすらも覚えていない。
 ただ、さやかの母が僕に言ったことだけは何故か記憶している。
「いったん回復して目を覚ましたときね、うちのお父さんが陽太さんを呼ぼうとしたんだけど、そしたらさやかが止めてね。自分は大丈夫だけど、美佳子ちゃんは陽太さんが必要なんだって。最期にいられなかったの、後悔しないでね。あの子が望んだことだから」
 何が大丈夫だったというのだろう。僕にはわからなかった。
 意外なことに、さやかの葬儀後も僕は淡々と仕事をこなしていたらしい。憶測となってしまうのは、実感がないからだ。記憶はあるけれども、それは映像のようで、僕が自分の身体で行った感覚はなかった。ただ、僕が何もしなくても映画の物語は進むように、日は一つずつ消化されていった。
 いくつか溜まっていた原稿を終わらせたのは、高校生以下がそろそろ真っ白な宿題に焦り出す頃だった。盆に帰る気力はなかったし、ずっと家に籠りきりだったから、日付感覚はだいぶおぼろげだ。
 僕は原稿を種類ごとにまとめ、宅配便で出さなければならないもの一式を梱包した。そろそろ外に出なければ腐ってしまっただろう。僕は休みで家にいた美佳子に声をかけ、履きつぶしたスニーカーを適当に引っかけ、玄関の扉を開けた。
 ずっと室内にいたせいで、強い日光が痛く感じた。近くのコンビニまで無気力に歩き、何とか意識を保って発送の手続きをした。一応、店内を一周したものの、何も買う気が起こらず出てきてしまった。
 相変わらず日差しはきつく、この世の全てを焼いてしまうかのようだった。ああ、自分も骨になれたらいいのに。そんなやるせない感情を引きずりながら自宅へ進んでいくと、賑やかな笑い声が前方から聞こえた。ちょうどプールの帰りだったのだろう、ビニールバッグを持った子どもたちが、髪に水気を含ませたままこちらへと走ってきたのだ。
 周囲のものは何も関心を持っていないかのように、追いかけっこに必死になる彼らを見て、不意に頬が緩んだ。久しぶりに笑った気がした。
 ふと振り返って見た、プール用の荷物を振りまわしながら去っていく彼らの背に、さやかの声が重なった。
「水泳は昔から得意だったから、夏はよく海とかプールとか行ったんだよ」
 きっと彼女は天国で思う存分に泳いでいるのだろう。けれど、僕は生きている彼女とこの世の海へ一緒に行きたかった。もっとあちこちを訪れて、どうでもいいことで一緒に笑い、どうしようもないことで一緒に泣きたかった。けれどもう、さやかはどこにもいない。どんなに世界中を探しても、彼女は見つからないのだ。彼女だったものは骨と灰になり、彼女の家族と僕とで分け合っただけの物と成り果てた。
 もう彼女の温もりに触れられない。もう彼女の声を聞くことはできない。一度回復して意識を取り戻したその瞬間に、どうして僕はいられなかったのだろう。どうして最期に何の言葉もかけてやれず、見送ることもできなかったのだろう。後悔するな? 冗談じゃない。するに決まっているじゃないか。
 どうしてこんな別れ方をしなくてはならないのだろう。あの時美佳子が倒れなければ、美佳子さえいなければ、最期の最期に看取ることが出来たかもしれないのに――。
 僕ははっとした。濁っていた頭の沈殿物が一気に沈み、重力が僕を支配した。そして木陰の下で、自分が何を考えたのか、反芻した。
 あいつさえ、いなければ。
 もう一度心の中でその言葉を繰り返した瞬間、この世の雷のすべてを身に受けたも同然の衝撃が僕の体内を駆け巡った。そして、凍えるような真冬の震えを感じた。
 僕はそれまで、美佳子がいなくなることなんて一度も思ったことはなかった。あの子のせいで苦難にぶつかったり、悔やんだり、悩んだり、諦めたりしたことだらけの人生だったけれど、いなくなればいいなど全く思いはしなかった。
 妹の存在は常に僕のなかに存在し、彼女なしの人生など考えもしなかった。美佳子がこれからも僕の人生に居続けることを前提で、僕は今までずっと不自由さを悩んできたのである。
 美佳子がいなくなったら? その考えに至った自分が恐ろしかった。同時に、あまりにも冷たい感覚が僕の頭を取り囲み、ゆっくりと悲しみで茹であがった心を冷やしていったのである。
 季節は夏。蝉の声が頭上から容赦なく僕を狙い撃ちにした。それなのに、僕は身も心も冷え切って、完全に意識は冴えていた。自分の呼吸がはっきりと正確に聞こえた。
 もし当時の僕の精神を客観的に覗ける人間がいたら、僕を狂人と評しただろうか。仮にそうだとしても、そのときの僕は自分自身をまったくの正気と信じ込んでいた。いや、まさに正気だったと言えるだろう。たとえ誰が否定しようとも、僕の頭は正常だった。
 妹がいなければ。今まで考えもしなかった言葉を、脳に浸透させた。じわりと滲んでいく、僕の意識。
 今まで悲しい思いをしてきたのは、誰のためか。今まで悔やんできた経験は、誰のためか。自分が望んだことを叶えることができなかったとき、そこにはいつも美佳子がいた。僕あっての美佳子ではなく、美佳子あっての僕の人生だった。
 このままずっと、僕は美佳子に縛られ続けるのだろうか。それまでの進学も就職も恋愛も、多かれ少なかれ美佳子が阻んできたように。僕の人生は何なのだろう。何のために、僕は生きて生かされているのだろう。
 がくがくと震えながら、出来損ないの人形のように、僕は不安定な一歩を踏み出した。ゆっくりと、僕らの家が近づいていく。
 どんなに覚悟をしても、大切な人のそばにいられない苦しさは舌も胃もえぐられるような味がした。このまま生きていれば、恋人だろうが友人であろうが、大事な存在がまたできるかもしれない。そして、つないだ絆は美佳子によって切るか切らないかを決められるのだ。そうして、僕の手には何が残る? 人生が終わる時、僕には何が残っているというのだ。
 虚無感が全身を包み込んだ。
 僕という人間は、何のために存在しているのか。いったい、いつまで僕はこんな人生を歩まねばならないというのだろう。僕は、本当に人間なのだろうか? 疑問符が頭の中で嵐を巻き起こす。僕らの玄関までの距離を一歩ずつ近づけるたびに、それらは一つへまとまるための衝突を繰り返した。
 そして、ドアノブに手をかけたその時、僕の心は一つの結論を出した。
 靴を脱ぐと、台所から規則正しい包丁の音が響いていた。ああ、そういえば昼食か。僕は他人事のように納得し、美佳子に声をかけた。美佳子は普段よりも少し控え目に返事をよこした。
 美佳子はよくわからない話を数分ほど話し続けた。そして、後で力をもらいたいと持ちかけてきた。ああ、早速その話題か。
 小さな後ろ姿に何の感慨も見出せなくなった僕は生唾を飲み、口を開いた。
「もう、力はあげられない」
 包丁の音が止まった。美佳子は、キョトンとした顔で僕を見つめた。大きな目が二つ、感情も動かせないまま僕に向けられていた。僕は、胃からなにかがこみあげるように、情けなく安定しない声を出した。
「お前に、死ねって言っているんだよ」
 わかっていない、美佳子は何もわかっていなかった。僕はさらに彼女に告げた。
「大切な人が死んでも、僕は看取ることすらできなかった。わがままだと思う? でも、美佳子、僕はいつもそうだった。お前のために時間と力を捧げて、本当の望みはいつだって叶えることができなかった」
 美佳子が唇を結んで目を逸らした。それが、他人と良好でない会話をするときの彼女がいつもする仕草だった。僕は拳を握りしめた。
「お願いだから、いい加減、僕を自由にしてくれよ。もう、お前に人生の全てを振り回されるのはごめんだ。お前のせいで、僕の人生は散々だ」
 それは、さやかが僕にかけてくれた言葉を根本的に否定するものだった。それでも、僕は言わずにいられなかった。
「お前がいない世界で生きたい。朝も昼も夜も、春も夏も秋も冬も、自分の意思で生きたいんだよ」
 美佳子は振り返った姿のまま、呆然としていた。何度か虚ろに瞬きをすると、一気に青ざめた。ようやく、僕が自分に何を言っているのか飲み込んだようだった。
 微かに開いた彼女の口から、言葉にならない声が微かに漏れていた。僕はそれに耳を傾けるまいと首を弱く振った。ぐにゃりと歪んだ妹の顔を見たくはなかった。
 思えば、僕はこれまでに自分の感情を美佳子にぶつけたことがあったろうか。いや、なかった。彼女の生命の供給者としてふるまうことが精いっぱいで、一人の人間として彼女に接したことはなかった。
 その瞬間、僕は一つの個性を持った他者として、初めて美佳子に対面したのだった。
 ふと、視界のなかでなにかが動いた。美佳子が包丁をこちらに向けていた。先ほどまで切り刻んでいた野菜くずが数片付着していて、光と影の間を行き来する奇妙なオブジェのように、鉄を背景に浮かびあがっていた。
 美佳子は少し離れた位置にいてもわかるほど、震えていた。口は半開きで、呆然としたまま包丁を握りしめ、それでも切っ先をしっかりと僕に向けていたのである。心臓が耳につながってしまったかのように、鼓動の音が大きく思えた。
 殺すのか。僕は身構えた。どうせ自由になれないなら、僕の人生は死んでいるのと一緒だ。たとえ僕自身が生きていようと、僕は人間ではなくただ彼女を生かす道具でしかないのだ。
 ならば、いっそうのこと命を捨ててもよいかもしれない。僕は笑おうとしたが、歯ががたがたいうだけで、全然笑えなかった。かといって抵抗する素振りさえできず、静かに向かい合っていた。
 このとき、たった二人きりの兄妹は勢いよく天秤に乗せられたのだ。両皿は衝撃で激しく上下した。
 風に木の葉が揺れる音が二人の間を満たし、木漏れ日が床の上を滑った。その沈黙は、とても長く感じられた。
 包丁の切っ先が光り、僕は反射的に目をつぶった。そして、静寂。
 来たるべき痛みが何もないことにしばらくして気づいて恐る恐る目を開けると、美佳子が凶器を持った腕をだらんとさせていた。
 僕は、まるで他人を見るかのように妹の顔を不思議に眺めた。美佳子は、微かに笑っていた。眉はどうしようもないほど悲しく曲げられているのに、顔の下半分は、何事もなく笑おうと試みられていたのだ。その奇妙な表情のせめぎ合いを、僕はただ見つめていた。
 やがて、美佳子が口を開いた。そこからこぼれたのは、とてもとても小さく、しかしはっきりとその空間に落とした、意外な言葉だった。一瞬、僕は彼女が何を言っているの理解できないほど。
 美佳子は最後に俯くと、包丁を机の上に置いてふらふらと僕を通り過ぎた。そして靴を履く音と扉の開閉音だけを残して出ていった。家に残ったのは、放心した僕と沈黙だけだった。
 美佳子は、いなくなった。僕の前から姿を消した。
 こうして僕は妹から解放されたのだった。僕は震えに震えてその場にへたり込んだ。膝を抱えても止まらなかった。あんなに暑かった夏の日が、信じられないほどの氷点下に変わった。
 じわりと視界がにじんだのを、僕は必死にこらえた。
 泣くな、泣いてはいけない、泣くくらいなら最初から何も言わなければよかったんだ。
 それが、自分が正気であったことを証明しようとする精一杯の努力だった。
 そう、僕は妹を犠牲にして自由を手に入れた。だから、僕は泣くことも、妹の名前も呼ぶことも、追いかけることもしてはならなかったのだ。
 全てを捨てよう。両親も、仕事も、名前も、思い出も、何もかも。それまでの自分の全てを捨てて、新しい人生に沈んでやろう。
 さやか、天にいる君はこんな僕に失望しただろうか。
 妹がいなくなった部屋で、僕は懸命に自由となった身を抱き続けた。涙を心に溜めて、空虚さを必死で埋めようとした。そうやって、しばらくの間、僕はただひたすら妹のいない自分の誕生を噛みしめていた。





2009/10/10
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