灯のない道行 (後) リュカは小瓶の中身の水を、図柄を描くように村全体に撒いていた。その様子に数人の村人が出てきたが、二言三言適当なことを言ってで中に入ってもらう。細かく説明する時間も惜しいし、一般人に下手に荒らされてはたまったものじゃない。 村のあちこちにある魔除けは素人が作ったものらしく、古くて効果が薄まっているものが大半だ。これではすぐに突破されるに決まっている。それらの力を高めるのに、一番気を使った。 決まった場所に札を貼りながら、リュカは兄を見た。祭壇場の前で、左腕を気にかけている。 「兄さん、数多いと思うけど、力が弱い人たちは僕の方にまかせて。親玉の方は頼む」 「うん」 先ほどとは違って力のない返事に、兄の悪い癖が出た、と溜め息をつく。 兄は人付き合いとは真逆に、仕事に関しては、いざというときに躊躇いがちになる。けれど、それでも仕事をやるのは、魔物に怯え困っている人々が目の前にいるからだ。だから、彼は仕事をする。 ――病的なお人よしだ、いや、これはもうそう呼ばないのかもしれない。あとでどうなるのか、リュカは知っている。 だから、後のことを考えずに安請け合いはして欲しくないのに。 もう一度溜め息をつき、リュカは肩の上でそわそわしているジョルジーヌを空に放す。 彼女はしばらく村の上を飛び回っている。それを見ながら、リュカは門の縄を切った。ジョルジーヌは魔物に敏感だ。側に置いてはおけない。いつも仕事のときは放している。 ふたたび兄を見ると、彼は真っ直ぐに前を向いていた。それを見て安堵すると、リュカは村の中で一番高い木に登った。 頭上で、ジョルジーヌが鳴いて羽音をさせながら飛び去る。 来た。 背筋を、見えない手が撫でる。どういうわけか、口元が歪んで、それは笑みに似ていた。 思ったよりも多い。 森の向こうから、柵を越えようとする。しかし、仮にも破魔の道具であり、リュカが効果を高めたので、それらは彼女達をはじいた。進めないことが分かると、彼女たちは列をなして、門に向かう。葬列のようだと思いつつ、リュカは目に見える全員が入るのを確認する。 おかしい。大物は姿を現さない。 そう思ったが、彼女は自分には関係ない。自分は、別の女たちを清めるのが仕事だ。それか、兄の補佐。 小さく何かを呟きながら、リュカは、先ほど撒いたのとは別の液体を土に垂らす。それが、化学反応みたいに先の液体を通して広がっていく。ここからみて、それは魔法陣に見える。 彼女たちは、溶けるように消え、崩れるように消える。その表情を眺めながら、リュカは自分の体が一気に冷たくなっていくのを感じた。 「散らすだけになったか。まあ、兄さんがあの人を消してくれたら、自然に彼女たちも消えるかな」 自分は、無力だ。兄のように素質もなければ、修行する気にもなれなかった。 兄の姿が見えた。左腕が光に反射している。 もたれかかった木に温度を感じながら、リュカは目を閉じた。兄の足音を聞くと、なんだか安心できた。 ジャンは、目標を見据えた。先ほどは見えなかった彼女の姿を確かめる。火に焼かれた、とは聞いたが、身体にその名残は感じられなかった。 輪郭は面長。高い鼻。金色の髪は月光を連想させられる。白い衣装は、焼かれたことを否定するかのように美しかった。彫刻のような瞳は、薄い青色。表情はなく、おそらく彼を見ていないだろう。 ガサ、と音がした。木の葉がゆれる音。 また、ガサ、という音。音がするたびに、それは増えていく。いつしか、村の周りの木、森中から聞こえていた。 次にしたのは、呼吸音だ。周りを人に囲まれているようで、息苦しそうなもので、ジャンの心をしめつける。 女は一歩彼に近づく。彼も一歩踏み出す。 ジャンは袖をまくって、左腕をかざした。肘までを覆うガントレットを完全に外し、人間のものとは思えないような醜い腕を露にした。 先だけは美しい銀色で、そこだけは通常の人間の指の形をしていた。ジャンはその先をつまみ、尖らせる。形は自由に変えることが出来るのだ。 これでしか、相手を傷つけることはできなかった。だが、兄弟でこれが扱えるのは彼だけだった。 どういうわけか、彼はこれを扱う素質があった。弟には才能の欠片もなく、彼の補佐しかできなかった。 八割の素質と、二割の努力。そう言われているこの腕――武器は、魔物を清めるには欠かせないものだった。 ジャンはまた一歩踏み出す。 その瞬間、彼の頬が熱くなった。汗でないものが伝う。それから痛みがやってきた。 その次に、また熱さを感じた。今度は肉が焼ける臭い。 順不同にやってくる痛みに、足が鈍る。 彼女は美しかった。その美しさが、怖かった。近づいてきたが、それが彼の不安をあおった。 脚を捕まれる。熱い。以前、火傷をしたときの記憶がちらつく。 右腕に触れられた。肉がえぐられる感触が気持ち悪い。痛みよりもはっきりと感じる。何かが彼の肉に侵入し、別の所から出ようとする。 血の臭い、肉の焼ける臭い、音、彼の耳だけに届く悲鳴、痛み。 炎が見えた。彼の周りを囲んでいる。彼女のもとへ行こうとするのを阻むように。 いくら切っても、途切れることがなく燃える。外套の中から小瓶を取り出した。中身をかけると炎は消えたが、その都度また炎は上がる。 彼女は近づいてくる、炎を抜けて。すると、その美しい容姿が焼かれ、醜くなった。 彼女たちの恐怖が身体に染みてきた。ああ、こんな恐怖を感じながら、痛みを感じながら死んだのか。そう思うと、ひどく悲しかった。 ふと、弟なら、こんなことがあっても、目の前の彼女だけに気を集中して戦うだろうと思う。 情けない。 甲高い音がした。それは聞きなれたもの、弟の指笛。自分にまとわりつくあらゆるものが消えた気がする。 聞いた途端、泣きそうになった。けれど、今は、彼女を見つめる。 彼女は、他の女性たちとは違って見えた。実際、彼女が力関係では一番上だとは思ったが。 どうしてだろう。理由は知らない。知ろうとしない。彼女が何者なのか、彼女たち一人一人がどのような人物であったのか。彼にとって、一番に守るのは生きている人々。彼女たちはそのために守る。 「ごめんな」 自己嫌悪だけが、今の彼を包む。いつか、わかるだろうか。彼女たちのことが、もっと、もっと。仕事前には最低限のことしか聞かないようにしろ、というのが弟のお達しだ。きっと、同情にさいなまれるから。 いい兄貴じゃないし、いい人間でもない。 彼は力強く前に進む。彼女は彼に興味を示したかどうか、結局見なかった。 左腕を前に出す。 一瞬の、肉の抵抗。その後に、気抜けするくらい簡単に貫通する。 血が垂れた。彼女の血が、彼の腕を伝い、垂れた。彼の袖も濡らした。素肌までしみこんでいくのが、このときばかりはよく解かった。 彼女の体重を感じ、右腕でも支える。乱雑にそろえられた金色の髪の毛が、地へ向かおうとした。うなじに傷を見つけた。痛々しかった。 次の瞬間、彼女の骸は灰の色になった。土人形のように、ひびわれ、地に落ちた。 残ったのは、真っ赤な血だけだった。 視界の端に、弟がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。ずるっと、座り込む。合図したように、村人たちが扉を開ける音は、先ほどの音たちに比べて遠かった。 刺激してしまったんじゃないか、と一人の村人が言った。 「気配は消えましたから、大丈夫だと思います。何か問題があったら、ここまでご一報ください」 リュカが紙切れに、職場の連絡先を書いた。それとは別の紙を取り出す。 「村長さんはいますか? 一応、この書類に必要事項書いてもらいたいんです。あ、謝礼の方は、そちらの気持ちの分だけで十分ですので」 手を挙げた男に、リュカは詳しい説明をしながら、兄を見る。森の奥へ歩いていっていた。早口に説明すると、リュカは後を追った。 背後で喜びの声が聞こえたが、リュカには関係ないものだった。 ジャンは、川のほとりにいた。激しい水の音がする。リュカはジャンよりほんの少し川下の岩場に座った。 暗い中、水面は月に照らされている。その時になって、ようやく今夜は月が出ていたことに気づいた。 カンテラを取り出し、火を入れる。辺りが明るくなり、川にもその光が届く。川の水が濁っている。激しい水音は、ジャンが発している。彼女がいたことを証明する腕の血を、必死で洗い流していた。 俯くその表情がどんなものか、リュカにはもう見なくてもわかっていた。 「兄さんは、さ。村の人が困ってるから進んで引き受けるくせに、いざというとき弱いよね」 「相手の体を刺すとき、悲しくなるんだ。その人のこと考えちゃってさ」 「怨念なんて、残しても何の意味もない。生きている人に迷惑だ」 そのおかげで生活している僕がいうのもなんだけど、とリュカは靴を脱ぐ。 川の水はまだ濁っていた。右から左へとながれる。思ったより、兄の浴びた血は多いらしい。 「この世は、所詮、生きている人のためにある。死んだならこの世に留まってはいけない。死者には死者の世がある。本来の居場所じゃない場所にいても、辛い」 「……辛い、か」 「それとさ、兄さんが勝手に哀れんだのは村の人たちなんだからさ、彼女たちまで哀れむのはどうかな」 「うん」 「中途半端」 リュカは川に足をつけた。思いのほかに冷たく、足をあげると赤い玉が滴った。 「兄さん、あんたがどう思うかはあんたの勝手だ。でも、もう少し仕事と自分の感情を切り離す練習は必要だと思う」 水音はしばらく止まった。 「その腕は兄さんだけのものだ。目の前の人を救うのは、兄さんしかいない」 リュカは、兄の空回りが時々苛立って仕方がない。自分で決めて、自分で落ち込んで。 その先にあるものを、彼は見ようとしていないのだろうか。ほんの少し灯をつければいくらでもその先を見通せるのに、兄は手探りのまま暗闇を進むようだ。 また、水音は再開した。赤い帯が、流れる。リュカも再び素足を水に浸した。 「あーあ、僕が使えればなあ。それか、兄さんが僕みたいな性格だったらよかったのに」 大分落ちた腕の血を見ながら、ジャンも言った。 「本当に、そうだな」 二人は悲しそうに微笑んだ。森の奥で、鳥の鳴く声がした。 「ったく、どうして向こう側と違って、こっちはこんなに整備されてるんだよ」 「ああ、うちの村、こっちの方には用があるからよく使うんだ」 首都方面へ行く村人に送ってもらえることになった。ただし、作物などを載せる荷台の上だが。 馬のいななきが懐かしく感じた。揺れもどことなく心地よい。 「いい天気だな。このまま西へ行きたいよ」 「じゃあ、今度は西方面の仕事をとろうか」 弟の言葉に、ジャンは顔をしかめる。 「できれば、仕事抜きで」 「ダメ。今月は誰かさんのせいで結構出費があったから。ああ、今回の仕事、臨時手当とか出ないかなあ」 「俺たちの報奨金だけで十分じゃないか、がめついガキどもだなあ」 村人は笑いながら言った。長い間の恐怖がなくなって機嫌がいいらしい。 「その半分以上は持っていかれちゃうんです。僕たちの取り分って結構少ないんですよ。基本的には歩合制だけど、仕事でちょっとでもヘマをしたら容赦なく給料引かれるから、うかつに仕事入れても実は悲惨」 「そりゃあ、可哀想に。稼がないとなあ」 リュカは、会話しながら、新たな報告書を作る。彼は、すこし気持ちに余裕があった。 「兄さん、眠っていてもいいよ。夕べ遅かったでしょ?」 「お前は? あんまり眠れなかったのは同じだろ?」 「僕はいいの。短時間で熟睡できるから」 そうか、とジャンは仰向けになる。両側を緑の葉で縁取られた、青い空。鳥が舞っている。 すぐに眠気が襲ってきた。目は勝手に閉じるが、抵抗はない。 リュカの指笛がした。それは、上空のジョルジーヌを呼び戻すものだった。 羽音がすると同時に、ジャンは寝入った。 2006/03/22 前編へ 戻る |