「笙……」
 聞き慣れた声に顔を上げる。響祐さんがいた。手を差し出して、私を立ち上がらせてくれる。
「琴、何を」
「もう今日はその子を連れて帰って。二度と会いたくない」
 響祐さんはじっと琴を見つめる。まるでなにか許しを請うように。
「彼の前では歳をごまかしてるの。余計なこと言わないでね」
 それだけ言い捨てると、琴は会場へと歩いていく。
「待ってくれ、琴」
 ふと、琴の足が止まり、少しだけ振り返る。一瞬の沈黙を埋めるように、潮風が吹く。
「響祐。あの日、連れていってって頼んだの、覚えてる?」
 そう言う琴の瞳は、少し遠くを見つめているように見えた。 
「あれが……一生で一度のお願いだった」
 響祐さんは何も言わない。でも、とても傷ついたような表情だ。
 私はわけがわからなかった。
 連れていって? 琴はそう頼んだの? でも、どうして琴は来なかったの? 私たちはどうして離ればなれになったの?
 二人を見比べて琴を追おうか迷う私の膝を、響祐さんは屈んで軽くはたいた。見ると、ちょっと埃がついてしまっていた。
「ごめんなさい、せっかく買ってもらったのに」
「いや、いいんだ。笙、もう帰ろう。悪かったね」
「え?」
 まだ琴がいるのに。
「だめ、行けない」
 引き止める響祐さんを振り払おうとすると、こつんと頭を叩かれる。勇吾くんだった。
「きっと彼女……本当に笙と一緒にいたくないんだと思うよ。どういう事情かはわからないけど」
 勇吾くんはガラスの向こうに目をやる。
 薄く笑った琴と男の人が、数人に囲まれていた。自然と寄り添っている姿に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「でも、本当は、あんな子じゃないの。ちょっと素っ気ない感じだけど、昔はいつも私のことを心配してくれて」
 勇吾くんは視線を床に落とす。
「……家族だからって、いつまでも仲良くいられるとは限らないじゃん」
 彼にそう言われると、何て返したらいいのかわからなくなる。
 勇吾くんは小さい頃、両親にとても可愛がられていた。でも、お母さんが亡くなって、お父さんが再婚してから家に居場所がなくなった。優しかったお父さんも変わってしまったのだという。それで、お母さんの弟である響祐さんに引き取られたのだ。
 そんな彼は諭すように続ける。
「人間は変わるんだよ」
 勇吾くんの言うとおり、なのかもしれない。きっと会わなかった数年の間に、琴にも何かあったのだろう。
 でも、これが会う最後のチャンスだったら? ここで別れたら私きっと後悔する。琴のことを気にかけつづけて、でも何もしないで去ったのを悔やんで、今まで以上に苦しい思いをしながらあの子のことを思って生きていく。そんな気がした。
「勇吾、笙。帰ろう」
 ぽつりと響祐さん。
「やっぱり、嫌」
 私はまっすぐ、響祐さんを見つめた。
「琴ともう一度話すまで、私帰れないよ」
 響祐さんの苦い顔に、胸にトゲがささったような気分になる。こんなに困らせたのはいつ以来だろう。
 同居しはじめたときは、勇吾くんもまだ他人に対して警戒心があって、ケンカも少なくなかった。響祐さんをめぐって対立することもたびたび。でも、一緒に生活するうちに仲が良くなった。
 これといったきっかけは特になかった。あえて言えば、ケンカのたびに響祐さんが悩むのを、私も勇吾くんも心苦しく思いはじめたことかな。
 言い争うよりも仲良くしたほうがこの人は喜んでくれる。だから、まずは表面上うまくやってるようにお互い見せるようになった。それから、口の悪いところがある勇吾くんが案外優しいことに気づいた。
 ちょっと琴に似ているような気がして、私は彼に敵意を抱かなくなった。勇吾くんの気持ちはわからないけど、私のこと意外と悪い子じゃないと思ってくれたのだと勝手に思っている。
 そして私は、もう一人の「きょうだい」として、彼のことも大切にしようと考えるようになった。
「叔父さんを困らせないようにしような」
 まったくケンカをしなくなった頃、勇吾くんはそう提案してきた。そして、私たちはずっとその約束を守ってきた。
 勇吾くんの話では、響祐さんには恋人がいたらしい。でも、私たちを引き取るときに別れてしまったそうだ。
 今でも、私たち三人の暮らしの特殊さに、心ないことを言う人も多少は存在する。けれども、響佑さんは私のことを家族として可愛がってくれている。
 琴と離れたことは私にとって不幸だったけれど、この人に引き取られて勇吾くんと三人で暮らしてきたのはむしろ幸福だった。だから、今の響祐さんの様子に罪悪感をあおられる。響祐さんは、それを見抜いたかのように微笑した。
「さあ、引き上げよう。パーティーもそろそろお開きだろうし」
 響祐さんは私の肩を叩くと、目だけで勇吾くんを促す。踏みとどまろうとしても、さすがに大人の男性には敵わない。
 未練はある。大いにある。でも、今までのことを思い出すと、我がままを言うのも同じくらい辛くなってしまった。
 私は抵抗をやめる。
 二人の間に何があったのか。聞いてもきっと答えてくれない。もしもこれ以上深入りしたとして、明日からまたこれまでどおりでいられるか。そう考えたとき寒気がした。
 何年もかけて皆で作った今の生活。それを失ってしまったらと思うと、急に怖くなった。
「……ごめんなさい」
 そっと呟いた言葉は、誰に対する謝罪だったのだろう。
 琴が呑気な生活を送っているとは思えない。そして私は平凡で幸せな日常を手にしている。
 天秤にかけた。ずっと想いつづけていたはずの片割れと、今の暮らしを。そんな自分がたまらなく汚いものに思えた。
 そのとき、勇吾くんと目が合った。私がとっさに俯くと、彼は響祐さんに視線を移す。
「叔父さん、ごめん、ちょっと待って。最後に挨拶してくるから」
 返事を待つことなく、勇吾くんは会場に入っていった。そして、さっき話していた人たちに声をかける。
 勇吾くんは笑いながら、響祐さんを手で示す。首を傾げていると、手を振られて、反射的に私が振り返してしまった。
 会場内をちらっと見渡すと、もうあの男の人も琴も姿が見えなかった。
「行っちゃったか」
 私の心を読んだように、響祐さんが呟いた。
「……そうみたいね」
 ずっと思いつづけてきた片割れに会えるチャンスは、もう潰れてしまったのだろうか。
 まだ惜しい気持ちがあるけれど、縁がなかったのかもしれない。そもそも、別れたときの記憶もなかったし。
 あの飛行機で、私たちの繋がりは切れてしまった――その胸の痛みに気づかないふりをする。
 小走りで勇吾くんは戻ってくると、いきなり私を見た。
「ごめん。ちょっと連絡先交換してた」
 私の切なさが虚しくなるほど、軽い調子。そのコミュニケーション力が、今はちょっと羨ましくなる。
「叔父さん、もう行く?」
「うん。今ならそんなに混んでないだろうから」
 ふうん、と相槌を打ちながら、勇吾くんは私に目を向ける。
「笙、今のうちにトイレ行っとけば?」
「え?」
「途中で行きたくなったらアレじゃん」
 こんなときにどうしてそういうこと言うかな。私の感情なんてどうでもいいってわけ?
 響祐さんは、ちょっと警戒したような目で私を見る。そんな叔父に勇吾くんは荷物を渡す。
「俺も行く。叔父さん、これ預かってて。ついでにこいつ見張っておくから」
「え?」
「四捨五入したら四十のおっさんが、女子中学生のトイレに付き合うのはちょっとね。ほら行くぞ」
 強引に私を連れていく。男子中学生と一緒にというのもな。
 トイレは、廊下の突き当たりを曲がったすぐそこ。歩きながら、勇吾くんはこっそり話しかけてくる。
「このまま帰るの?」
「……響祐さんが困ってるし、琴も」
 私を拒むあの態度。時間が経つにつれ、ショックはなくなるどころか膨らんでいく。
「叔父さんがとか、琴がじゃなくて、笙は?」
「え?」
 立ち止まりそうになる私の手を、勇吾くんは足を止めないで引く。
「笙はどうしたいの?」
 私は唇を噛む。気遣いとか躊躇いとか全部抜かせば――。
「もう一回だけ琴に会いたい……」
 それが純粋な気持ちとして残った。
「もしかしたら、いい結果にならないかもしれないけれど……琴にも響祐さんにも嫌な思いさせちゃうだけかもしれないけれど」
 私は兄同然の人を見上げる。すると、彼は悪戯を考えているような表情を浮かべていた。
「実は、あの人たちに叔父さんの足止めをちょっと頼んでおいたんだ。すこしだけなら時間がある」
 角を曲がったところで、私たちは立ち止まる。
「足止めってどういうこと?」
 勇吾くんは微笑する。
「さっきはああ言っちゃったけどさ、笙が会いたいなら行けばいいよ。会って琴から拒まれて……すっごく嫌な思いしてもいいんじゃない?」
 そのほうが、未練が残らなくていい。そう小さく付け足す。
「一〇分だ。探して一〇分会えなかったら、諦めて戻ってこい。それまでは俺も時間稼いどくから」
 いいのだろうか。躊躇っていると、背を軽く叩かれた。
「時間がもったいない。行けよ」
 私は勇吾くんの瞳をじっと見つめ、しっかり頷いた。
「ありがとう」
 一度時計を確認する。そして、そのまま私は奥へと進んだ。


 客室が並ぶエリアの廊下はとても静かだ。
 ここまで来てしまったものの、私は大事なことに気づく。
 琴は、どこに行ったのだろう。
 客室のどれかにいるのか、それともどこか別の船内施設にいるのか。
 これでもう外に出ているとしたら、どうしよう。私は考えの浅い自分に溜め息をついた。
 それにしても、誰ともすれ違わない。こんなに大きな客船なら、もっと人がいてもいいんじゃないか。そう、人の気配がほとんど感じられない。
 まさか、お客は全部出されたとか? でも、このあとも行き先があるんだよね?
 時計を確認する。今から会えたとしても、五分くらいしか時間が取れない。それで、私たちはどんな会話を交わせるだろう。
 弱気になってしまいそうな自分を、頬を軽く叩いて勇気づける。
 勇吾くんだって最初、それ以上はやめておけと暗に言っていた。そんな彼が作ってくれた時間を無駄にしたくはなかった。
 通路は長く伸びていて、ときどき曲がり角がある。分かれ道に差しかかった私は、どちらに進めばいいのかときょろきょろした。すると、いきなり肩を叩かれた。
「きゃあ!」
 振り向くと、さっきのウェイターさんがいた。
「お客さま、いかがなさいましたか?」
「あ、あの……すみません、私と同じ顔で、黒いドレスを着た子、見ませんでしたか?」
 彼は襟元を片手で撫でてから微笑する。
「……申し訳ございませんが、見かけておりませんね」
 一見愛想はいいけれど、どこか冷たく思えた。まるで、パーティー会場で、勇吾くんがやってくる前、私に話しかけてきたときのように。
 私は彼を見上げる。
 あのとき、この人は言った。人違いだったと。そして、その前に――だいたい、いつ着替えたんだ、と。
 スーツの人も同じようなことを口にしていた。つまり、このウェイターさんも私と琴を勘違いしていたんじゃないかな。
 しかも、あれはお客さんへの口調じゃなかった。ということは、彼は琴と他の関係でつながっている可能性がある。
 いちかばちか。
「パーティーの会場で、見ませんでしたか? 銀色っぽいスーツ着た男の人と一緒だったんですけど」
 そう切り出してみると、彼は微笑を崩さないまま首を横に振った。
「お恥ずかしい限りですが、記憶にはございません。ところでお客さま、ご宿泊でいらっしゃいますか?」
「い、いいえ」
「確かご家族とご一緒でしたね。どちらでお待ちでしょうか。ご案内いたします」
 しまった。嘘でも、宿泊客だって答えておけばよかったかもしれない。
「あ、あの。姉がまだ戻ってきてなくて」
「姉……」
 急に声が低くなる。
「もしかしたら、迷子かなって思って」
 その瞬間、失笑の息が漏れた。
 首を傾げると、彼は口元を押さえながら、元の調子に戻る。
「係の者に確認を取ります。まずはご家族のもとへ」
「それじゃ、ダメなんです!」
 大きな声を出すと、彼は焦った表情を浮かべた。
「もうお休みになっているお客さまもいらっしゃいますので、どうか」
「琴、いないの? 琴!」
 その瞬間、後ろから口を塞がれた。
「何をしているの」
 さっきよりもさらに低い声。
「琴……」
 わずかに呼吸の乱れた探し人は、眉間にいくつもの皺を刻みながら私を睨む。
「なぜ、まだここにいるの?」
 静かな言い方だけど、怒っているのがよくわかる。私は怯む気持ちをなんとか抑えた。
「ちゃんと話したかったからだよ」
 会いたかった片割れは尖った視線を私に突き立てる。
「話すことなんて何もない。あなたはもう響祐のところに帰りなさい」
 言いながら、男の人に視線を移す。
「ごめんなさい、妹がご迷惑をおかけしました? もう大丈夫です」
「……ようございました」
 ウェイターさんはそのまま歩いて、角を曲がった。彼の姿が見えなくなると同時に琴は口を開く。
「いいかげんにしてくれない? 彼のところに戻らなきゃいけないの」
 あんな人のもとに――それだけは絶対に嫌だった。本能があの人を嫌っている。
 琴を行かせてはいけない。
「ねえ、琴。一緒に来て。こんな生活よくないよ」
 琴の生き方に口出しする権利なんて私にはないかもしれない。それでも、あの人と引き離したかった。
「放っておいて。さっさと戻りなさい」
「戻らない、琴がうんって言うまでは」
 皆で一緒に。そう言って手を握ろうとしたけど、強い力で弾かれた。
「皆って、響祐と? あの人とは一緒に暮らさない」
 私を見つめる琴の目は、とても強い力を感じさせるものだった。
「だから、あなたとも暮らせない。邪魔だから、早くここから去って」
 煩わしいと言わんばかりに、私を振り切ろうとする。私も力のかぎり抵抗する。
 さっき諦めようとしたのは事実だ。でも、やっぱり無理だ。
 昔の琴に戻ってほしい。あの頃みたいに一緒にいたい。そんな願いがどんどん強くなる。
「ねえ、響祐さんと何があったの?」
「あなたには関係ない」
 私は琴の両肩に手を置く。
「ねえってば」
 その瞬間、琴の表情が変わる。
「黙って」
 鋭い呟き。
「え?」
 私の身体に背を当てるようにしながら、警戒するように周囲を見渡す。
 そのとき、小さな電子音が聞こえた。琴のうなじのあたりからだ。琴は耳を押さえる。
「すみません。まだ右の十三です」
 そう呟くと、外国語まじりで誰かと会話を続ける。
 通信?
 だんだん琴の表情が険しくなっていく。その視線は、まっすぐ私に刺さったまま。
 言い争っているみたい。琴の日本語と、わずかにわかる単語から推測できた。
「琴……?」
 そのとき、急に耳が痛くなるような音が響いた。
「きゃ!」
 思わず腰を抜かすと、琴は私の横にしゃがんだ。
「絶対に動かないで」
 琴はドレスの裾をたくし上げる。そこには、革のホルダーに収められた銃があった。
 息をのむ間もなく、琴に抑えつけられ、私は床に伏せる形になる。
「ちょ、何?」
 琴は固定ベルトを外して、銃を取り出すと、すばやく突起をいじる。何かがはまるような音がした。
 私はがたがたと震える。
 琴、それおもちゃだよね? ふざけているんだよね? 冗談だよって言ってよ。
「ねえ」
 琴は即座に銃を構え、引き金を引いた――廊下の奥の角に向かって。
 思いのほか大きい音に、とっさに私は耳を塞ぐ。
 うろたえていると、角から黒い何かが顔を覗かせた。聞こえてきた破裂音が銃声だと気づいたのは、琴にかばわれてからだった。
 琴の白い素肌の腕に赤い筋ができた。煙に混じる、錆に似た匂いに、私は言葉を失う。
「琴、怪我……!」
 身を起こしたその瞬間、私の頬に熱が走った。
「痛……!」
 反射的にその場所に触れると、指に血が絡んでいた。
 寒気に襲われる。何が起きたのか考えたくもなかった。だって、もし、あとほんの何ミリかずれていたら? 私は硬直する。
 琴は瞳だけを動かして、私を見た。
「じっとして! でなければ守れない!」
 守る、という言葉。私は目を丸くするけれど、話しかける余裕なんてなかった。
 銃撃の応酬が続く。琴は銃から何かを取り出すとまた別のを入れ、すぐに戦いに戻る。
 ふと角から人影が覗くと同時に、琴は三発ほど連続で撃った。そのうちのひとつが、相手の手に当たった。
 短い悲鳴を聞きながら琴は立ち上がり、瞬く間に距離を詰めて、うずくまったその人を思いきり蹴りあげた。痛々しい悲鳴に、私は一瞬目を閉じる。
 けれど、ふともうひとつ、人の気配を感じた。振り向くと、背後の角から別の男の人が半身を出しながら私を狙っていた。
「きゃあ!」
 みっともなく悲鳴をあげる私。
 瞬間、琴は身を翻し、銃口を天井に向けて撃った。
 割れる照明。一瞬、私と彼の注意が上に向く。
 その隙に琴はその人に駆け寄る。その細い身体のどこにそんな力があるのだろう、胸倉をつかんで壁に押し当てた。
「あなた、運がいいわね」
 言いながら、その肩に銃を押し当て、引き金を引く。そして、ずるずると壁を伝うように座りこむ彼の右手を、ヒールで思いきり踏み抜いた。
 私は目を逸らす。呻き声が断続的に聞こえて、しばらくして静かになった。
 顔を上げると、筆で描いたような赤を背景にして、彼は力なく壁にもたれかかっていた。
「し、死んだの……?」
「気を失っただけ」
 答えながら、琴は私に手を差し伸べる。その仕草は小さい頃のままで、鼻の奥が痛くなった。
「立って。手当しないと」
 言われると、頬の痛みが強まった。
「でも」
 私よりも琴のほうがずっと怪我が多い。
「気にしないで。全然痛くないから」
 どう見てもそう思えないのに、琴は悲しくなるくらい昔のとおりの態度だ。あの男の人と一緒にいたときの笑顔も、私を拒んだときの険しい様子も見せない。
「早く」
 琴は私の手を取り、廊下の奥へ行こうとする。すると、また見知らぬ男の人が現れる。
 琴は私を角に引っ込め、銃を握り直す。
「お前……!」
 怒りに震える声と一緒に、銃弾が飛んでくる。
「笙、今度こそはじっと――」
 鈍い音。
 琴の肩越しに見ると、さっきのウェイターさんが相手を組み敷いていた。彼はねじ伏せた男性のネクタイを解くと、そのまま後ろ手にして縛った。
「まったく。どうなっているんだ」
「一般人の安全を優先しました」
 妹だろ、とウェイターさんは皮肉たっぷりに笑う。
「お前にプライベートがあったなんて、驚きだな」
「もうあちらは既に始めているみたいですね。すみませんが、交代してください。私はこの子を先生のところへ連れていきます」
「お前が現場に行かなくてどうする。俺が連れていく。彼女には保護者がいるんだろう? そっちへの世話もするから」
「ですが」
 そこに、口を挟むように響く電子音。直後に雑音混じりの声。
「悪いが、琴が連れてきてくれ。念のため、記録しておきたい」
 え? 誰の声?
 ウェイターさんは舌打ちする。
「行彦、こいつが行かずに誰が行くんだ。だいたい、ログ取りなら夕方にしたばっかりだろう」
「万が一の損失が発生した場合、こっちのほうが被害が大きい。終わったら琴はすぐに向かわせる。そこでお前と代われ」
 彼は盛大に顔をしかめ、すぐに来いと吐き捨てると通路の奥へと消えていく。
「こっちよ」
 そう言いながら私の手を取った琴のそれは、ちょっとひんやりとしていた。でも、今の私にとってはとても温かに思えた。





2014/12/01

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