警戒しながら階段を下りると、紺色の服を着た人たちがいた。琴は立ちすくむ私の手をぎゅっと握って、彼らに何か声をかける。そして、あれは味方だと言いながら、すぐ近くの扉に手をかけた。
「ここは安全だから安心して」
 そこは、小さなホテルの部屋のような造りだった。あまり広くはない。ベッドがあって、机があって、クローゼットがあって。
 椅子に座っていたのは、不機嫌そうな顔の男の人だった。響祐さんと同じくらいの年代で、白衣を着ている。
 ふと、お母さんを思い出した。お母さんはぱりっとしたのをいつも着ていて、この人のはややくたびれているけれども。
「先生、笙の手当をお願いします」
 先生と呼ばれた彼は、煙草を灰皿に押しつける。
「どう見てもお前のほうが優先なんだが」
 その声は、さっきの正体不明のものとよく似ていた。
「あとで結構です」
「とりあえず記録が最優先だ。それと同時にお前の処置。そのあとに笙だ」
 名前を呼ばれてどきりとする。この人は、私のこと知っているの?
 不満そうな表情をしつつ、琴はベッドに座る。両腕についた血を男性は丁寧に拭き取って薬らしきものを塗り、ガーゼを当てて包帯を巻き、ベッドに寝かせる。流れるような動作だ。
 机には、船内に持ちこむには大きすぎるパソコン。そこから伸びるケーブルを、彼は琴の項に当てた。
 不思議な光景だ。目を閉じている琴を眺めて、私は首を傾げる。
 この人はお医者さんなのかな。でも、医療行為にしてはなんか変な感じ。
 モニターの黒い画面が次第に青く染まっていく。私が意識をそちらに向けると、白衣の人は椅子に座り直して、ちょうど隠される格好になった。
 彼は私に視線を移す。
「痛い?」
 私ははっとして、頬に手をやる。
「えっと、ちょっとだけ……」
「とりあえずここに座って」
 彼はもうひとつの椅子を指した。言うとおりに腰を下ろすと、琴とほとんど変わらない手順で私の頬の手当をする。
 彼は気の毒そうな表情を浮かべる。
「顔か。跡が残らないといいな、取り換えられないから。だが、君は運がいい。たった数ミリの差で人生の終わりは決まるから。やはり生まれついてのものというのはあるんだな」
 彼がそう喋っていると、アラーム音が鳴る。
「おっと、ちょっと待ってくれ」
 彼は眠っているような琴の髪を掻き分け、項に手を伸ばす。ちょっとどきっとしてしまうのはなぜだろう。
 用が済んだらしいケーブルを片づけながら、白衣の人は琴の頬を叩く。
「終わったぞ、行け」
「……はい」
 目を開けながら、琴は小さく返事をした。
「こ、琴? また行くの?」
 さっき、私たちに向けられたのは、おもちゃの銃ではない。私の頬の痛みがそう告げていた。きっと、琴が手にしていたのも。
 あんな危険なところに、なぜ琴が行くの? だって、大人びてはいるけど、琴だってまだ私と同い年の子供なのに。
「ええ。すぐ戻るから」
 言いながら、琴は胸元に手をやりながら何かを呟く。そのとき初めて、琴の耳に目立たないイヤホンがあるのに気づいた。
 ノイズが響くけれど、琴にはよく聞こえているみたい。わずかに頷くと、すぐに立ち上がる。
「笙、あとでね」
 私の返事も聞かずに琴は出ていき、私と男の人の二人が残される。
 どうしよう、この状況、どう理解したらいいの? あの子に何が起こっているの? どういう状況に置かれているの?
 私は琴が残していった、シーツに残った赤い染みを見つめながら、頭のなかを整理しようとした。
「やっぱり、容姿だけはそっくりだな」
 彼は興味深げに私の顔を覗きこむ。私が戸惑っていると、彼は微かに笑った。
「ああ、俺のことわからないか。俺は東上行彦。まあ、行彦でいいよ」
「……敷島、笙です」
 行彦さんはすこしだけ瞳を動かす。
「敷島……そうか、今も響祐のもとにいるのか?」
「響祐さんの知り合いですか?」
「まあね。今、あいつ何やってるの」
「フリーライターです。ペンネームは――」
 そこで重要なことに気づいて、私は青ざめる。
 時計を見ると、約束の時間はとっくに過ぎていた。きっと、響祐さんも勇吾くんも心配しているはず。
 携帯を取り出そうとしたけど、荷物は響祐さんに預かってもらってたんだった。どうしよう……。
「どうした?」
「あの、響祐さんに連絡を」
「ああ、連絡先、わかる?」
 行彦さんは、ちょっと古めの携帯を開いた。私は口を開きかけて固まる。途中の四桁が怪しい……。
 迷っていると、扉が開いた。ウェイターさんだった。
「どうだ?」
「琴が二人つぶしたところまでは確認した」
 ウェイターさんは私を睨む。
「まったく。あいつの妹なら、もう少し賢くあってほしいんだが」
 戸惑う私に、追い打ちをかけるように続ける。
「なるべく相手に気取られないようにしながら、君を遠ざけようとしていたと気づかなかったのか?」
 その言葉に、私はパーティーでのことを思い返す。
 あのスーツの人が私のことを見てきたとき、琴は間に立って、自分に注意を向けるようにしていた。私を拒むだけじゃなくて、彼に近づくなと言った。あなたに関心を向けさせたくない、と。
 言われてみれば、私と彼のあれ以上の接触を避けようとしていたみたいだ。でも、そんなの気づけないよ。
「あの、あの男の人はいったい?」
 ウェイターさんと行彦さんは視線を交差させる。
「まあ、ちょっとしたゴロツキだと思ってくれればいいさ」
 答えてくれるのは行彦さん。
「彼は渡航先の地中海近辺で、やんちゃに拍車がかかってね。身の丈に合わない連中と誼を結んだ。本人としては箔付けになったんだろうが、実際はただのお使いだよ」
 妙に引っかかる言い方をする人だ。
「向こうの奴らの指示で、彼はこの船で帰国することになった。何かを持ちこむには、空路よりは便利だからな。隠したり人を抱きこむ手間が少ない」
 薬や武器。行彦さんは軽い調子で言うけれど、一般人に馴染みのない言葉が出てきて、寒気がする。
「途中寄った数ヶ国でも、なんだか楽しそうだったよ。そして、日本に無事到着。今夜のパーティーで無事宅配便屋さんとしての役目を果たすことになっていたというわけだ」
「で、皆さんは、琴は……?」
 行彦さんの唇の片端が微かに上がる。
「俺たちの仕事は、その件を捜査し、現場を押さえること。とはいっても、我々の場合はほぼ戦闘要員だが。ああいう連中相手となると、多少の実力行使が必要だから」
「捜査?」
「国境なき警察組織だと思えばいい。琴は、君にもわかりやすい言い方をすると、捜査官ってところかな」
「捜査官……」
 思ってもみない言葉に、何度も瞬きをする。
「じゃあ、あの人とあんな風に絡んでいたのは?」
「あいつのそばで情報や証拠を得るためだよ。もちろん、身分は隠してね」
 全部仕事のため。そう説明されても、ほっとするどころか、よけいに混乱する。
「だって、琴はまだ中学生ですよ? あんな、女の子に銃を持たせるなんて。身体だって華奢だし、それにあの人あきらかに琴のこと……」
「あんた、本当に双子の妹なのか?」
 ウェイターさんは呆れた視線を寄越してくる。
「ああ見えてあいつは、武装した数十人を一人で戦闘不能にするやつだぞ」
「え!」
「敵よりよっぽど恐ろしいね、俺は」
 彼の言っていることが、琴の姿と重ならない。というか、非現実すぎて信じられない。
 琴、この数年間で、あなたにいったい何があったの……?
「ケイ。彼女は一般人だ。琴とはちがう」
「行彦、ちがうって言っても」
 行彦さんとケイさんの間にある空気がだんだん不穏なものになっていく。おろおろしていると、扉が開いた。
 そこには響祐さんがいた。
「響祐さん!」
 急に知っている世界に戻ったようで、安心した私は駆け寄る。
「笙、無事――」
 響祐さんは私の顔を見て絶句する。
「どうした、それ」
「戦闘に巻きこまれたんだ。幸い、傷は浅かった。すぐには治らないだろうが、目立つほど残らないですむんじゃないか。ああ、笙。日には当てないように」
「行彦……」
 響祐さんは意外そうな目で、行彦さんを見つめる。
「お前が一緒だったのか」
「ああ。お前のペンネームわかっていれば、会わずに済んだだろうに。招待客リストには目を通したつもりだったんだが」
 微かに、響祐さんが震えている。
「まさか、お前の研究に、琴を利用しているのか?」
 一拍置いて、行彦さんは答える。
「まあな」
 響祐さんは手を伸ばし、行彦さんの胸倉をつかむ。
「お前、まさか、それだけは……!」
 響祐さんは歯をむき出しにする。こんな表情を見るのは初めてで、私は絶句する。
「それしか方法はなかった。でも、お前に罵られる権利はないね。お前は笙だけを連れていったんだから」
「それは……!」
「権限がなかった? だがお前は、あのあと琴がどうなるかわかっていたんだろ? それで置いていったんだ。お前には琴について怒る権利ももうないんだ」
 響祐さんは力なくへたりこむ。
「……もう、僕が琴を引き取るのは無理か?」
「ああ、契約があるから」
 すがるような響祐さんの言葉を切り捨て、行彦さんは煙草に火をつける。
「ついでに言うと、俺が二人とも引き取る選択肢もない。俺にとって、その子は無価値だから」
 無価値。冷たい響きだ。自分に向けられたのだと思うと、意図はわからなくても悲しくなる。
 お母さんと一緒にいたときのことを思い出す。
 いつも、琴にばかり意見を求めていたお母さん。ずっと、私よりも優れていた琴。
 私は、無価値なんだろうか。
「笙、大丈夫だった?」
 琴が入ってきて、響祐さんの顔を見て目を丸くする。
「まだいたの?」
「笙を引き取りにきた」
「そう。怪我させてごめんなさいね」
「あ、あの、琴……」
 私の声に、琴はゆっくりと顔をこちらに向ける。
「笙、傷は大丈夫……?」
 どこか心配そうな表情が懐かしい。
「たいしたことないみたい」
「そう、よかった」
 微かに微笑む。
 琴が本当に戻ってきたようで、たまらなくなって私は琴に抱きついた。香水の匂いが鼻をくすぐる。
 今までの困惑も全部まぜこむようにして、私は嗚咽を漏らす。琴はしばらく棒立ちだったけれど、やがてゆっくりと私の背中を撫ではじめた。
「ごめんね、冷たくして。仕事中だったから」
 その抑揚のない声には、もう緊張感も敵意もなかった。それが嬉しかった。
 どれくらいそうしていただろう。ようやく身体を離した私の顔を覗きこむのは、鏡に映したようにまったく同じ顔。
「琴、今まで、何があったの?」
 その瞬間、片割れの表情が陰る。
「今度、ゆっくり話す」
「今度って」
「しばらく日本にいられるから、また別の日に会いましょう。そのときは……ちゃんと話すから」
 琴は壁の時計を見る。もう真夜中だった。
「一晩かけて後片づけね。早くても明日まではまともに相手できないから。面倒な手続きもあるし」
「手続き?」
「他国との兼ね合いで、管轄も処理もややこしいの。都合があって、日本到着まで行動を起こせなくて。でなかったらもっと話は早くて簡単だったのに」
 また私が理解できない、難しい話になるのだろうか。本当にそうなったなら寂しいから、私は尋ねなかった。
 勇吾くんは、急遽取った近くのホテルで待っていてくれているらしい。あのあと、私が戻ってこない間も場をつなごうと頑張ってくれたらしい。お礼しなきゃ。
 琴に送られながら、私たちは出口を目指す。
 紺色の服を着た人たちと何回かすれちがう。私たちを見ると道を開けてくれた。
 一般のお客はすべて出されて、本来船内に留まるのは、あのスーツの人一派と琴の仲間だけだったみたい。響祐さんたちも、一度外に追いやられたのだとか。
 スーツの人をはじめ、敵側の人間はほとんど確保してある。負傷者以外は一ヶ所に集められ、監視されているらしい。
「すみません、ケイさんまで」
 ケイさんは琴とはまたタイプのちがった無表情で、頑丈そうなケースをいくつか抱えていた。
「どうせ、一度外に荷物運ぶから」
 ところどころに争った跡がある。銃弾の跡が壁に残っているのを見て、私もちょっと前まではその現場にいたのだと思うと、寒気がした。
 琴は、どうして平気なんだろう。
 横目で見る片割れの姿は、腕に痛々しい包帯さえなければとても綺麗だった。メイクは派手でもよく映えていて、私の身体よりもずっと引き締まっていて、肌も綺麗で。ちょっと露出の多いドレスも、琴の体型には合っていた。私は好きじゃないけど。
 歩きながら、私はそっと話しかける。
「ねえ、琴。琴に話したいこと、いっぱいあるんだよ」
 離ればなれになっている間、私にはドラマチックでも何でもない出来事しかなかった。でも、そんな平凡な日々のなかにある、ちょっとしたことを話したかった。どれだけ琴がそばにいなくて寂しかったかも。
 そして、今まで琴に何があったのかをちゃんと聞きたかった。私の想像できない世界がこの子の背後にはありそうな気がして、ちょっと怖い。でも、ちゃんと知りたかった。
「私も」
 そう微笑んだ琴は、ふと立ち止まって廊下の端に歩み寄り、窓の外を見やる。
「どうしたの?」
 目つきがまた一気に鋭くなる。
「……あんなところに」
 琴はケイさんの荷物を取り上げる。
「おい!」
「ごめんなさい、あとで弾の数報告するから」
 琴はケースから大きな銃を取り出すと、胸に手を当てながら駆け出す。
 こんなに速く動ける人を、私は初めて見たかもしれない。そういえば、あの廊下での戦闘でもすぐに相手との距離をつめていた。
 琴はバルコニーから出ると、一気に飛んだ。
「ちょ! 琴!」
 慌てて追おうとする私を、ケイさんが止めた。
「別に、自殺行為でも何でもない」
 琴はすこし離れたところにある小船に着地した。音はほとんど聞こえなかったけど、船が揺れて黒い海面に波を作った。
 そのままもう一足で岸に移り、柵を乗り越えて走り出した。
「あいつ、本当に目がいいな」
 今までになくのんびりした口調で、ケイさんはケースのひとつを開ける。そこには、細長い銃があった。
「え、ケイさん?」
「琴、こっちはいつでもいいからな」
 取り出しながら、彼は襟のあたりに口を近づけて呟いた。そこにマイクか何かがあるらしい。
 立ち止まっておろおろとするばかりの私の手を、響祐さんがとる。
「行こう」
「やめておいたほうがいい」
 スコープを覗きこみながら、ケイさんは言う。
「あいつが暴れまわっている最中に出たら、巻きこまれる」
 ここにいろ、と言われる。
「なにが起こっているんですか?」
「取りこぼしだよ。珍しいな。よほどあいつ焦っていたんだろう、あんたのところに戻ろうと」
 ケイさんは襟に手を当てて、応援頼む、と呟いた。
 耳が震わせるように響く音は銃声。ひとつふたつどころの話ではない。
「あ……」
 倉庫の陰に、人影が見える。そこに、琴は突き進んでいく。飛んでくる銃弾に構わず。
「琴!」
 それこそ、本当に自殺行為だ。身を乗り出しそうになるのを、響祐さんに止められる。
 そんな私がおかしいのか、ケイさんは口を開く。
「あいつは、相手が機関銃だろうが戦車だろうが、馬鹿みたいにまっすぐに突っ込んでいくよ。銃弾の雨に怯まないで。あんたは真似しなくていい、下がってろ」
 言いながら、目を逸らさず引き金を引いた。思ったよりも音は小さいけれど、尻もちをつきそうになる。響祐さん慌てて受け止めてくれた。
 心臓がばくばく言っている。頬の傷がやけにじんじんとした。
「機関銃でも、戦車でも……」
 それは、ただの比喩ではない気がした。
 私の時間差の鸚鵡返しに、ケイさんが口だけで笑う。
「そうだ、羨ましいよ、まったく」
 私は自分の頬に触れる。ガーゼの下にあるのはただのかすり傷。それだけでもすごく怖かった。空気を切り裂くような衝撃を思い出すだけで身体が震えるほど。
 琴、どうしてあなたは怖くないの?
「ああ、もう終わったようだ。早かったな」
 ちらっと覗くと、応援にきた人たちが周りを取り囲んでいた。
「本当に、なんであんな雑魚相手するのに、こんな遠くまで」
 そうボヤくケイさんを横目に、私は響祐さんの手をすり抜けて出口に向かった。
 船を出ても、すぐにどっちへ進めばいいのかわからなかった。足を止めてきょろきょろとしながら、自分たちがさっき見たのはどの方角だったかを考える。
「あっちだ」
 ようやく私が再度走りだそうとすると、外灯に照らされながらこちらに向かってくる人影が見えた。
 私は思わず大きく手を振る。すると、彼女はすぐに駆け寄ってきた。
「琴、大丈夫だった?」
「心配ない」
 そう言っても、腕と脚に傷が増えていた。
「あの、行彦さんに……」
「うん、手当してもらうから」
 こんな状況だというのに、私はふと笑ってしまった。
「私が琴の心配するのって、なんだか不思議だね」
 小さいときのことを思い出してくれたのだろうか、琴も目を細めるけど、すぐに表情を戻した。
「笙、響祐は?」
「あ、置いてきちゃった」
 ごまかすように笑ってみたけど、琴は難しい顔をしたままだ。
「数が足りない、と思う」
「え?」
「一人、まだ隠れているかもしれない」
 そう話していると、ケイさんが走ってきた。
「二人とも、一度こっちに戻れ」
「え、でも」
 私はとっさに琴を見る。すると、数歩分離れていたはずの彼女は、私と服が触れあうほど近くにいた。裂けそうなくらいに目を大きく見開いて。
「琴……?」
 崩れるように地面に倒れる。その背中からは血が流れていた。
 ケイさんが舌打ちをする。
「馬鹿なことを」
 ケイさんは琴には目もくれず、奥の倉庫街へと向かっていった。
「琴、琴……」
 肩を揺さぶってみる。でも、返事がない。起こそうとして琴と目が合った。
 震えが止まらなくなった。
 力が抜ける。琴の身体は糸のきれた人形のように私に寄りかかり、私の肌を撫でるようにしながらゆっくりと地面へと沈んでいく。
 今の状況をわかりたくなかった。ただ無言で首を横に振る。
 そのとき、ふわりと白い布が琴にかぶせられる。赤い染みが、じわりじわりと広がった。
 見上げると、行彦さんと響祐さんがいた。
 行彦さんは白衣ごと琴を抱き上げる。琴の手は力なく、重力にまかせるように垂れた。
「まだ、息はある」
 私たちに向けた言葉。
「息はって」
「あとでこちらから連絡する。響祐、名刺寄越せ」
 響祐さんは、白衣に包まれた琴をじっと見つめている。
「行彦、お前の研究」
「いいから。急いでいるんだよ」
 響祐さんはポケットから名刺入れを取り出すと、渋々といった様子で一枚渡した。
「悪いな」
 行彦さんは私にそう声をかけて、船に戻ってしまう。
 追いかけようとする私を、響祐さんが引きとめる。
「彼女のことは行彦にまかせたらいい。今日はもう遅い。僕たちも行こう」
「そんな」
 だって、琴が、琴が。
「勇吾が待っている」
 私は立ち止まる。
 勇吾くんの顔を思い浮かべると、急に足が動かなくなった。
 響祐さんに促されて、私は船とは反対方向に歩きだした。
 まだ息がある。行彦さんの言葉を思い出す。
 でも――。
 力なく、だらりと垂れて揺れた腕。白さを増していく顔。かすかな温もりさえ逃げていく肌。薄く開いた口。閉じかけたまま固まった瞼。
 琴は死んでしまったのだと思った。
 本当に、生きているの? 助かるの?
 わからない。やっと会えたのに、わからないことばかりが積み重なって、感動なんてまったくない。
「響祐さん、昔、何があったの?」
 私の前を行く響祐さん。この位置だと顔が見えない。
「琴を置いていったの? 行彦さんに預けたの?」
「……すまない、時間をくれないか」
 その声はかすれていた。
 会話もなく、私たちはホテルに着いた。勇吾くんは何も聞かず、おかえりと言ってくれた。
 二人と別れて、響祐さんが取ってくれたシングルの部屋に入った。でも、シャワーを浴びてもまだ落ちつかず、ベッドに入っても目が冴える一方だ。
 琴、無事なの?
 ここの窓からでは船が見えない。
 信じられないことばかりの夜が終わりに近づいた頃、私はようやく浅い眠りにつくことができた。





2014/12/01

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