扉の先は、小さな部屋だった。向かい側は同じようなドア、右手はただの壁で、左手はガラス張り。天井にはシャワーヘッドがいくつかついていた。
 行彦さんはガラスに向かって手を挙げる。その先には、見るからに国籍がバラバラな数人の男性がいた。
 なにが始まるの? びくついていると、いきなり上からミストが噴射される。
「きゃ!」
「人体には影響がない。あと一五秒待っていてくれ」
 その言葉どおり、きっかり一五秒後、それは収まった。ちょっとひんやりした感触に戸惑っているうちに、向こうの扉が開いた。
「これがないと、この先のエリアには行けないんだ」
「あの、響祐さんたちは」
「あとで」
 そっけなく言いながら歩き出す。
 その先にあったのは、そっけない造りの広い部屋だった。太い筒型の水槽が三個ほど並んでいる。鉄でできた階段を下りながら、そのうちのひとつを見て、私は一瞬立ち止まる。そして、すぐに行彦さんを追い抜かして駆け寄った。
「琴!」
 私は水槽にすがりついた。
 裸の状態で、琴は水槽のなかにいた。口にはマスクが当てられていて、頭や手首、足などにケーブルが絡んでいた。
「琴! 琴!」
 指でガラスを叩く。でも、何の反応もない。
「まだ意識はない。あまり刺激しないでくれ。それより、君にはこっちを見てもらいたい」
「あの、琴はいったい」
「治療中だ。今はその言葉で納得してほしい」
 こんな治療方法、見たことがない。映画の世界のようだ。
 行彦さんは私に構わず、その先のドアを開ける。私は、水槽と彼を見比べ、そちらに足を進めた。
 ちょっと薄暗い。一歩入って、その涼しさに驚いた。冷房がかなり効いているようだ。でも、その空気の動きのなかに、生ぬるい風の感触がまじっていた。
 行彦さんが照明を調節すると、室内の様子がよくわかった。部屋は水槽のあるところよりもやや狭い。その中央にあったのは巨大なコンピュータだった。それだけで、ちょっとした家くらいの大きさの。
 近づくと、微かに作動音が聞こえた。熱が伝わってくる。
「これが、琴の正体だよ」
「え?」
「このなかに、琴がいる」
 黒い表面を、行彦さんは指で示す。
「どういうことですか?」
「まずは、君たちの生い立ちを説明しようか」
 行彦さんは薄く笑った。
「簡単に言えば、君たちが生まれたのはある実験のためだ」
「実験?」
 行彦さんはファイルを取り出して私に投げる。けれども、紙に小さな文字でびっしりと記されているのは全部外国語。まったくわからない。
「元が同じの、二人の子供。一人は何も手を加えず、もう一人は……遺伝子操作というものを行って、同じ環境で育ててその違いを観察する」
 遺伝子操作――身近ではない単語に首を傾げる私を無視して、彼は続ける。
「ほとんどの子供は外部から調達した。しかし、君たちがお母さんと呼んでいる人――彩歌さんは、その実験に自分のクローンを加えたんだ」
「クローン……」
「そう、君たちは彼女に姿がよく似ているだろう。それは、君たちが彼女のクローンだからだ」
 私が、クローン?
 意味を理解できないでいると、行彦さんは私を憐れむように見つめた。
 そのとき、アラームが鳴り響いた。
「ああ、お目覚めの時間だ」
 さっきの部屋に戻ると、筒から水が抜かれていた。白衣を着た金髪の女の人が、琴を抱えながら水槽から出る。
 行彦さんと彼女の会話はわからない。ただ、彼女は私を見るとやわらかな笑顔を浮かべた。
「ショウ?」
 名前を呼ばれて、私は反射的に大きく頷いた。
 彼女は、私に一言なにか言うと、琴を傍らにあったベッドに横たえ、その濡れた身体を軽く拭った。そして、どこからか白いワンピースを持ってくると、それを琴に着せる。
「琴は、生きているんですか」
「これからね」
 これから?
 ベッドにはキャスターがついている。それでさっきのコンピュータの部屋まで運んだ行彦さんは、女の人と一緒に琴にいくつかのケーブルを取り付ける。その間に、黒人の男性が機材を持ってきて、行彦さんの指示でセットを始めた。
 何が起こるの……?
 行彦さんは琴につながった機械にスイッチを入れる。すると、かすかな唸り声をあげながら、画面に文字が現れた。それは追い切れない速さで、下から上へと流れていく。
 作動音が響く。機械のわずかな揺れが、まるで地震のように思えた。
 そして、緑色のライトが点灯する。
「これで完了だ」
 女の人が、軽く琴の頬に触れた。琴の瞼が、ゆっくりと開かれる。
「琴?」
 呼びかけると、焦げ茶の瞳が私を捉える。笙、と色の薄い唇が動く。
「まだ動けるようになるまで、数十分ほど時間がかかる。ちょっと待っていてくれ」
 女の人が、私を響祐さんの待っている部屋まで送ってくれて、コーヒーを出してくれた。
 しばらくして、行彦さんもやってきた。
「君たちが彩歌さんのクローンというところまで、話したね」
 彼がそう切り出すと、響祐さんはわずかに反応を見せた。そんな彼を見て、行彦さんは薄く笑う。
「それで、二人の子供の話に戻そうか。一人は何も手を加えず、もう一人は優れた頭脳や身体能力を持つように遺伝子をいじった。前者が君、後者が琴だ」
 あのとき、行彦さんは私に言った。運がいい、生まれついてのものがあるのか、と。それはつまり、二人のどちらをいじるかの選定に私が漏れたことを意味していたと、彼は言う。
 元は同じだけれども、まったく別の身体を持った子供たち。普通の人間である私と比べて、遺伝子操作を行った琴がどのように成長するのかを、お母さんは観察していたらしい。
「お母さんは、どうしてそんなことを?」
「あの人は、単純に、自分のクローンに興味があったんだろう。そういう人だ。君のこともよく観察していたよ」
 ――どうして笙は私の小さい頃とこんなに違うんだろう。
 お母さんの言葉を思い出す。本当に無邪気に、悪気なく放った台詞を。
「まあ、育った環境が異なればそれも不思議ではない」
 行彦さんは嫌みを含んだ声で言う。
「でも、彼女はわりと楽しんでいたようだよ。親子ごっこを。父親役はいなかったがね」
 そういえば、お父さんがいないことを疑問に思ったことはなかった。あのときは三人家族が当たり前だったし……他の子たちの存在は認識していたけれど、家族らしい家族は見たことがなかった。
「でも、殺されたんですよね、母は」
 行彦さんの目がすうっと冷たくなる。
「遺伝子操作をね、冒涜的な行為だと感じる人間は多いんだよ。特に、人間の子供を使った実験や観察を行っているなんてね。非人道的だと糾弾され、研究所は秘密裏に処分されることとなった。研究所のことを外部にリークしたのは、彩歌さんだとされた」
「え?」
「もしかしたら、誰かになすりつけられただけかもしれないがね。彼女は無実を訴えつづけていたが、制裁として仲間の研究者に殺されたんだ」
 それが現実の話とは思えなかった。瞬きを何度しても、冗談だとか嘘だとか、そんな言葉は来ない。彼だってきっと、そんな作り話をする人ではない。
「それと並行して、君たちは保身をはかった者たちによって選別を受けたんだ。遺伝子操作をした子供と、そうでない子供に。そして、後者である君は研究所から無事に出られた。これについても運がいい。彩歌さんは自分の立場が危ういと気づいてすぐに、響佑に君の保護を依頼した。そして彼の懸命な努力の結果、君の日本行きが認められたんだよ。もうすこし遅ければ、君もきっと琴たちの側に入れられただろう」
 そして、私は引き取り手となった響祐さんに連れられ、日本に渡った。私の身に起きたことなのに、まったく記憶にないせいか、私はどこか他人事のように聞いてしまう。
 行彦さんいわく、私のように比較対象でしかない普通の子たちの多くが、自分がどんな実験に携わっているのか最後まで知らずにいたのだという。琴のように、遺伝子操作を受けた子たちのほとんどが自分たちの身体について把握していたのと対照的に。
「琴は、どうなったんですか?」
 行彦さんは煙草に火をつける。
「紆余曲折を経て、俺が保護した。ただし、彼みたいに養女にしたわけじゃない。研究材料として、だ」
 抑揚のない語り。
「研究材料って」
「もともと研究のためだけに生まれたんだ。そうでなければ、引き取りが認められなかった」
 彼の吐いた煙が、空気に溶けていく。
「……あなたは、琴を使って、なにを研究しているのですか?」
「それについてだが、先日の一件を絡めて説明しようか」
 行彦さんの目が、私を捉える。
「あの日、琴は死んだ」
 私は呼吸を一瞬止める。
 薄く開いたままの瞳を思い出す。まるで人形にでもなってしまったような琴の姿を。
 死、という言葉は確かに過ぎった。でも……。
「じゃあ、さっきのは」
 あれは琴のはずだ。ちゃんと目を開いて、わずかに唇を動かした。生きていた、はずではないの?
 混乱する私に、思わぬ言葉が降ってくる。
「聞いてくれ。死と言っても、肉体だけだ」
「え?」
「さっきのコンピュータを見ただろう。琴の魂は、あのなかにある」
「意味がわかりません」
 響祐さんは、なにも喋らない。行彦さんは喋るけれども、聞き手を翻弄する。
「船で、琴をコンピュータにつなげたのは覚えているね。あのとき、琴の記憶を保存したんだ」
「人間の記憶を保存? そんなこと、できるんですか?」
「あいつならね」
 砦のように巨大な機械を思い出す。
「でも、記憶を保存して、どうするんですか? 琴は、その、死んだって……」
「作り直せばいい。それが俺の研究なんだ。細胞から、新しい身体をつくる。年齢に合わせてね」
 細胞を培養液に入れる。どれだけ成長させたいのか数値を計算し、それに合わせて液や機械の調整を行う。そして、一定の時間が経過すると、十三歳の琴の身体ができあがる。
 それが、自分の姉に起こっている出来事だなんて思えなかった。
「あとは、脳に今までの記憶を入れて完成だ」
「あの、身体を作り直すって?」
 彼としては、ひとつ前の話という認識だったのだろう。苛立ったように眉が動く。
「できるよ。ただし、現在は琴のように遺伝子をいじった人間しか成功していない。まだ普通の人間には無理だ」
「いずれ、完成させるつもりなんだな?」
 響祐さんの質問に、行彦さんは薄く笑んだ。
「そのうちね。これについても、お前には何も言われたくないね」
 響佑さんの怒りや不穏な空気に、ただ困惑するだけの私に、行彦さんは皮肉たっぷりの笑顔をよこす。
「響祐は、優しいかもしれないが、愚かだ。そして、君も、いい子かもしれないが、やはり愚かだ」
「行彦!」
「安心しろ。悪用するつもりはない、俺はね。出資者がどう使うかはあちらの勝手だが」
 響祐さんは頭を振る。そんな彼を、行彦さんは冷めた目つきで眺めていた。
「なぜ笙を無知のままでいさせたんだ?」
「それが、彩歌さんとの約束だから」
「彼女たちを自分の研究に利用しておきながら、笙には自分と同じようにはならないでほしいとでも願ったのか? 俺は、彼女のそういうところが昔から嫌いだったよ」
 そのとき、どこからか女の人の声がした。行彦さんがそれに応える。
「琴が来るよ」
 そう私たちに告げると同時に、扉が開いた。
 ケイさんが車椅子を押す。そこに座っていたのは、私と同じ姿をした子。
「笙」
 今度ははっきりと呼んでくれる。私は駆け寄った。
「琴……」
 心配したとか、また会えてよかったとか、言いたいことはいっぱいあったのに、どう言ったらいいかわからない。
 この子は双子の姉だったはずだ。でも、本当は、お母さんのクローンの一人――私と同じく。
 彼女は私を見上げて、頬を示す。
「頬の怪我は、大丈夫?」
 そのやりとりは、あの日したじゃないか。そう思った瞬間、私は気づく。
 あのとき、琴が最後に「記録」を行ったのは、私を行彦さんに預けたとき。そして仕事を終えて、そのまま私や響祐さんを送って、彼女は「死んだ」。
 あれ以降の記憶はないんだ……。
 私は琴の腕を見る。傷跡はどこにもなかった。
「……うん、瘡蓋になって、もうそろそろ治りそう」
「よかった」
 そうやって安心する顔は保護者みたい。私は、こういう風に笑えない。
「先生、ちょっとだけ琴と響祐と三人で話したいのですが」
 行彦さんは嫌そうにしながらも時計を見て、期限を定める。
「ここは昔の研究所とちがって庭が綺麗なの。行きましょう」
 一番に頷いた響祐さんは、ケイさんに代わって車椅子のうしろに回った。
 琴の案内で、私たちは施設の廊下から屋外に出た。
 爽やかな風に、花が揺れていた。その向こうには水辺。
「海?」
「湖。でも、海もそう遠くない」
 濃い緑に囲まれ、灰色の空を映すそれを見つめながら、琴は表情を緩める。
「晴れているときは、もっと綺麗なのに。残念」
 琴は思い出話を始める。昔いた施設も木に囲まれて、私たちは森を遊び場にしていたこと。私は木登りが大好きだったこと。
「あなたはよく傷を作って、私はあの人によく叱られていた。あなたがついていながらって」
 そう語る声は、時々掠れる。まだ本調子じゃないらしい。
 昔の話はとても懐かしかった。でも、私はもっと他に聞きたいことがあった。
「ねえ、琴。覚えてないだろうけど、あのあと、琴が戻ってきて、そのときに私たちが別れてから何が起きたか話すって約束してたんだよ」
 琴は私を見上げる。
「ごめんなさい、覚えていないの」
 この子は、本当にあのときの琴なのだろうか。なんだか別人に思えてしまう。間違いなく、琴のはずなのに。
「でも、話そうと思っていた。響祐、あなたも付き合ってくれる?」
 私たちの会話を邪魔しないよう、気配を殺していた響祐さんは、そっと頷いた。それを確認してから琴は私に問いかける。
「先生からなにか聞かされた?」
 私が簡単に説明すると、彼女は表情を変えずに頷いた。
「すこし重なってしまうけれど、私の話も聞いてね。許されざる行いに手を染めた研究所は崩壊し、我が身の危うさに震えた数人が、できるかぎりの隠蔽と研究材料の処分を決めた。あなたたちはただの子供だからまだ誤魔化しがきく。でも、私たちの身体はまったく別のもの。詳しく調べてしまえば、それがわかってしまう」
 研究のすべてがこの身体に詰まっているのだから。言いながら、胸に手を当てる。
「残しておくわけにはいかない。そうすると、殺処分してしまうのが一番手っ取り早かった。そして私たちの身柄はある組織に引き渡された。そこで何人かずつに分けられて……そこで別れた仲間もいる」
 殺処分。その言葉は、生きている人間にまったくふさわしくない。
「自分がどんな運命を辿るのか、選別が始まった時点で私はわかってしまった。だから、こっそり抜け出して、施設にやってきた響祐に自分も連れて行ってと頼んだの。お母さんが笙だけでもとこの人に依頼していたのは知っているから。でも、彼に私を連れ出す権限なんてなかった」
 私は、実験と無関係になれば、ただの人間でしかない。でも、琴は生まれたときから普通の人間ではなかった。機密の詰まった実験体に自由は許されなかった。
「そんなの無視して、響祐さん、琴も連れていってくれたらよかったのに……」
 琴は空を見上げる。
「あなたの安全を優先したのよ。もしも私を無理に出そうとしたら、あなたまで危険に晒される。お母さんの関係で、私たちの立場は本当に危うかったのだから」
 そうでしょ、と確認するように琴は響佑さんを見る。彼は何も言わない。けれども、その沈黙は、否定を意味するものではなかった。
 本当はわかっていた。彼が自分にできることは何もわかったうえで、嫌がらせのように言ったのだ。そう語る琴の声は、どこか切ない。
「結局、私はあるところに連れていかれた。そして、他の子たちがどんどん殺されていくのを見ていたの。残された子たちとどう励ましあえばいいのかわからなかった。どうせ助からないのだから。すこしずつ仲間が減っていく、次は自分かもしれない。でも……殺されるのも殺すのも嫌だって……」
 そこで一度言葉を切る。
「恐怖、と言えるのかな。あのとき、私は初めて自分の心というものを自覚した。後にも先にも、あんなに自分のなかに強い感情が存在することはなかった」
 そんなとき、琴のもとを訪れたのが、行彦さんだったという。
「先生は、私を自分の実験体とすることで、引き取ることができたの。そして私は殺戮現場から出て、あの人のもとで暮らすようになった」
 行彦さんの研究は、さっき説明してもらったとおり。細胞から人体を作り出し、コンピュータに入れておいた記憶を全て移す。そうすれば、肉体は死んでも、まったく同じ人間として蘇ることができる。ただし、普通の人間ではなかなかうまくいかないから琴が必要なのだ。もう、遺伝子操作を受けた子供の大半が所在不明で、殺されてしまった可能性が高いから。
「そういう名目だとしても、あの人は私にとって恩人なの」
 そのために、今の仕事をしているのだという。行彦さんのために戦い、ときに死に、生き返ってまた戦う。琴の働きで、行彦さんは環境や金銭の支援を受けているのだと。
「琴が、そこまでしなくてはならないの?」
 琴だって、私みたいに能天気に生きる権利があるはずだ。そう言うと、琴は私に言い聞かせるように優しく囁く。
「私は、生まれてから死ぬまで実験動物だから」
 その口調に、自己憐憫は一切ない。
「でも、私には、あなたのように生きられたという可能性があった。そう思わせてほしいの」
「琴……」
「私は何でもできる、あなたとはちがって……。でも、普通の人間としては生きられない。それは、あなただけができること」
 私の視界がにじむ。
「琴にだって、できるよ」
 涙の向こうで、片割れだったはずの女の子はほんの少しだけ笑った。
「できるかもしれないけれど、私はやらない」
「どうして」
 琴は私の目尻にそっと触れる。
「説明したとおり。あなたは、実験が中止になればただの人間として生きられる。でも、私はちがう」
 なぜなら、人間であって人間ではないから。そう、皮肉のようなことを言う。
「私は、不老不死と言えるかもしれない。もし、先生たちが生きている間に研究は完成しなかったら、私が引き継ごうと思っている。そう生きようと決めたから」
 まったく同じはずの、私と琴の顔。でも私は、琴みたいな表情はできない。こんなに綺麗で切ない笑顔は浮かべられない。
 琴は私を抱きしめた。
「あなたは、私にとって希望なの」
 どこも傷んでいない、まだちょっと濡れている髪が、私の頬を掠める。
「とても重いかもしれないけれど、もしもあなたが私のことを想ってくれているなら、どうか受けてほしい。私の境遇なんて忘れて、幸せに生きるって」
「そんな、無理だよ」
 クローンとか、実験とか、そんなの関係ない。私にとって、あなたは双子の姉だ。忘れるなんてできない。自分だけ幸せになるなんてできない。
「私は、実験動物でしかない。ヒトではない」
「ヒトだよ。だって、こうやって生きているじゃない」
 琴の体温は低い。でも、ちゃんと温もりはある。こうやって私を抱きしめている。私と話している。まったく同じ姿で。
 この子がヒトではないというなら、私だってきっとヒトではない。
「遺伝子をいじった時点で、人間じゃなくなったの」
 力なく語るその声は、やはり淡々としている。でも、私は納得できなかった。
「一緒に生きることができるよ」
 身を離した琴は、まっすぐ私を見つめる。
「でも、あなたはいずれ死ぬでしょ」
「え?」
「私は、百年後も新しい身体で生きることができる。でも、あなたはそうじゃない。老いて、やがて死ぬ」
「琴……」
 どうしてそんな悲しいことを言うの。
 俯く私の手を、片割れは強く握った。
「限りある命を大事に生きる。あなたには、そういう、私にはできないことをしてほしい」
「琴……」
「私ね、人間って大嫌い」
 まっすぐ私を見返す。
「醜い人間をたくさん見てきた。でも、それはきっと普通じゃない。普通の人間はきっと……能天気で無邪気で、何も知らずに笑うものだと思う」
 そんな人の姿は、ちょっと綺麗に見える。だから、私にはもう一人の綺麗な自分として生きてほしい。
 もやもやする。琴には本当に可能性がないのかな。日本で、私と響佑さんと勇吾くんと、四人で日常を送れないのかな。
 でも、きっと琴は揺るがない。そして、私たちはまだわかりあえないのだ。
 私がもうすこし賢かったら、なにか変わった? でも、生まれたときから私と琴はちがっていて、私はただの凡人。それが運命だったのだろうか。
「これで、私の話は終わり」
 言いながら、琴は響佑さんに視線を送る。
「笙、帰ろう」
 彼は悲しそうな目で私を見下ろす。
「勇吾が待ってる」
 その名前に、あのとき言われた言葉がよみがえる。
 ――絶対帰ってきて。二人は、絶対。そのためにここで待つから。
 琴と別れてからは、響祐さんと勇吾くんが私の家族だった。私の帰るところは、三人で暮らすあの家だ。
「琴、また日本に来る?」
「仕事次第」
「もし来たら、会える?」
 私の期待に応えるように、琴は薄く笑った。
「そのときは必ず連絡する」
 約束、と彼女は小指を差し出す。私たちは、小さい頃のように指切りをした。成長しても、琴の指は細くて白い。
「響祐、よろしくね」
「ああ」
 響祐さんは苦しそうな声で返事をして、私の手を取った。
 行彦さんはいい顔をしなかったけれど、駐車場まで琴は来てくれた。
「元気で」
 その言葉に、もうこれっきりではないかと感じてしまい、私は立ち止まって振り向いた。響祐さんはそんな私を抱え上げるように車に乗せると、その横の席に座った。そしてケイさんが運転席に座る。
 琴は金髪の女の人に車いすを押してもらい、私の席のほうへと回りこむ。
「またね」
 本当に、また、会える?
 私の不安さが伝わったのだろう。琴は、今までで一番優しく笑って、そっと頷いた。
 ケイさんは何も言わずに車を発進させた。私と同じ姿をした女の子は、ゆっくりと遠ざかっていく。白い建物も人影も、やがて森がすべて隠してしまった。私はゆっくりと正面に向き直る。
 いろんなことを一度に知って、思考がぜんぜん追いつかない。でも、あの家で知らされるよりはよかったと、そう思えた。
 この数年間、鏡を見るたびに、そこに映る自分の姿に琴を重ねた。でも、あの子と私は、まったくちがう存在だったのだ。
 鏡に映るのは私以外の何者でもなかった。
 すこし前まで、自分のことを平凡な人間だと思っていた。それなのに、今は平凡に生きるというのがとても難しいもののように感じてしまう。
 幸せになりたい、と思った。それが琴の望みなら、いっそうのこと。
 でも本当に、あの子にも幸せになってほしい。私よりも、もっと、もっと。
 響佑さんを見る。とても静かな表情で、暮れゆく景色を窓越しに眺めていた。琴から遠ざかるのを惜しむように。
 彼が本当に連れていきたかったのは、琴じゃないか。その横顔に、ふとそんな考えが浮かぶ。けれども、私はそれを心の底に押しこめた。
 異国の道を走る車に揺られながら、私はあの子とまた会える日が訪れるようにと強く願った。





2014/12/01

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