瓶詰め


 悠人が小学一年生の夏、学校が休みになる少し前に、父が小さな飴の瓶詰めを持ってきた。確か、なにかの景品をもらったのだったと思う。両の掌で包みこめる程度の大きさだった。単純な丸形のもの、果物の形を模したもの、輪切りにしたなかに綺麗な模様が入っているもの。節操なく詰められたそれは、まるで宝石のようだった。
 飴は溶けるからあまり日の下に出さないように、と母は言ったが、悠人は小瓶を陽光にかざすのが好きだった。飴なんて珍しいものではなかったが、きらきらしているのを見ていると、特別なものを手にしている気分になれた。
 小学校初めての夏休みに出された宿題は、夏のドリル一冊と絵日記が二枚、朝顔の観察記録だった。小一の宿題ってこんなに少ないのか、と母が神妙な顔つきをしたら、父が翌日わざわざ絵日記帳を買ってきた。絵日記を毎日つけて、最も良いものふたつを学校が配布した用紙に写せとのことだった。絵をかくのは好きだったのでそれについては了承したが、父はついでに勉強のドリルも買っており、悠人はこちらについてはどこかでなくした作戦を取ることにした。
 夏休みの初日、絵日記を欠かさずかくことになったことをマンションの隣の部屋に住む将に言ったらびっくりされた。将はクラスも一緒で、一番の遊び相手だ。たいていはマンションの下の公園で遊んでいる。
「悠ちゃんのお父さん、先生みたいだね。絵日記いやじゃない?」
「絵かくの好きだから別に。将ちゃんはどうする?」
「二枚とも朝顔の絵にするよ。観察と一緒にやれば省エネじゃん」
 その手があったかと思ったけど、こういうのは早い者勝ちだから、真似は認められないだろう。
 将はいつも、自分にはない発想をするので、遊んでいて楽しい友だちだった。将の親は我が子を伸び伸びと育てる方針で、彼の家では、宿題も学校で出された分だけこなせば問題なく、あとは全力で遊べという考えらしい。
「夏休みどっか行くの?」
 問いかけながら、将がサッカーボールを蹴る。
「今年は近場だって。あとは一日体験ってやつとか」
 答えながら、悠人がボールを蹴り返す。なんとなく、喋ることと蹴ることが同時になる。
「うちはおばあちゃんちに行くよ」
「いつ?」
「花火大会らへん」
「じゃあ今年は一緒に見れないんだ」
 電車で何駅か行った先の河川敷では、毎年八月になると花火大会が開催される。悠人たちの住む部屋はマンションの最上階なので、ベランダからも見えることには見えるが、少し距離があって花火は小さい。本格的に花火を楽しみたいのなら、やはり会場に行くのが一番だった。
 悠人は夜空に大量にきらめく花火が大好きで、いつも出かけていた。いつ見ても夢のような光景で、毎年終わった後はしばらく、目を閉じるとあのきらきらが暗闇のなかに広がるのであった。
「帰ってくるのが花火の日だよ。でもお母さんが疲れるから今年行かないって。悠ちゃん、たこやき買ってきてよ」
「覚えてたらね」
 悠人の両親の実家はどちらも、ここから電車で一時間もかからない。普段から行き来しているせいか、遠くの田舎へ帰るという経験はない。それに関しては、将の家が少しうらやましかった。
 未知の田舎についてぼんやり想像していると、将からのボールを受けそこなった。ボールはエントランスのほうまで転がって行ってしまった。慌てて取りにむかうと、ちょうど二人の荷物の近くで止まっていた。そういえば、と悠人は母お手製のバッグのなかをまさぐった。
「悠ちゃん、ボールある?」
「あるよ。将ちゃん、これ一個あげるよ」
 悠人は、例の瓶詰めを差しだした。彼に見せようとちょうど持ってきていたのに、すっかり忘れていた。
「飴?」
 将がきょとんとした顔をしたから、少し持ちあげてみせる。
「光あたるときれいでしょ?」
「本当だ。もらっていいの?」
 うなずきながらふたを開ける。さまざまな味がまざった匂いが夏の空気をつたってのぼってきた。将は何秒か考えたあと、すぐにひとつつまんだ。苺の形のものだ。
「これもらうね」
 いいよ、と言いつつ、悠人もひとつ手にとった。こちらは白い飴だ。口に入れると少し表面がねっとりとしていた。母の言うとおり、この暑さでは溶けてしまうのであった。それでも口のなかで転がすと、ややかたい響きが軽く響いた。さわやかな甘さが広がる。
「あ、結構おいしい。ありがと」
 なんだか落ちついてしまったので、日もだいぶ移動したし、ひとまず公園は終わりにして、ふたりはエレベーターで将の家にむかった。悠人の家だと、妙にうきうきした様子の母が宿題タイムを宣言したがるので、なるべく帰宅は避けたかった。それでも夕飯前に戻ると、大好きなオムライスとともに勉強道具がきちんと用意されていたのだが。


 悠人の七月は、学校の宿題を終わらせるための期間にあてられた。なぜだか母はやけに張りきっていた。ちょっとうっとうしくなった。
「しょうがないよ、悠ちゃんひとりっこだし。うちのお母さんも兄ちゃんのときはそうだったって。そういうもんだって」
 将がなぐさめてくれた。彼は三人兄弟の末っ子で、悠人の家と比べると放任すぎるような様子も、上の子たちを育てた経験に基づいているらしい。でも、きっとうちは上にお兄ちゃんやお姉ちゃんがいても同じだろうな、と悠人は思った。
 父の買ってきたドリルは母が完全に管理しており、決まった時間になると学校のドリルと一緒にやらされた。一回隠して、お母さんがなくした作戦を実行してみたが、簡単に見破られてしまった。
 勉強と朝顔の観察は特にやる気は起きなかったが、絵日記だけは自ら進んでやった。幼稚園のころから絵をかくのは好きだった。
 悠人は自分だけのルールをつくった。その日の絵をかいたら、瓶詰めのなかからひとつだけ飴を取りだして食べてもいい、と。いっぺんに食べると怒られるし、すぐなくなってしまう。それは悲しい。こうすれば少し長くもつし、自分へのごほうび効果のせいか、もっとおいしくなる。
 飴を取りだすときは無意識に、その日かいた内容に近い雰囲気のものを選んでいた。朝顔が咲いた日は、花びらの色に合わせて紫。プールに行った日は、ビーチボールが西瓜だったから西瓜の。プラネタリウムに行ったときは仕込み飴。この名前は父に教えてもらった。もともとなにかの模様だったのだろうが、よく再現できていないようで、何色かの粒が白地に散らばっているだけだった。それが星空に見えた。
 そうしながら毎日ひとつずつ。食べれば減っていくわけで、だんだんと選択肢もせばまる。そんなときは無理やりにでも今日のできごととの共通点を探して、こじつけたものを手に取った。
 夏休みも中盤にさしかかると、予告どおり、将の家は帰省していった。いちばんの遊び相手がいなくなった途端、休みというのものはさみしくてつまらないものになった。他の子たちと遊ぶこともあったけれども、それよりも博物館の講座や習い事の体験教室などに連れていかれることが多かった。悠人の夏は意外といそがしかった。
 そうして予定がない日に限って、友達に用事があったりするのだ。将はまだ帰ってこない。比較的仲が良い子ふたりに電話をかけてみても都合が悪いみたいだったので、その日はひとりで過ごすことになった。もうひとり誘ってみたら遊べるかもしれないけど、悠人はその気力がなかった。
(将ちゃんまだ帰ってこないのかな)
 彼がいるならすぐにふたりで遊びにでかけられるのに。カレンダーにかかれた「はなび」の文字がやけに恨めしかった。将が帰ってくる日でもあるこの行事は、まだ三日先だった。
 床のうえに寝転んだ悠人は、飴の小瓶を振る。からからと鳴るそのなかには、もう飴がひとつぶしか残されていなかった。毎日のように食べていたから当然だった。実を言うと、最後のひとつになったのは一昨日のことだった。まだひとつあるからと最後からふたつめをなめてしまったことが、いまでは悔やまれた。
 最後に残っているのは、チョコ味。悠人はこれが好きではなかった。チョコレートはとても好きなのに、この飴は正直とてもまずかった。一昨日だって、ふたつのうちどっちを先に食べてしまうか迷って、なにか適当な理由を探してもうひとつにしたのだ。
 いっそ将が帰ってきたらあげちゃおうかと思ったけれども、それはそれでもったいない気もした。
 そんなことをだらだら考えていたら、母がドアから顔を出してきた。
「悠人、ドリル終わったの?」
「学校のやつはもうやったもん」
「学校のじゃなくて、お父さんのドリル」
 あの本ときたら、何度かくしたりしてもいつのまにか戻ってきている。それを将に話したら、呪いのドリルだと将の兄と一緒に騒いでいた。恐ろしいものがこの世にはあったものである。
「今日の分ちゃんと終わらせたらお昼ご飯だよ」
 まるで遊園地に誘うときと同じような話し方だった。ちなみに歯医者に行くときもこの笑顔だ。悠人はしょうがなく、机に放ってあったドリルの続きに取りかかった。
 午後はなんの予定もなく、暑いばかりでひどく退屈な時間帯だった。家にいると勉強させられるとインプットした悠人は、いつもの公園にひとりで向かった。数人の幼稚園くらいの子たちが滑り台にいるくらいで、一緒に遊べそうな子はいなかった。
 しょうがないから鉄棒にぶら下がってみた。蝉がうるさく鳴いている。今日の絵日記はどうしようかな、と悠人はぼんやり思った。
 何もなかったでは許されないが、本当に何もない日はどうすればいいのだろうか。将の朝顔作戦を使わせてもらおうか、いや、「将ちゃんは将ちゃん、悠人は悠人」攻撃されるにちがいない。将ちゃんがいれば何かいいアイディア考えてくれたかな。
 悩みながら前回りをしてみる。体が上がるところまでは我ながらきれいに行ったと思う。しかし、そのまま下りてくるときに、うっかり右手が滑った。左手はなんとか棒を握ったままでいたが、足はそのまま地面に勢いよく打ちつけてしまった。衝撃のあと少し静かになって、足首あたりがじんじんとした。
「ぎゃああああ!」
 園児と一緒に滑り台らへんにいたおばさんが走りよってきた。確か母と仲良かった人だ。着地に失敗したことよりも、むしろその人のすさまじい悲鳴にびっくりした。わけがわからないうちに、悠人は病院へと運ばれた。
 母は骨折を心配したが、打ち身と捻挫で済んだ。しばらくは安静にと医者から言われた。
「もうね、畑本さんがね、絶叫絶叫。悠人が大けがしたかと思ってね」
 母が事の次第を帰宅した父に語っているのを横目に、悠人は絵日記をつけた。内容は決まってる。鉄棒から落ちた瞬間の、畑本のおばさんの顔だ。いい感じの怪獣っぷりに仕上がった。
 絵の出来は良くても悠人の心は晴れ晴れとしなかった。せっかくの花火大会には行けなくなったのだ。どんなに大丈夫だって主張しても、その怪我では無理だとあしらわれてしまった。
 ふてくされた悠人は瓶のふたを開け、最後の飴を口に放り込んだ。着地した土と同じような色をしている。
(やっぱり、こっちを最後のふたつめにすればよかった)
 期待を裏切らず、まずかった。まずくて涙が出た。


 かつてこんなに鬱々とした花火大会当日を迎えたことはなかった。悠人はふてくされてずっと自分の部屋にこもってベッドでごろごろしていた。母が何度か声をかけてきたが無視してやった。怪我さえなければ今ごろ興奮しながら空を見上げていただろうに。
 何をするわけでもなくぼんやりしていると、こんこんと音がした。一瞬花火の音かと思ったが、たとえ聞こえたとしてもこんな音ではない。
 見ると、ベランダへのガラス戸を叩く棒があった。棒の先にはきちんと雑巾を丸めたものが取り付けられ(きちんと顔もかいてある)、ガラスを誤って割らないようにしていた。こういうことをするのは他の誰でもなく、将だった。
「おかえり」
「ただいま。怪我したの? 花火大会だったのに」
 将の顔を見ていたら、不意にたこやきのことを思い出した。
「あ、たこやきごめん」
 将はぽかんとした。どうやら自分が頼んだことをすっかり忘れていたらしい。彼はそういうやつだった。
「別にいいよ。そっち行くから一緒に花火見よう」
 いくら息子を自由に育てる主義である将の親でも、さすがにベランダを乗り越えるような危険な真似は禁止している。将の顔がいったんベランダから引っ込むと一分後にチャイムが鳴った。将はアイスとお菓子の入った箱を持たされていた。
 田舎みやげだという箱は母に任せ、ベランダにふたり並んで座りながらアイスを食べた。座ると花火が見えなくなるが、どちらかというと、いまはアイスの方が大事だった。
「足痛い?」
「そんなに。月曜日にまたお医者さん行く」
 シャクッと音を立てながらバニラの棒アイスをかじる。カップよりも棒タイプの方が固く感じるのは何故だろうか。
「プール行けないかな」
「足痛くても大丈夫な遊びにすればいいじゃん」
 悠人が一口かじるうちに、将は三口も四口もかじる。お腹を壊さないのかな、と悠人は内心不思議に思った。
「そうだ、悠ちゃん、まだ飴ある?」
「ないよ、空っぽ」
 悠人が机の上の瓶を指すと、将は遠慮なく室内に戻ってそれを取ってきた。瓶の底に、何種類もの飴の細かい粒が溶けて一部が固まっていた。
「悠ちゃん見ろよ」
 将は立ち上がって、瓶を目の高さまで持ち上げた。彼は何をやっているのか理解できず、悠人は首をかしげた。それでも将が急かすので、ゆっくりと立ち上がり、手すりにつかまって顔を寄せた。
 ちょうどスタンダードな花火がいくつも上がっていた。爪ほどの大きさである。将はちょうどそれらが打ち上がっているところに重なるようにして瓶を持っていた。
「花火の瓶詰めだ」
 瓶のなかに宇宙がある、と悠人は覗いてまず思った。花火が銀河の写真みたいに見えた。あるいは、現れては消えていく様子が、シュワシュワした炭酸にも。そして、かつてこの瓶を満たしていた飴にも。
 連続で隙間なく花火が上がる。そうすると、色とりどりの光で瓶のなかが一気に賑やかになった。一気にコーラを注げばこんな感じだろう。
「すごい! 将ちゃん天才!」
「花火捕まえられたらいいのにな。閉じ込めたいよね」
 手を伸ばしたが、もちろん花火には届かなかった。瓶を交代で持って覗きこんでいるうちに、リビングのほうの扉から、母が顔を出した。
「ふたりとも、西瓜切ったからおいで」
「はーい」
 ふたり揃ってうきうきと返事をしたが、悠人が足をかばって歩くうちに、将はすぐに行ってしまった。手に残った瓶と間髪なく上がり続ける花火を見比べる。小さい花火をこんなに面白く思えたのは初めてだ。
 悠人は、早く絵日記をかきたくなった。そして、学校に提出するなら今日の分だと心に決めた。




2011/10/16
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