光の殿にて君に初めての口づけを


 風で窓帷がふわりと浮きあがる。それを見た彼女は手巾を高く掲げ、その白い指を緩める。わずかな空気を孕みながらそれは絨毯に落ちた。
「拾ってくれるかしら」
 僕は何も口にせずに言うとおりにし、彼女の前で跪いて恭しく差し出す。
 逆光の彼女は形のよい唇で弧を作った。
「ありがとう」
 褒賞は僕の頬にやわらかな口づけ。それだけで、幸せだった。



 あの殿で彼女の世話をすること。それが僕のすべてで、心はいつも満たされていた。
 たとえば、湯浴みをする彼女の髪に香しい油を塗りながら揉みこむとき。その手触りと艶がとても好きだった。そして、ふと見える彼女の首筋の赤い痣がとても嫌いだった。
 そんな僕の感情を背で察した彼女は声もなく笑った。
「これをね、見せてもいいと思えるのはあなただけよ」
 髪越しに見える顔の輪郭が愛しく、白い肩の曲線が切なかった。外のことはよくわからなかったけれども、彼女はとても重いものを背負っていることは知っていたから。
 燭台のあかりが描く、優美な輪郭を持つ肢体。雫を拭って衣装を纏って、ようやく彼女はこちらを向く。いつもそうだった。
「いつも綺麗にしてくれるわね」
 彼女は果実を食むように僕の頬に唇を寄せた。その美しい仕草は蔦のように僕の心に絡みついていまだに離れない。



 殿は光に満ち溢れていた。玻璃の回廊は真昼をいっそう麗しいものに仕上げた。壁に這わせた花は陽光を受けて咲き誇り、透かし細工の格子は床に影の彫刻を施した。庭園の東西にある水路は暁と黄昏の光を受けると神々しく輝いた。穹窿の間が華々しい満月に彩られる夜は幸福に満ちていた。
 何時如何なる時も光を美しくまとう、まったくの聖域だった。この世の何処よりも彼女にふさわしかった。
 けれども彼女に救いを求める人たちは汚らわしかった。そんな輩を相手にする彼女の帰りを部屋で待つ時間は暗い闇を、役目を終えた彼女を迎える瞬間は眩しい光を、僕の心にもたらした。
 つとめを終えた彼女は毎日、壁の火を落として寝台に入ると静かに僕を招いた。横に侍る僕を細い体で包み、僕のまぶたに口づけをして眠った。
 この人はけして悲しいことは言わなかった。けれども時折僕を抱きしめる力が強くなって。
 そうしたときいつも思っていた。彼女の心を覆う影が僕のもとにやってくればいいのにと。そうしたら彼女はいつまでも輝いていられるから。
 そのためなら僕は永久に闇に閉じ込められても構わなかったというのに。



 彼女は穹窿の間がお気に入りだった。本来は春分と秋分の日に天窓から太陽を望むためのものだったけれども、彼女はよくそこで月を見つめていた。
 冬になるとその部屋はとても寒くなって、そうしたときは毛布にくるまっていた。呼びにいくと彼女はそっと隙間をあけてくれるから、僕は役目をわざと忘れて飛び込んだ。
 星を見ながら神話を語る彼女の温もりと白い息とおだやかな月の光。それが僕の心を満たしてくれて、明るさに満ちた昼間よりもずっと心地よく感じた。
「寒いかしら」
 僕が首を横に振ると、彼女はいつも自分の唇と僕の頬でそれを確かめた。
「冷えてしまったわね」
 それが部屋に戻る合図だ。いつもは嬉しい彼女の口づけも、このときだけはすこし恨めしかった。
 手をつないで彼女の部屋に戻るとき、誰かに見つからないようにと足音をしのばせる。そんなときの彼女の笑顔は、いつもよりもなんだか楽しげで。ずっと見ていると心が温かくなりすぎるから、僕はちらりとしか見ることができなかった。
 今思えば、彼女を慰めるのは太陽でなく月だったのかもしれない。あのときの僕がその考えに至ったら、もっと彼女に安らかな時間を与えられただろうか。



 ずっと二人だけで暮らせたら幸せだと、いつも考えていた。ほかのひとなんていらない。殿の中の人も外の人も、みんな、彼女の心に影を落とすようなことばかりしていたから。
 彼女と光があるかぎり、燦然たる殿は僕の楽園だったのだ。腐った者たちによって奪われてしまったけれども。
 薄明の頃、空の支配権が黒から藍へと移ろったとき、醜い怒号が殿を満たした。
「あなたはここにいてね」
 彼女は布をたくさん僕に重ねて隠した。それ以外何もしなかった。
 何処へ行くのですか、とは尋ねられなかった。きっと彼女も答えなかっただろう。
 殿は土砂に飲みこまれたかのような騒ぎだった。僕は可能なかぎり呼吸を我慢して耳を塞ぎ、かたく目を閉じていた。そしてそのまま意識を失った。
 しばらくして静寂の存在に気がついた。外へ出ると誰もいなかった。乱れた室内をしばし眺めて立ちすくみ、僕は導かれるように回廊へ足を進めた。
 荒れ果てた楽園は破壊と惨殺の痕跡を深く残していた。
 嵐が立ち去った後にも似た静けさだというのに、空の様子は晴れるどころか悪くなっていた。壁を飾っていた花は口を噤み、木の葉も割れた窓も曇天のもとでは何も彩ろうとはしない。僕のほかに動くものなどなく、無の旋律が空間を支配する。
 全てを失った殿を彷徨していると穹窿の間に出た。彼女はそこにいた。引き倒された彫像のようになりはてて。
 豊かな髪を陽光のように散らした彼女の両頬に手をやると、いとも簡単に持ち上がった。悲しいほどに彼女は軽くなってしまった。
 そのとき、すうっと雲の切れ間から光が差し込んだ。まるで魂の道筋を示すように。
 照らされた彼女はやはり美しかった。本当に天の光がそのまま人の形をとったかのような存在だったと思えるほどに。
 僕はたまらず色の失せた頬に唇で触れた。自分からそうするのは初めてだったと、そのときになって気づいた。
 いつも与えられてばかりだった。もう彼女はどこにもいない。



 僕はついに神を見なかった。だから彼女だけが僕の生において唯一つの光。今もなお。
 いつか僕も、共に生きたいと願う相手をほかに見つけるかもしれない。けれども、自ら口づけをすることはもうないだろう。
 それは、あの殿に置いてきたものだから。
 今も彼女はあそこにいる。あの頃の僕の残骸と一緒に眠って。





2015/12/5

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