火炎舞い散る


 火祭りの日が近い。
 村長の息子リディオが深々と溜め息をついた瞬間、彼の視界は赤く染まった。
「憂鬱そうね」
 彼の目を塞いでいた織物をゆっくりと離しながら、少女はリディオの顔を覗きこむ。
「なんだ、アウローラか」
 隣に座った彼女に、彼は気だるい様子で首を振る。
「なんでもない、放っておいてくれよ」
「幼なじみ様がお悩みのご様子とあれば、心配するに決まってるじゃない」
「構わないでくれ。お前だって忙しいんだろう? 火娘の衣装は大丈夫なのかよ」
「さっき合わせてきたわ。あとは裾を少し直すだけだから問題ないわよ。機織りも刺繍も、今日でおしまい。あとは踊りの確認だけね」
 布を畳みながら、アウローラはにやりと笑った。
「さすが次期村長、火娘役のこともちゃんと気にかけてるのね。感心、感心」
 彼女の明るい様子とは対照的に、リディオの表情は陰る一方だった。
 この村では、五年に一度、火の神に感謝を捧ぐ祭りが行われる。村長が炎に囲まれながら祈りを一晩捧げる、火娘と呼ばれる役目を負った少女が舞を納めるなど、三日かけて催される、村最大の行事だ。
 アウローラは、今回、その火娘役に選ばれている。
 本来ならば、村長の近親者かつ未婚の女性が務めるものだ。しかし、現在の村長にはリディオ以外に子はおらず、一族の女性も全員既婚。そうした場合は、村の若い少女から最もふさわしい娘を選ぶのが掟である。そこで、今回はアウローラが務めることになった。
「……お前なら心配ないけど、頼んだぞ。俺からも何か礼するから」
「お任せあれ」
 ぽんと胸を叩き、アウローラはリディオの様子を窺う。
「やっぱり、まだ怖い?」
 リディオは、ほんの少しだけ眉を動かす。
 彼は、火娘役から逃れられたこと……男児に生まれたことを、今年だけは心から感謝していた。
 なぜなら、彼は火が苦手だからだ。
 火娘は、火をつけた旗を両の手に持ちながら舞う。そのダイナミックさと美しさで、村中の少女たちの憧れを集める役どころだ。それに加え、近年は評判を聞きつけた多数の見物客が訪れる。
 しかし、リディオからしたら彼らは狂ってるとしか思えない。
「どうしてそんなに怖いの?」
 アウローラは、赤い布地に黒の糸で刺繍した鳥の図柄を指で撫でながら問う。
「実は、昔、火事に巻き込まれて心に傷が……」
「性質の悪い冗談はやめなさい。私、あなたと十六年つきあいあるけれど、まったく記憶にないわよ」
「……説明できたら、苦労しないよ」
 特に何かきっかけや理由があるわけではない。ただ、なんとなく恐ろしい。
 しかし、昔から火に親しんできたこの村では、見るだけで恐ろしいという感覚はまったく理解されない。だから、彼は誰にも言わないでおいた。ただ一人、アウローラを除いて。
 五年前、リディオの従姉が火娘の舞を披露したとき、二人は並んでそれを見ていた。
 暗闇に浮き上がる焔の光。熱を孕んで揺らぐ旗。火娘が腕をふるうと、燃える音とともに火の粉が宙を舞う。その迫力に恐怖し、リディオはうっかり悲鳴をあげて彼女にしがみついてしまったのだ。
 それ以来、彼女に弱みを握られている――リディオとしてはそう思っていた。
「小さい頃泣いてたのも、火傷しそうになったからではなかったというわけね。でも、リディオ。いずれ、あなたが村長になる日が来たら、どうするか考えているの?」
 アウローラの言葉が追い打ちのように彼の心を突く。
 村にとって火娘以上に重要なのは、村長による祈りの儀式である。
 一晩、眠らず神に祈りの言葉を唱え続けなければいけない。しかも、火に囲まれた上に巨大な篝火の祭壇の前に座って。
 父親や村民はもちろん、自分のことを知っているアウローラにさえ言えないが、リディオはもともと、男に生まれたことを後悔していた。今は遠くから眺めているだけのそれは、いずれ自分の役目になるのだ。
 彼は、待望の跡継ぎとして誕生した。なかなか子ができなかった両親は、ようやくできた一人息子に多大な期待を寄せている。
 だからこそ、火が怖いから村長になりたくないなんて甘えたことは言えなかった。
「僕だって、頑張ったさ」
 家のなかで使う程度の火ならまだ耐えられる。しかし、夜の村を照らす篝火になると、もう駄目だった。あの、周囲の闇を食らうようにぼわっと燃え広がる火影に、なぜか立ちすくんでしまうのだ。
 本来、この村が最も美しくなる時期。村の女性たちが心をこめて織った布は、刺繍を施されて、家々の飾りや村人の衣装になる。村の若者たちが作る鮮やかな色づかいの組紐も、装身具として人々の身体を彩るのに使われる。
 けれども、村が華やかになればなるほど、リディオの心は暗くなっていった。ここしばらく、祭りの準備をしながら毎日のように火に向かってみたが、心に広がる恐怖との戦いに疲れるばかりだった。
「今年は、病気ってことで家に籠ってようかな」
「え?」
 アウローラは頬を膨らませる。
「私、頑張って練習したのよ? リディオにも見てほしいのに」
「火のついた旗をぶん回す女の子なんて、一番怖いよ」
「ひどい!」
 ぽかぽか殴られ、リディオは言葉だけで謝罪する。しかし、アウローラはまだしかめっ面だ。
「そりゃあ、無理強いはできないわよ。五年前、あんなに泣き叫ばれちゃ。リディオの弱いところ知っているのが私だけなら、なおさら」
「……うるさい」
「でも、でもね」
 アウローラはリディオの袖をそっと摘まむ。
「私にとっては、一生に一度の晴れ舞台よ。遠くからでもいいの、リディオにも見てほしいのよ。お礼なんていらないから」
 リディオはそっけない素振りで立ち上がる。
「俺が、火を怖がらなくなったらね」
 そんなの一生無理かもしれないけど。それは声に出さなかった。
「そうよね、ごめんね」
 アウローラは一瞬、表情を曇らせるが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「お父さんの手伝いはちゃんとするのよ?」
「わかってるって」
 返事をしながら、リディオは、自分の火恐怖症を今年はどうごまかそうかをひたすら考えた。


 祭りは、笛の合奏で始まる。
 村の入口から広場まで、楽隊は一列で進む。その後を追うのは、使い役の子供だ。使いが持たされる松明は、五年間に採れた中で最も質のいい火打ち石によって灯される。それで広場や祭壇に点火するのだ。
 リディオはこの時間、父親である村長の儀式の準備に付き合わされて自宅にいるため、それをまともに見たことはない。
 村長は、ところどころに果実と葉の刺繍を施した白の衣装をまとい、腰に組紐を三本巻く。その上に、波模様の織りが入った赤い布を羽織る。リディオはその着付けを黙々と手伝った。
「リディオ、そろそろアウローラの出番だろう」
 終盤に差しかかった旋律に耳を傾けながら、村長は言う。
「いいんだ。前回はミーナ姉ちゃんの踊りで抜け出して、最後まで付き合わなかっただろ。今回はちゃんと手伝うって決めてたんだ」
「あの子、お前に見てもらうの楽しみにしていたぞ」
 どうしてこの村長までそんな話が伝わっている。ルイは顔をしかめる。
「俺ももう十六だよ、父さん。いざというとき代理をしっかりこなせるように、今日は――いでっ!」
 いきなり、後頭部の強い痛みに襲われる。
 振り向くと、ちょうど話に出ていたミーナが、鬼の形相を浮かべていた。室内なのに、背後に火炎が見える。
「今回の方がずっと大事でしょうが! さっさと行きなさい!」
「なんで?」
「アウローラちゃんが悲しむからに決まってるでしょ!」
 アウローラならわかってくれるはずなのに。彼が頬を掻こうとすると、さらに一撃飛んできて、逃げるように彼は家を出た。
 温い空気と溶けあうように、笛のホモフォニーの旋律が流れてくる。広場を見やると、すでにそこには祭壇を取り囲むように火の花が咲き誇っていた。
 一足先に仕事を終えた使い役の子供が、大人たちから労われていた。
「あいつも、もうすぐか」
 あの少女の姿は見当たらないが、楽隊の演奏の境目で火娘は姿を現すことになっている。
 それにしても、狂気の沙汰としか思えない。夜空に手を伸ばすように燃え盛る火を見ながら、リディオは震えた。
 本来ならば見に行きたくない。しかし、ここで彼女の機嫌を損ねたら秘密を暴露されるかもしれない。
 遠くからなら――リディオは、一軒の家の屋根に上る。そこからは、少々距離はあるが広場を一望できる。
 広場に描かれた火炎の円を人々がぐるりと囲んでいるが、その数割は観光客だ。明々と、その勢いを誇るように燃える炎の垣根。ぎりぎりまで近づきながら、彼らは祭壇を見つめ、火娘の登場を待ちわびている。
「物好きなやつら」
 自分が他の村の者だったら、絶対にここになんか来ない。そうひとりごちていると、笛の音が途切れる。
 火の輪の隙間から、人影がひとつ、中心へと躍り出る。
 アウローラだ。
 裾にだけ花の刺繍を入れた白い衣装に身を包み、両の手にはそれぞれ大きな旗を握っている。手首には青い組紐を巻きつけていた。
 彼女は太鼓の音に導かれるように祭壇の前に進み、中央に据えられた一段と大きな炎にその旗を差し出す。
 村の乙女たちがこの日のために大事に織って刺繍をした布に火が移る。それは一瞬のはずなのに、ずいぶんと長い時間がかかったように感じた。
「あ」
 ぞくりとする。リディオは無意識のうちに身を縮めた。
 笛と弦楽器が勢いよく音を出すのを合図に、アウローラは右腕を上げる。旗は眩しい軌跡を描きながら昇った。
 炎は、闇のなか踊る。ゆら、ゆら、ゆら、と。
 旗の布は端からゆっくりと命を削り取られていく。光に撫でられながらはためき、現れては消える影は波のよう。
 かすかに風が吹く。炎の熱をわずかに乗せて、リディオの頬をやさしく撫でた。
 アウローラは掛声をあげながら、身を翻す。一段と火の勢いが強くなった。轟音が断続的に響く。
 重力が消え、また生じる。炎をまとった旗は、命を宿したように美しく泳ぐ。炎に焼かれていく刺繍の儚さを強調するように。
 楽の音に合わせ、アウローラは完璧に振りをこなしていた。その見事さに、客は思わず感嘆の声をあげる。
 長い髪を結いあげて花を一輪飾り、耳飾りと首飾りを鳴らして、彼女は恐れず旗を操った。その表情は不敵で、勇ましささえ感じる。戦に現れる女神が降臨したと錯覚するほどに。
 衣装と相まって、彼女はまるで燃え盛る旗そのものになってしまったかのようだ。
 彼女はなぜ怖くないのだろう。リディオはじっと、幼なじみを見つめる。
 アウローラは勇ましく、どこか神秘的に笑う。いつもの彼女ではないようで、目を離せずにいた。
 その瞬間、彼は火への恐怖を忘れていた。賑やかなはずの楽の音すらも聞こえなくなった。
 ひたすら、炎を操るように躍動する彼女の姿を目で追い続けた。
 赤い光と溶け合うかのごとく、アウローラは炎を操っていた。
 夜の帳を背景にして浮かび上がる。そんな彼女の姿だけが鮮明に見える。
 その姿は、とても美しかった。いつまでも見つめていたいと思うほどに。
 彼の世界には彼女しかいなかった。
 旗は蝶のようにひらひらと舞い、徐々にその命を終わらせていく。アウローラの体など軽く包みこんでしまえるほどの大きさだった旗布はもう、ほとんどその姿を失っている。糸で描かれた花も蔦も鳥も剣も、すべて灰となって夜のどこかへと消えてしまった。
 どれほど長い時間をかけて織り、刺繍を施そうと、火がついて燃え尽きるまではあっという間だ。
 ああ、もう終わりだ。そう思った瞬間、リディオは胸が苦しくなる。
 そして、太鼓のリズムに合わせてアウローラは祭壇の前に進み、恭しくその二本を横たえた。
 拍手も忘れ、リディオは去りゆくアウローラの背をじっと眺めていた。


「ねえ、誰かリディオ見なかった?」
 きょろきょろと自分を探すアウローラの背後に回り、リディオはそっと手に持っていたもので彼女の視界を塞いだ。
「きゃ!」
「これ、今年娘役やってくれたお礼。村長の息子として」
 リディオはそれを外して、アウローラの目の前でひらつかせた。
「あ、それって……」
 その手にあったのは、帯に近い形状の、やや幅広の組紐。リディオはアウローラに似合う色を選んで編んだものを用意していたのだ。
「そう。予告したからには、あげないとな」
 リディオはアウローラの髪を指で梳くと、組紐を絡ませる。編みこむのは少しだけ。残りは凝った結び目にして、さらに適度な長さを余らせて垂らしておくのが伝統だ。
 右手でそれに触れ、アウローラは照れたようにして唇を歪める。
「どうせくれるなら、舞の前がよかったわ」
 きっと、踊るたびに揺れて綺麗だっただろうから。そう彼女が言うと、リディオは首を横に振った。
「火が燃え移ったら危ないだろ。長いんだからさ。さっきだって、結構頭すれすれだったじゃないか」
 冷や冷やしたと呟く彼に、アウローラは表情を輝かせる。
「見てくれたの?」
「……約束破って、弱み言いふらされたくなかったから」
 アウローラはムッとする。
「もう、私はそんなことしないわよ、失礼ね!」
 怒られているというのに、リディオは笑いがこみあげてきて、抑えきれない。
「何、にやにやしているのよ」
「アウローラに、お礼が言いたくて」
「え?」
「さっき、お前の舞を見ていたとき、ちょっとだけ火の恐ろしさがどっか行ったんだ」
 近くの篝火が、アウローラの瞳のなかで揺れる。
 彼女が口を開きかけたとき、笛の音がまた聞こえた。
 見ると、リディオの父である村長が祭壇の前に座り、祈りの儀式を始めようとしていた。
 火の娘の舞だけが目当てだった者たちは引き上げようとするが、この村の者にとって、祭りはここからが本番なのだ。
 村の者が交代で見守るなか、五年間の恵みの感謝と、新たな五年間の幸福を希う。
 二人はしばらく、広場を無言で見つめていた。
 ふと、アウローラが口を開く。
「いつかリディオが、おじさまに代わってあの真ん中に立つ日が来るのね」
 リディオの姿勢が崩れる。
「やめてくれ、せっかく忘れかけてたのに。気が重くなるじゃないか」
「大丈夫よ、私が見守っていてあげる」
 胸を張るようにして言う幼なじみに、リディオは口元を緩めた。
「そんな長い付き合いになったらいいな」
「なるわよ」
 リディオはとっさに、とびっきりの笑顔を向ける幼なじみの手を取る。
「なあ、アウローラ。次の火娘もお前がやってくれないか?」
「へ?」
「あと一回、お前が火娘やってるところ見たら、火が怖くなくなるかもしれない!」
 アウローラは思いきり、リディオの足を踏んでやる。
「嫌よ! 私、嫁き遅れたくないもの」
「そう言わずに。五年後、二十一だろ? マリアーナおばさんなんて、二十五で結婚したしさ」
「二十一で未婚でも、じゅうぶん年増扱いされるじゃない! 誰が責任とってくれるのよ!」
「俺がとる!」
 アウローラは目を瞠る。
 リディオは、その細い両肩に手を置き、彼女を見つめた。
「もしかしたら別の村になるかもしれないけれど、必ずお前の婿を探すから!」
 その瞬間、リディオの頬に熱と衝撃が走った。ミーナの数倍の威力で、炎の塊が飛んできたような感覚だ。
 アウローラは右手をさすりながら、彼を睨みつける。
「もう、リディオなんて知らない! 次回は村長じゃなくあんたが祈りの儀式やるよう、みんなに提案してやる!」
「おい、卑怯だぞ!」
 二人の喧嘩は、火の粉とともに天にのぼる勢いだった。





2014/08/16

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