ヘイリー夫人の一夜旅行


 エリザベス・ヘイリー夫人は今年で六十二歳。刺繍を筆頭に多趣味で友人も多く、年齢よりもずっと若く見えるが、さすがに自分の老いを感じていた。二十三歳のときに三つ上の夫と結婚し、子どもを四人もうけた。その前はエリザベス・パークスという名前で、楽しいことが大好きで快活なお嬢さんだった。
 ある晩、ふとヘイリー夫人は真夜中に目を覚ました。いつもなら朝までぐっすりと眠っているのに。もう年かしら、と彼女は苦笑した。この年齢になると、さすがに目元にも口元にも衰えが出てくる。青い瞳はそのままだが、美しいブラウンの髪は真っ白になってしまった。まだまだ若いと言われても、お世辞に耳を傾けていい気になっていると、あっという間に老けこんでしまうのだ。
 起き上がって隣に目を向けると、ヘイリー氏のベッドは空っぽだった。また遅くまで書斎で読書に耽り、そのまま寝入ってしまったのだろう。様子を見に行くかどうか迷いながら、夫人はカーテンをそっと開けた。まだ満月には至らず、漆黒の空に星が燦々と瞬いていた。穏やかな光もいいが、自分の心まで照らしてくれるような強い輝きも夫人は好きだった。
 そういえば、と夫人は棚の上に置かれたジュエリーボックスを開け、一枚の板を取りだした。頼りない月明かりにあてるとそれはとても美しく、ヘイリー夫人の遠い思い出を呼び起こすのであった。


 ヘイリー夫人がまだミス・パークスだった十一歳の春、彼女は初めての恋をした。静養先の近くにある岬をこっそり散策していたときに出会った、不思議な少年だった。彼はキラキラと輝くガラス板を太陽にかざして遊んでいた。
「何をしているの? それ、楽しい?」
 夏の午後で、陽射しが少し強いなか、ちらっとエリザベス嬢を見下ろしながら彼は笑って言った。
「仲間に合図しているんだ。でも、今日はまだ見えないかもしれないな」
 仲間? そんなガラス板で誰を呼べるというのかしら? エリザベスは日傘と一緒に小首も傾げた。
「あなたの仲間? どこにいるの?」
「空のずっとずっと上さ」
 おもわず彼女は吹き出してしまった。
「あら、鳥がお友達だなんて素敵ね。いったい、どんな鳴き声でおしゃべりするのかしら」
 彼は少しむっとした様子で言い返した。
「鳥じゃないさ。別に、君には関係ないだろ。あっち行ってくれないか」
 変な子。エリザベスも少しいやな気分になった。その日はそのまま怒って帰ってしまったが、夜になるとやっぱり少年のことが気になり、また別の日にもう一度行ってみた。やっぱり彼はいて、空に向かって何かをしていた。チカリチカリと、例の板が美しく瞬いた。
「どう、お仲間は?」
 いきなり声をかけられ、少年はびっくりしてガラス板を落としてしまった。それを拾ったエリザベスは興味深げに眺めたが、彼が慌てていたのですぐに返してやった。
「この間はごめんなさいね。ちょっといやな言いかたをしたわ」
 その言葉を聞いた少年は目を丸くし、警戒の色を露わにした顔が穏やかになった。
「僕もごめん。ちょっと集中したかったから邪険にした。でも、もう大丈夫」
 彼に倣って、エリザベスも空を見上げた。上品な薄青を背景に、鳥が四羽ほど、気持ちよさそうに飛んでいた。
「大丈夫ってことは、無事に伝わったの?」
「まあね。しばらく時間かかるみたいだけど、来るって」
 どこから、と聞こうとして、少年の方に振り向いたエリザベスは、目を真ん丸にした。彼女よりも頭一つ分背が高い彼は少し変わった顔だちをしていて、改めて見れば、服装もどこか異国風だった。いつもなら相手がどんな人間かは格好でだいたいの見当はつくのに、彼女には彼の背景がまったくわからなかった。少年が持っているガラス板はもっと不思議で、近くで見て気づいたのだが、めまぐるしく表面の輝きが変化していた。まるで、風が強いときの夏の空模様のようだった。
「聞いてもいいかしら。それは何? とても綺麗ね」
 少年は一瞬びくりとしたが、エリザベスが溜め息まじりに褒めると、少しはにかんだように自分の手に収まったそれを見ながら微笑んだ。
「これは、僕にとって一番大切なものなんだ。なんて言ったらいいのかな。仲間に合図するためのもの」
「さっき見ていたわ。光の合図ってロマンチックね」
 彼はやや戸惑いながらもエリザベスの話に付き合ってくれた。少年はすこし無口のように思えたが、草花や動物が好きなようで、それについては特に楽しそうにしゃべってみせた。エリザベスは兄とは年が離れているし、同じ年頃の男の子とは縁がないので、ささやかな会話でも新鮮に思えた。
「あなた、どこの人かしら。私は、エリザベス・パークス。すぐそこの館の人間よ」
 少年は、彼女の指した方角にある、丘の上の館をじっと見つめた。そして、少し視線をさまよわせたあと、口を開いた。
「僕はダン。どこの人間かは……秘密」
「何よ、それ。教えてよ」
「だから、秘密なんだって」
 エリザベスは頬を大げさに膨らませ、すぐに笑った。話をしているうちに、ダンはこういう子なのだということがわかってきたのだ。あまり自分自身について語らない彼だったけれども、もうさほど悪い気分はしなかった。
 エリザベスはその次の日も岬にいった。またダンがいた。今度は空を見てはおらず、まっすぐとパークス家の屋敷から歩いてくる彼女を見ていた。エリザベスは小走りでダンのもとへ向かった。
「もしかして、待っててくれたの?」
「うん、今日も来るかもと思って」
 エリザベスはそれを聞いて嬉しくなり、そして、またずっとおしゃべりをしていた。その日のダンはもっと饒舌で、彼女が知らない国や鳥や風景の話をたくさん聞かせてくれた。やはりダンはこのあたりの人間ではないのかも、とぼんやり思いながら、彼女は彼女で自分の知っていることの話をした。とはいっても、刺繍やピアノやダンスといった、とりとめのない話だったが。それでも、ダンはずいぶん興味深そうに耳を傾けてくれた。
 エリザベスとしては、ダンの話のほうが何倍も面白く思えた。自分の知っている世界がとても狭いことを、彼との会話で知ってしまったからだ。逆にダンは彼女みたいな人の暮らしについては知らないようで、興味深そうにエリザベスの目を見つめながら耳を傾けてくれたが、絶対ダンよりも自分のほうが世間知らずだと思った。
 本当は、もっと小さいころ、エリザベスは船乗りになりたかったのだ。おとぎ話を聞いているうちに、七つの海を渡る冒険に憧れを持つようになった。しかし、父も母も兄も姉たちも、誰ひとり賛成してくれなかった。きちんとした貴婦人になるように言いつけられ、そのうち彼女もそんな夢を忘れてしまっていた。ダンと話をしていると、あの頃の好奇心がよみがえってきた。いや、本を読むばかりの過去より、ダンの口から情報を得る方が楽しいくらいだった。もっと話したい、とエリザベス嬢は強く思った。
「ねえ、ダン。実はね、私、明日おうちに帰ってしまうの。次に来るのは、きっと来年になるわ」
 ダンは寂しそうな顔をした。
「あなたはずっとここにいる?」
「わからない」
 目をそらしながらの返事に、エリザベスは落胆した。もしかしたら、会えるのは今日で最後になってしまうかもしれない。そんなのはいやだった。
「あのね、私、毎年この時期にここに来てるの。もしも、来年までダンがここにいるなら、また会えないかしら?」
 ダンは空を見ながら、わずかに首を傾げて答えた。
「もしかしたら、一度ここを離れるかもしれない。でも、ベスがまた来年ここに来るなら、僕も来るよ」
 その言葉がどんなに嬉しかったことか! エリザベスはとびきりの笑顔になった。
 本宅に帰ってからいうもの、彼女は勉強に打ち込むようになった。ダンは、よその国については知っていても、この国の、特に彼女のような女の子の生活ぶりをよく知らなかった。質問されても、エリザベス自身がわからず、言葉に詰まってしまうことがあった。そんな恥ずかしいことは二度としたくなかった。それに、ダンの話をもっと理解したいという思いもあった。
 一年がんばると、彼女はいろんな人から褒められるようになった。教養も立ち振る舞いも成長し、お転婆な末娘の変わりように両親も驚いたが、ダンの存在は秘密だった。もしも言ったら、きっとまた小言を言われるに決まっていた。
 待ちに待った静養の初日、エリザベスは到着するなり荷物を使用人に任せて、すぐに屋敷を飛び出した。行先はもちろん、あの岬だった。しかし、残念なことにダンの姿はなかった。そもそも、約束は確かなものではなかった。具体的に何月何日か告げたわけではないし、彼だってこの地を離れるかもしれないと言っていた。
 日が水平線に沈むまで待っていたが、とうとうダンは現れなかった。夕食の時間になって戻ると、お目付役がかんかんに怒っていた。せっかく真面目になったと思ったらとんでもないなどと小言をもらっても、エリザベスの耳には届かなかった。ダンのことで頭がいっぱいだった。
 その翌日も、そのまた翌日も、ダンは現れなかった。友人たちがかわるがわる遊びの誘いを持ってきたが、エリザベスはすぐに断ってしまった。すると、長姉が社交とは何かを説きにきた。やっぱりエリザベスは聞こうとしなかった。
「毎日何をやっているの」
「人を待っているのよ」
「お友達? どこのお家の人?」
 エリザベスの家族にとって、人付き合いで最も大事なのは家柄だった。でも、家柄を連呼する人間ほど血筋くらいしか取り柄がなくて、エリザベスには退屈だった。そういう人たちは、紳士淑女の工場がどこかにあるとしか思えないくらい、大量生産物のようにみんな同じことばかりしているのだ。
「知らないわ」
「言えないような家の人? 名乗らなかったの?」
「名乗らなかったわ。でも、楽しい人よ。それで十分よ。どこの家かはどうでもいいもの」
 姉は妹の言うことが本当に理解できず、お互い相手を可哀想な人間だと思い合った。
 その翌日も、エリザベスは岬にいた。日傘をくるくると回しながら、漣を見つめていた。今年も彼とこうして海を見つめながらたくさんの話がしたかったのに。溜め息をついた瞬間、後ろから声をかけられた。
「ベス」
 びっくりしながら振り向くと、待ち焦がれたその声の主が笑っていた。
「やあ、また会えたね」
「もう、とても待ったわ! すごくあなたのこと待ったの。あと一日早く会えたら、お姉さまと下らない喧嘩もしなかった」
 ダンは首を傾げた。その前日に、彼女が姉と言い争ったことなど知る由もない。エリザベスもそれはわかっていて、何でもないと付け加えた。
 ダンに会ったら話したいことがたくさんあった。けれども、いざ再会できたら、何から話せばわからなくなってしまった。それでも、エリザベスにとってはとても幸せな時間だった。彼女以上にダンは更に面白い話をたくさん仕入れていた。この一年で砂漠にも雪山にも行ったらしい。彼が普段はどういうことをしている人なのか気になったが、ダンとお喋りさえできるのなら、改めて尋ねなくても構わないと思った。
 いきなりダンは草むらに寝転んだ。エリザベスは一瞬迷ったが、彼の前では変に淑女を気取る必要はないと思ったので、同じようにしてみた。乾いた葉が手や頬を撫で、風が吹くたびに緑の香りが広がった。
「色々見てきたんだけどね、ここに来ると落ちつくな」
「どうして?」
「世界の端っこだからさ」
 エリザベスは上半身だけ起き上がらせて、母国の名誉のために一応反論した。
「あのね、ダン。うちの国は今、世界でも指折りの強国だし、これからももっともっと発展するわ。うちの国が世界の基準となっているものも多いのよ。さすがに端っこではないわよ」
「あれ? そうなの?」
 ダンは面食らったような顔をしていて、世界のことを色々知っている少年の反応とは思えないほどだった。
「おかしいな。僕が見た地図だと、端っこだったんだけどな」
「どこでそんなの見たの?」
「大陸の向こう側」
 エリザベスは、地図というと自国が真ん中のものしか知らなかったので、それ以外のものが存在していることに驚いた。よく考えれば、他の国は他の国でそれぞれを中心に置いた地図を持っていても不思議ではないと、思い直した。
「ごめんごめん。でも、ここは好きなんだ。ここから各地を巡る旅に出たからね」
 不意に、姉との会話が思い浮かんだ。彼はこの近辺の人間なのだろうか。疑問は寸でのところで口から出ることはなかった。彼がどこの人間だって構わない。それは本心だったから、あえて尋ねないことにした。
 少し沈黙が続いた。どこかで鳥の鳴き声が波音を消そうとするかのごとく響いた。寝転んだままのダンはふと呟いた。
「ああ、青がとても綺麗だ」
「青?」
 ダンは横と上を順に指した。
「海と空。こうして寝転んでいるとさ、視界が空の青一色になるだろ? 僕はね、ここに来るまで、青がこんなに綺麗な色だと知らなかった。緑も好きだけど、やっぱりここは青が一番だ」
「ここに来るまでは何色が好きだったの?」
「うーん、黒とか白かな」
「少し上の人の好みね」
 エリザベスはもう一度寝転び、ダンのように空を見上げた。ちょうど雲はなく、視界にあるのは青色だけだった。空はこんなに美しい色をしていることを、彼女はこれまでにきちんと認識したことがなかった。本宅のある土地は曇りと雨が多く、陰鬱な場所だからかもしれない。
「ベスは何色が好き?」
「そうね、赤とかピンクとかオレンジとか」
 エリザベスのそれまでのお気に入りは、暖色のドレスばかりだった。その日も、淡いピンクを身にまとっていた。明るい色を目にすると心が弾むような気がしていた。
「でも、こうして見ると、青もいいわね」
「うん、本当に素敵だ」
 ダンは少しだけ身を起こして、エリザベスに笑いかけた。その素直な笑顔につられて、エリザベスも無意識に同じ表情になった。
「今日はベスに会えてよかった。本当に幸運だったよ」
 ダンはそのまま立ち上がった。
「偶然じゃないわ。私、ずっと待っていたのよ」
 たった一つの約束を頼りに、彼女はこの岬に佇んでいたのだ。エリザベスも慌てて立ち上がって埃を払う。
「ありがとう。でも、やっぱりきちんと時間を決めて落ち合うのは難しいようだ。君をいつまでも待たせていたかも」
「いいの。ダンに会えるのだったら、私ずっとずっとここにいるわ」
「それじゃ駄目だよ」
 ダンは苦笑しながら首を横に振った。
「駄目なんだ。ずっといても、会えないままかもしれない。それでは、君にとって本当に必要な時間が無駄に過ぎていくよ。次はこうしよう。君は気が向いたときにここに来る。僕も来られるときにここに来る。もしも運がよければまた出会おう。どうだろう?」
「……もしかして、もう行っちゃうの?」
 言葉もなくダンは頷いた。せっかく会えたのに、明日も明後日ももっといろんな話がしたいのに、とエリザベスは落胆した。
「寂しいわ」
「今度会えたら、もっと面白い話をたくさんしよう。君も、また楽しい話を聞かせて」
 そう言いながらダンは彼女の両頬を軽く叩いた。エリザベスは自分がかぶっていた帽子を取って、ダンの頭に勢いよくかぶせて目隠しをした。そして、少し踵を浮かせてその花飾りにキスをした。つばをつまんで持ち上げるたらダンは目をきょとんとさせていた。それがとても可笑しくて、エリザベスはまたいつか彼に会いたいと願った。
 それから一年後、エリザベスはまた静養に出かけた。今度は社交もきちんと行うことにした。それでも、いつも考えているのはダンのことだった。彼のことは、ごくごく親しい友人たちにだけ話していた。彼らは、大量生産ではなくきちんと自分というものを持っていて、信用できる人たちだった。正体の知れない少年に恋をしたエリザベスのことを笑いはしなかったが、心配はしてくれた。
 その年は結局ダンには会えなかった。本当は毎日あの岬に行きたいと思った。彼女の気はいつだって、彼の愛する景色に向いていた。しかし、ダンの言うとおり、ずっと待っているのは不毛だと思うことにした。幸い、エリザベスには遊びの誘いが尽きなかったので、それで気を紛らわせていた。こうしている間に、もしかしたらあの場所にダンが来ていて、自分を待っているかもしれない。そんな予感が何度も頭をよぎったが、会えなかったらそれはそれで仕方ないと思うことにした。
 更に一年が過ぎて、エリザベスは十四歳になった。周りの女の子は、どこの誰が素敵だとか話すのに夢中になっていた。彼女は相変わらずダンが好きだったが、彼を知る人は誰もいない。周囲に語っても仕方なく、あまり話さずに過ごすしかなかった。
 恋をしようとするのは男性も一緒だった。可愛らしい友人カップルが生まれることもあったし、エリザベスが誰かに思いを寄せられることもあった。しかし、彼女にとってダン以上に一緒にいて面白い人はいなかったので、相手の気持ちを受け取ることはなかった。
「ミス・パークス!」
 ある日、エリザベスがまたあの岬に佇んでいたとき、彼女を呼ぶ声があった。そこにいたのは、姉の夫の後輩だという男だった。エリザベスは軽く挨拶をする。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。館の方に行ったら、多分こちらだろうと教わったので」
 正直、ここに来るときは誰にも邪魔されなくなかった。ダンに出会えなくても、ここで僅かな思い出に浸っていたいのに。
「ええ。私、この岬が好きなので」
「なんでも思い出があるとか」
 数人には話していたので完全な秘密ではないとはいえ、改めて他人から首をつっこまれるのはなんだか嫌な気分だった。
「まだ彼のことが好きなんですか? どこの誰だかもわからないのに?」
「どこの人かは知りませんが、彼は私の知らない話をたくさんしてくれるわ。それだけで十分」
 男はエリザベスの隣に座った。そもそも、彼は礼儀正しく見えて自分勝手なところがあるので元々あんまり嬉しくなかったが、姉の顔をつぶすことを考えると我慢しかなかった。
「それなら、僕も何かお話しましょうか」
「何を語って下さるの?」
 彼は狩りの話を始めた。話題自体は嫌いではなかったが、いつどこで何をどれだけ狩れたか、そんな自分の腕前がどれだけ優れているのかの自慢に移行してきた。彼のこういうところが鼻につくのだった。
「……退屈ですか?」
「狩り自体の話を聞くのは好きです。でも、今の私には相性が悪いみたい」
 彼は代わる代わる話を変えたが、全て退屈だった。ダンを抜きにしても、エリザベスが普段大事にしている友人たちの半分も面白く感じない。相手に伝えようとしているのではなくて、単に自分が喋りたいだけであった。そういう人間の話ほど退屈なものはない。
 結局、彼は喋りたいだけ喋り尽くして、それでもエリザベスの反応が芳しくないことにようやく気付き、慇懃無礼な挨拶だけ残して去って行った。気を悪くしたものの、行ってくれてほっとした。何だか気が抜けてしまった状態で地面を見つめていると、エリザベスの横にまっすぐ伸びる影があった。まさかあの男が戻ってきたのかと思って顔を上げると、さっきの男とエリザベスを交互に目をやっているダンがいた。
「ダン!」
「あれ、お友達? もしかしたら僕、邪魔だったかな?」
「もう!」
 エリザベスは立ち上がって前々年のように帽子を彼にかぶせ、その頂に自分の額をぶつけてやった。
「あなたって間が悪いわ」
 ダンはよく状況をわかっていなかった。でも、それでよかったかもしれない。
 いつものように岬に二人並んで腰を下ろした。ダンは東の方を重点的に回ったと言っていた。エリザベスの知らない踊りや素晴らしい衣装や美しい花について詳細に語ってくれた。エリザベスが想像しやすいように、丁寧に。実際にその土地を知らなくても、容易にその光景が思い浮かんだ。やっぱりダンの話が一番落ちついた。
 一通りダンが喋り終わると、今度はエリザベスの番だった。現在自分の国で何が人々の関心を引いているのか、周辺諸国では何が起きているか、自分たちの周りで流行しているものは何か。先ほどの男とダンの話を比較して、自分もダンにはわかりやすく伝えようと思った。ダンの理解力がよかっただけかもしれないが、彼はきちんとエリザベスの伝えたことをわかってくれて、的確な質問も寄こした。
 語らいはあっという間に時間を奪い、太陽が海の向こうへと沈もうとする頃になった。美しい夕焼けだったが、ダンはやっぱり青い空と海が好きだという。
「ねえ、ベス」
 ふとダンが口を開いた。
「またしばらくここには来られなくなりそうなんだ」
「しばらく?」
 せっかく会えたのに。話し足りないのに。
「いつ? 一年後? 三年後? もっと後?」
 ダンは戸惑った表情を浮かべた。ここで困らせても仕方がなかったが、エリザベスは言わずにはいられなかった。
「ねえ、ダン。私も連れて行ってくれないかしら。ずっとあなたと一緒にいたいわ。偶然会える日を待ちたくない。いつもあなたのそばにいたい」
「それはね、無理なんだよ」
「何故?」
 ダンはどう言ったらわからない様子でいた。さっきまではあんなに色々話を上手に聞かせてくれていたのに。
「君を今連れて行けはしない。今でなくても、ずっと一緒には連れて行けない。そういうことになっているんだ」
 彼の顔が点滅するように滲んでいく。涙が拭う暇もなく溢れた。
「でも、私、あなたのことが好きなの」
 そんな言葉を誰かに告げたのは初めてだった。ドキドキするとかいうことはなかった。とにかく頭が考えることの一切を拒否していた。
「ありがとう」
 ダンはエリザベスの目をまじまじと見て微笑んだ。
「僕も、ベスは特別に思っている。でも、一緒に行けないんだ。ごめん」
 ダンはエリザベスの手を取って、硬いものを握らせた。それは、いつぞやのガラス板だった。
「いつか時期が来たら、そのときはとっておきの青をプレゼントするよ。僕だけが君に贈れる、とても素敵な色。それだけは約束できる。約束を果たすまでこれを持っていて。迎えに行くよ。だから、合図を送って」
 エリザベスはただ頷くしかなかった。ぎゅっと握った手のなかにある板の感触を確かめていた。


 そして、五十年近く経っても、ヘイリー夫人はこの板を大切に取っておいた。結局、それからダンとは会っていない。長い時の間にヘイリー夫人は結婚し、子どもを産み育て、年を重ねた。きっと今、彼に会っても自分だとわかってもらえないだろう。
 窓を開けると、夜風が気持ちよく室内に入った。板をこうして光にかざすのは久しぶりだった。
「まさか、ね」
 今まで何度も陽光に当ててみたが、彼が来ることはなかった。ましてや月や星の光で合図は送れないだろう。馬鹿馬鹿しかったが、久しぶりに少女時代の自分を思い出して、心地いい気分だった。
 夜風は冷たいのでそろそろ窓を閉めようと手をかけたとき、気配を感じてヘイリー夫人はふと顔を上げた。ダンがいた。あの頃と変わらぬ姿で、不思議なものに乗っていた。
「ずいぶん待たせたね、ベス」
 これは夢なのだろうか。ヘイリー夫人は何度も瞬きを繰り返した。初恋の少年が宙に浮いているなんて。
「私がわかるの、ダン?」
「もちろん」
 あの頃のように、ダンは彼女の瞳を優しく見つめてくれた。間違いなくダンだった。呆けた状態から意識を現実に戻したヘイリー夫人は小声で怒鳴った。
「あなたって相変わらず間が悪いこと。一番上の娘はまだ赤ちゃんがお腹のなかだし、一番下の娘はこの間嫁いでしまったばかりよ。それにこんなに真夜中だし。誰も紹介できないじゃない」
 一気にまくしたてた彼女に、ダンは嬉しそうな顔をした。
「隣の部屋で寝ているのは?」
「ああ、それは夫。昔はとても格好良かったのに、最近になって急に太ってしまったの。もう、せめてあと十年早く来てくれたら自慢できたのに。本当に素敵だったのよ!」
 ヘイリー夫人がおどけて少しむくれると、ダンは顔をくしゃくしゃにした。
「それは残念」
 ダンは窓の正面まで下りてくると、乗り物の扉を開けた。オープンカーに似ている。
「乗ってよ。約束を果たしに来たんだ」
「ちょっと、ちょっと待ってくれる?」
 ヘイリー夫人はガウンを着こみ、大切なものだけポケットに入れて乗り込んだ。ダンは、普通の車を運転するように動かした。スピードを上げる直前、隣の書斎の窓に夫が眠りこけている姿が見えた。
「行ってくるわね、あなた」
 見送りはなく、ヘイリー夫人は出発した。夜の世界は静かで美しかった。
「驚いたでしょ、こんなにお婆ちゃんになってしまったのよ」
「むしろ君が驚いたんじゃないかい? だって、僕はあの頃とそんなに変わらないだろうから」
 ヘイリー夫人は黙って、首だけで否定をした。彼女はダンの変化がないことを感じ取っていた。最初に会ったときは彼の方がずっと背が高かったのに、最後に会ったときは同じくらいになっていたから。
「たったそれだけなんだけどね」
「そうか」
 ダンは車を走らせる。速度は出ていても揺れはせず、快適な乗り心地だった。いつの間にか二人は街よりはるか上空、雲より上に来ていた。
「綺麗ね」
「まだまだ。これからさ」
 車はどんどん上へ向かっていく。もう夜の山も平地も区別がつかなくなっていた。ダンがボタンを押すと、透明な幌が開いて覆った。
「ねえ、ダン。今ならあなたがどこの人か答えてもらえるの?」
「うん。僕は、この星の人間じゃないんだ」
 こんな突飛な事実、他の誰かに言われたなら絶対に信じないが、ダンの言うことなら素直に信じられた。
「様々な星に行って、現地調査をする仕事をしているんだ。ここもその一環で来た」
「私に会ったのは偶然?」
「まったくの偶然」
 二人そろって苦笑する。
「でも、ベスの話は参考になったよ。ありがたかった」
「それはどうも」
 外の景色はどんどん不思議なものになっていく。
「ベス、僕がいいと言うまで後ろを振り向いちゃ駄目だよ」
 そう言われると振り向きたくなるものだが、我慢した。ここはもう自分の住む世界ではないのでおとなしく彼に従うことにする。
「じゃあ、あなたは余所の人なのね」
「うん。まったく別の星の人。まだ君の星と正式に交流を結ぶのは難しいかな。君たちの時間感覚だと、あと二百年はかかるね」
「そう、遠いわね」
「僕にとってはあっという間かもしれないけれどね」
 運転中のダンは、昔よりももっと多様な話をしてくれた。人間の代わりに植物が支配している星、機械が発達しすぎていて堕落した星、灼熱で誰も住めない星、逆に寒すぎてやっぱり誰も住めない星。ヘイリー夫人はそれに比べたらほんの些細な自分の昔話しかできなかった。
「結婚したのはいつ?」
「二十三歳のときよ。求婚してきたなかで一番変な人と結婚したの」


 ダンと別れたエリザベスは、毎年静養に行ったらあの岬を頻繁に訪れていた。いつの間にか変わり者扱いをされていたが、理解者もいたから構わなかった。結婚話が何度か持ち上がったが、そのたびにうまくいかずに頓挫した。やっぱりダンが一番好きだったから。
 それでも物好きはいて、熱心に求婚してくる男性も数人あった。そういうとき、彼女は必ずとある条件を出した。
「世界で一番美しい青を見せてくれた人に嫁ぎます」
 宝石、花、絹織物など、確かに綺麗なものを各々用意してくれたが、エリザベスは満足しなかった。ダンならけしてそんなありきたりなものを持ってこないだろうし、彼女が一番愛した青は、彼と一緒に見た空と海だったから。
 そういったことを繰り返しているうちに、とうとう求婚者はいなくなった。親兄弟は頭を抱えていたが、彼女自身はすっきりした気分だった。周囲の友人が一人また一人と結婚しても、別に気にしなかった。
 そうして二十歳になったエリザベスは、とある夜会にて、留学から帰ってきたばかりだというウォルター・ヘイリーに出会った。彼は最初、変わり者のミス・パークスというあだ名が気に入ったらしく、からかうような声のかけかたをしてきた。そんなこと言う人には慣れているのでエリザベスは適当にあしらっていた。
 エリザベスの結婚の条件を友人から聞いたヘイリー氏は、朗らかに問いかけてきた。
「世界一の青を見つけたら結婚してくれるのかい?」
 エリザベスは、どうせ彼も自分が満足するものを持ってこられないだろう、と思っていた。事実、彼の持ってくるものは他の人と何ら変わり映えのしないものばかりだった。しかし、彼が今までの求婚者と違うのは、青探しを飽きずに続けたことだ。会うたびにヘイリー氏が青いものを持ってきてはエリザベスがそっけなく断る。一年ほど続けているうちに、それが様式美になっていた。
 毎年恒例の静養にさえ、彼は青いものを持ってやってきた。思い出の岬まで、ずかずかとずうずうしく。確か、異国の珍しい髪飾りだった。もちろん、エリザベスは満足しなかった。違うとだけ言い捨てて、彼を無視してエリザベスは仰向けになった。余計な雑音は要らなかった。
「聞いたよ、初恋の男の子が忘れられないんだってね」
「だったら、何? 放っておいてほしいわ」
 ヘイリー氏も横に寝っ転がってきた。癪に障ったので逆方向にずれると、その分距離を詰めて来た。
「ここにいれば会えるの?」
「それがわかったら苦労しないわ」
 ヘイリー氏が息を押し殺すように笑う。実に癪に障る笑いかただった。
「その年でまだ引きずっているのって、君も結構な人だね」
「そうなの。だから放っておいてほしいの。もうお戻りになって」
 それでもヘイリー氏はその場を離れなかった。エリザベスが黙って空だけを目に映すのを真似ていた。
「彼が現れたら、負かす自信があるんだけどな」
「絶対敵わないわ。彼が一番素敵だもの」
「そして、彼と見たこの空が一番綺麗な青ってわけか」
 思わずエリザベスが起き上がってヘイリー氏の顔を見ると、彼はにやりとした。
「図星だったか」
「悪い?」
「いや。確かにここはいい景色だ」
 ヘイリー氏は遠くの波音に耳を傾けた。
「君にとっての一番の青はわかった。これ以上のものは用意できないだろう」
「そうよ、だから」
「だから、これからは僕と一緒にこの景色を楽しまないか? 君にとっての一番の青を、二人で見よう」
 エリザベスは無視した。それをまた更に無視して、ヘイリー氏は続ける。
「一番の座は彼に譲ろう。二番目を僕にしてくれ」
「あなたと一緒に見たら、この空も海もくすんでしまうわ」
「二番目は二番目なりに綺麗な青を見せられると思うよ」
 知らない、とエリザベスはその場を去ってしまった。しかし、この日を境に、少しだけヘイリー氏への態度を軟化させた。そして、その翌年も翌々年も、ヘイリー氏は岬に押しかけてきて、いつの間にか彼と見る岬の景色を美しく感じるようになった頃、彼女は求婚を受け入れた。


「いい旦那さんじゃないか」
「あなたに言われると複雑だけれどね」
 昔話が終わった頃には、周囲は暗くて、ごつごつした石がたくさん浮かんでいる場所に出た。ダン曰く、これも星なのだという。空に光っている星しか知らないヘイリー夫人には驚きだった。 年をとればとるほど上品に落ち着いてきたはずなのに、いまのヘイリー夫人は実に高揚感に満ちていた。まるで、若返ったようだ。しかし、視線をやった先にある手はきちんと年相応のものだったし、ちらりちらりと視界の端で揺れる髪は、ダンのよく知る美しい茶髪ではなくて銀色だった。
 車のまっすぐ先に、不思議な塔がそびえ立っていた。チカチカと光が点滅すると、ダンも車のライトを点滅させた。速度は更に上がる。塔の根元の部分が、怪物の口のように開き、二人を乗せる車を吸い込んだ。落ちついたところで、ダンは車を停めた。
「さあ、こっちだよ」
 ダンはうきうきとヘイリー夫人の手を引く。けれども夫人はもう若くないので、彼と同じくらい走ることが出来ない。なんだかふわふわとして足がおぼつかない。ダンはもどかしい様子で、彼女を抱えるように連れて行く。奇妙な壁と床で囲われた廊下を進むと、人の形をしていない不思議な生物が立っていた。
「やあ、ダン。今日は一人じゃないんだな」
「大切なお客だよ、丁重に歓迎して」
 ダンはその生物と親しげに話していた。生物は夫人に向かって目を細めると、そのまま通してくれた。
「今のは?」
「ここの職員だよ。見た目は僕らと違うが、いいやつなんだ」
 ダンは慣れた手つきで、壁のボタンを操作する。すると、二人の足元の床が繰り抜かれ、そのまま上へと押し上げられた。悲鳴をあげる暇もなく、ヘイリー夫人はガラス張りの開けた場所へと運ばれた。
「ここがこの辺り一帯の展望台だよ」
 ダンがガラスに近寄る。そして、あれが太陽だとか火星だとか解説を始める。あまり天文に詳しくなかったヘイリー夫人は、混乱したままうんうんと頷くしかできなかった。
「それから、あれが地球。君の星だ」
「これが?」
 ダンの指した先には、暗黒にぼうっと浮かび上がる球があった。これほどまでに心ひかれる青を、ヘイリー夫人は見たことがなかった。青い丸のなかを渦巻く白は雲、その間に微かに覗いているのは大地だという。
「あの青いのはね、全部海なんだ。他の惑星と比べてごらん」
 ダンに誘導されて見た他の惑星は、赤っぽかったりごつごつしていたりで、地球とは明らかに違っていた。他の惑星に海はないのだという。
「個人的には海王星も綺麗だと思うけど、やっぱり地球は別格だよ」
 そう言われてもう一度見る地球は本当に美しかった。奇跡をみているようだった。
「あの青の一部が、僕らがよく話していた岬から見えていた海なんだよ」
 夫人はさっきよりもずっと激しく首を横に振った。自分が知る海よりもずっと綺麗に見える。
「これが見せたかったんだ。宇宙に浮かびあがる青い星。ベスの目と同じ青だ」
 ダンはヘイリー夫人の瞳を覗き込んだ。昔から彼はよく彼女の目を見ていたのは、そういうわけだったのか。彼女はクスリと笑った。
「今の言葉、五十年前に言われたらとても胸がときめいたわ」
「今は?」
「夫の『愛している』がいちばん。聞き飽きたけどね」
 ダンは口元に手を当てながら吹き出した。展望台に、二人の笑い声がひそやかに響いた。
 ヘイリー夫人はしばらく地球を眺めていた。ダン曰く、最初は宇宙から見える姿に感動し、実際に大地に降り立って空と海を間近にしたときに、もっと感動したらしい。
「頭上も目の前も青に満ちていて、なんて美しい星なんだって思ったんだ」
「他の星には海がないの?」
 ダンは顎に手を当てた。
「星によってはないこともないけど、こんなに綺麗に存在した例はないね」
「なんだか嬉しいわ」
「そうだよ、誇りに思うべきだ」
 ダンは熱の入った様子で、地球の美しさを語ってくれた。夫人にこの展望台を見せるまでずっと我慢していたらしい。
「あれからずっと忙しくて、やっと休暇がとれたんだけどね、もう楽しみで楽しみで仕方なかった。地球の時間感覚を忘れてたから会えるかどうか心配だったよ」
「ぎりぎりね。あともう何年か遅かったら危なかったわ。お仕事は大変?」
 ダンは不可思議な文字で埋め尽くされた紙を取り出した。
「いまは他の星にかかりきり。次に地球に行けるのは、君で言うところの百年先かな」
「では、もう会えないのね。きっと私、死んでいるもの」
 それまでずっと楽しげだったダンが急に悲しそうな表情になってしまった。ヘイリー夫人は彼の両頬をやさしく叩いた。
「あなたに会えてよかった。とても幸せな人生だったわ」
「僕も、君に会えてよかった」
 ヘイリー夫人はポケットからある物を出して、ダンに差し出した。青い刺繍入りのハンカチだった。
「この景色に比べたらたいしたことないけど、受け取ってちょうだい」
「ありがとう。大事にするよ」
「そうしてもらわないと困るわ。渡そうにも古くなっての繰り返しで、五十年で何枚作ったか。おかげで刺繍が上達したのよ」
 ダンは糸を愛おしそうに指でなぞった。それを見るだけで、ヘイリー夫人は幸せだった。
 展望台からの帰りは、行きよりもずっと静かだった。もう会うことがないとわかりきっている。何を話そうか考えているうちに、やはり他愛もない話になってしまったのであった。
 ヘイリー邸に着き、夫人は寝室の窓を開けて中に入った。逆光になったダンの首筋を、月が僅かに照らしていた。
「さようなら、ベス」
「さようなら、ダン。あなたに幸運を」
 ダンはハンカチをひらつかせ、車を発進させた。曙の空に登っていくたった一つの影を、ヘイリー夫人は感慨深く見上げていた。あれだけ恋しかった彼との別れは、もう悲しくなかった。
 急に夫が気になり隣の書斎を覗くと、ヘイリー氏は出かけたときと同じように机に突っ伏していた。ううん、と唸りながら眉間にしわを寄せていた。それを見てひそやかに笑ったヘイリー夫人はわざと起こさず、ヘイリー氏の肩にブランケットを掛けてやると、自分もベッドに戻ってわずかな眠りを味わった。
 その翌日、ヘイリー氏はとても不機嫌な様子で朝食の席についた。
「あら、ウォーリー、どうしたの。目覚めが悪かった?」
「ああ、最悪だよ。君が、若い男と夜に家出をする夢を見たんだ。僕は、夢のなかでも寝ぼけていて、そのまま了承してしまったんだよ。ちゃんと起きていたら、絶対行かせなかったのに」
「あらあら」
 ヘイリー夫人は苦笑し、自分のブラック・プディングをヘイリー氏に差し出した。好物が二人前になったことで、彼は少しだけ機嫌を直し、窓越しに天気のよい空をにこやかに見上げた。そのずっと先、星のきらめく宇宙に昨夜行ったことは、ヘイリー夫人とダンだけの秘密だった。





2011/09/01
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