見知らぬ子


 故郷には、かれこれ約十年ほど帰っていなかった。別に田舎なのがいやなわけでなく、面倒くさいわけでもなく、単に行く気が起きないからだ。帰ろうと思えばいつでも帰れるような距離でも、戻ろうとは思えないのだった。
 けれども、私は久しぶりに実家に戻ることになった。新幹線のなか、懐かしいどころか記憶にすら残っていない道中の景色を見ているうちに、つい眠りこけて昔の夢を見た。
 小学校のとき、私は、行方不明になった同級生の最後の目撃者となった。田舎の学校で生徒数も少なかったので、会えば話すくらいの関係だったけれども、特に親しくはなかった。その程度の仲だったのに、どうしてあの日、私は佳純に会ってしまったのだろう。
 小学校三年生の夏休みのはじめ、私は友人の家に遊びに行く途中で、近所の神社を通りかかった。山林に沿うような立地で、となりに小さな公園が設けられていた。
 静かで、たまたま人気がないところに、ぽつりと佳純の姿が見えた。
 佳純の家は、私の家や神社がある場所から離れていて、小学校を中心に真逆に位置していた。彼女の親しかった友人も、だいたい小学校の向こう側だったので、不思議に思ってつい自転車を止めて声をかけた。
 声をかけながら近づいて、地面にしゃがみこんでいた佳純のとなりに、もう一人いることに気づいた。こちらは見覚えのない子だった。小学校はひとつしかないし、同じくらいの年頃の子だったらほとんど把握しているような土地柄だったせいか、私はその時点で少し胸に不安がうずまくような感覚があった。
「佳純ちゃん、その子だれ?」
 ふたりは顔を見合わせてくすくす笑った。見知らぬ子は白い顔でにこにこ笑っていたけれども答えてくれず、佳純も首をかしげるに留まった。
 彼女たちは木の棒でよくわからない絵を描いていて、私のことはどうでもいい態度だった。
 ぐるぐるとした模様を佳純が地面に刻むのを何気なく見ていると、視線を感じた。顔を上げると、見知らぬ子と目が合った。目を細めて、私のことをじっと黙って見ていたのだ。それは、面がはりついたような異様な笑顔だった。
 その瞬間、入口にとめていた私の自転車が何かの拍子に倒れ、思いのほかびくついてしまった。
 そこで、私は目を覚ました。いきなり身体が跳ねあがったことで、隣席の人間をひどく驚かせてしまった。
 眠気はもうない。目が完全に冴えてしまった。けれども、ペットボトルの水を飲み、流れていく街並みを眺めていても、私の頭は夢の世界から抜け出せなかった。
 あのあと、友人との約束を思い出したのと、なんとなくその子に嫌悪感を抱いたこともあり、私は適当に何かを言って、その場を後にしたのだ。佳純の反応は覚えていない。
 私は夕方まで友人たちと遊んで帰宅した。夕飯を食べて涼んでいると、電話が鳴った。母が血相を変えて私を呼んだ。
「阿紗子。今日、佳純ちゃんも一緒だった?」
 私は首を横に振った。すると、午後から佳純の行方がわからなくなっていると教えられた。私はびっくりして、神社での出来事を告げた。
 母は電話で相手にそのことを知らせ、私を連れて佳純の家に行った。担任や警官がいるなかで、私は説明を求められた。とはいえ、私が知っているのは、昼過ぎにどこかの子と神社にいたことくらいで、後は知らない。
「本当? 他は? 何かわからない?」
 佳純の母はヒステリックになりながら詰め寄ってきたが、私は本当に何もわからず、ただ首を横に振るだけだった。
 その子の特徴を聞かれても、覚えているのは顔だけで、なぜかどういう服装だったのかとかまったく記憶になかった。帰ってくるときも、神社に注意を向けなかったので、その時点でまだ二人がいたかもわからなかった。
 小さな町だから、誰がどこの子かは大人も子どももたいてい知っているし、余所からの子が町内にいたら目立つはずだ。しかし、その日、私以外にその子を見たという人間はひとりもいなかった。私の目撃情報が不確かなこともあり、かなり範囲を広げて捜査にあたっても、佳純といた子どもの正体はつかめなかった。
 神隠しにあったんだ。大人たちはそう囁きあった。私はそこで、神隠しという言葉を覚えた。
 結局、何年経っても佳純は帰ってこなかった。そして、一人娘を失った佳純の母は次第に壊れていった。
 学校の授業中に来て、校庭の隅から隅まで歩いて佳純の名を大声で呼んだり、彼女の服を周囲の子どもに無理やり着させようとしたりして、ときには他人の子を連れ去ろうともした。かと思えば、まるで娘が戻ってきているかのように振る舞って、学校行事に姿を現してはしゃぎながらビデオ撮影をしたり、佳純の中学の制服を注文したりと、異様な行動に出た。
 最後の目撃者となった私は特に執着された。学校帰りに跡をつけられたこともあったし、家に押しかけられたりもした。いちど、人ごみのなかで腕をつかまれ、「この子は私の娘を殺した」と叫ばれた。
 しかも、その言葉を自分で信じ込んでしまったのか、それ以来私をたびたび殺人犯と罵るようになった。私が佳純を殺して神社に埋めたと言い、神社の敷地を掘り返したこともあった。
 佳純の父はそのたびに我が家に謝りにきたし、妻をいさめるような行動もしたけれど効果はなく、私が中学二年生のときに引っ越してしまった。単独で挨拶にきてくれたが、心を壊してしまった佳純の母を入院させることしか私には伝えられていない。佳純の父は町でも有名な立派な人だったのに、年々我が家を訪れては去っていく背中が小さくなっていったように思えたのをよく覚えている。
 周りに彼女の妄言を信じる人はさすがにいなかった。でも、私はからかいの対象となった。佳純の母が問題を起こすたびに、「お前が殺したくせに」とわざと罵ってくる同級生もいた。
 仲がいい友達がいたから高校まで過ごせたが、大学に上がると同時に上京して家を出た。就職も東京で、家族を呼ぶことはあっても、私が帰ることはなかった。思いのほか、地元から離れた生活が心地よかった。
 今回、私が戻る気になったのは、高校の時に亡くなった祖母の十三回忌があるからだ。
 私が佳純の母のことで悩んでいたとき、もっとも励ましてくれたのは祖母だった。働きに出ていた母と違って、いつも家にいた祖母は、佳純の母の襲撃のときは毎回盾になってくれた。ときには佳純の母を落ちつかせて、涙を流して感情を吐露する彼女をなだめて話を長時間聞くこともあり、祖母はあの頃の私にとって大きな存在であった。
 過去の記憶をたどっていくと、苦労をかけっぱなしで申し訳ないばかりだ。結局、お返しらしいお返しが何もできないままだった。東京に出てからの法事は都合もつかず、盆も暮れも戻らなかったため、後ろめたさがあった。せめて、今回ばかりはしっかり墓参りをしようと思って、休暇をとったのだ。
 新幹線を降り、在来線に乗り換えて一時間半ほど行ったところにある、本当に小さな町が私の故郷だ。山に囲まれた田舎町。
 駅に着いて、様子がほとんど変わっていないことに驚いた。懐かしさと同時に少し切なくもあった。上京のために出発した日を通り越して、佳純がいなくなったあの夏までさかのぼってしまいそうになったから。
 私の実家自体は、駅から車で十分ほどの距離。迎えはないので、のんびりバスに揺られた。こちらもまったく変わっていない実家の門をくぐると、ようやく帰郷の感慨に浸ることができた。
 法要を翌日に控えて忙しいと思いきや、ほとんどの準備は母と姉とで終えてしまったらしい。家のことにしても、これまでほとんど関わってこなかったので勝手がわからず、結局邪魔者扱いされてしまった。
「これはこっちでやっておくから、あんたは菜奈の相手でもしといて」
 早めの昼食を食べ終えて、姪を押しつけられた。姉の子の菜奈は三歳で、私は数回しか会ったことがない。ずいぶん人懐こい子で、さっそく私は彼女に外へと連れ出された。
 早くも蝉が鳴いているなか、菜奈が私を引っ張っていったのは、あの神社の公園である。
 佳純の事件からしばらくは、さすがに誰も近寄らなかった。けれども、そのうち人の記憶も薄れ、数年もすると再び子どもの姿を目にするようになった。
 そういえば、あのとき佳純たちしか公園にいなかったのは珍しいことだった。だから、よけいにあの場が不気味に思えたのかもしれない。
 砂場遊びの道具をもった菜奈に導かれて入口まで来ると、急に心臓がつぶれるような感覚に襲われる。
 あのときと同じ、誰もいない。
 そこで私は冷静に考える。ちょうどお昼過ぎ、小学生はまだ夏休みが始まっていないので学校のはずだ。幼児連れがいないのも、暑いか昼食を取っているかのどちらかだろう。そもそも、この日差しで遊ぶ子のほうが今どきは少ないのかもしれない。
 菜奈はきょろきょろと何かを探しているようだった。
「どうしたの?」
「ねーちゃんがいない」
 菜奈は一人っ子で姉はいない。
「誰? 近所の子?」
 菜奈は首を傾げ、ねーちゃんとだけ繰り返す。
「まえ、あそんでもらった」
「同じくらいの年の子?」
「ちょっとおおきい」
「じゃあ、学校か何かじゃない? 今日は、あこちゃんと遊ぼう。帽子ちゃんとかぶってね」
 菜奈はおとなしくシャベルをもって、砂を掘りはじめた。私はそれにつきあって、一緒に砂の山を盛ってやる。
 ――しゃん。
 遊びはじめてからどれくらい経ったときだろうか、美しい音が響いた。
 見渡すと、入口のところにおかっぱ頭の子がこちらに背を向けて立っていた。どこか見覚えがあるけれど思い出せず、見つめながらぼんやりとシャベルを動かしたら、菜奈から非難の声があがった。
「あこちゃん、崩した」
 うっかり、せっかく盛った砂に大穴を開けてしまった。べそをかきだした菜奈をなだめながら、もう一度入口を見ると、その子どもは消えていた。入れ替わりに、学校を終えたらしい子どもたちがぞろぞろと入ってきて、公園内は賑やかになった。
 菜奈はしばらく泣きつづけたので、私は大人の意地で、周囲の子たちからも感嘆されるような砂の城をつくり、ようやく機嫌を直してもらうことに成功した。
 そうして日が暮れるまで遊んだ。眠くなってしまった菜奈を背負って帰宅し、懐かしい母の味の夕食を堪能した。
 その後、今は空き部屋になっている自室で涼んでいると、なんとなく昼間目撃したおかっぱ頭が気になっていた。
 畳の上で寝がえりをうつ。ふと、押し入れが目に映った。何気なく開けてみると、東京に持っていた箪笥の分だけぽっかりと空いている。ダンボールに突っこんでいた、昔使っていた文房具や教科書はそのままだった。当時はかわいいと本気で思っていたキラキラのメモ帳が懐かしかった。
 いちど見てしまうと全部見たくなるもので、私は箱という箱、包みという包みを開けてしまった。そして、とうとういちばん奥まで来て、最後の箱のふたを開けた。
 そこには、けんかしたまま転校してしまった子との交換日記や手紙が入っていた。むしゃくしゃして勢いに任せてぜんぶ封印したのだった。あとで仲直りしたのだが、これはずっと奥に押しやってしまっているうちに忘れてしまったのだろう。
 一枚一枚読んでいくうちに、私の手は止まった。
 佳純とともにいた子どもの笑顔が、そこにあった。
 それは、警察の人が試しに描いた似顔絵のコピーだった。結局それが使われたかどうかは知らない。捨てるのは気が咎め、かといって視界に入れておきたくもなかったので、手紙や日記と一緒にして箱に入れてしまったのだろう。
 心臓に悪い。私は元通り折りたたんで戻そうとしたが、気になってもう一度開いてみた。にんまりとした笑顔を縁取る、おかっぱ頭。そういえば、昼間見た子の服装を思い出せるだろうか。必死に記憶をたどるが、時代遅れとも思える直線的な髪型しか覚えていない。
 よどんだ空気が心に広がっていき、鬱々とした気分に襲われる。
 帰ってくるのではなかった。そうこぼしたくなるが、それでは祖母に申し訳ない。三日後までいる予定だったが、早めに東京へ戻ろうかと思った。


 翌日の祖母の法事はつつがなく終わった。
 久しぶりに会う親戚たちと食事をしながら話しこんでいると、菜奈がぐずった。幼い子どもにはよくわからず退屈だったのだろう、公園で遊ぶといってきかなかった。
 母親である姉がなだめてもどうにもならず、周囲もかまわないと言ったため、しかたなく姉は菜奈を連れて出た。その後も雑談をつづけたが、親戚たちを見送る段階になったとき、姉を呼ぶ人がいた。携帯を置いて出ていってしまい、公園もすぐそばだったため、私が走って呼びに行った。
 やはり砂場で遊んでいた菜奈は、さっきとはうってかわってご機嫌で、反対に姉は暑さでうんざりした様子で縁に座っていた。
「お姉ちゃん、おじさんが呼んでる」
 声をかけると、姉は少しほっとしたような笑顔で立ち上がり、菜奈に帰るようにうながした。しかし、そのとたんに菜奈は頬をふくらませた。
「おしろつくる」
「昨日も作ったでしょ」
 私がたしなめると、もっと大きいのがいいと駄々をこねはじめる。
「わがまま禁止。さ、立って」
 姉が砂を元に戻そうと手をだすと、火がついたように菜奈は泣いた。こうなると手がつけられないと姉が肩をすくめ、引きずっていこうとした。私は少々かわいそうになって、つい口を開いた。
「なんなら私が見てようか。暇だし」
「いいよ、あんまり言うことほいほいきいてたら、それが当たり前になっちゃうよ」
「私はめったに会わないし、お姉ちゃんも大変でしょ」
「あこ。まさか、そうやって後片づけさぼる気?」
 私は思いきり首を横に振る。確かに、よくわからない面倒な用事は避けたいところなのだが。
「じゃあ、悪いけど、ちょっと構ってやってくれる?」
「うん、すぐ戻る」
「菜奈、今日だけだからね」
 念を押すように声をかけて、姉は小走りで公園をあとにした。その様子を見送って、私は昨日以上の大作を頭に思い浮かべながら、熱した砂に手をかけた。
 ――しゃん。また音がする。
「あ、ねーちゃん!」
 菜奈の弾んだ声。顔を上げると、あの子がいた。似顔絵とよく似た笑顔の子。私は全身の肌が粟立つのを感じた。すっと周囲の空気が冷たくなる。夏であることを忘れてしまったかのように。
 この子は誰? あのときの子となにか関係あるの?
 菜奈の手招きで、彼女はゆっくりとやってくる。足音はない。
「こんにちは」
 言いながら、会釈してみる。その子は笑ったまま、同じように頭を下げてきた。
「菜奈のお友達?」
 無言でうなずく。
「私はこの子の叔母なの。いつもは東京にいるんだけど」
 彼女は私を無視するように、菜奈の横に座る。そして、砂の城にどこからか持ってきた小枝を刺した。
「ねーちゃんね、おえかきじょうずなんだよ」
 菜奈の言葉に合わせるように、その子は城の表面に模様を描いた。ぐるぐるとした、渦のような模様。
 既視感に襲われる。それに、私は確かに見覚えがあった。佳純がいなくなったあの日、確かに同じように二人でこんな模様を描いていた。
「あなた、誰?」
 張りついてような笑顔のまま、彼女は一心不乱に模様を描きつづける。
「誰なの? ねえ、佳純を知ってるんじゃないの?」
 菜奈が怯えるのも構わず、私は声を荒げる。けれども、彼女はちっともこちらに関心を示さないで、菜奈に笑いかけるだけだった。
「この子に触らないで!」
 とっさに私は菜奈を抱き寄せた。それは防衛本能だった。
 彼女は手を止める。そして、私を見て、にやーっと改めて笑ってみせる。
 子どもの笑顔がここまで不気味に思えるのは、あの日と今このときだけだ。この子は、あのときの子だ。直感でそう思った。
 立ち上がろうとしたが、足が動かない。がたがたと震えてしまう。
 いや、来ないで。この子を連れて行かないで。叫びたくても、唇がまったく動かない。
 そのときだった。
「阿紗子ちゃん」
 誰かが私を呼んだ。硬直していた首が動く。横を見ると、そこには私と同年代の女性が一人立っていた。
「阿紗子ちゃん、だね?」
 その面ざしは、かつて私を人殺しと罵った人によく似ていた。
「か、佳純……?」
「久しぶり」
 まるで、事件なんてなにもなかったと言うように、佳純は微笑んだ。そして、私の横に座って、菜奈の頭を撫でる。
「阿紗子ちゃんの子?」
「……ちがう」
 それだけ返すのが精いっぱいだった。佳純は私の返事には興味ない様子で、無邪気に笑う菜奈から手を放す。
 佳純は白いワンピースを着ていた。すらっと細い身体に、肩まで伸ばした髪の毛、高い鼻、長いまつ毛に大きな瞳。確かに昔の面影がある。
「佳純、どこに行ってたの?」
 かすれた声で問いかける私に、彼女はゆったりと答える。
「ずっと、ここにいたよ」
「嘘だ」
 警察はずっと捜索を続けた。でも、見つからなかった。私の証言以外、なんの手がかりも得られず、目撃者を募るポスターが虚しく貼られつづけただけ。佳純はこの町から完全に姿を消したのだ。だから、彼女の母は壊れた。だから、私だってずっと彼女の母に罵られつづけた。
「嘘じゃないよ。ずっと、いたんだよ」
「お父さんもお母さんも、ずっと佳純のこと探してたんだよ」
 ふと思いだす、彼女の両親のこと。狂いながら娘を探し求め、私をひどく責めた彼女の母。娘を失った悲しみを妻と分かちあえず、苦しんでいた彼女の父。
 ――娘は、死んだんだと思います。
 いつか、そう絞り出す声で言いつつ私に謝罪する悲しい姿が浮かぶ。
「そう、悪いことしたね」
 そっけない、他人ごとみたいな言いかただ。私は恐怖も忘れ、怒りがこみ上げる。
「なにそれ! 自分がどれだけ心配かけたか、わかってるの?」
 両親を絶望の谷底に叩きつけただけではない。私も苦しめられた。佳純が行方不明になって得した人間なんて、一人もいなかった。みんなに悲しみをもたらしただけだった。誰のせいで、と私は唇を噛む。
「あこちゃん、いたい」
 菜奈を強く抱きしめてしまっていたようだ。慌てて腕を緩めるが、ほどこうとは思えなかった。連れていかれる、そんな気がした。
 佳純は私が表情をこわばらせているのとは対照的に、弾んだ様子で小首をかしげてみせる。
「阿紗子ちゃん、一緒に来ない?」
 まるで、遊びに誘うような言いかただ。とても軽く、子供っぽい響きの。
「は?」
「山のなかは、楽しいよ」
 私は、その言葉の意味をよくつかめなかった。
「山のなか?」
「うん、ずっとそこにいた」
 なにを言っているのだろう。事件発生当時、最悪の事態を考え、山中の捜索も行われた。しかし、佳純は見つからなかった。だから、ずっといたなんてありえないはずだ。もしそうなら、もっと早く帰ってこられたはずだ。佳純の母親が狂うよりもずっと早く。
「嘘だ」
「嘘じゃない。ずっと一緒にいたもの」
 ね、と彼女は私を素通りして微笑む。そこには、おかっぱ頭の子。この子は、あのときからずっと変わっていない。私も佳純も大人の姿になったというのに、彼女だけはそのままだ。時が止まっているかのように。
 人間じゃない。そうとしか思えなかった。
「あなた、誰なの?」
 私は再び彼女に問いかける。でも、けっして答えようとしなかった。
「ねーちゃんだよ」
 代わりに、菜奈が朗らかに言う。
「阿紗子ちゃん、一緒に来ない?」
 佳純が囁く。
「その子も一緒に」
 そう続ける彼女の表情は――おかっぱの少女とまったく同じ笑顔だった。もはや、私の同級生ではなかった。私たちを誘う、不気味な化け物に見えた。見知らぬ化け物に。
 私は悲鳴をあげ、菜奈を引きずって這うように砂場を出た。
「菜奈、帰ろう」
「やだ、やだ」
 どうしてここでそう言うの。私は苛立つ。怒鳴ろうにも無理に抱えようにも、まるきり身体に力が入らない。その間に佳純と少女は立ち上がり、二人並んでゆっくりと一歩踏み出してくる。
 菜奈に声をかけるが、まだ駄々をこねる。あれが本当に友達にでも見えているというのだろうか。頑固で、動くまいと主張するように座りこむ。その間にも佳純たちは距離を詰める。まったく同じ笑顔で。
 恐ろしい。そうとしか言いようがなかった。逃げたいけれど逃げられない。菜奈を置いては行けない。私は大人として、あの日佳純を放っておいた人間として、この子を守りたかった。私は二人を睨む。
「あんたは、佳純じゃない!」
「佳純だよ」
「友達でもなんでもない! 来ないで! 厄病神!」
 それは、とっさに出た言葉だった。
 佳純の笑顔が消える。ただの能面のような表情になる。陽炎が現れたかのように、二人の姿がゆらぐ。ゆれて、ゆれて、ゆれて、ひとつになる。
 ――しゃん。
 音がする。
「阿紗子ちゃん、菜奈ちゃん、遊ぼう」
 それは、今までの佳純の声とはちがう。男でも女でも、子どもでも大人でもない声。
 しゃん、しゃんと音は断続的に響く。彼女の声に合わせるように。
「おいでよ、おいで」
 大人の身体にそのままくっつけたようなおかっぱ頭が、笑いながら手を伸ばしてくる。
 おばあちゃん、おばあちゃん助けて。お願い、助けて。私は子どもに返ったかのように涙をこぼす。いつも盾になってくれた祖母にすがりたくてたまらなかった。
「来ないで……」
 ――しゃん。返事の代わりに音が鳴る。
 身を縮めた私は、菜奈を見下ろす。こんなに小さい子のそばに、今は、私しかいないのだ。ここで怯えていたらいけない。私は顔を上げる。
「菜奈は渡さないし、私も行かない!」
 声が裏返る。けれども、私はけっして目を逸らさなかった。
「来ないで!」
 睨みながらそう叫んだ瞬間、彼女はいきなり消えた。
「……え?」
 瞬きを何度もくりかえす。蝉しぐれと風の音だけが残った。木漏れ日が地面を滑る公園には、私たち以外誰もいない。まるで、最初から全部幻だったかのように。呆然としつつも、私は立ち上がる。
「あこちゃん、もう帰っちゃうの?」
 菜奈が私を見上げる。
「菜奈……あの子どこ行ったかわかる?」
 返事はない。私を見つめるだけだ。
「菜奈?」
 ――しゃん。
「遊ぼうよ、阿紗子ちゃん」
 それは、耳元で聞こえた。


 気づくと、私は実家の居間にいた。菜奈は横でおえかきをしていた。そして、私の手にはあの似顔絵があった。
 考えるよりも先に、私はそれを乱暴にちぎる。菜奈が呆然としてこちらを見るが、気にせずに何度もちぎってちぎって、ぐしゃぐしゃに丸める。そして、テーブルにあった義兄のライターと灰皿を手にとって、燃やしてやった。
 ゆっくりと灰になっていくそれを眺めても、心は落ちつかない。夏だというのに、寒気が止まらなかった。呼吸がうまくできない。
 あれは夢? 私、今までどうしてたの?
 今の今まで、私たちは公園にいたはずだ。あの暑さや蝉の声、そして彼女たちとのこともはっきりと覚えている。にも関わらず、実家までの道のりの記憶が完全に抜け落ちていた。
 私は、自分が今までどうしていたのか、誰かに尋ねようとした。けれども、室内はがらんとしている。そういえば、家族の姿が見えない。親戚を送っていったにしても、誰か一人くらい残ってもいいではないか。きょろきょろと見渡していると、玄関のほうからばたばたと走ってくる足音があった。
「阿紗子!」
 母が襖を開ける。顔色が悪い。佳純の行方がわからないと知らされたときの姿と重なる。嫌な予感がした。けれども、聞かなくてはいけない気もした。
「なに? どうしたの?」
「佳純ちゃん、かもしれない!」
「は?」
 その名前に、どきりとする。硬直する私の両肩に手を置いて、母は乱暴にゆさぶる。
「佳純ちゃんが、見つかった、かもしれないの!」
 神社のある山の中腹部。そこで、子どもの骨が見つかったというのだ。それで町中が大騒ぎになって、私と菜奈を残して、母たちが様子を見に行っていたらしい。
 私は居ても立ってもいられず、即座に飛び出した。神社はすぐ近く。我が家の門のあたりまで、すでに人が集まっていた。それを必死に掻き分け、私は現場のほうに向かった。けれども、途中の道で通行止めになっていた。背伸びしても状況がよくわからない。
「あの子だって。ほら、母親が……」
「やっぱり山の神さまに呼ばれたんかね。ここの神さまはやけに子どもが好きだから」
 野次馬の年寄りたちはそう呟いていた。不愉快さに、私は俯く。
「あこ」
 姉が菜奈を抱いて立っていた。どうやら、母より少々遅れて家に戻ってきて、人ごみのなか私と入れ違いになってしまったらしい。それで、わざわざ追いかけてきてくれたみたいだ。どうやら姉はいろいろと聞きまわってくれていたようだが、ほとんど情報は得られなかったという。佳純にちがいない、という噂だけが驚くべき速さで広がっているだけだった。
「あこ、戻ろう。あんたはここにいないほうがいいよ」
 姉は周囲の様子を窺う。佳純と私のことを知っている人は多い。私を見ながらひそひそ話をする集団は、ひとつふたつではなかった。見知った顔も多い。
 私はうなずきながら、姉と一緒に踵を返す。足がやけに重く感じる。無意識に溜め息をこぼすと、ふと、山を見ていた菜奈が笑った。
「ねーちゃんだ」
 大きく手を振る。山に向かって。木深く、いるはずの警察の姿すらよくわからないというのに。
「お姉ちゃん。ねーちゃんって、誰だかわかる?」
「え?」
 姉は眉を寄せる。
「この子、年上の子は誰でも、ねーちゃんて呼ぶから。うちの同級生の子も、ぜんぶひとまとめで」
 姉は、人々のなかに知った顔を探そうとしたが、見つからないらしい。そのとき、いきなり肩を叩かれる。
「あこちゃん、よかったねえ」
 見ると、同級生の母親がいた。にこにこと笑って、私を労わるように手をさする。その横で、別の女性がしみじみと呟く。
「これで、ようやく安心できるね」
 姉は眉をひそめる。私は曖昧な表情を浮かべることしかできなかった。まだ佳純と決まったわけではないし、仮に佳純であっても、死んでいたことを喜ぶ気にはなれなかった。けれども、私を知る人たちは、慰めるように励ますように、よかったよかったと言うばかりだ。
 姉の言葉の意味を理解した私は、誰とも目を合わせず、姉たちと一緒に家に帰った。祖母の法要を終えたときとは比べ物にならないほど重い空気。いたたまれない気分で床についた私は、夢を見ることなく朝まで熟睡してしまった。
 翌日、知らせを受けて、佳純の父親が町にやってきた。警察の帰りに我が家に寄ってくれて、私たちは十数年ぶりの再会を果たした。
「まだ確定したわけではありませんが、遺留品から判断すると、娘である可能性が高い、と」
 すっかり老いてしまった彼は、力なく笑った。記憶よりもさらに小さく感じた。
 佳純の母親は、最近になってようやく落ちついてきたらしく、娘がいなくなったことに対する心の整理も少しずつついてきているようだった。ただ、刺激するとどうなるかわからないため、今回は一人で来たそうだ。すべてが明らかになってから、折りを見て告げるつもりだと言いながら、佳純の父は頭を下げた。
「阿紗子ちゃん、今まで本当に申し訳なかった。辛い思いをたくさんさせて」
「……いいえ」
 本当に辛い思いをしてきたのは私じゃない。この人のはずだ。この人に頭を下げさせるのはちがう。首を振りながら、私は公園での出来事を思い出す。
 あれは、佳純だったのだろうか。
 ふと、しゃん、と音がした。私はとっさに立ち上がる。
「どうしたの?」
 横にいた母が不審そうに見てくる。
「……ううん」
 私はゆっくりと座り直す。窓の外に目を向けると、夜の闇に染められつつある山が静かにあるだけだった。
 結局、確定したという知らせは私の滞在中には届かなかった。今回はあくまでも祖母のために休暇をとって帰ってきただけ。仕事もあるし、いつまでも田舎に留まるわけにはいかず、私は続報を得る前に東京に戻ることになった。
「年末も会える?」
 菜奈を抱きながら、不安な様子でそう言ってくる姉に、私は躊躇いながらも口を開く。
「お姉ちゃん、菜奈を、あの公園に行かせちゃだめだよ」
「……またしばらくは、誰も寄りつかないだろうし、私も行く気になれないし」
 それでいい。私はぎこちなくうなずく。
 あの子の正体なんて知らない。神さまだなんて思えない。ただ、もしもまた出会ってしまったら、今度こそだめだろう。そう確信していた。
 子どもが好きだから。老人たちはそう言っていた。でも、それならどうして私まで誘われたのだろう。そう理由を考えようとしたけれど、悪い想像ばかりが浮かんでしまう。
 母に車で送られて、私は駅に着いた。そして、また一時間半かけて、新幹線の通る駅まで向かう。
 生まれ育った町が遠ざかる。姉はああ言ったが、やはりもう来たくない。小さくなっていく山を窓越しに見つめる私にあるのは、忌々しい土地を離れられる安堵と、生まれ育った町をそう思ってしまう罪悪感だけだった。
 ――しゃん。
 首の周りが冷たくなる。
「次はどうしようか」
 私は、振り向けなかった。





2014/08/29

戻る