太陽が消えた日


「カーラ!」
 声をかけられた少女は振り返った。そこには、にっこりとほほ笑む少年。出会ってからしばらく経つが、未だに彼の姿には慣れない。貝のように白い肌に、太陽の光に似た金の髪、カーラの大好きな色である青の瞳。美しさを感じながらも、カーラはわずかに残る奇妙さに戸惑っていた。
 大海の南に浮かぶ島国に彼女は生まれた。黒い髪と褐色の肌を持つ人間が多数を占めるこの島で、あの少年の姿はどこか異様だった。
 外国人が所有する屋敷に母とともに住み込みで働くようになったカーラにとっては、毎日高価な服をまとってのんびり滞在する彼は、まさに遠い国の王子様だった。家族を本国に残し、数人の使用人に囲まれて過ごす少年ヒューゴは、さすがに退屈なのか、時々カーラにちょっかいをかける。
 カーラと同じ年というヒューゴがなぜ独りでこんな遠い国に来たのか、カーラは尋ねることを許されない。けれども、ヒューゴが接触してくるなら、雇われている人間として彼女は応えなければならなかった。
「今、忙しい?」
「おつかいは、全部終わりました。これから、戻ります」
 たどたどしい異国の言葉。母の就職が決まってから覚え始めた。ヒューゴが頷くことで、通じたのがわかってほっとする。
「大変だね」
 家までの道を、二人で歩く。会話は途切れ途切れだったけれど、カーラにとっては何よりも大事な、言葉の訓練の時間だった。
 ヒューゴは、カーラがまだ言葉を勉強中と知って、易しい言葉でやりとりしてくれることになった。カーラは彼の優しさが嬉しかった。外国人というのは傲慢だと思っていたから。
「お仕事、だから平気、です」
「エラいなー。僕も見習わなきゃね」
 ヒューゴというのは、何かやたらとカーラの仕事を手伝いたがった。もちろん彼は主人であるのでそんなことは許されず、本国から一緒にやってきた使用人が何度も注意するのだが。
 ヒューゴ様は寂しいのかしら、とカーラは何となく考えていた。このあたりでヒューゴと同じ国から来た子どもというのは皆無だった。同じ年くらいの子どもというと、カーラくらいしかいないのだ。
 カーラはというと、貧しくて学校にも通っていないし、近所に友達もいない。外国人に雇われると、高い給金がもらえる。しかし、その代償に、地元の人間からはあまり良く思われないのだ。金で国民の誇りを売ったと言われてしまう。
 それでも、生きていくためには仕方がなかった。いじわるな友達なんていらなかったから、ヒューゴと時々話せれば、カーラはそれで良かった。
「エラくないです。私、お母さんと二人きり。私がハタラくの、当然。住まわせて、もらっていますから」
「子どもには遊ぶケンリがあるんだよ。僕だったら、そう言う。だけど、カーラはマジメに仕事をやっているんだから、やっぱりエラいよ」
 本当にヒューゴは外国人なのだと、カーラはヒューゴには気付かれないように溜息をついた。カーラが働いたら、その分、母娘の収入が増える。無駄にしている時間などない。少しでも楽に暮らせるならば、カーラは仕事をすることを選ぶ。
 あんなにたくましかった父が海の事故で死んでしまって、カーラは母とふたりきり。誇りとか矜持とか言って失われる命よりも、何が何でも生き延びようとする命のほうが大事だった。
 彼は、何を考えながら生きているのだろう。ふとカーラは気になって、ヒューゴの顔をじっと見る。合う視線。青は、身近な色だった。木々の間から覗く、鮮やかな空の色。父と共に在った、深い海の色。けれども、よく見ると、彼の瞳はそれらとも異なる色なのだ。
 ヒューゴは無邪気に笑いながら首をかしげる。金色の髪が風にさらさらと揺れ、強烈な陽光と混ざりあって燦々と輝く。お日さまみたい。どうにも居心地の悪さを感じて、カーラは思わず目をそらしてしまった。
「きゃ!」
 突然の衝撃に、しりもちをついた。見ると、大柄な男が鋭い目でこちらを見下ろしている。容姿で外国人だということはわかった。
「あ、ごめんなさい」
 慌てて謝るが、男は何やら早口でまくし立てる。ヒューゴの国の言葉に聞こえるが、カーラの語学力では、何を言っているのかさっぱりわからなかった。威圧感が強く、立ち上がることすらもできなかった。
「えっと、ごめんなさい、ごめんなさい」
 謝罪の言葉など、その一語しか知らない。ただ繰り返すしかなかった。
 そこにすかさず割って入ったのが、ヒューゴだった。彼も早口で、いつもと違う調子だったので、何を言っているのかまったく聞き取れない。自分よりもずっと背の高い男相手に何かを述べている姿が堂々としていた。
 男は数語呟くと、踵を返して行ってしまった。嵐のような出来事に、カーラは地面から離れることができなかった。彼女を引っ張り上げたのは、困ったように笑うヒューゴだった。
「最近、ここも変な人増えたね。ニッショクのせいだろうけど」
「……ニッショク?」
 初めて聞く言葉は、不思議な響きだった。カーラの反応を見たヒューゴは、棒きれを拾い、地面に絵を描いた。
「空には太陽があるじゃない? そして、月もある。その月が、太陽に重なることだよ」
 丸と矢印で構成された図は、カーラには理解しがたいものだった。それでも、ヒューゴは棒で線を加えながら一生懸命続ける。文字も書いてあったが、彼の国の言葉だったのでそれはよくわからなかった。
「ちょっとだけ隠れちゃうブブンニッショクっていうものもあるんだけれどね、この辺りでは今度、太陽全部が隠れるカイキニッショクっていうものが見られるんだよ。最近、外からの人が増えただろう? みんな、これを見たがって来るんだ」
 確かに、最近は以前よりも多くの外国人を見かけるようになった。ヒューゴの屋敷が世界の全てであるカーラは、そんなことまったく知りもしなかった。
「隠れると、どうなりますか?」
 不安そうにカーラは尋ねた。だって、太陽が隠れてしまうなんて、恐ろしい! ヒューゴは、そんなカーラの反応を楽しむようににんまりと笑った。まるで、宝物を秘密の場所に隠した子どものようだった。
「真っ暗になっちゃうんだよ。夜みたいに、真っ暗!」
 昼なのに夜みたいな暗さになってしまうのって、どんな感じなのだろう。カーラにはまったく想像がつかなかった。
「真っ暗の他に、何か起きますか? この国では、太陽は、一番大事。なくなったら、怖い思い、しませんか?」
 カーラは不安になって、ヒューゴの表情を窺う。彼は目を細めて、ゆっくりと首を横に振った。
「どこかの国では、ニッショクがシンワになったらしいよ。神様がいなくなってしまったんだって。でもね、大丈夫。見えなくなっても、太陽はちゃんとソンザイしているんだよ。夜と一緒。いつか、かならずまた現れる」
 ヒューゴは空を見上げた。北の国の人間にとっては、強すぎる光が降り注ぐ。彼の白い肌がより一層照らされる。
「この様子だと、きっときれいに見られるだろうね」
「ヒューゴ様、その……ニッショクはいつ見られるのですか?」
「十日後だよ」
 答えを聞いたカーラは、目を見開いた。
「そんなに、すぐに?」
「あれ、カーラは聞いていない? けっこう前からサワがれていたよ」
 ヒューゴは、太陽や月を描いた横に、簡単な世界地図を描いた。カーラは、ああ、お屋敷の壁に貼ってあったものだとぼんやり思う。
「だいたい、ここからここまでが今回見られるところかな。ほら、この国も入っているでしょ?」
 ヒューゴは夢中になって説明した。その表情は、まるで宝物を手に入れたかのようだった。
「そんなことまで、知っているのですか?」
「うん、新聞で読んだんだ」
 カーラは、感嘆した。彼女は、ヒューゴの国の言葉をいくらか理解できるが、文字までは無理だった。それに、新聞などの情報は自分には与えられないものだし、屋敷以外の誰かからもらうものでもなかった。
「ヒューゴ様は、モノシリですね」
 覚えたての言葉を使ってみると、ヒューゴはにっこりと笑った。
「そんなことないよ。先生が教えるから、覚えているだけ。僕からしたら、カーラのほうがずっとすごいよ!」
 彼の言ったことが、カーラには理解できなかった。
「なぜですか?」
「最初はぜんぜん会話できなかったのに、いつの間にかこんなに言葉が喋れるようになったじゃない。恥ずかしながら、僕、いまだにここの言葉がぜんぜん話せないんだ」
 二人は苦笑した。カーラはなんと返そうか分からなくて困った。ヒューゴはこの国の言葉を話せなくても今のところ問題はないようだが、彼女は違う。ヒューゴの家で働いて金を得るためには、ヒューゴの国の言葉が話せなくてはならない。必要に迫られて覚えたものなのだ。
「学校へ行くくらいになると、むずかしい言葉も使いますけれど、私みたいに行っていない子どもたちは、あまりむずかしい言葉使いません。かんたんな言葉だけです。ヒューゴ様のお国の言葉のほうがずっとむずかしいです」
「そうなの?」
 ヒューゴは小首を傾げながら、カーラの顔を覗きこむ。彼の瞳に自分が映っているのを見て、彼女は不思議な感情を抱えながら頷いた。
「はい。むずかしいです」
「じゃあさ、カーラがこの国の言葉とか教えてよ。僕も言葉とか勉強とか教えるからさ!」
 この若すぎる主人は、いきなり何を言い出すのだろう。カーラはぎょっとした。
 家庭教師でもない普通の子どもであるカーラが主人に何かを教えるだけでもどうかしているのに、さらに主人から仕事以外の何かを教わるなんて、とんでもないことだ。カーラは必死に首を横に振った。
「だめです、私、怒られます。ヒューゴ様は、ビアス先生に教わってください」
「ビアス先生は、ちょっとしか話せないもの。二人で教えあおうよ。そうすれば、カーラだって僕だってジョウタツするさ。もっと僕たち話せるようになるよ」
 少年は無邪気に笑い、道の先にある屋敷へと駆けだす。カーラは慌てて追いかけた。彼の髪が美しく揺れる。カーラは、一気に染め上げたような空に映えたその金色を見つめた。


 屋敷に着くと、ヒューゴは教師のビアスに鉢合わせし、勉強部屋へと連れて行かれた。カーラは荷物を持って、厨房へ向かう。
「カーラ、遅かったね。どうしたの」
 母が同僚とともにやってきた。
「ごめんなさい、ヒューゴ様にお会いしてお話していたの」
 母国語で話すのが久しぶりに思えて、カーラは肩の力が抜けた。抱えた籠を、同僚に渡す。大人二人は、しょうがないと言いたそうに息を吐く。
「失礼なことはしなかった?」
「多分、大丈夫。……ニッショクの話をしただけだから」
「ニッショク?」
 カーラが説明すると、母は心得たように頷いた。
「ああ、そんな話もあったね。外の人がいま多いのは、そのせいなんだってね」
「いやだね、なんでそんなものを面白がるのか理解できないわ」
「本当。太陽神様が隠れてしまうなんて、不吉よね。怖いわよ」
「何か、悪いことが起きる前兆じゃないかしら」
 母と同僚が声を潜めて会話するのを眺めて、カーラは先ほどのヒューゴの様子を回想する。ヒューゴはあんなに楽しそうに笑っていたけれども、やっぱりどこか恐ろしい。
 ふと、彼の提案を思い出した。
「あのね、母さん。ヒューゴ様が私に、こっちの言葉を覚えたいから教えてって言うの。どうしたらいいのかな」
 母と同僚だけでなく、黙々と野菜を刻んでいた調理師補助の大男もきょとんとカーラを見つめた。そして、一斉に笑いだす。笑わなかったのは、こちらの言葉をまだあまり理解できていない厨房長だけだった。彼は使用人が現地の言葉で会話するのを注意する立場にあるのだが、見て見ぬふりをして夕食の準備に取り掛かっていた。
「バカなことを言っちゃいけないよ、カーラ。ヒューゴ様に何かをお教えするなんて、とんでもない話さ。あの方は、このお屋敷で暮らしている限り、そんなこと必要ないからね」
「でも、そうおっしゃったのよ。私がこの国のことを教えて、代わりにヒューゴ様が私にあちらの国のことを教えて下さるって。私、何をどうやって教えたらいいのか、全然わからないわ」
「だから、それはきっとあなたをからかったのよ。いちいち真に受けないの」
「おい、お前ら。さっさと仕事しろ!」
 ついに苛立った厨房長から、鋭い言葉が飛ぶ。カーラ達は畏まった返事をして、散り散りになった。
 言い付けられた廊下の掃除をしながら、カーラは厨房での出来事を噛みしめた。
「そうよね、やっぱり、からかっただけだわ」
「カーラ!」
 明るい声が響く。廊下の向こうから、ヒューゴと教師のビアスがそろって歩いていた。その後ろには、ヒューゴが実家から連れてきた老齢の使用人のガーティンが渋い顔をしていた。さらに後方では、困惑した様子のカーラの母がとぼとぼと歩いていた。
「さっきの話の続き!」
「ヒューゴ様。ここではなく、奥のお部屋に行きましょう」
 ビアスは厳格な性格で、この暑い南国でも、いつもヒューゴ以上に整った格好をしていた。嫌いではないのだが、カーラはビアスが少し怖いと感じることがあった。ヒューゴよりも少し薄い色の髪と瞳を持つ彼は、鋭い雰囲気を醸し出していた。
「ビアス先生、ガーティン、お願い。カーラと勉強したっていいでしょう?」
「あまりカンシンいたしませんぞ、ヒューゴ様。ホンゴクにいらっしゃるお父上とお母上が何とおっしゃるか」
 部屋に入るなり、ガーティンがひたすら早口で何かをまくしたてはじめ、ヒューゴがそれにやはり早口で反論する。会話についていけず、カーラと母は所在なさげに壁際に立っていた。まさか本当だなんて、と母が小さくうめいたのが聞こえた。
「まあ、二人とも、落ち着いてください」
 口論を繰り返すヒューゴとガーティンに、部屋に入ってからは黙ったままだったビアスが口を挟んだ。部屋中の視線が、彼に集中する。ゆったりとした口調で、ビアスは続けた。
「ヒューゴ様、あなたがここでお勉強されることは、ホンゴクでのナイヨウとあまり変わりません。私がお父上からオオせつかっているのは、リッパなシンシとしてのキョウイクです。しかし、外国でご生活なさっている今においては、多少現地の文化にふれておくことも必要でしょう。それに、ヒューゴ様にとっても、誰かに何かをお教えになるというケイケンは良い勉強にもなりますし」
 うまく理解できない単語を話すビアスが急にこちらを向いて、カーラと母の姿勢が一気に伸びた。
「カーラ。ヒューゴ様にこの国のことを教えて差し上げなさい」
 ヒューゴの顔はぱっと明るくなった。カーラは慌てて返事をする。歓声をあげようとした主人を、軽い動作でビアスは諌めた。
「ただし、あまり多くの時間はとれません。それだけはごリョウショウください」
 ヒューゴは何度も大きく頷いて立ち上がり、カーラの手を取ってぶんぶんと振った。カーラもつられて微笑んだ。ヒューゴの向こうでは、ビアスとガーティンが何やら難しい顔で話をしているが、聞き取れなかった。
「では、明日からいいですか、ビアス先生!」
「ええ、いいですよ。明日までにカーラに教えたいことを考えて、私にオッシャってください。カーラはこのあと私の部屋に来なさい」
「はいっ!」
 ヒューゴは元気よく返事をすると、機嫌よくその場を後にした。不安そうに娘を見る母を置いて、カーラはビアスの部屋へと向かった。
 ビアスの部屋は何度も入っているが、今回は掃除をしないでよいとなるとなんだか落ち着かなかった。とは言っても、カーラの仕事がほとんどないくらい、ビアスの部屋は奇麗に整頓されているのだが。
「君に来てもらったのは、他でもない、明日からのことだ。ヒューゴ様に何をお教えするのか、私が決めさせてもらう。まず、君は何だったら教えられる?」
「えっと……」
 いきなり言われても、何も出てこない。外から来た人には教えてもらってばっかりで、自分が何かを教えることなんて今までほとんどなかった。
「言葉、でしょうか……」
 とりあえず、自分がまず教わったことを言ってみた。本当は屋敷の仕事のほうを先に教わったが、まさか主人相手にそんなことを教えるわけにはいかないし、この屋敷はヒューゴ達の国の家を元に造られているので、この国に関することではない。
「言葉。たとえば?」
「あの、その、たとえば、ですか?」
 外国の人間にどうやって言葉を教えたらいいのかなんて知らない。今まで考えたこともない。
「遊んだり、買い物したり、あとは……ええっと……」
 全然出てこなかった。そもそも、カーラだって、社会にはほとんど出ていない。父が生きていた頃に近所の子どもたちと遊んだか、屋敷のおつかいで買い物や届け物をするくらいしか外の世界と関わっていないのだ。カーラの今の世界は、この屋敷だけだった。
「ごめんなさい、よくわかりません」
 それは最初から分かっていると言いたそうに、ビアスはこくりと頷いた。
「気にしなくてもいい。ヒューゴ様のコウキシンとガクシュウにしばらくつき合ってほしいだけだ。そうだな……カーラは文字を書けるか?」
 この国の文字ならば、とカーラは答えた。さほど種類が多くはないので、カーラ程度でも何とかなると思った。
「では、まず文字と数字の数えかたから始めよう。その棚に白い紙があるから取ってくれないか」
 ビアスは紙にペンを走らせ、枠線だけの表と数字を書き入れた。
「この線で囲った四角のひとつひとつに、この国の文字を順番に書いておいてくれ。下手でもいいから、大きくメイカクに。ヒューゴ様に教えるときは、その読みかたもハツオン……言ってほしい。それから、私たちの数字はわかるか? なら、これにタイオウするように数字の読みかたを、こちらの言葉で。おそらく、文字で苦労するだろうから、数字まではいかないだろうが」
 ビアスがしゃべるのを必死で記憶する。妙な感じだ。カーラが最初に言葉を習ったときは、この言葉はこういう意味だと口頭で教わって、あとはひたすら実践だった。こんな勉強のしかたを、彼女は知らなかった。
 少し混乱するカーラの視線を受け、ビアスは抑揚をあまりつけない口調で言った。
「これは、私たち教師が生徒に外国語を教えるときのやりかただ。お前のように生活に必要な言葉から覚える方法とはちがうからわからないかもしれないが、とりあえずはこれでやってくれ」
「はい、わかりました」
 ペンと紙を受け取り、カーラはビアスの部屋を出た。そして、自分と母の部屋のまで駆けだし、ベッドに飛び込む。そして、腕のなかに抱えているものをもう一度見た。綺麗な紙とペン。心臓があまりにも激しく鼓動するものだから、胸がどうにかなってしまいそうだ。
 学校みたい。勉強なんて諦めていたはずなのに。カーラは自分の頬が無意識に緩んでいることに気がついた。嬉しくて嬉しくて、母が探しに来るまで、何度も目の前にある道具を見ては撫でて、笑った。
 その晩は、夜明けが待ち遠しかった。使用人の部屋に与えられた小さな机に向かい、彼女は月明かりとわずかに灯した炎の光を頼りに表を埋めていく。
「母さん、ちょっといい? この文字はこれでいいの?」
 先に寝床に入った母を起こすと、母は薄目で紙を見て微笑む。
「大丈夫よ。よく書けているわ」
 父や祖父母が生きていた時は、家に本があった。それを使って、祖父がよく字を教えてくれていたのだ。もう遠い昔の記憶だった。
「ごめんね」
 ふと、母が呟いた。
「どうして?」
 暗い部屋の中で、母の唇は微笑みの形を作ったが、どこか悲しげに見えた。
「お母さんにもっと力があったら、カーラも今頃、他の子たちのように遊べたのに」
「そんなことないよ。私、いまは働きたいの。いっぱいお金を稼いで、一緒に家を買おうよ。勉強や遊びは、それからでもいいの。お金をもらって勉強もさせてもらえる今の暮らしなんて、天国よ」
 母は寝返りを打って、こちらに背を向ける。完全に表情は判らなくなってしまった。
「それができたら、早く寝なさいね。仕事は明日もあるのだから」
「はーい。お休み、お母さん」
「お休み、カーラ」
 母の寝息を聞きながら、カーラはペンを走らせる。ふと窓の外を見ると、月が夜空にぽっかりと浮かんでいるのが見えた。
 ヒューゴ様はニッショクってどんなことだと言っていたんだっけ。
 日中の眩しさが失われた世界を見つめながら記憶をたどるが、まったく思いだせない。
 昼間に太陽が失われてしまう。その意味をカーラは理解できずにいたし、想像もつかなかった。あと十日。そのとき何が起こるのか想像しながら、カーラは生まれて初めての宿題を終わらせた。


 翌日、決められた時間までに仕事を終えたカーラは、ヒューゴの勉強部屋の前に到着した。手には、一生懸命文字を書き込んだ文字の表。少し歪んでしまったけれども、母や同僚は褒めてくれた。
 しっかり呼吸を整えて、カーラは扉をノックして中に入った。真っ先に見えたのは、首と肩だけで振り返るビアス。そして、椅子から飛び出したヒューゴであった。
「いらっしゃい、カーラ。待っていたよ!」
 中央のテーブルには、二枚の紙が並べられた。ゆったりとしたソファの座り心地に戸惑いながら、カーラがまずヒューゴから文字を教わった。ヒューゴの国とその周辺で用いられる文字なのだという。一文字ずつ復唱し、書きとりをさせられた。そして最後にきちんと覚えられたかどうか確認する試験があって、カーラの勉強は完了した。
「すごいね、カーラは! 短時間でこんなに覚えられるなんて!」
「もともと、お屋敷のなかで、見かけていましたから。いちど、本棚の整理をすることもありましたし」
 ヒューゴはいつもよりも余計に楽しそうに見えた。思えば、彼はほとんどビアスかガーティンと一緒にいる。昨日みたいに、ビアスに許可をもらって散策することはあっても、遠くに行ってはいけないと言われているし、友達もいない。
 やっぱり寂しいのかしら。興奮したヒューゴの言葉を音楽のように聴きながら、カーラは彼のにこやかな表情を眺めた。
「ヒューゴ様が書いた表はカーラにあげるから、カーラはヒマな時はこれを見て覚えなさい。休憩したら、次はカーラがヒューゴ様にお教えすること」
 ビアスの言葉に、反射的にカーラは立ち上がった。
「では、私、何かお飲物をお持ちします」
「ああ、お前は座っていなさい。他の者に持って来させよう」
 ビアスは廊下に出た。どうしたらいいのかわからなくて、カーラはソファに座りなおした。やわらかく包まれるような感覚は、今まで経験したことのないものだった。それに、誰かにお茶を持ってきてもらうなんて、変な気分だった。ヒューゴはそんなことを気にも留めずに、戻ってきたビアスと話をしている。
 少しして、飲み物が運ばれてきた。年上の同僚が、にやにやとしながらカーラにもカップを渡す。いつもこの高価なカップを洗ってきたカーラは、手が震えた。
 ヒューゴを見ると、慣れたと言うよりも当たり前のように優雅に口をつけていた。そういえば、カーラはヒューゴが何かを口にする風景を初めて見た。綺麗だ、と思い、同じように茶をすする。きちんとできているのかわからなかった。きっと、いま鏡をみたら自分はとてもみっともないだろう。
「カーラ、次は君の番だよ。飲みながらでもいいから教えて!」
 ビアスは何か言いたそうに眉を動かしたが、カーラの方を向いて目で彼女を促した。カーラは慌ててカップを置き、自分が作った文字表を二人の間に置く。緊張しながら、先ほどヒューゴがやったのを真似ながら自分の国の言葉を教えた。
 外国の人間に自分たちのことを伝えるのはどこか照れくさかったが、ヒューゴは真面目に耳を傾けてくれて嬉しかった。もっとも、彼はカーラほどには文字を理解できなかったのだけれど。
「どうしてだろう、カーラの半分くらいしかセイカイしなかったよ」
「カーラはすでに我々の言葉をある程度話せていましたし、文字に触れる機会もありました。基礎ができていたのですよ」
 何度目かのお代わりの茶を注ぎながら、ビアスは素っ気なく言う。褒められたわけでもなんでもないが、彼にそう言われると嬉しかった。
「ジョジョに慣れていきましょう。ご自分で言いだしたことですから、セキニンをもって」
「わかっています。でも、他の国の言葉を覚えるのがこんなに大変だと思わなかった。やっぱりカーラはすごいや」
「そんなことはありません」
 仕事で必要でしたから、と言おうとして、カーラはやめた。それは言ってはいけない、ととっさに思った。
「……ヒューゴ様だって、練習すれば話せるようになりますよ。すぐ、です」
「うん、がんばるよ」
 その日は、ビアスが予想したとおり、数字の読みかたまで辿りつけなかった。ようやくお互いがお互いの文字を理解した段階で勉強会は終了した。カーラが丁寧に礼をして部屋を出ると、ビアスが追ってきた。
「今日はご苦労」
「あの、あれで良かったですか?」
「ああ、お互い教えることに慣れていない者同士ならジョウデキだ。ヒューゴ様も良い勉強になったろう。カーラ」
 改めて名前を呼ばれると、どういうわけか背筋を伸ばしたくなる。
「教えるということは、自分がまずそのブンヤを理解していなくてはならない。だから、今回のことは、ヒューゴ様のガクシュウを深めることにもなる。今日はかんたんなところから始めたが、これからヒューゴ様にはもっとむずかしいことをお前に説明してもらう。まだ勉強を始めたばかりでたいへんかもしれないが、カクゴはしてほしい」
「はい」
 彼の言っていることを正しく理解できたかは自信がないが、なんとなく内容は解った気がした。ふと、ビアスの表情が若干緩んだように見えた。
「ヒューゴ様の勉強は、他のことが優先だから、お前はいまのような教えかたでいい。せめて、タンジュンな会話ができるようになれば、と思うが」
 それだけ言うと、ビアスはヒューゴの勉強部屋へ戻ってしまった。カーラは急いで、使用人の溜まり場に向かった。
「いま、終わりました」
 まっさきに寄って来たのは、先ほど茶を持ってきた同僚だった。
「ああやっていれば、あんたもお姫様に見えたよ」
「からかわないで。すごーく緊張したの。勉強は楽しかったけれど、ああやってふかふかの椅子に座ってお茶を飲むって、変な感じだったわ」
 クッションも何もない木の椅子に腰かけると、その硬さに安心した。やはり、自分にはこちらのほうが合っているようだ。
「そりゃそうよ。私たちは使用人。ああいうのは、あの人たちみたいな上流にしか相応しくないのよ」
 その言葉をきいた瞬間、胸がしめつけられるような思いがした。けれど、カーラは笑った。
「やっぱり、私たちはこっちよね」
 その言葉が、苦く彼女の心に広がった。


 それからと言うものの、カーラの仕事には「坊ちゃんの勉強相手」という項目が加わった。まだ子どもということもあり、彼女の持ち場は決まっておらず、雑用なことばかりしていたので、それ自体はたいした手間ではなかった。むしろ、自分には過ぎた休憩と思っていた。
 ビアスが言ったとおり、カーラが教わることは日に日に高度化していった。最初は言葉や文字だけだったのに、数学や文化、地理など、ヒューゴの教える内容は多彩化していった。おそらく、その日か前日にビアスから教わったことをカーラに伝えているのだろう。
 難易度が高すぎてついていけないこともあったが、口には出せなかった。ヒューゴが一生懸命教えてくれているわけだし、それを理解するのもカーラの仕事だったから。
 おかげで、カーラは自分が少し賢くなったように感じられた。語彙もだいぶ増えたし、喋るのもだいぶ滑らかになってきたのではないだろうか。新聞もヒューゴに説明してもらって読むことができるようになった。
 わからないところは、宿題ということで翌日までに理解しなければならず、負担もあったが、それでも彼女の暮らしは充実した。
 だから、ある日、突然ヒューゴが持ち場にやってきたときは驚いた。
「カーラ、来て来て!」
「え、でも、まだお勉強のお時間では……」
「何言っているんだよ、今日は日食だよ!」
 日々の生活が忙しくて、すっかり忘れていた。そういえば、今日は朝から外が騒がしかった。
「カーラ、とりあえずその仕事は後にして、外へ一緒に。今日は日食の勉強を」
 ビアスに促され、カーラはヒューゴに手を引かれて外へ出た。いつもよりも若干日差しがやわらいでいる印象があった。
「お屋敷からでも、見えますか?」
「ああ、とりあえず太陽が見られる位置にいれば大丈夫だ。ああ、そのまま見るんじゃない」
「カーラ、これ使うんだよ」
 ヒューゴが取り出したのは、黒い板だった。
「太陽の光は直接見ると目を痛めるんだ。だから、これ越しにカンソクするんだって。はい、これがカーラの分」
「あ、ありがとうございます」
 板をかざして、空を見上げる。うっすらと太陽が確認できた。不思議な気分だった。
「先生、あそこが欠けていますね」
「はい。これから段々と太陽が月によって隠されていきます」
 ヒューゴとビアスの話は、相変わらず早口になると聞き取れなかったけれど、カーラは気に留めなかった。ヒューゴの言うとおり、太陽の一部が欠けているのだ。その瞬間、身体がぶるりと震えた。
 いつか、祖父か祖母が言っていた。太陽は完全なる円。それが強い光を放って、世界中を照らすから神々しいのだと。あれは神の姿。生命を守る神が、あのなかにある。
「ああ、神様」
 思わず、カーラは呟いた。祖父母が病気で苦しんだときも、父が海に沈んだときも、カーラは神に祈った。けれども、思いは届かなかった。
 本当は神様なんていないのかもしれない。密かにそう思っていたのに、いま実際に太陽が欠けると、まるで世界が終わるかのような悲しみが彼女を満たした。
 人々の歓声のなか、太陽はまるで月のようにどんどん欠けていく。辺りは次第に暗くなる。夜みたい? いや、これは違う。カーラは首を横に軽く振った。これは、日食としか言えない世界だ。
 やがて、太陽は完全に覆われた。屋敷の使用人たちも窓から空を見て、驚いている。ヒューゴははしゃいでいる。しかし、カーラの時間は完全に止まった。がたがたと震え、寒気が止まらない。怖い。がくり、と足の力が抜けた。
 消えてしまった。
「カーラ、大丈夫?」
 ヒューゴが近寄って、起こしてくれる。
「はい、大丈夫です。私のことは気にしないでください。ヒューゴ様は、太陽を見ていてください」
 精いっぱいの笑顔を作って、カーラはヒューゴを押しやる。そして、心配させないように板を再度かざす。
 なんて暗い世界。これが昼間だなんて、誰も思わないだろう。
「カーラ、あと少ししたら、ダイヤモンドリングが見られるよ」
「何ですか、それ」
「また太陽が出てきたとき、まるでダイヤモンドのユビワみたいな光ができることだよ」
 カーラはやはりよく理解できなかった。すると、ビアスがこちらに視線をやることなく口を開いた。
「見ればわかる。本物のほうは、後でヒューゴ様に見せてもらいなさい」
 返事をしようとしたとき、ほのかに空が明るくなった気がした。見つめていると、光の輪ができて、その一点がまばゆく光を放っている。美しい。ただその言葉しか出なかった。同時に、ほっとした。太陽は、確かに存在している。
 夜明けの地平線を眺めているような、高揚感。下から上へと、見えない手が彼女の身体を撫でる。ぞくりとする快感。あれだけうるさかったはずの周囲が、不思議と静かだ。世界の奇跡をいま自分は見ているのだという幸せをかみしめながら、交差し離れていく月と太陽を眺めていた。
 空は少しずつ明るくなり、徐々に喧騒が戻っていく。そして、完全に空に青が戻ったとき、カーラはようやく立ち上がることができた。
「すごかったね、日食初めてだったよ! 楽しかった!」
「あ、はい」
 我ながら力の抜けた声がおかしかった。カーラは、手に持っていた板をヒューゴに差し出した。
「ありがとうございました。おかげで、いっぱい楽しめました」
「それはカーラにあげる。プレゼント」
「え?」
 ヒューゴはいたずらっぽく舌を出した。
「実は、それはさっきそこのお店に行って買ってきたんだ。一緒に見たかったから。僕、初めてここの国の言葉で話したんだよ」
 確かに、その前々日から前日にかけて、買い物の会話を教えた。ビアスともども、ほんの遊びのつもりで教えたようなものだった。
「これ、クダサイ。いくらデスカ?」
 ヒューゴは再現してみせた。さりげなく、ビアスは微笑んでいた。確かに、ところどころおかしい部分はあるけれど、確かにカーラたちの言葉だった。カーラは、自分のしたことがこのような形で返ってくるとは思わず、胸がいっぱいになった。
「今日のこれは、教えてくれたお礼」
「ですが、私はヒューゴ様に勉強を教わっています。それだけで十分どころか、私の教えることなんて全然……」
「いいんだ、僕がカーラにあげたかったんだ」
 板を持ったカーラの手を、ヒューゴは優しく押し戻した。カーラは頭を下げた。
「ありがとうございます。大事にします」
 胸に主からの贈り物をしっかりと抱え、三人は屋敷の中に入った。
「次にこの島で皆既日食が見られるのは、五十三年後らしいよ」
「え、そうなんですか? まあ、ずいぶん先ですね」
 その頃、自分はどうしているのだろう。生きていたとしたら、だいぶおばあちゃんだ。そのとき、こうして生まれて初めての体験をした今日のことを懐かしんでいるのだろうか。何も知らない子どもたちに、どんなに日食が神秘的で美しいのかを誇らしげに語るのだろうか。まだあまりにも先の話で、見当もつかない。
「でも、二年後には他の地域で見られるんだよ。こんなに素晴らしいゲンショウだったら、何度でも見たいね。行ってしまおうかな」
 カーラの足が止まった。しかし、ヒューゴはそれに気づかず続けた。
「先生、今度は旅行になってしまうでしょうけれど、ぜひ行きたいです」
「ええ、いいですよ。自由旅行が許されるほどの身分になってくだされば」
 当たり前のように、ヒューゴは言った。そうだ、彼はこの島で見なくてもよいのだ。どこにだって行けるのだろう、あの海を越えて。彼は、外国の金持ちの家に生まれた人間なのだから。彼らにとっては、この素晴らしい時間も、何度も見られるものだのだろう。
 わかっていたはずなのに、カーラの目には涙がにじんだ。自分にとっては一生に一度しか見られないかもしれないものだけれども、彼らは見に行けるのだ。あの、全身を電流が駆け巡るように神々しい太陽を。
 カーラは海を越えることができない。どんなに主人と近くなっても、どんなに勉強しても、自分は貧しい小国の片隅に生まれただけの存在。何度も見たいと願っても、動くことはできないのだ。
 いや、泣いてはいけない。いまここで、こうして日食を彼らと見られたことを幸運と思わなければ。カーラは涙をむりやり拳でぬぐった。そう、自分が確かに幸せだった証がここにある。カーラは自分の手を見つめた。
 板をかざす。窓の外の太陽が映し出された。それを確かめて、カーラは自分の日常へと戻っていった。




2009/08/01
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