見習いクロウの最後の一年 第二話 風薫る空の洗礼 季節というものは、すこし気を抜いている間に移り変わっていく。 ついこの間までまだ羽織るものが必要だったはずなのに、いつのまにか薄着でも平然と過ごせるようになっていた。 とうとう春用の上着にすら袖を通さなくなったクロウが朝出勤すると、先輩たちが数名、あわただしく動いていた。 「おはようございます、どうしたんですか?」 「ああ、おはよう。カイトさんが今日帰ってくるとかで、いろいろ整理」 クロウは目を丸くした。 「あれ、来週じゃないんですか?」 「いきなり切り上げたんだとよ。まったく、相変わらず気まぐれだなあ」 先輩が持ち上げようとした荷物を支えながら、クロウは呟くように言う。 「一年以上、下にいましたよね」 「ああ、鳥使いの普及目的だからな。四ヶ国はまわったんじゃないか?」 クロウはカイトの予定を頭のなかで数えて確認し、溜め息をついた。彼のことは苦手だが、仕事面に関して言えばむしろ敬意を持っていた。 ジェミアは他国からの旅行客が大きな収入源となっている。専門職はジェミア観光の柱であった。特に鳥使いや影使いなどはこの都市にしかおらず、注目される存在だ。 鳥使いも、鳥相手の仕事だけでなく、外部にジェミアをアピールする任務が発生する。ときには、今回のカイトのように地上にて鳥使いがどういうものかを広く知らしめる活動も行うのだ。 他に鳥使いの仕事といえば、学者らと協力して研究を行うというものがあるが、クロウはこちらのほうがまだ気楽に思えた。もともと自分は外部の人間相手の仕事を担ってはいないが、人前であれこれするのは緊張する。 ましてや、ジェミアを長期間離れるのはとても恐ろしく思えた。地上にかすかな憧れはあっても、クロウにはまったく別の土地に赴く勇気はなかった。 仮に地上出張の命が下されたときのことを考えながら、机を動かす。 そのうちぽつぽつと他の鳥使いも出勤してきた。そろそろ朝礼かというときになって、いきなり扉が開いた。 「くうー、やっぱり故郷が一番だねえ。地上はどうも重苦しい」 現れたのは、枯れ草色の長い髪をくくった青年。彼がカイトだ。 鳥使いたちは次々に挨拶する。気後れはしたものの、クロウも一応その輪に加わった。 「おかえりなさい、カイトさん。長いお仕事でしたね」 カイトはクロウに目を留めると、おおげさに目を見開いてみせた。 「あっれ、お前、まだいたの? とっくにクビになったかと思った」 彼の言葉に、その場にいた鳥使いの何人かは笑顔を作り、何人かは顔をしかめた。 「俺が局長なら、とっくに追い出してるんだがな」 彼は嘲笑をはらんだ声で言い捨てる。 カイトは二十代半ばにして、十歳以上上の先輩に交じって五級までのぼりつめた実力者だ。いずれは局長になると目されている。しかし、その傲慢な性格を嫌う人間も少なくない。 「あ、えっと……」 彼と顔を合わせるといつもこうして絡まれる。反射的にクロウは下を向いてしまった。 カイトはおおげさに肩をすくめた。 「本当に見るだけでうんざりするツラだな。俺がせっかく鳥使いの地位を上げようっていうのに、同じ職業のやつに足引っ張られちゃたまらない。飛べるものも飛べなくなる」 「カ、カイト……ヤメヨウヨ。俺ガラーヴァサンニ怒ラレルンダカラサ」 カイトの肩で小さくふるえているのは、彼の相棒のリフルだ。 チラチラとこちらに視線を送ってくる彼に、ラーヴァは苛立った声を出す。 「オイ、リフル! オ前ダッテコノ世界長インダカラ相棒ノ躾クライチャントシテオケ!」 「ゴ、ゴメンナサイ……」 萎縮するリフルを見て、カイトは口を開いた。 「クロウ、お前の鳥のほうこそ躾がなってないぞ。先輩の鳥への礼儀くらい仕込んでおけ。さすがにそれくらいはできるだろ」 彼は蔑むような視線をクロウに送り、横柄な態度もそのままに外へ出ていってしまった。 扉が閉まると同時にラーヴァは爆発したように鳴いた。 「ケッ。ナンダヨ、アノ鼻タレ小僧ガ! アイツダッテ新人ノコロハ別ニタイシタコトナカッタクセニ!」 ラーヴァはくちばしを開きつつ羽を思いきりばたつかせる。 「ラーヴァ、そういうことは言わないほうが」 「言イタクモナルワ! 先輩ノ鳥ヘノ礼儀ダト? オ前ハドウダッテ話ダヨ。モトモト俺ハロビンノ相棒デ、アイツラヨリモココデノ仕事ハ長インダゾ!」 キイキイとわめくラーヴァに、苦笑しながら局長が寄ってきて声をかける。 「まあまあ、ラーヴァ。お前にはロビンが亡くなってクロウが入ってくるまでは何年かブランクはある。そのあいだ、彼らはちゃんと仕事をこなしてくれたよ。だからその点は多めに見てやってくれよ」 「パロット! 一応、俺ダッテ顔ハチョクチョク出シテイタゾ! ソレニ、イクラアイツガソコソコ仕事デキタトシテモ、アノ態度ハナイダロ。昔ダッタラ――」 「昔は昔、今は今。今のお前はクロウの相棒だろ? クロウのためにも少し引いてやってくれよ」 それでもまだラーヴァは納得できていないようで、ぶつくさ言う。クロウは俯いた。 「ごめんね、ラーヴァ」 「ハァ? オ前ガ謝ッテドウスルンダ! 問題ハアクマデモアイツダロウガヨ!」 ラーヴァが興奮すると、その羽毛の色とあいまって炎のように見える。 彼がこうして怒ってくれるのはありがたいが、それ以上にクロウは申し訳なく感じていた。 最近は先輩たちから小言を言われる回数が減ったものの、まだ自分の未熟なのだと思い知らされるのだ。 着地した瞬間、クロウはずっと止めてしまっていた呼吸を思い出す。胸が激しく膨らんではしぼみ、ふいごになってしまったようだ。 けれどもここで終わりにはしない。今の飛行の感覚はなかなか良かった。今日のうちに身体に覚えさせておきたい。 「ゲイル、もう一回」 「ハイヨ。マッタク、老体ニアンマリ無茶サセナイデクレヨナ」 言いつつも、その口調は以前よりもずっと優しくなった。それがクロウは嬉しかった。 レイドの一件以来、クロウは飛行訓練に力を入れるようになった。まだ腰は引けているし、時々飛び降りたくなるような衝動にも襲われるが、一ヶ月気を引き締めて続けているうちに、短時間の飛行ならなんとか形になってきた。 「でもなあ、まだ下との往復は難しいか」 訓練終了後の主任の第一声に、思わずクロウはゲイルの頭を見下ろす。 レインアローを操って地上へ赴くのも、鳥使いの業務のひとつだ。急を要する用事も多いので、速度も安全性も求められる。 ようやくジェミア内での短時間飛行に慣れてきたクロウには、まだ町の外に出ての活動は荷が重かった。 「主任、僕、がんばります」 「腹くくって集中練習して、ようやくここまでだろ? 今だって顔色が悪いじゃないか」 ふとクロウは自分の頬に手をやる。体温をまったく感じない。指で触れていることすら気のせいに思えてくる。 「無理に進めて事故でも起こすほうが、仕事できないことよりもよっぽど大迷惑だ。まあ、お前は成長してるよ。でも、今までよりはってだけだ」 主任は天を仰ぎ、時計を確認する。 「時間か。今日の訓練はここまでにしよう」 鳥たちの小屋の用事を言いつけ、主任はゲイルを連れて去っていく。 それを見送りながら、クロウはぽつりと言う。 「まだまだかあ」 押し殺した笑い声が聞こえる。訓練場の端に、カイトが立っていた。 「ああ、ああ。見てられないねえ」 クロウはどう反応したらいいのかわからなくて、ひとまず会釈だけする。 「お疲れさまです……」 「お前、もう十三だっけ? 今までなにやってたの?」 クロウはなにも答えられない。 「正直さ、最初からだめなやつだって思ってたんだよお前のこと。ロビンさんの息子っていうから多少は期待できるんじゃないかって、前情報はあったんだけどさ」 カイトは芝生を踏みながらこちらに向かってくる。その肩ではリフルが居心地悪そうにしながらラーヴァの様子を窺っていた。 「いくらなんでも、こんなに使えないやつだとなあ。今も見ていたけどさ、一年でどれだけできるようになっているかと思ったら、あの程度か」 彼の言葉は鋭く尖っている。だから、まっすぐクロウの心に突き刺さるのだ。 「あの、教えてくれませんか? どうやったらちゃんと飛べるようになるのか」 「知るかよ」 カイトは顔をゆがめる。 「手綱を握ってちゃんと立つ。そんな当たり前のことだけだって。レインアローの背は狭いなんて言わせないからな」 ゲイルはレインアローのなかでも年長者で、体は平均よりもやや細いが、それでも大人の二人や三人くらいなら乗せられる。 「そこまでの高所恐怖症はもう病気だろう。辞退してもいいんじゃないか?」 「それは……」 「いいか、いざというときは自分よりも同乗者の安全を優先させなきゃいけないんだよ。それなのに、単独飛行ですらまともにできない人間なんて意味ない。そんなの外部に見られたら、俺の一年間がパァだ」 今まで我慢していたラーヴァもさすがに口を挟む。 「オイ、カイト!」 「お守りは黙ってろ!」 爆発音のような声に、クロウは思わず両肩を跳ねさせた。 「こんなどうしようもないやつが鳥使いなんてさ、いい迷惑だ。俺の美学に反してばかりだ」 彼の緑色の目がすっと細くなる。 「それともこう言ってほしいのか? おお、クロウくん、君は本当に気の毒だ。高いところが怖いのはしかたない、ジェミア内の勤務だけやればいいよ」 見事な棒読みだった。 「そりゃあ、鳥の声が聞こえるなら確実に鳥類局勤務に回されるけどさ、そのまま市民を選んだ人間だっていたんだ。もしも役目を果たせないなら、諦めることだって責任のひとつだ。望まれてもいないのに、中途半端な仕事ぶりだけされても迷惑でしかないんだからな」 「それは」 「主任から聞いたけどさ、最近になってようやく訓練に力入れるようになったんだろ? 俺からすると遅すぎるね。そういうところが気に障るんだ。ロビンさんもそりゃあ泣きたくなるんじゃないか?」 クロウは悔しくなった。カイトはかなり辛辣だが、そう言わせる理由があるのだから。 「まっすぐ立つ、手綱は中央、心を乱さない。あとは、レインアローに的確な指示をするだけだ。それすらできないんなら、鳥の声が聞こえてもお前には向かない仕事だったってことだ」 吐き捨てるように言うと、カイトは大きな足音を立てながら去っていった。 彼の言葉に、なにひとつ反論できなかった。クロウは拳を握る。 「僕、どうして最初からこれくらい一生懸命やろうと思わなかったんだろう」 努力は認めてもらっているし、少しだけであっても成果だって出ている。けれども、去年から今のような訓練を続けていたら、もっともっと先まで行けたはず。そう思えてならなかった。 心を満たす水に悔しさが落とされ、溶けて濁っていく。 「時間が経ってから気づくんだ。僕、そのときは頑張っているつもりでも、あとから考えると全然頑張ってなかった。もっと一生懸命になれたはずなのに……いつもそうだ」 見習いになったときから、今くらい必死に、限界まで努力していたら、きっとポイントだってもっと多く貯まっていたはずだ。そう考えると胸が痛くて涙が出る。 すでに級持ちになっている同級生たちは、見習いになった当初から各々の仕事に真摯になり、真面目に研鑽を重ねていたのだろう。それに気づくと、クロウは自分が恥ずかしくてしかたがなかった。友人たちに心配される資格すらないのだと。 「イヤア、一年前ノオ前ハアレガ限界ダッタロ」 ラーヴァがクロウの紅茶色の髪の毛に突っ込むように降り立つ。 「マダヤレタッテ思ウノハオ前ガ成長シタカラダヨ。成長シタ分ダケ、モットヤレタッテ後デ言イタクナルモンサ」 「そうかな?」 「ソウダトモ」 頭上でラーヴァは頷くが、クロウには見えていない。 「過去ノオ前ハ過去ノオ前。確カニアマリ出来ハ良クナカッタガ、ソレナラ今カラガンバレバイイ。ソシタラ未来ダッテ明ルイゾ」 ラーヴァは相棒の頭を思いきり蹴って飛んだ。彼の赤は空の色によく映える。 それを見つめながら、クロウは、不甲斐ない自分を恨んでいる場合ではないことを悟る。 けっして怠けていたわけではない。しかし、いつかどうにかなるのだと心のどこかで甘えていたのは事実だ。 まだ見習いでいられるうちにそれに気づけた。それを自分への及第点とした。 いつものとおり鳥たちのわがままを聞きながら彼らの世話をしたあとは事務仕事。それをなんとか一区切りつけて、帰ろうと扉を開けると、トーレスが立っていた。わざわざ市庁舎の反対側にある警護局から鳥類局まできたらしい。意表をつかれて固まるクロウを気にせず、彼は右手を上げる。 「お疲れさん。どうよ、調子は」 「うーん、ぼちぼち、かな」 トーレスは顔をくしゃつかせて笑った。 「上等上等、今日給料日だろ、カフェ寄ろうぜー」 だいぶ日が伸びた空の下を二人で並んで歩く。鳥類局からカフェまでは、一度屋外に出る必要があるがそれほど遠くはない。 「トーレスはさ、大人になったら『一杯引っかけて帰ろうぜ』とか言うつもりでしょ」 クロウは苦笑した。 「もちろん! あー、子どもって辛いな。俺たちだって仕事してるのにさ」 都市の条例により、十五歳以下の少年少女だけで夜間に食堂に入るのは禁止されている。それは専門職に携わっている彼らも例外ではない。 夕方のカフェが唯一彼らに許された寄り道なのだ。 「しょうがないよ。僕たちまだ十三歳だもん」 「あーあ、年齢ってやだねぇ。まだまだ権限も信頼も少なくてさ。やりたいことはたくさんあるのに、若いって理由だけでなにもできないんだから」 トーレスの言葉を聞きながら、自分の場合は年齢が理由ではないなと思うクロウであった。 カフェでお決まりの席に通された二人は、予定どおり本日のおすすめ品を注文する。それからすぐに、糖瓜と黄果、杏、粒薔薇をふんだんに使ったゼリートライフルが運ばれてきた。透明なゼリーの欠片が涼しげで、迫りくる夏を感じさせる。 「あ、いらっしゃい」 給仕役はシャーロットという名の少女だった。彼女はクロウたちの同級生で、アンジェリカと同じく季節菓子職人の道を進んでいる。まだ見習いだが、もう少しで級持ちになれるという。 「今日はシャーロットか。トライフル作ったのも?」 「ええ。まあ、ちょっと感想言ってくれない? アンジェリカのケーキ食べ慣れてる二人に出すのは尻ごみするけど」 スプーンでグラスの中身をすくって口に入れる。舌の上でクリームを溶かしながら、ゼリーと果物の食感を噛みしめる。 「うん、美味しいけどさ」 トーレスは首を捻る。 「無難ていうか、定番の味って感じ。まあまあかな」 シャーロットは苦笑いする。 「職人殺しな感想ね。クロウは?」 「そうだなあ。クリームもゼリーもフルーツも生地も滑らかっていうか。コリコリしたものがあると面白いかも」 「なるほどー」 シャーロットは小さな紙に意見を書き留める。 なんだか、いつもとちがう。落ちつかない。 クロウは厨房があるはずの、奥の扉を見やる。 「アンジェリカは奥?」 「ああ、今日はお休み。……最近調子悪いから」 「え、どうして?」 知らないのか、という呆れた視線をシャーロットは寄こす。 「五月にコンクールがあったでしょ? そのとき、アンジェリカ、入賞できなかったの」 「あー、確かにあいつの名前なかったな」 狼狽するクロウとは対照的に、トーレスはのんきにトライフルを掻きこむ。 「え、そうなの?」 「クロウ、あなた幼なじみでしょ? そういうのはちゃんとチェックしておきなさいよ」 自分のことに精いっぱいで反省する。最近は顔を合わせない日が続いただなんて言い訳しても虚しい。 「ずっと入賞はしてたからね。それでいきなりこれだから、あの子結構へこんじゃってさ」 「ま、あいつプライド高いからな。たまには挫折も必要なんじゃないの?」 「あら、トーレスこそ挫折するべきではなくて?」 「俺、天才だからさー、挫折したくてもできないんだよねー」 高らかに笑うトーレスの頭を、シャーロットは指で弾いた。同学年の女子は彼に容赦ない。 「すぐに回復するといいんだけど」 シャーロットの言葉は、クロウの思いでもあった。 アンジェリカはいつも活発で、文句を言いながらもテキパキと問題を対処する。そんな彼女が仕事に支障が出るほど沈んでいるとは、めったにないことだった。 「僕……近所だし様子見に行ってみようかな」 「やめとけやめとけ」 スプーンを持った手を左右に振りながらトーレスは顔をしかめた。 「ヘタに近づくと逆鱗に触れるぞ」 シャーロットは瞬時にトーレスの後頭部を狙って拳を振りおろした。そして、クロウに向き合う。 「まあ、私も今はそっとしておいたほうがいいと思うわ。へたに気を使われると、もっと頑なになっちゃう子でしょ」 彼女の言うとおりではあった。妙なふるまいで刺激すると逆にこじれてしまう。 トーレスの言葉に従ってしばらくの間そっとしておくことにしたクロウだが、アンジェリカへの心配はひそかに募っていった。 その日、鳥類局はいつも以上に忙しない状況だった。翌日から五日間、局はほぼ空になる。地上の鳥類学会との会議で、鳥使いたちが出払うのだ。 残るのは、クロウを含めて三人だけだった。 「おい、そこの。ちょっと来い」 珍しくカイトがまともな話しかけかたをしてきた。クロウは緊張しながらも側に寄った。 「ほい、これとこれとこれと、あとこれも」 いきなり書類をいくつもリズミカルに渡される。 「え、こんなに?」 山となった紙の束を腕でなんとか支えながら、クロウは目を丸くした。それを見て、カイトはにやりと笑う。 「あったりまえだろ」 不敵という言葉がぴったりの表情だ。 「レインアローに乗れないやつなんか、置いておく価値はない」 そう言われては返す言葉もない。 カイトは人差し指をまっすぐクロウに向ける。 「それ、俺たちが帰るまでにやっておけよ」 驚いたクロウは、うっかり書類を落としかけてしまう。 「え、五日で、ですか?」 「でなきゃお前なんかに頼むものか」 見下した視線が突き刺さる。 「それくらいしてくれなきゃただの給料泥棒だからな。そうだろ、級なしくん」 カイトの襟でさりげなく光るオリーブのバッジを見てから自分の胸元に視線を移すと、なにも言えなくなってしまう。 彼はそのまま出発の準備のため離れていく。クロウはひとまず預かったものをすべて自分の机の上に置いた。 五日間、ほとんどの業務がストップしてしまうということで、事務仕事は多いのはしかたない。明日からと言わず、今日やれることは、会議の用意を手伝う合間にさっさとやることにした。 ちょうど時間が空いたので集中して書きものをしている最中、いきなり肩に手を置かれて悲鳴をあげてしまった。 「おいおい、こっちがびっくりだよ」 呆れた声は聞き慣れたもの。 「あ、トーレス……」 彼は手にいくつかの紙束を持っていた。 「ほい、これうちの部署からの届け物……って、ええ?」 トーレスはクロウの机の上を見て目を見開く。クロウの座高よりもさらに高い山が出来上がっていた。 「なに、これ、ぜんぶお前の仕事?」 「うん……」 トーレスは呆れたような声を出す。 「いくらなんでもこれは多すぎないか?」 「先輩たちがいない間は、僕がその分働かなくちゃ」 トーレスはこっそり耳打ちをしてくる。 「俺にできることある?」 彼は事務仕事もそつなくこなす。一瞬ありがたく思ったクロウだが、首を横に振る。 「他の部署の人には」 「あ、そっか」 本当だったら、手伝ってくれると言う人全員の手を借りたい。しかし、それではいけないのだ。 「……また今度さ、カフェに一緒に行ってよ」 「おう、お疲れ会でもしような」 出ていくトーレスに手を振りながら、クロウは机を見渡す。 レインアローに乗れるとは堂々と言えない今は、こういう仕事をすることでしか貢献できない。理想は遠く離れていて、ついそちらへと走りだしたくなるけれど、だからといって自分にできることを置き去りにしていたら意味がない。それなら軽蔑されるに決まっている。 こめかみを押さえて気合いを入れ、クロウは書類の山と夕方まで格闘しつづけた。 三人体制の初日、ラーヴァはいつもより早めにクロウを起こした。こんなときに寝坊なんかしていられない。 雑務が溜まっているのは憂鬱だが、それだけに集中できる環境にはなっているので、最悪でもなんでもない。そう思いながらいつものように事務室の扉を開けた。 「おはようございます」 すでに居残り組の先輩、シーガルとクレインが来ていた。神妙な顔でなにかを話している。 「どうしたんですか?」 「おお、来たか。さっそく問題発生だ」 クレインがげんなりとした口調になる。 「ワイズ家が急にお見えになった。現在はホテルのサロンでのんびりしているらしいが」 「え、ワイズ家の方ですか?」 ワイズ家は世界的に高名な富豪である。ジェミアに別荘を持っており、たびたび訪れている。 一家そろって特に鳥使いや影使いがいたく気に入っているらしく、来るたびに案内役を求めてくるのだ。 「いらっしゃるお話ってありましたっけ?」 「お嬢さまがいきなり、それこそ昨日今日でジェミア行きを決めて乗りこんできた、らしい」 「金持ちはいいねえ。それで、警護局も、鳥使い一人出せって言うんだよ。あいつら、うちがどういう状況か知ってるくせに」 シーガルはぽりぽりと頭を掻く。 会議は大規模なので、人手はあればあるほどいい。本来なら鳥使い全員で赴きたいほどだが、人員不足でジェミアが空になっても困るということで、無理を言って三人残した状態なのだ。 もともとクロウが下に連れて行かれる可能性はほとんどないとしても、残った以上は仕事に全力で取り組みたい。 鳥類局から一時的に人がいなくなってしまうので、外部の人間相手の仕事はすべて受け付けないことになっている。 しかし、今回話を持ってきたのは、ジェミアにとっては重要な客だ。政治的判断で、特別に対応することになった。 「ど、どうするんですか?」 「お嬢さまをお迎えしたことがあるのは、このなかではクレインさんだけだからな。今回はよろしくお願いしますよ」 クレインは苦い顔をする。 「俺、あの人苦手なんだよな。経験を積むためだ、シーガル行ってこい」 「いやいや、先輩にお譲りしますって。それに俺、ちょっと風邪ぎみだし」 二人が互いに押しつけあうせいで、室内に不穏な空気が満ちてくる。 「せっかく今回居残り組になったんだ。のんびりさせてくれよ」 「えー、事務は事務で結構大変だって言ってたじゃないですか。そんな仕事させられませんって」 「不毛! ナンデモイイカラサッサト決メロヨ」 ラーヴァがそう口を挟むものだから、両者の視線が自然とクロウに向いた。 クレインはいつになく真剣な表情で口を開く。 「……クロウ、せっかくだから」 「だめです! ワイズ家をクロウ一人に任せるなんて、俺ら減給ものですよ」 結局、穏やかではない話しあいの末、クレインが相手をすることになった。 「お前はいいよなあ。楽な仕事だけですむんだから。見習いって立場に感謝しろよ」 クレインは呪いの言葉を口にしながら、警護局へと向かう。 「大人げないなあ……。まあ、クロウ、せっかくだ。ちょっとは手伝ってやるから」 「あ、ありがとうございます」 「いいって。二人でこの自由を満喫しようぜ」 自由になれるのだろうか。クロウはまだまだなくならない未処理の書類を見ながら冷や汗をかく。 「……でも、大丈夫ですかね。二人ですよ」 「実質俺一人だよ」 クロウが青ざめると、シーガルはあわてて冗談だと強調する。 「まあ、何も起こらなければ大丈夫さ」 「……だといいんですけれど」 昨年もクロウは居残り組だったけれども、今は状況が違う。ちいさな不安が心の隅でちりちりと燃えていた。 そしてそれは見事に現実になってしまった。 会議の二日目にあたる、その翌朝。机に向かったクロウは時計を見やった。本来の出勤時刻から三十分以上経っているのに、室内にはクロウ一人だった。 クレインは引き続き直行直帰でワイズ家の案内をする予定だからいいとして、クロウと一緒に局で待機当番となっているはずのシーガルがまだ来ない。 「ラーヴァ、ちょっと見てきてくれる?」 「オウ」 廊下側の窓から出ていくラーヴァを見送りながら、クロウは溜め息をついた。 いつもは鳥使いと鳥で賑やかな、この時間の鳥類局。そこに自分一人でいると不安が募っていく。事務仕事だったらもう教えられなくてもできるけれども、他に人がいるかいないかだけで心の安定度が異なってくる。 そういうところが未熟なのだなと思って、情けなさに笑いをもらすと、ラーヴァの声がいきなり飛びこんできた。 「クロウ、クロウ! 大変ダ、来テクレ!」 クロウは飛び跳ね、すぐに扉を開けた。そこでラーヴァにぶつかる。 「痛っ!」 「悪イ、デモスグ来テクレ!」 「クロウ、頼ム!」 シーガルの相棒もやってきた。 二羽に言われるまま廊下を走って角を曲がると、シーガルが壁に背を預ける形で座りこんでいた。 「シーガルさん?」 「……おはよう」 「今朝カラスゴイ熱ダッタンダ。ソレナノニコイツ、来ルッテキカナクテ」 クロウはシーガルの腕を取って自分の肩で彼の身体を支えた。 「医務室へ」 「あー、そっちはいいから。とりあえず事務室まで頼む」 「え? でも……」 「大丈夫だから」 彼はクロウの手を振り払って事務室へ行こうとするので、しかたなくクロウは言うとおりにした。 長椅子にシーガルを寝かせると、水と冷やした布を用意した。 「季節の変わり目だからかな。元々ちょっと咳とかしてたんだけど、昨夜から急に……」 「あの、帰ってもいいですよ? 僕、いますし」 シーガルの不穏な視線。クロウはその意味を悟り、苦笑いになってしまう。 「頼り……ないですか?」 「うん……」 頷こうとしたシーガルだが、それだけで目眩が起こってぐったりとしてしまう。 「あ、やっぱり無理ですよ。とりあえず、一日だけなら僕が事務室番していればもつでしょうし、明日はクレインさんも手が空きますし、今日は休んでください」 ひどく苦しげな顔をしたシーガルだったが、渋々了承した。 「ラーヴァ、悪いけど医務室に連絡してくれる?」 「ハイヨ」 ラーヴァの背を見つめて、シーガルは呟いた。 「まあ、さっきは頷いちゃったけどさ、本音を言えばこういうときお前でもいてくれてよかったよ。さすがに一人も局にいないという状況は避けたいしな」 普段はいてもいなくても変わらない扱いを受けているせいか、その言葉だけでクロウは幸せになれる。 「こういうときにしか、役に立てませんから」 「まあまあ、確かにそうだとしても、そういうときは素直にありがとうとだけ言っとけばいいんだよ」 シーガルとともに力なく笑おうとした瞬間、けたたましい羽音とともに鳥用の出入り口が開いた。 ラーヴァかと思って顔を上げたが、そこにいたのは地上に連れていかれたはずのデューパール、ブレットだった。 「あれ、ブレット? なんで戻ってきたの?」 「急ニ資料ガ追加デ必要ニナッタンダトサ。デューパールノ飛行記録、過去ニ十年分」 「ええ?」 クロウはブレットを眺める。過去ニ十年分といったら、そうとうな量だ。いくらなんでも、デューパールの身体じゃ運べない。 「誰カニ持ッテキテホシイミタイダヨ」 クロウは一度も会議に参加していないから実情をよくわかっていないのだが、会期中の鳥使いは想像以上に多忙を極め、一人でも欠けただけでも負担が増すらしい。できれば避けたい、居残り組になりたいとこっそりこぼす者もいるくらいだ。 本来なら地上に赴いている誰かが来るべきなのに、それができないからこうしてデューパールをよこしたというわけだ。 「ど、どうしましょう?」 シーガルに尋ねると、彼の顔色もますます悪くなってしまった。 「今日中ニダッテ」 追いうちをかけるようにブレットが付け加える。 会議の日程を確認する。確かに、明日の朝一番にそれを必要とする集まりがあった。会議の準備も考えると、間に合わせるためには遅くとも一時間以内にはジェミアを出なければならない。 シーガルが地上まで行くのは無理だ。現在の彼の身体への負担が大きすぎる。 では、クレインを呼び戻すか? しかし、他部署とともに、ジェミアにとって重要な客をもてなしているのだ。しかも、わざわざあちらから鳥使いを、と指定されている。 シーガルがこうなっている以上、クレインに出てもらったらクロウがその相手を代わりに勤めることになる。しかし、クロウは鳥使いとして客と接する術もまだ身につけていない。 不足の事態とは常に起こるもので、そのときはすみやかに対処をすればいい。けれども、その流れを自分が邪魔な栓となってせき止めている。解決できるものもできないままだ。 頭数を満たすのでは意味がない。役に立たなければ。 (僕が飛べたら……) クロウは自分の手を見る。いつのまにか肉刺ができていた。この一年間は絶対に見ることのなかったものだ。 彼は意を決して口を開いた。 「ぼ、僕、行ってきます!」 「クロウ、お前には無理だろ」 「でも、他にいないじゃないですか!」 「ちょっと、俺がなんとかするから」 シーガルは立ち上がろうとしたが、すぐに目眩がして、再び長椅子に倒れこんだ。目は虚ろで視界も不明瞭、足に力は入らず直立すらできない状態だ。 「がんばります」 「でも、お前、まだ地上との往復訓練……」 シーガルはクロウの訓練の進行具合を把握している。会場のある都市まで行くなど、まだ彼には無理だと考えた。 「訓練は……」 「コレヲ訓練ニシチマエバイイ!」 ラーヴァが飛んできた。 「背ニ腹ハカエラレナイ! クロウヲナントカ役立タセルシカナイ!」 ラーヴァの言葉に、シーガルは朦朧とした意識でつい頷いてしまった。 「落っこちるなよ、クロウ。お願いだから目覚めの悪いことには」 「はい!」 この申し出は、自分にとっては大それたものかもしれない。 そんな気持ちを覚悟の裏に押し込めて、クロウはレインアローの小屋に向かった。 他の鳥小屋とはちがい、ここは厩に近い。それぞれのスペースでのんびりとくつろぐことができる造りだ。 レインアローも会議に連れていくので、居残っている鳥も少ない。 扉を開けると、待機組の数羽がこちらを向いた。 「オヤ、ロビンノ息子ジャナイカ。イッタイナンノ用ダ? 今ハオ掃除ノ時間デハナイダロウ?」 鳥たちはけらけらと笑う。クロウが高所恐怖症でレインアローをまともに乗りこなせないことは、彼らもよく知っている。 「どうしても地上に行かなくてはいけないんです。誰か、乗せてください」 ますます笑い声は大きくなった。 「君ハマダ練習中ダロ? 落ッコトシタラ僕ラガ責任取ラサレルカモシレナインダゼ?」 「大丈夫、落ちないから」 のそのそと歩いてきたのはゲイルだ。 「言ッテオクガナ、少年。確証ノナイ『大丈夫』ハ約束トシテ成立シナインダ。オ前ハナニヲモッテ俺タチヲ信用サセルンダ?」 ラーヴァがくちばしを開けるのを察知したゲイルは、そのまま彼を制するように続ける。 「オット、ラーヴァ。オ前ノ助ケハ禁止ダ。俺ハコノオ坊チャンニ聞イテイルンダ」 ゲイルはあらためてクロウに向き直る。 「オ前ノ様子ハ、普段カラ背中ニ乗セテイル俺ガヨクワカッテイルサ。頼リナイ甘ッタレダッテネ。コウイウノハ平時ノ信用ガ物ヲ言ウ。ソレデ、オ前ハドレダケ自分ガ信ジテモラエルト思ウ?」 クロウは口をつぐんでしまった。どれだけきれいな言葉で見栄をはっても、ゲイルにだけは通用しない。普段から背中に乗せてもらっているから、それは身にしみてわかっていた。 集中練習を始めてから、彼はクロウのことをすこしは見直してくれた。けれども、まだ未熟なのは事実だった。 「でも、僕は行かなきゃいけないんだ」 「コンナツマラナイトコロデ命ヲ落トスコトハナイ。他ノヤツガ飛ベナイナラソレマデニシテオケ」 「いやだ!」 クロウはきっぱりと言った。 「確かに僕は甘ったれで臆病で役立たずだけど、かんじんなときでもそれを理由にやりすごしたくはない!」 それは、春のレイドの一件でも同じだった。 能力がないのは事実だ。しかし、それに甘えていてはいつまで経っても見習いのままだし、いずれはその身分も失ってしまう。 どうせなら、やれる可能性があるものはやってから嘆きたい。 クロウはしかとゲイルを見つめる。ゲイルは、首を左右にゆるく振った。 「ジャア俺ニ乗レ」 「オイオイ、ゲイルサン。平気カイ?」 「マア、俺ダッテ上ノヤツヲ振リ落トサナイ技術クライハアルカラナ」 クロウは思わずゲイルに抱きついた。 「ゲイル、ありがとう!」 「マッタク、ソノ思イキリノ良サトイウカ、妙ナ無鉄砲グアイハ親父ニ似タナ」 クロウの腕をくぐり抜けて、ゲイルは外に向かった。 「デモナ、クロウ。ソウイウノハホドホドニシテオケヨ。デナイト早死ニスルゾ」 その言葉を聞いたクロウは、一瞬返す言葉に迷ったが、頷いて自分の意思を示した。 「デハ行クカ。安全ベルトダケハ気ニシテクレヨ」 レインアロー専用の発着所に向かうと、クロウは心臓の音を意識してしかたがなかった。 ここに来たのは見習いになってから数度だけ。出発の手続き担当者にすら顔を覚えられていないくらいだ。 飛び出した足場の先には、なにもない。空と呼ばれる空間が広がっているだけだ。 手前の待機場所からでもわずかに遠い地面が見える。ゴーグルで覆った目が涙で濡れる。 「啖呵切ッタノハオ前ダ。シッカリヤッテモラウゾ」 ゲイルは平坦な口調で言った。 「操縦ハ最低限デイイ。落チナイコトト方向ノ指示サエ出シテクレレバ、調節ハヤッテヤルヨ」 「お願い……します」 「イザトナッタラ俺ガ指示ヲ出スカラナ」 ジャケットの胸元からラーヴァが顔を出す。彼も地上まで飛べなくはないが、負担が大きいのでクロウの服のなかに収まっている。 「イイカゲン世話焼キモホドホドニシテオケヨ、過保護スギルゾ」 ゲイルは呆れたような声を出す。 「飼イナラサレタ動物ダッテ、野ニ放ラレレバ、自分デ食糧ヲ確保スルヨウニナルンダ。デナイト死ヌカラナ。コイツハ素人デハナクテ、見習イトハイエ鳥使イダ。ワザワザ過剰ナ世話ヲスルノハ愚カシイコトダゾ」 ラーヴァは唸るような声を出したものの、しぶしぶ引っ込んだ。 ゲイルは首を動かし、クロウを見やる。 「坊チャンヨ、ラーヴァヲ使ウノハ最終手段ニシロヨ。自分ガ鳥使イダッテイウ自覚ガアルナラナ」 「……わかった」 係員が走ってきた。 「風も視界も大丈夫、すぐに出発できるよ」 普通なら嬉しいはずのその言葉が、鉛のように重くのしかかる。 「サテ、行クゾ。オ前モロビンノ息子ナラ、風デ遊ブ余裕クライ見セテミロヨ」 ゲイルは即座に足場を蹴り、翼を広げる。 「うわあああああっ!」 クロウは思わず悲鳴をあげた。 上も下も右も左も前も後ろも、彼らを取り巻くものはなくなった。大地は遠い。雲を横目に、ゲイルは下降しながら進んでいった。 不思議な浮遊感。ゆるやかな重力で引っ張られ、身体が伸ばされねじれていくようだ。 勢いで、足が何度もゲイルの背から離れては落ちた。 ゴーグルの下の目が濡れる。なんどか瞬きをして、クロウは涙を追い払う。 春にレイドを助けにいったときとは比較にならない。今までの飛行訓練のときよりもずっと地面は遠い。ここはまぎれもなく空なのだ。今まで自分が拒んできた、行きたくても行けないと思っていた世界だ。 手綱を持つ手の感覚はすぐに失ってしまった。ベルトで固定しているとはいえ、この指を動かしたら宙に放り出されそうな気がしてたまらない。委ねるものがなにひとつ存在しない世界に囲まれているのだ。 風が頬に当たると身震いがした。この空気の流れの感触が、恐怖心を煽るのだ。 遥か下では、瑞々しい緑色の草原がきらめいていた。しかし、それに見とれる余裕など皆無だった。 このまま目を閉じてしまいたい。 クロウが強張ってしまったのを察したのか、ゲイルは手近な雲の上へと移動した。 「ホラ、チャント指示シテクレヨ。コレデモ加減シテヤッテルンダゼ」 溜め息まじりの言葉が胸に刺さる。 「ココデノンビリシテイタラ、ナンノタメニワザワザオ前ガ出テキタノヤラ。ソノママ待ッテイレバ、誰カニ任セラレタカモシレナイモノヲ」 彼の言うことは正論だ。ここで立ち止まっていては、なんのために志願したのか。クロウは震える指で服のなかから航空図を取り出した。 「太陽があっちで……ゲイル、西へ向かって。あの湖をひとまず目印にして」 「了解」 ゲイルは旋回して、さらに高度を下げながら前進した。 今度は意地でも悲鳴をあげない。けっして恐怖心を捨てたわけではない。ただ、ゲイルをこれ以上呆れさせたくないだけだ。 せっかく四月から訓練に打ちこんで積み重ねてきたものを、ここで崩すわけにはいかない。 ふと浮かんだのは、先日のカイトの言葉だった。 「まっすぐ立つ、手綱は中央、心を乱さない」 クロウは丸めていた背中を伸ばす。そして、手綱を正しい位置に動かす。 彼は何度か意識的に呼吸を繰り返した。肺に冷たい空気が流れこむ。 だんだんと頭のなかが鮮明になっていく気がした。 四月のときのことがふとよみがえる。 レイドを助けたとき、塔の高さにすら怯えてクロウはなかなか進めなかった。しかし、そこで目を閉じてしまえば平衡感覚が狂い、余計に足が動かなくなってしまった。 (そうだ、進むんだったら……ちゃんと目を開ける) 痺れたような両手を握り直して、歯を食いしばり、クロウは地上を目指した。 逃げるように、太陽は遠くの山の端へと移動していく。クロウは、会場の時刻に合わせた時計を確認した。 「現地の日暮れまでに着けるかな……」 「ソリャア、オ前サン次第ダ。俺ハ主ノ指示通リニ飛ブカラナ」 レインアローは、自らの意思を持たないわけではない。しかし、彼らは自分たちが人間の移動手段であることを、生まれたときから教えこまれている。本来は、鳥使いの命令を優先する生き物なのだ。 クロウはゲイルのことをよく観察する。クロウは己の指示が適当ではないことを自覚していた。十分では命令の細部を察して、ゲイルは飛んでくれている。 乗せてくれたのが彼でよかった。クロウは息を止めがちな喉をわずかにゆるめる。 恐怖はまだ残っている。しかし、最初の感情の高ぶりは気づかぬうちにだいぶ落ちついていた。 ジェミアであろうと空中であろうと、ゲイルの背に乗っているのは一緒。そう思うことで徐々に身体の緊張をほどいていく。 いつのまにか、小さく見えていたはずの地上のものが、かなり大きく感じるところまで来ていた。雲も同じ高さにはほとんど見あたらない。 上方を見れば、ジェミアはもう遠く、この状況では確認が取れない。 「クロウ、アトドレクライカ判断ツクカ?」 服のなかでラーヴァが小さく鳴いた。 「うーん……」 航空図と目の前の景色を見比べながら計算してみるが、どうもうまくいかない。 「今ノ調子デイクトギリギリダナ。暗クナッテカラ着ク可能性ガ高イ」 「ゲイル、わかるの?」 「俺ダッテ現役ノコロハ世界ノアチコチヲ飛ンデイタモノサ。オ前ダッテ経験ヲ重ネタラ、コレクライ簡単ニ割リ出セルサ」 そこまでになるのに、どれくらいの月日がかかるだろうか。本来よりも一年近くあとに、ようやくこうしてレインアローでジェミアの外に出ているクロウにはまったく想像がつかない。 「ゲイル、もうすこし飛ばせる?」 「吐クナヨ?」 ゲイルは翼を数度動かし、矢のように飛ぶ。クロウはまた身体を縮ませようとしてしまったが、今度はまっすぐ立とうと必死で踏ん張った。 夢中になりすぎて、空の色の変化にも気づけなかった。 世界有数の大都市の、幾何学模様になっている町並みを見つけ、クロウは事前に聞いていた地点を目指す。 鳥使いたちが寝泊まりする場所は、レインアローが降り立てる場所が確保されているからわかりやすい。クロウたちは脇目もふらず、一直線に飛びこんだ。 「うわっ! あっぶねえ!」 盛大に砂埃を舞わせてから思い出した。地上に人がいた場合、着陸する前に合図を交わさなくてはならないのだ。怪我人が出なかったのは幸いである。 クロウはゲイルから滑り降りて、先輩たちに書類を収めた箱を手渡す。 「も、持ってきました……」 「クロウ? お前が来たのか?」 頷くクロウに、周囲にいた先輩の鳥使いたちがそろいもそろって驚きに満ちた顔になる。 クロウが事の次第を説明すると、間が悪すぎると呆れた声が各々からこぼれた。 「そういうときはまずクレインの指示をあおぐべきだったな。警護局が絡んでいるんだったら、彼らに事情を話せば折り合いをつけてくれただろうに」 言われて初めて、そのことに思い当たった。経験不足のまま追いつめられて、勢い任せで出てきてしまった事実が恥ずかしい。 主任は苦笑する。 「まあ、ひとまずこれで安心だ。助かったよ」 書類を渡す。それで、自分たちに暇などないことを思い出した鳥使いたちはあちこちに散っていく。 「それにしても、クロウ。お前、ちゃんとレインアローに乗れるようになったんだな」 「あ、はい……う、うええ」 安心して気が抜けたのか、吐き気と頭痛が一気にやってきた。 「お、おい……」 「ちょっと、そいつどっかに連れて行けよ。鳥使いが飛行に酔って倒れたなんて、笑い物だぞ」 カイトが、汚れを見るような目つきになりながら言う。 主任がクロウを担いで医務室まで運んだ。 「しゅ、主任……。なんとかなりました」 「うーん、それはどうだろう」 主任は苦笑いを浮かべる。 「まあ、とりあえず実績は作ったわけだ。来週からはもっと練習を増やすぞ。覚悟しておけ」 もはや返事をする余裕もなかった。クロウはそのままゆるやかに意識を失った。 結局、クロウはその晩、夢も見ないほど熟睡した。起きてから、図太いやつだと先輩たちから次々にからかわれてしまった。 そして一足先に、彼はジェミアへの帰路についた。 「う、どんどん地面が……離れて……」 振り返ることはできない。そうしたらきっと目がくらんで気を失ってしまうから。 「オイオイ、普通ニ考エタラ下リノホウガ怖イモンダロウガ」 ゲイルの言葉に、ジャケットの襟元から首を出したラーヴァが口を挟む。 「気ガ抜ケタンダナ。マア、デモヨ、オカゲデ点モラエタンダカラヨカッタジャナイカ」 「うん。かなりおまけしてもらったけどね」 クロウは朝の出来事を回想する。 非常事態とはいえ、クロウが単独で地上まで飛行し、会議の助けとなったことを局長は評価してくれた。 今までが今までだったせいでよく働いたように見えただけかもしれないが、久しぶりに大きな加点となった。 嬉しくなったクロウがまっさきに向かったのはカイトのところだ。 「カイトさん、このあいだ言われたこと、できました」 「は?」 「まっすぐ立つ、手綱は中央、心を乱さない」 カイトは苦虫を噛み潰したような顔をする。 「お前な、赤ん坊じゃないんだからさ。そんなことできたくらいで喜ぶなよ。かなり恥ずかしいこと言ってるぞ」 クロウはまっすぐカイトを見つめる。 「カイトさん、僕、ぎりぎりまで頑張ってみたいんです」 「ふん、今さら頑張ったってしかたないんじゃないか?」 カイトは乱暴な足取りで行ってしまう。それを、リフルが慌てて追った。 「カイトさん……」 「アンナヤツノコト気ニスルナヨ」 ラーヴァは変わらずカイトに対して不満げな様子を見せたが、クロウは以前よりも苦手意識がなくなってしまった。 まだ完全に克服したわけではないが、今回の件は大きな自信になった。 飛行訓練のレベルアップを検討すると主任は言った。ジェミアに帰ったら、机の上に積んだ書類と戦いつつ、自主訓練もしておきたい。 「またよろしくね、ゲイル」 ゲイルは返事をしなかったが、そこそこの機嫌の良さで飛んでいるのはわかった。まだ下の大地は見られないけれども、クロウは誇らしい心地で帰還の軌跡を描く。 ふと、草の匂いが大地から上ってきたような気がする。今の気分と同じ、さわやかで胸がすくような香りだ。 クロウのポイントは現在七一一。残り七八九。卒業期限まであと九ヶ月。 第一話へ 第三話へ 目次に戻る |