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第五話 Memory



「蕗野市……?」
 十月に入ったころのことだった。みさきにカフェへと呼び出された志織は、目的地を告げられると表情が固まってしまった。みさきはその変化に戸惑い、声が弱くなる。
「うん。ちょっと大口の依頼で……。なにか都合悪かったりする?」
 志織は逡巡したあと、首で否定の返事をした。
 蕗野市は、都心から電車で一時間ほどの距離にある、典型的な郊外だった。志織はかの地を知っていた。
「昔、そこに住んでたんだ」
「そうなの?」
 みさきには以前、祖父と父の死をきっかけに生家を離れたことを話していた。みさきは、志織が父たちの生前のことをあまり嬉しそうに話さないことに気づいていた。だから、あまり深くはつっこまないようにした。
「……もしかしたら、泊まりになるかもしれない」
「え?」
 志織は目を丸くした。志織の住まいからもみさきの住まいからも、蕗野市はさほど遠くない。余裕で日帰りができる場所だった。
「どうして?」
「依頼人の希望なの。お宅に泊まらせてくれるらしいよ。それで、今度の連休を使うつもり」
 ストローでアイスティーを飲みながら、みさきはちらりと志織に視線を送った。
「ね、しぃちゃん。もしもダメだったら別にいいからね」
「え?」
 みさきはコースターの上にグラスを置く。
「辛いこと思い出すんだったら、無理して誘わないよ。私は仕事だからどうしても行かなくちゃいけないけど、それはしぃちゃんの義務じゃないからね」
 みさきの真っ直ぐな眼差しが、志織の瞳に注ぎこまれる。志織は正直に言うと、迷ってしまった。蕗野に行きたいなどとは思えなかった。しかし、そうするとみさきだけで赴くことになる。なんだかんだいってみさきは単独でも仕事をこなせるだろうが、彼女を一人で行かせるのも気が進まなかった。
 志織は無意識に胸元のネックレスを探っていた。あの町に行くことはないと思っていた。ずっと目をそらし、地名を視界に入れることすらしなかった。
 祖父や父と過ごしたあの町は、懐かしい以上に疎ましかった。そして、その大本の原因は、志織自身にあった。志織はそれに向き合えずにいた。
「私も、行く」
 その言葉を出すのに、数分はかかった。志織の喉を離れて飛び出しても、重々しさは残る。後悔は残ったが、自分の心に溜まった澱と決別する勇気がほしかった。
 志織の返事にみさきは目を見開いて、志織を見つめた。指でテーブルを軽く叩き、一瞬口を開く。しかし、そこでは何も発することはなく一度閉じ、しばらくしてから改めて言葉を紡いだ。
「大丈夫?」
「うん」
 ネックレスが密着した肌が、やけに冷たかった。


「お母さん。今度の土曜日、みさきの家に泊まるから」
 志織が帰宅すると、既に母が勤務を終えて戻っていた。志織の言葉に、母は心配そうな表情を浮かべた。
「この間もお泊まりしたでしょ? 大丈夫?」
 泊まりがけの仕事はあまりないが、そういうときはいつも、みさきの家に泊まるということにしてある。志織が母にみさきを紹介したのは春ごろだ。図書館で出会った二人は同じ大学を志望していたことで気が合い、みさきの兄の勝士を家庭教師に二人で勉強しているという設定だ。みさきが進学校で、勝士も名の通った大学に通っていることで母の信用を得ることができた。
 みさきの家庭はもちろん彼女の仕事に協力的なので、志織の母が挨拶の電話をかけたときも話をきちんと合わせてくれる。みさきの母だけは、騙すのは気が重いとは言っていたが。そのため、志織はみさきと一緒に外泊しても怪しまれないようになっていた。
 志織の母は、祝家に何度も世話になるだけでなく、勝士の家庭教師の負担についても心配した。そこは、祝家が商売をしており、その手伝いをすることで相殺しているとごまかした。嘘というわけでもないが、事実を伝えていないことは後ろめたい志織であった。
「祝さんちでバイトするより、ちゃんと予備校通ったほうがお互いのためにもいいんじゃない? それくらいのお金なら、お父さんがちゃんと残してくれているから」
 母のそんな言葉も、できれば自分で費用を稼ぎながら勉強をしたいとはねのけてしまった。それ以来この件に関してはなんの詮索もせずに娘に任せていた。
「大丈夫、大丈夫。追い込みだからね。この間も合格圏だったでしょ? 滑り止めは余裕だし、浪人は絶対にしないように頑張るから」
 母はまだなにか言いたいようであったが、諦めてそれ以上何も言わなかった。
 志織はサイドボードの上に飾った父と祖父の写真を見やった。学者をしていた父はいつも穏やかで、志織のささいな話にも真剣に耳を傾けてくれた。そんな父が大好きだった。
「ねぇ、昔の家ってさ」
「んー?」
 志織は、夕食の支度をする母の背に問いかけた。
「お祖父ちゃんとお父さんと一緒に住んでた家っていまどうなってる?」
「ああ、もう無くなってるわよ。土地売っちゃったからね。新しい家を建てたんじゃなかったかしら」
「お母さんはいやじゃなかった?」
 包丁の音が止まった。
「あの家売っちゃって、いやじゃなかった?」
「そりゃあねー、思い出詰まってたもの。でも、お父さんの遺言だったのよ」
「え?」
 それは初耳だった。
「お祖父ちゃんが死んじゃって、お父さんともそのときいろいろ話しあったのよ。自分に何かあったら、家を売って残ったお金で志織を育ててくれって。この家には残るなって。まさかそう言ってすぐに倒れて死んじゃうとは思わなかったけど」
 母の声が詰まる代わりに、野菜を切る音が再び響くようになった。志織はもうなにも母に尋ねることができなかった。父が亡くなってから、いっそう母は頑固になった。母は元々実家とは疎遠で、突然夫と舅を亡くし、一人で志織を育てることになった。その厳しさを志織は完全に知ることはできないが、母の苦労はよくわかっていた。志織は母に必要以上の迷惑も心配もかけたくなかった。
 母とは二人きりになってからのほうが、親子の距離が近くなったと思う。お互い、相手がたった一人の家族だ。支え合わなければ生きていけなかった。それゆえに、母にはいろいろと嘘をついていることが申し訳なかった。
 その晩、志織は自分のベッドに潜りながら、ネックレスを眺めた。父が残したもの。それ以外の情報はなにも知らなかった。
 父と祖父の墓は別の土地にあった。去ってから一度も蕗野を訪れたことはない。忌々しい土地だと憎んでいた。
(けれど、これはいい機会なのかもしれない)
 志織はずっと逃げてきた。蕗野で起きた出来事をなんとか忘れようと思い続けた。でないと、自分の心がつぶされてしまうのではないかと思ったから。


 志織が生まれる前のことだ。父が高校生のときに、渡辺家は蕗野市内にある新興住宅地、秋里という土地にやってきた。適度にのどかで交通の便もよく、暮らしやすい土地だと思ったらしい。やがて父は家を出て結婚し、志織が生まれた。そして、彼女が一歳になったときに父方の祖母が亡くなった。祖父が一人残された家に志織たちも移り、渡辺家は四人暮らしとなった。
 志織の母は仕事を持っていて、出産後一年で復帰した。そのため、面倒をみるのは祖父の担当で、志織は幼児期の大半を祖父とともに過ごした。父も母よりは自宅にいる時間が多く、そんなときはいつも側にいてくれた。
「あそこに何かいる」
 物心ついたころから、志織には他人には見えないものが見えていた。母は大人の気を引く幼児特有の言動だと思って、にこにこと笑って聞いてはいたがあまり本気にはしなかった。丁寧に話を聞いてくれたのは父だった。父は幼い志織が怯えるとやさしく語りかけた。
「志織が怖がると相手もよけいに怖がってしまうよ。それは人間もだけど、幽霊は人間よりもさらに繊細だからね。余計にこちらの怖いとか悲しいとかいう感情をむやみにぶつけてはならないんだ」
 志織の父もまた霊や物の怪が見える体質だった。みさき以前に出会った人のなかでは唯一、志織の霊感を正しく理解してくれた。志織にとって父こそが理解者だった。幼い彼女が幽霊が見えることにあまり悩まずにすんだのは、父の存在があったからだ。
「ただし、人間と同じように、幽霊にも優しい人と怖い人がいる。危ない人について行っちゃいけないってお母さんが言ってるね。それと同じで、危ないと思った霊には近寄ってはいけないよ」
 父との言いつけを守っていたが、志織は次第に霊に親しみに似た感情を抱くようになった。蕗野で生活していて悪霊に出会うことはほとんどなかったし、ちょうどそのころ、霊能者を題材にした作品がブームになっていたこともある。
 友達はみな「幽霊っているのかな?」と囁きあっていたが、志織は本当に存在していることを知っていた。もしかしたら、自分にも同じようなことができるかもしれない。そう思っていた。
 小学二年生の秋の日のことだった。志織は下校途中で、秋里の入口付近まで来ていた。もうすぐ家だと思いながら歩いていると、嗅ぎ慣れない臭いとともに、赤い霧がふわりと風に乗って広がった。
 それに戸惑っていると、通りの陰から自分の近所では見ない顔の子どもを目撃した。その子どもは足早に去っていく。不思議に思いながら彼女がいた方角を見て、志織は驚愕した。
 血まみれになった男が道の隅に倒れて呻いていた。志織はとっさに近寄るが、その前を通る人間は誰も気にとめない。それは、志織にしか見えなかった。
 男は悲しみを周囲にまき散らした。しびれるような臭いが広がる。助けてほしいという感情が志織にダイレクトに伝わった。同時に、他の霊とは違う異質さも感じ取った。まるでサイレンが鳴っているように、頭のなかの脈動が大きくなった。
 まだ子どもの志織は、この感覚を自分でもよくわかっていなかったが、いつもと何かが違うというのは感じ取った。自分のなかのなにかが、それには近づいてはいけないと警告する。
(危ないものに近づいちゃだめ)
 それが父との約束だった。志織は唾を飲み込み、踵を返して立ち去ろうとした瞬間、彼と目が合った。
 息をのむ。彼の顔が歪んだ。
「助けて……」
 そう言って、手を伸ばしてきた。しかし、それは志織まで届くはずもなく、小刻みに揺れながら宙を掻くだけであった。その姿はあまりにも哀れで痛ましく、志織は目をそらすことができなかった。肌が痛く、心臓が絞られるように縮こまる感覚。
「どうか……」
 志織は、そのまま去ることができなかった。足が動かなかった。彼の悲痛な声が心を引っかく。彼に手を貸したい、自分にできることがあれば――。そう思った志織は、その手を取った。
「どうしたの?」
 かさついた声で、志織は尋ねた。男は、ぎらついた目を志織に向けた。
「お助け……ください……助け……」
 志織は反射的に手を握った。彼は微かに微笑んで、その感情があたたかく大気に広がる。
 しかし、志織はそれ以上どうすればいいのかわからなかった。こんなに傷だらけで苦しそうではあっても、相手が霊ならば、病院に行く選択肢など最初からない。手を取ったものの、自分になにができるかなんて考えてもいなかった。
「苦しい? 苦しいの?」
 男は涙を流して頷くが、志織は戸惑う。こんな霊に出会った経験はなかった。いつも家族にそうしてもらうように、その頭を撫でてやることしかできなかった。それで傷や辛さが回復するとは志織も思っていなかったけれど、他に思いつかなかった。
「どうすればいい?」
 男がどう返事をしたのか、その言葉が何を意味するのか、志織にはわからなかった。
「お水持ってくればいい? お菓子のほうがいい?」
 彼は力なく、志織を虚ろな目で見上げてきた。急に志織は背筋が寒くなった。彼の必死にすがってくるその意識が、手足に絡みついて上ってくる。そして自分にとってそれは荷が重いという自覚。
 志織は無意識のうちに手を離した。ずるりと地に落ちた、赤錆色の腕。見開いた男の瞳。何か言いかけた彼の唇。心地よい熱がふっと消えた。代わりに、冷えた空気が志織の身体を包む。
 志織ははっとした。彼がまた腕を動かしたので、もう一度その手に触れようとした。しかし、できなかった。かたかたと震える。男の視線が絡みつく。身体が重くなる。それに耐えられなかった。
 自分が彼にできることなど――なにもない。
「ご、ごめんなさい」
 志織は立ち上がり、駆け出した。背中で引き止める声を聞いたが、志織は振り返らなかった。振り返ってもどうしようもなかった。
(ごめんなさい……!)
「きゃっ!」
 脚に痛みが走り、志織は転んだ。見ると、左のふくらはぎに斜めに裂いた大きな傷が出来ていた。振り返る。男が恨めしそうに、這いながらこちらに向かってくる。
「お待ち、くだ、さ」
 志織は地面についたまま、後ろに下がる。アスファルトを伝って、逃すまいという彼の執念が伝わってくる。彼の手が伸びるように、気配が足に絡みついた。歯の奥ががたがたと鳴った。怖い。これほどまでに強い恐怖を志織は感じたことがなかった。
 志織は悲鳴をあげて、それを振り払った。途切れる感触。彼が息をのんだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 志織はそう声をかけるしかなかった。そして、すぐにその場を離れた。なにか声がしても、今度は立ち止まらず背後を見やることもなかった。
(お父さん、お父さん、お父さん)
 全速力で家に逃げ帰ったが、家には祖父しかいなかった。ただいまもろくに言わず、志織は自分の部屋に直行して、ドアを思い切り閉めた。心臓の音が大きい。志織は体が締め付けられるような恐怖を覚えた。
「どうしよう、どうしよう……」
 いままで志織が出会った霊とは大違いだった。何もせずに道に立っている霊、学校にいる悪戯好きの霊、近所の家に取り憑いている霊。それらのどれとも違っていた。
 困っているなら助けたい、ただそれだけだった。声をかければ何かできると勝手に思いこんでいた。それなのに怖いからと見捨ててしまったのだ。申し訳なさが心に積もっていく。それなのに、戻ろうと思えなかった。
 父はいない。相談できない。志織はどうしたらよかったのか悩んだ末、意を決して仏壇から線香を持ち出し、家を抜け出した。恐ろしさで手が震えたのは初めての経験だった。
 先ほど出会った場所に戻る。男はいなかった。ほっとしたのもつかの間、すぐに恐怖が増してきた。どこに行ったのだろう。
 急に切った脚が痛くなった。志織は途方に暮れた。彼は、どうなってしまっただろう。志織が見捨てて、悲しんだだろうか。
 探し回りたくても、恐怖で足がすくんだ。それ以上は無理だった。泣きながら家に戻り、祖父に何も話せないまま両親の帰りを待った。先に帰ってきたのは母で、祖父から志織の様子がおかしいと聞き、母は志織の手当を聞きながら尋ねてきた。
「お友達とけんかしたの?」
 志織は無言で否定した。なんと説明すればいいのかわからなかった。母が幽霊の存在を信じていないことは既に理解していた。きっと正直に言ってもわかってくれなかったろう。傷は釘に引っかかって転んだときにできたと嘘をついたが、母は信用していない素振りだった。
 それからようやく父が帰ってきて、志織は泣きながらその日の出来事を打ち明けた。父は厳しい顔だったが、黙って最後まで話を聞くと、頭を撫でてくれた。
「お父さんが変なふうに言ったのがいけなかったね」
 そんなことないと志織は何度も否定した。危険を感じるものには近づかないと約束していたのに、それを破ったのは志織のほうだった。
 何も心配しなくていいと父は言った。そして、母にも心配することはないと告げてくれた。
 その晩、志織の眠りは浅かった。何度も起きてしまい、時計の秒針の音がだんだん大きく聞こえるようになった。耳をふさいでもふさいでも、手をすり抜けて脳の奥まで響いていた。
 彼はどこへ行ってしまったのか。頭のなかはそれでいっぱいだった。どうかそのままどこか遠くに行ってしまっただけでありますように。そう願った志織の部屋の窓が、急に叩かれた。
 志織は息をのんだ。数秒おいて、もう一度叩く音。明らかに風で何かがぶつかったものではない――誰かがノックしている。
(誰?)
 尋ねたくても声が出なかった。考えたくもなかった。ここは二階。外には足場がなく、簡単に人が上がってこられないようになっている。
 こんこん、こんこん。ノックの音は激しくなり、そして、いきなり一度強く叩かれる。
「ひっ!」
 思わず声が出てしまった。静寂が訪れる。呼吸をするのも恐ろしくてじっと息をひそめていると、雲の切れ間から月が出たのだろうか、カーテンの向こうがほのかに明るくなる。窓の正面に人影があった。
 志織は目を見開くが、動けなかった。動いたら気づかれると思った。
「見つけた」
 窓の前にいる人物は、喉の奥で笑いを押し殺したような声で言った。あの男のものだった。
 志織は涙を流した。あの、地に落ちた男の腕が、見開いた男の瞳が、網膜に焼きついている。
「お前も見捨てた……」
 違う、と言いたかった。自分なりに力になりたかったのだ。けれども、いざ手を取っても、自分にできることなど何もなかった。志織は言い訳を並べた。それがとても自分勝手なことと心のどこかでわかっていたけれども、正当化したくてたまらなかった。
「お前もあいつらも許さない……すべて奪ってやる……」
 外がまた暗くなり、気配が消えた。志織は布団をかぶった。わずかな物音さえも聞きたくなく、これが夢であってほしいと願った。


 翌朝、母が起こしにやってきて、ためらいもなくカーテンを開けた。前日となんら変わらない、朝の風景が広がっていた。恐る恐る外を覗いたが、男はいなかった。代わりに、窓辺にはあの臭いが残っていた。夢ではないと確信するしかないほどに。
 外に出たくない。志織はぽつりと呟いた。
「学校、行きたくない」
 その言葉を聞いた母は熱をはかったが、もちろん問題があるわけでもない。にこりと励ましの言葉を残し、朝の支度に戻るために部屋を出て行ってしまった。
 どんなにごねても母は理解してくれなかった。そのまま無理やりランドセルを背負わされ、志織は登校しなくてはならなかった。
 玄関を開けると、濁った空気が家に入ってきた。志織は驚いて扉を一度閉めた。そしてもう一度開け、現実のなかに飛び込むこととなった。あの臭いが秋里の町全体を覆っていた。
 小学校までの一歩一歩が重かった。次の角を曲がったらいるかもしれない。いつの間にか背後に回られているかもしれない。校門に入るまで、志織の緊張は続いた。
 学校にも霊はいたが、なんだか彼らも落ち着いていないように思えた。秋里よりは清浄な空気ではあったが、志織の体にはあの臭いがまとわりついていた。何度手を洗っても取れない。
「なに? どうしたの? バイ菌でもついた?」
 仲のいいクラスメート、雅哉がからかってきた。彼は近所に住んでいて気心の知れた関係であるが、そのときはなんの冗談を言う気にもなれなかった。
「うるさいよ。ほっといて」
 雅哉は水道の蛇口をひねり、ふざけて志織に向かって滴を飛ばしてきた。彼はいつもそうだった。その数日前も、校内で鬼ごっこをして上級生にぶつかり、囲まれてしこたま叱られた。それでも悪びれもせず、同じようなことをくりかえす。
 彼のおふざけに慣れていた志織は、いつもならこんなことくらいで怒らなかった。けれども、このときはやけに気にさわった。
「もう、いいかげんにして!」
 雅哉はつまらなそうな様子で、ぶつぶつ言いながら去っていった。悪いことをしたと思う余裕も、そのときの彼女にはなかった。洗っても拭っても落ちない、不快な匂いに心が侵食されていく。その恐怖に、幼い志織は押しつぶされそうになった。
 学校が終わると、登校のときよりもさらに早足で家へと急いだ。道中、何があっても何がいても、脇目もふらずに歩いた。
 気持ち悪い町を通り抜けて、力いっぱい玄関のドアを開けてすぐに閉める。父も母も仕事だった。一人留守番をしていた祖父は書斎の窓辺にいた。晴れた日は、たいていそうだった。
「お祖父ちゃん」
 呼びかけると、いつものように振り返って、おかえりと応えてくれた。家のなかは匂いも霧も強くない。志織はほっとしながら、床に直に座った祖父の隣に腰を下ろしてよりかかった。
「なんだ、どうした」
 志織は何も答えずに、ただ祖父の身体にしがみついた。祖父は苦笑して、志織の頭を撫でてくれた。その手に一生甘えていたかった。わけも話さないのになにも尋ねないで優しくしてくれる祖父が嬉しかった。
 けれども、どう話せばいいのかわからなかった。祖父もまた、霊が見えるという志織の話を、母と同じように笑って受け流していた。志織は説明のしかたを考えていると、祖父はにこりと笑った。
「お祖父ちゃん、外に出ちゃダメだよ」
 祖父は苦笑した。
「いまの時期は散歩が気持ちいいよ。たまには外出なくちゃ、お祖父ちゃんも身体がなまってしまうよ」
「それでも、ダメ。ごめんね、私がおかしいことにしちゃったの。だから、ごめん、外に出ないで」
「おかしいことって?」
 志織は思い切って告げた。
「幽霊がいるの。怖い幽霊。私、その人怒らせちゃったの。お祖父ちゃんもどうにかされちゃうかも」
 拙いなりに必死に説得したが全然伝わらず、祖父は受け流してしまった。父のように、この感覚を共有することができなかった。祖父も母も、志織がどうしてこんなに悩んでいるのか理解してくれなかった。
 その晩も志織は眠れなかった。窓辺にあの男が立ったら、もしも家のなかに入ってきたらどうしよう。そればかり考えていた。
 翌日も、志織は重い心で家を出た。この鈍みが霊の影響なのか睡眠不足のせいなのかもよくわからなくなっていた。
 あまりに普段よりも落ち込んだ様子に、クラスでは遠巻きにされるほどだった。いつもの友達もなんだかよそよそしい。こんなときでも雅哉なら構わず近寄ってくるのだが、そんな彼もその日は休みだった。しかし、孤独を感じる暇すらも志織にはなかった。
 前日よりも霊の気配が濃かった。いままで景色がこんな風に見えたことはなかった。他の子はなにも感じないようだった。
 それまでの志織には、幽霊が見えることに優越感に似た思いがあった。幽霊退治をする霊能者のキャラクターをかっこいいと友人たちと言いながら、自分も霊が見えることをどこか密かな自慢のように思っていた。それは間違いなのだと志織はひしひしと感じていた。そのとき、見えない人々を初めて羨ましく思った。
 帰りに、近所だからと雅哉の家までプリントを届けにいくことになった。雅哉の家は、最初にあの男と遭遇した場所のすぐそばだった。行きたくないと言っても通じるわけがなかった。意地悪をしないできちんと届けてやりなさい、と担任の教師に諭され、志織は不承不承お使いを頼まれることになった。
 雅哉の家のある通りは格段に臭いが強かった。吐きそうになるのをこらえ、男に怯えながら、志織は雅哉の家まで最短距離で向かった。
 雅哉は急な高熱で、薬を飲んでもなかなか治らないと、雅哉の母が言った。もしかしたら数日は休むかもしれないと。雅哉には申し訳なかったが、志織は嫌だと思った。次の日もその次の日も、雅哉が休む限りあの道を通らなければならない。このむせかえるほど臭いも色も雑味の強い場所には一秒もいたくなかった。それを、雅哉の母の前で顔を出すわけにはいかなかったが。
 彼女にとっての救いは、今朝見た限りでは、雅哉の家よりも志織の自宅の周辺のほうがまだましだったという事実だけだ。
 早くこの場所を抜けたい。早く帰って、祖父のそばに行きたい。その思いでいっぱいだった。
 早く早く早く。近道をすれば、ひとつの曲がり角を経るだけでよかった。駆け足でそこを通り過ぎる。
 そして、志織は呆然とした。自分の家を臭気と赤い霧が覆っていた。雅哉の家のあたりと同じくらいの濃さだ。身の毛がよだつという感覚を、初めて知った。秋にしては気温が高かったはずなのに、震えが止まらなかった。志織は急いで玄関のドアを開けた。家のなかにも霊の気配が微かに存在していた。
「ただいまぁ」
 しんと静まり返った家のなかに入ると心細くて、志織は願うように必死に呼びかけた。
「おじいちゃん?」
 年をとったとはいえ、祖父の耳は遠くなかった。玄関から呼びかければ聞こえるはずだった。それなのに返事はない。志織は靴を脱いで、真っ先に書斎に向かった。
 祖父はそこにいた。窓際に椅子を持ってきて座っていた。目を閉じて、窓枠に寄りかかっていた。祖父が寝ているだけだと見て、志織は安心した。
「おじいちゃん、ただいま」
 返事はない。志織はその肩に触れて揺さぶった。
「おじいちゃん、お昼寝だったらお布団で――」
 祖父の身体が崩れて、床に叩きつけられた。志織はびくりとする。慌てて起こそうとして、志織はそれがいつもの祖父ではないことに気づいた。彼は呼吸をしていなかった。志織はパニックになった。
 急いで父と母に連絡して、志織は救急車を一人で呼ぶことになった。祖父は人間だから、昨日までは元気だったから病院に行けば助かるはず。それを信じていたが、父と母が駆け付ける間もなく、祖父の死亡が確認された。
 志織は呆然自失で、現実を整理するのでやっとだった。両親の到着を病院で待たなければならなかったが、大人たちがなにか呼びかけてきてもまったく返事ができなかった。死というものを、理解したくなかった。受け入れたくなかった。
(霊もみんな、こういうものがあったのかな)
 ふと、そんな思考に行きついた。その瞬間、気分が透明になり、家で祖父を発見したときからずっと濁っていた視界がクリアになった。
 何気なく顔を上げる。その先に、あの男がいた。ゆらゆらと揺れているが両の足で立っており、志織をじっと眺めていた。
「ごちそうさま」
 たった一言だけ言い残し、男は消えた。志織は目を開いたまま、やってきた母に声をかけられるまで、ずっとその場所を見つめていた。いつの間にか、臭いと霧が病院のなかにも入り込んでいた。
 両親が来てから、一気に慌ただしくなった。突然の家族の死に、父よりも母の方が動揺した。父は気丈に見えた。葬儀も不備なくしっかりと手配し、当日も忙しくしていた。
 志織は泣いた。幼稚園児に戻ったように、激しく泣きじゃくった。近所の友人たちも来ては慰め、母は志織をしっかりと抱きしめた。友は最近の志織の変化を祖父の体調不良のせいだと思い、母は祖父の第一発見者となってしまったことにショックを受けているのだと考えていた。しかし、どちらも違った。
(あの人だ)
 祖父の死に、あの男が絡んでいると志織は悟っていた。そして自分を責めた。きっと目をつけられたのは、あのとき自分が手を出してしまったからだ。なにもできないのに、できる振りをしようとしたからだ。そう思いながら、泣いた。
 父だけは志織の涙の理由を理解していた。志織は父と二人きりになったときに、心情を吐き出した。
「お祖父ちゃん、私のせいだ。私のせいで、あの人がお祖父ちゃんを連れていったんだ」
 父は志織の肩や背を叩いて、落ち着かせようとした。しかし、一度流れると、涙というものはなかなか止まらなかった。
「志織のせいじゃないよ」
「だってあんなに元気だった」
「元気でも、突然亡くなることもあるんだ」
 父もさすがに自分の父親の死で疲れているようだった。心なしか声がかすれていた。けれども、志織はそんな父を慮る余裕もなく、ひたすら泣き続けた。
「どうしよう、またあの人が来たら、今度はお父さん? お母さん? それとも私がつれていかれる? ぶたれる? たくさん怒られる?」
 父は志織の頬に触れる。
「そんなことさせないよ。絶対に、させない。志織とお母さんは、お父さんが守るよ」
 どうやって? 志織にはなにもできなかった。父は大人だから、志織にはできないこともできるのだろうか。そう問うても返事はなかった。
 祖父の葬儀の後片付けも終わり、翌日からまた学校が始まる、そんな日だった。
「志織、柿、食べたかったな……」
 父は縁側を見つめながら、いきなりそんなことを漏らした。庭には、志織が小学校入学するすこし前に植えた柿の木があった。柿は父の大好物だ。
「お父さん、私が六年生にならないと実らないって言ってたよ」
 まだ若い木を見ながら、志織は植えたときの状況を思い出す。志織が中学生になったあたりで美味しい実がなるはずだから、そのときは皆で一緒に食べるのだと息巻いていた。
 父は穏やかな表情で、秋の日差しに照らされた枝を眺めた。
「そうだね。六年生の志織かあ。もうだいぶお姉さんになっているだろうね」
 どこか遠い目をする父を見ると、どういうわけか不安になった。祖父みたいにいなくなってしまうのではないか。志織は思わず父の袖をつかんだ。父は志織の心情を察したように、彼女の髪の毛を優しく梳いた。
「志織にあげたいものがあるんだ」
 父は奥の部屋にひっこむと、何かを手にして戻ってきた。その金属に陽光が差し込み、天井に跳ね返って美しい模様を作る。
 父は志織の首に手をまわして、それを留めた。
「なあに、これ」
 ネックレスだった。大きな飾りと小さな飾りがひとつずつ。志織はそれを指でいじる。
「特別なお守り。これがあればなにも怖くないよ。いざというときは志織の力になってくれる」
 とっさに志織は父を見上げる。しかし、父の手が志織の頭に置かれて視界の一部がふさがれた。そっと伝わる温かさが、どこかくすぐったかった。
「怖くない?」
 父にはすべてお見通しだった。ぽろぽろと志織は涙をこぼした。
「志織はもう心配しなくてもいいよ。大丈夫だから。それはね、お父さんが約束するよ」
 父はいつものようにそう笑った。志織はただ頷いて、ネックレスを握るしかなかった。
 その翌日から、志織はびくびくとしながら学校へ行った。首にかけたネックレスがすこし重かったが、それだけが心の支えだった。教師やクラスメートに見つからないようにするのは大変だったが、何も起こらず彼も姿を現さなかったので、憂鬱な気分は取り除かれつつあった。
 その日から、父か母は必ず志織のそばにいてくれた。仕事で遅くなる日があっても、かならず戻ってきてくれた。志織は父母の外出が怖かった。帰ってくるかどうか気になって、落ち着かなかった。玄関の開く音がして、ただいまと呼びかける声が聞こえて、ようやく安心する。そんな日々が続いた。
 しかしある日、いつものように授業を受けていると、いきなり職員室に呼び出された。母から電話だという。不思議に思って受話器に耳を当て、志織の世界が一気に冷えた。
「志織? お父さんが倒れて――」
 すぐに教師に病院に連れて行かれた。その玄関で待っていた母に連れられて入った白い部屋のベッドに、父が寝かされていた。顔色が白い以外は、いつもと何の変わりのない姿だった。
 それからの記憶は飛び飛びだ。いつも朗らかな母が自分の足では立てないほど号泣していたことは鮮明に覚えている。そして、手続きがあるからと母が部屋を出て、志織が一人残されたことがあった。
 なにが起こったのかなんて考えたくもなかった。父が死んだのだと大人は言った。嘘だと思った。動かなくても父は父で、死ぬなんてありえないと。けれども、父は目を覚まさず志織が触れてもその手は冷たかった。
(嘘だ、嘘だ。お父さんが死んだなんて、嘘に決まってる)
 どうしてだろう。なにが大丈夫だったのだろう。なぜ心配しなくていいと父は言ったのだろう。志織は泣きじゃくった。祖父も死んで父もいなくなったら、母と二人きりだ。明日からどう生きればいいのだろう。
 志織が泣いていると、ふわりと温かい風が吹いた。はっと顔を上げると輪郭がぼやけた父の姿があった。志織はベッドの上の父と何度も見比べた。
(お父さん、本当に幽霊になっちゃったの……?)
 父は答えるように微笑む。それならば父は本当に死んでしまったのだ。父の魂が現れたことよりも、父の死がよりいっそう確かなものになったことの悲しみが強かった。
「お父さん……」
 父は微笑のまま、歩いて壁のなかに溶け込んでしまった。志織は慌ててそばの窓を開け、父の行方を確かめる。
 夜の庭に、ひとつの影がはっきりと浮かび上がっていた。それは、父ではなかった。志織は目を見開いた。あの男だ。
 男は確かにこちらを見ていた。そして、にやりと笑って手を広げて、そのまま消えた。
 志織は窓から身を隠すようにしゃがみ込んだ。心臓が痛い。呼吸数が増える。頭が痛い。喉がおかしくなりそうだった。
 あいつだ。志織は直感でそう思った。あいつがお父さんまで殺した。
 唇を噛みしめる。男も許せないし、自分も許せなかった。自分になにができたというのだろう。今までは、霊が見えてもそれ以上のことなど何もできなかったのに。それなのに、中途半端に手をさしのべて、逃げた。志織は自分が醜く思えて仕方なく、父や祖父への申し訳なさに吐きそうになった。
 めまいでそのまま床に倒れる。視界が霞んだ。このまま幽霊なんて見えなくなってしまえばいいのに。そう何度も願った。
 しかし、現実はそう甘くなく、目を覚ました志織には病院内をうろつく霊がはっきりと見えた。その朝の絶望感は忘れられない。
 私のせいだ、いや、私は悪くない。志織はふたつの考えに挟まれ、窒息しそうだった。もしも自分のせいだったなら、それを認めたなら、大好きな父と祖父を間接的に死なせたということになる。仮にそうだと考えただけで狂いそうになった。
 それ以来、男の霊は自宅には現れなかった。父の葬儀後、志織と母は別の土地に移った。それからも霊が見えることには変わりがなかったが、彼が追いかけてくることはなく、志織も彼を目撃することはなかった。
 それから、志織は二度と霊に関わるまいと決めた。こんな思いをするくらいなら、見えないほうがずっといい。そう思った。


 回想しているうちに、志織はすっかり寝入ってしまった。またあの夢を見る。あの男が、恨めしそうにこちらを見ている。みさきに出会ってからは見ることがほとんどなかったのに。
「助けて……」
 男が口を開く。志織は手を伸ばした。いままでは腕が動かなかったはずなのに、その晩はなぜか動いた。とっさにみさきの顔が浮かんだ。
 志織は一歩ずつ近寄りながら、その手をつかもうとした。しかし、あとすこしのところで見えない壁のようなものに阻まれてしまう。
 男は志織を蔑んだ目で見つめていた。
「やっぱりお前はそうだ」
 そこで目を覚ます。朝日が眩しかった。口のなかが渇いてからからだった。
 枕もとにはネックレスが無造作に置かれていた。志織は溜め息をつきながら、それを身につけてベッドを下りた。




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