アカネ


 僕は彼女をアカネと呼んでいた。由来はなんとなくで特に意味はない。そもそも彼女の本名なんて知らないし、もう知ろうとも思わない。
 彼女との出会いはよくわからない。小学生のとき、母方の田舎で遊んでいたらいきなり現れた。一目で、あれは人間ではないと僕は理解した。不気味だったので避けていたらいつの間にかいなくなったのに、その二年後にもう一度行くとまたアカネは僕のもとにやってきた。やっぱり無視したら、今度は家までついてきた。それからはずっと一緒だ。
 アカネにはいくつかの特徴がある。まず、おぞましいほど痛々しい姿をしている。全身真っ赤で、顔は血と腫れで元の状態が判別できないほどグチャグチャだ。彼女の目すら僕はきちんと見たことがなかった。脚は関節がきちんと入っていないようだし、腕も骨が折れているんだと思う。歩くとふらふらしていて、電池が切れそうなおもちゃのような奇怪な動きなのだ。 元は白かったであろうワンピースみたいなのを来ているが、ほとんど血に染まっていて、黒い髪以外は全て塗料で塗ったくったように、真っ赤だった。何をどうすればあんなに血まみれになるのか、と疑問に思うくらいだった。
 また、彼女は常に僕と一定の距離を保ち、いつも少し後ろを歩いた。部屋はおろか、家にも入ってこないし、電車やバスには一緒に乗らない。学校のような開放された空間には紛れこむことがあっても、個人的なスペースや閉鎖された場所に彼女が入ってくることはなかった。
 車に乗っているときにふと鏡で後ろを覗くと、いつものふらふらした動きで車の間を縫うように追ってくるし、電車で窓の外を見ると、時々赤いものがこちらを向いて立っているのがわかった。そして到着すると、また僕の背後にまわり、僕を尾行するのであった。
 アカネは僕以外の人には見えない。自称霊感が強いという人間でも、アカネに気づいた者は誰もいない。僕しか彼女の存在を認める人間はいなかったいのだ。けれども僕はアカネに声をかけたことは一度もないし、存在に気づいているとアピールしたこともない。
 アカネだって僕に話しかけてこないし、事故などで何度か危ない目に遭っているのに、彼女は傍観者として立っているだけで、僕を助けない。もしも他に悪霊がいたとしても、きっとアカネは僕が呪われているのをただじっと見ているだけだっただろう。
 最初は恐ろしかった。振り向けば殺されるんじゃないかと思い、ついてくるなよの一言が言えなかった。ひたすら無視して、無視して、徹底的に彼女をいないものとして扱った。
 当時の僕にとって幸運だったのが、アカネは積極的にターゲットを呪っていたぶる悪霊の類ではなかったことだ。どんなに怯えてもアカネはただ僕を追うだけで、それ以上のこともそれ以下のこともしなかった。風景の一部として見ればいい、と彼女との付き合いを少し経験して自分を納得させた。
 僕らはいつも一緒だった。ぼんやりしていると、アカネはいつの間にか背後や僕の視界にギリギリ入るくらい端っこにいる。用があってそちらを振り向けばおらず、また別のところに移動している。その繰り返しだった。慣れているとはいえやはり不気味なので、お化け屋敷はこりごりだし、暗い場所での一人の作業は絶対にやりたくなかったが。
 別にそこまで僕は彼女に愛着を持っていないつもりでいた。だから放っておいているのだし、積極的に話しかけようなどと思わなかった。何が目的で僕の周囲をうろつくのかも尋ねたくなかった。いつの間にか日常の一部になっていたとはいえ、もしもある日突然消えてくれたら、もう心臓に悪い思いをしないでのだからそれでいいと思っていた。
 アカネとの奇妙な関係に変化が訪れたのは、僕が大学に入った年の春だった。母方の祖父が亡くなり、数年ぶりに母の実家を訪れたのが始まりだったと思う。慌ただしく通夜と葬儀をこなして帰京したときに、僕は違和感に気づいた。どこにもアカネがいないのだ。後をつけてくる気配もなければ、視界の隅に入ることもなかった。ふと赤いものがちらついて急いでそちらを向くと、まったく別のものだったということがよくあった。
 なんだか荷物を下ろしたように心は軽くなったが、表現しきれない喪失感もあった。アカネはいつも僕のそばにいるものだと思っていたから、久しぶりに彼女のいない生活が逆に異常事態に感じた。もちろん、アカネとは一定の距離を保って交流もなかったので、日常生活が大きく変わったわけではない。けれども、どういうわけか僕はアカネがいないという事実に落ち着かなかった。あの不気味な赤い女から解放されたいのか解放されたくないのか自分でも判断できなかった。
 祖父が亡くなり、田舎の家には祖母が残った。親戚たちがそばにいるとはいえ不安だと母が言い、我が家は夏にも帰省することにした。思えば、あちらへ一年に二回以上行くのは僕が小学校に入ってから一度もなかったかもしれない。
 家の手伝いの合間に、僕はなんとなく散歩に出た。珍しいものは何もない、どこにでもあるような土地だ。あるのは田畑と山と家屋ばかり。僕の実家はそれこそ住宅街のど真ん中にあるので、ある意味新鮮な風景ではあった。
 長い土手の道を特に目的もなく歩いていて、ふと僕は背後の気配に気づいた――アカネがいる。ちょうど鏡は持っておらずさりげなく後方を確認できなかったのだが、間違いなく彼女がいた。背中がチリチリとした。数か月ぶりのその感覚は、懐かしく思えた。あまり喜ばしいことではなかったが、何だかんだ言ってそれまでの人生の半分以上を彼女と一緒に過ごしたので、歳月の積み重ねがそう感じさせたのだろう。
 僕は振り向かずにそのまま足を進めた。背後のアカネもそれに続く。まだあんな風に足を引きずって、腕をぶらぶらさせて、不格好に歩いているんだろうな。そんなことを思いながら、夕日で真っ赤になった空を見つめた。これがせめて普通の女性の姿で、親しく付き合っていた仲ならば、おかえりとかただいまとかくらいは言ってやれたのだろうか。残念ながらアカネはお近づきになりたくないような存在だ。しかし、慣れてはいた。彼女とは本当に妙な関係なのだなと思いつつ、僕は祖母の家へ帰った。短い時間、ほんの十分かそこらが長く思えた。
 玄関の戸を開けると、アカネの気配はそこで止まった。自宅でも、僕が家のなかに入ってしまうと、アカネはせいぜい敷地内をぐるぐると徘徊するだけだった。霊的な結界なんてあるわけがなく、単に彼女はそういうものなんだと思っていた。
 その夜のことだった。いつもよりも数時間早く就寝してしまった僕は中途半端な時間に目を覚まし、トイレに行こうと廊下を出た。大家族で住んでいた時代の名残である広い家は、住人が減っていくにつれてどことなく寂しさが増す。真夜中だと余計にそう思わせる。大人になった今では小学生のときに感じた恐怖はないものの、あの頃よりも人がいなくなったせいか別の心許なさはあった。
 トイレは家の端にあり、僕の泊まっている部屋からは若干距離があった。他の親戚が泊まっている部屋を通り抜け、祖母の部屋の角を曲がるところで、僕は祖母の部屋の障子が少し開いていることに気づいた。こういうのはなんだか気になる性質なので、閉めようと引き手に指を伸ばした瞬間、中の様子を見てしまった。
 八畳ほどの空間の真ん中に祖母が布団を敷いて寝ている。その周りを、誰かが歩いている。ずりずり引きずる音は、僕にとっては聞きなれたものであった。アカネだ。僕は一瞬何が起きているのかわからずに、ただ目を見開いた。アカネが家のなかにいるなんてことは初めてだった。
 彼女は無言で祖母の周囲を歩きまわっている。俯いているが、その視線は祖母に向けられているようだ。呼吸音が聞こえそうなくらいに近い。 そのうち、アカネはぴたりと立ち止まった。こちらを向こうとしている。僕は本能でそれを察知して、思考する間もなく気配を殺して急いで自分の部屋に引き返した。布団にもぐりこみ、アカネが僕に気づいていないことを祈った。
 何なんだ、どうして家のなかにいるんだ、なんで祖母ちゃんのそばを歩きまわっていたんだ。心臓が大きく鼓動しすぎて、このまま破裂してしまうのではないかと思うくらいだった。 アカネが僕に気づいたのかどうかは定かではないが、僕を追いかけてくる様子はなかった。しかし、僕は眠れず、そのまま陽光が差し込むまでがたがたと震えていた。暗闇に溶け込むようなアカネの影が目を開いても閉じても浮かんできた。あんなに近くで見たのは初めてだったかもしれなかった。
 朝が訪れ、隣の部屋で両親が目覚めた気配を確認したところで、僕はようやく身を起こした。夏の暑さのせいではない、変に冷えた汗で身体は湿っぽくなっていた。 朝食で皆が集まり、僕はちらりと祖母を見た。祖父が亡くなって一回り小さくなった様子だけれども、いつもの祖母だった。むしろ見るからに寝不足の僕の方が心配されたくらいだった。アカネはなぜ家のなかに入ってきたのだろう。祖母に何かあるのだろうか。僕は勇気を出して尋ねてみた。
「祖母ちゃん、昨夜変な感じしなかった?」
 祖母は首をかしげながら横に振った。
「いんや。なんだ、何かあったかね」
「たいしたことじゃないんだ。でも、最近妙な気配とか感じたり、得体のしれないものうろついたりしてなかった?」
 祖母はまったく僕の質問を理解できていないようだった。すぐ横で飯を頬張っていた叔父が豪快に笑った。
「お前寝ぼけたんか」
「違うって。たださ、変な女とかこの辺出没したりしてないかって話」
「あんた、昔もそんなこと言ってたね。もういくつになったと思ってるの、恥ずかしい」
 母の言葉に、父も苦笑しながら同意した。アカネと出会ったばかりのころもそうだった。特にこの辺りで赤い女が出るという怪談めいたものはなく、アカネがどこから来たのか、いったい何者なのか手がかりが一切つかめなかったのだ。
「いや、祖母ちゃんの部屋のなかを女がうろついていたんだよ」
「そんなわけないでしょう」
 母の一声で、その場は強引に終わらせられてしまった。しかも、後片付けのときに、僕は改めて母に部屋の隅に引っ張られた。
「お祖父ちゃんが亡くなって気落ちしているんだから、お祖母ちゃんに変なこと言わないでよ」
「本当に見たんだって。あいつが祖母ちゃんの近くを」
「証拠ないでしょ」
 僕は意地になって、祖母の部屋を母と訪れた。さすがに家全体の戸締りはしっかりしていても、ここ自体は防犯もへったくれもない、単に障子や襖で区切られた場所で、侵入の痕跡などわざわざあるほうが逆におかしいくらいだった。
 そして、もちろんと言ってよいのかはわからないが、アカネの姿はなかった。あれだけ血まみれだというのに、血痕も見当たらない。しかし、畳には妙に擦ったような傷があった。アカネのあの特徴的な歩きかただったら、こんな風になるだろうと思われるような。僕はそう主張したが、母はそもそもアカネを知らないので理解されなかった。確かに変な傷がついているくらいの認識しか与えられずに終わった。
 結局、中学生と小学生の従兄弟たちにもお化けが怖いのかとからかわれてしまい、散々だった。


 アカネの気配に怯えながら予定をこなして、僕たち一家は帰京した。父が運転する車はやけにのんびりとしたスピードで、早くこの場所を去りたい僕にはもどかしいくらいだった。道中、僕は久しぶりに鏡を取り出して背後を映したが、アカネの姿はそこにはなかった。けれども、以前にも増して彼女の存在を意識した。
 家に着いて数日分の荷ほどきをしていると、携帯電話が鳴った。近場で一人暮らしをしている友人の家に同級生何人かで集まっているとのことで、疲れてはいたが、土産を渡しがてら参加しに出かけることにした。鬱々とした気分をどうにか晴らしたい思いもあった。
 道中、ちょうど仲間の一人と合流できた。差し入れを買おうとコンビニに寄り、カラフルな陳列棚を眺めていると、ああ東京に帰って来たんだ、と不思議と安心した。たった何日か離れただけでも、もう何年も戻ってこなかったような心地だった。
 酒が飲めない僕は、ジュースやお茶のペットボトルが並ぶ冷蔵庫の扉を開けて物色し、適当なものを取りだした。そして閉めたとき、ガラスに反射して映る僕のすぐ横に、アカネの姿があった。
 思わず僕が叫ぶと、つまみになるようなものを選んでいた友人が寄ってきた。言葉にならずに周囲を見渡すと、あの赤い女はどこにもいなかった。店内にいた他の客や店員が不審そうにこちらに視線を向けているだけだった。
「どうしたんだよ」
 友人には僕がよほど間抜けに見えたのだろう、思いきり笑ってくれたのがその瞬間の僕にとってはありがたかった。動揺を隠しながら僕は会計を済ませて友人宅に向かったが、背後にあれがついてきてないかばかりが気になり、いざ皆と一緒になってもアカネのことばかり考えてしまった。
 僕はこの日までに、彼女の顔を間近で見たことがなかった。初めてきちんと目にしたのだ。輪郭はぼこぼこで、口には裂けたように両端に大きな傷があって、奥の歯が覗いていた。腫れた肉の間から、髪と同じくらい黒い瞳が虚ろながらもしっかりと僕を捉えているのが、はっきりと目に焼き付いていた。アカネはこんな容貌だったのか。十年ほど彼女を知っているのに、初めて会ったときと同じくらい恐ろしかった。
 よほど僕の様子がただ事ではないと感じたのか、友人たちは帰るように勧めたが、夜道を一人で歩くのがどうしても嫌で、そのまま居残った。絶対アカネがいるはずだから。彼女はどこかから僕を見ている。僕のそばにいる。もしかしたら窓のすぐ向こうに立っているかもしれない。普段は気にしないであろう、ちょっとした外の物音がひどく恐ろしいものに思えた。
 恐怖を紛らわせるために、会話には積極的に参加することにした。空回りしているのが自分でもわかったが、どうにか気分を変えたかった。そうして眠らないまま夜を明かし、明るくなった道を怖々帰った。
 重い体で、僕は電車に乗り込んだ。ガラガラの座席に腰を下ろすと、眠気が襲ってきた。自宅まではたった数駅だから、ここで寝入るわけにはいかなかった。それに、今眠ったら、アカネが夢に出てくるかもしれないという恐怖があった。
 何度も閉じかける瞼と戦いながら、僕は床に落ちた朝日の光を見つめていた。幾度目かの瞬きをした時、窓枠の形に切り取られた光を踏んでいる二本の足が出現した――真っ赤な裸足。僕は息をのんだ。
 顔を上げる。そこには誰もいなかった。ガラス越しの、眩しい東の空があるだけだった。眠気はすっかり冷めてしまった。それどころか悪寒が走った。冷房のせいではない鳥肌を、僕は必死にさすった。
 それから、アカネは頻繁に僕の視界に現れた。もう、後ろを確かめる必要はなかった。街の人ごみ、電車のなか、店――どこでもアカネの存在があった。やっぱり僕に何をするわけでもない。ただ追いかけてくるだけだ。しかし、明らかに僕に接近している。自分の姿を僕に見せようとしているかのようだった。
 祖母の家でのことがあったから、家も安全とはいえなかった。しかし、アカネはどういうわけか我が家のなかでは見かけなかった。それでも、家に入ってきたら、もしも部屋に現れたらどうしよう、と僕は彼女に怯える日々を送った。些細な物音にも敏感になり、夜もまともに眠れなくなった。
 精神的にどんどん追いつめられてきた頃、祖母の訃報が届いた。本当に突然のことで、そばにいた親族たちも皆驚いたほどだったという。正直、あの家には近寄りたくもなかった。しかし、僕は行きたいとか行きたくないとか意思表示をする間もなく、また車に乗せられてあの田舎へと向かった。アカネの気配に怯えながら。
 葬儀までの流れは、祖父の時とほとんど同じだった。さすがに春にやったばかりだったので、手伝いに戸惑うことはなかったが、寝不足の頭では何をやるにもきつかった。
「祖父さんが呼んだのかね。仲よかったからね」
「今頃あの世で二人そろって楽しくやってるんじゃないか」
 親戚たちが酒盛りしているそばで、僕は愛想なく部屋の片隅でうずくまっていた。なんとなく、祖母の死はアカネの仕業ではないかという気がしていた。彼女が具体的に何かした覚えはないけれど、僕はそう確信していた。
「あ、もう酒がないや」
 父が僕を呼んだ。台所から追加分を持ってこいと言う。気が進まなかったが酔っぱらい集団には逆らえなかった。押し出されるように、僕は半分朦朧とした頭で部屋を出た。
 やけに廊下は静かだった。あれこれ駆け回っていた女性たちも一息ついて一緒に酒飲んで盛り上がっていたのだから、当然かもしれないが。確か、母と叔母だけはまだ台所にいるはずだった。そう父が言っていた。
 角を過ぎると通路は奥で二手に分かれており、右が台所だ。ちょうど僕が曲がったと同時に、台所へ誰かが入っていったのがちらりと見えた。人気がなくて不気味だったから、その姿に安心した。面倒くさいから声をかけて酒瓶を持ってきてもらおう、と思った。
「母さん……あれ、叔母さん?」
「なに、お水でも欲しくなった?」
 背後から声がして、僕は飛び上がった。振り向くと、母と叔母が二人して僕を不思議そうに見つめていた。
「台所にいるんじゃなかったの?」
「ちょっと人が来たから挨拶に出たの。まったく、他の連中ったらさっさと酔っぱらって。こっちは遠くから来て働きっぱなしなのに……」
 母の愚痴を最後まで聞かず、僕は奥へ進んだ。台所は無人だった。
「ちょっと、何? あ、お酒?」
 母に無理やり抱えさせられた瓶が重かった。
 僕は確かにここに入る人影を見たのだ。よく考えずに、それが母か叔母だと信じた。まともに動かない脳が見せた幻だったのだろうか。アカネに怯えたから、幻覚を見たのか。
 僕は床に視線を落とした。そこには血痕があった。落ちた直後にひきずったような形だった。僕の脳裏に、アカネの独特の歩きかたが浮かんできた。
「アカネがいる」
 また始まった。母たちはそう馬鹿にしたように顔を見合わせて笑った。
「いるんだ、アカネがいるんだよ、この家のなかに」
「さっさと運びなさい。私たちもこれ終わったら行くから」
 信じてもらえないどころか、酔っぱらいたちの笑い話にされた。この土地で出会ったのに、ここの人たちは誰もアカネのことを知らなかった。僕以外、誰もアカネを知らない。僕以外、アカネの存在を感じることができない。何度も確認した事実が僕に伸しかかった。まるで彼女が肩に手をまわして抱いてきたかのように。
 その晩ももちろん眠れるわけがなく、布団のなかで丸まって怯えていた。アカネが家のなかにいる。僕の家には入ってこないくせに、どうしてこの家には入ってくるんだ? なぜうろつく? 何がしたい?
 風が木々の枝を揺らすのが耳障りだった。時々誰かがトイレに起きるようで、廊下がきしむ音が響くたびに、やめてくれと願った。この家のなかで、アカネがどこかから僕を見ている――そんな気がした。


 翌日の夕方、僕は土手へ出かけた。道の行き止まりに、車両進入を防ぐための小さな柵がある。そこに腰かけ、僕は土手の奥を見据えた。彼女を待っていた。なんとなくこの時間にこの場所がいいと思った。
 ――来た。
 道の向こうに小さな影があった。ガクッガクッと音を立てるような調子で進んでくる。僕は、目をそらさなかった。恐ろしかったけど、そらすまいと思った。
 彼女はゆっくりと歩いてきた。こちらがじれったくなるほど、彼女はうまく進めない。眠くて舟をこぐときの動作に少し似ている。時には躓くように大きく体が跳ね、べっとりとした黒い髪が浮かんで乱れる。その間から、きっとあの目を僕に向けている。はっきりとそう感じた。
 本当に痛々しい見かけだ。いったい何があればそんな体になるんだ。事故か? 殺されたのか? どちらにしてもまともな死にかたでなかったのは明らかだった。
 アカネは少しずつ僕に近づいてきた。斜陽の光を浴びながら、僕に向かって血まみれの足を進める。僕はそれを、まるで見守るように眺めていた。
 ぶらりと下がった腕を揺らして、まともに機能していない足をひきずって、アカネは僕に近づいてきた。その姿は、どこか健気にも思えた。そんな歩きかただと、足の裏が擦り切れるんじゃないかと、妙な心配までしたほどだ。
 赤と白の斑のワンピースは、ねっとりと濡れているように見えた。動くたびに彼女の肌にはりついていた。遠目からだと単にそういう生地だと言いきることもできたが、ここまで来ると、それは本当に血に染められているのだとはっきりとわかった。きっと死んだとき、彼女はとても痛い思いをしたことだろう。
 彼女は、僕から三十メートルほどの距離で止まった。腫れあがった顔を正面からまともに見ると、実にグロテスクだった。その視線は僕に向けられていた。
 僕らはしばらくどちらも動かずに向かい合っていた。アカネは何もしてこない。背後で通り過ぎる車の音、風に揺れる稲穂の音、カラスの鳴き声などが時々耳に入るくらいで、静かな時間だった。
 西から射す光はどんどん赤みを増していった。それさえも、アカネにとっては自分の血まみれの体を引き立てるだけのものだったに違いない。
 どれくらいそうしていただろう。僕は無意識のうちに口を開いていた。
「君は、誰だ?」
 彼女と出会って、初めて僕は彼女に声をかけた。初めての問いだった。これほどきちんとまともに対峙するのも初めてだった。
 声が勝手に出たというのに、その次が続かなかった。緊張なのか、喉が渇いてはりついたかのような状態だった。なぜ僕につきまとう? 何が目的だ? 何がしたい? どうして僕にしか見えない? 僕の祖父母が死んだのはお前のせいか? 聞きたいことはたくさんあったのに、他に何も出てこなかった。
「君は、誰だ?」
 口から出たのはそれだけだった。
 アカネは答えなかった。そもそも喋れるのかも定かではなかった。それまで彼女の声なんて聞いたことがなかった。
 両側に口裂け女のような切れ目が入っているアカネの口がわずかに動いた。その瞬間、アカネは音もなく姿を消した――最初からそこにいなかったかのごとく。
 僕は何が起きたかわからなかった。いつか電車のなかで瞬きをした直後に現れたのと逆に、瞬きをしたら消えた。そんな感じだった。
 どこかからまた来るんじゃないかと、僕はしばらくそのまま柵に座ったままでいた。日か沈み、空が赤という色を完全に失うまで僕は動けなかった。
 結局、それ以来僕はアカネを見ていない。彼女が何だったかも不明のままだ。結局誰にもその存在を信じてもらえないまま現在に至る。あんなに彼女は僕につきまとっていたのに、僕は彼女のことを意識しない日が年々増えていく。それでも、僕は不意に赤が目に入るといまだに心臓が止まりそうになる。




2011/09/12
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