秘密基地


 亜希ちゃんはしっかりしてるなあ。七海は何かにつけてそう思っていた。
 七海は四月二日生まれで亜希は四月一日生まれ。学年は一緒でも、歳はほぼ丸一年上になるから、背は七海のほうが高い。けれども、七海は気弱でいつもおどおどしてばかりで、二人の兄に圧されてばかりだった。
 対照的に、亜希は妹も弟もいるせいか、面倒見が良い。小さい子が泣いていたらすぐに近寄って話をきいてあげるし、みんなで一緒にゲームをするときは年下の子の手をひいたりおんぶしてあげる。
 ちゃきちゃき動いて他人を扱うのが上手い亜希を隣で見ていて、七海はいつも感心してばかりだった。七海の方がお姉さんのはずなのに、亜希はあっという間に七海を追い越して、今ではまるで亜希の方が年上のようだった。だから、二人で遊んでいても、たいてい主導権を握るのは亜希だった。
「私たち得だよね」
 三月の終業式の帰り、亜希は突然そんなことを言いだした。七海がその意味を飲み込めずにいると、亜希はふふんと笑った。
「誕生日四月だよ。ケーキにイチゴもあるし、桜咲くし、誕生石はダイヤモンドだし。美優ちゃんは十月でしょ、お母さんがケーキ作ってもイチゴ乗せれないんだって」
 イチゴは好きだけど、それって得なのかな? 七海は考え込んでしまった。
 七海は四月二日に生まれたものだから、入学式のときには既に七歳になっていて、新しく友達になった子にお祝いをしてもらうことはなかった。仲良くなってお互いをよく知るようになった頃、教室で「おめでとう」なんて言ってもらえる子たちがうらやましいくらいだった。今度の誕生日だってどうせ春休みだし。
 ついでに言うと、ダイヤモンドの価値もよくわからない。
「ダイヤって高級なんだって。いいじゃんいいじゃん」
 亜希はどこからそういう情報を仕入れてくるのだろう。七海には不思議だった。七海には兄が二人いるけれど、宝石の話なんて全然してくれない。彼らが振ってくる話題は、七海が興味を持てないような、恐竜や虫のことばかりだった。
 しかし、ひとつだけ亜希の話にすぐに共感できるものがあった。桜だ。隙間ばかりで寂しかった冬の枝を賑わせて空を埋め尽くす、あのほんのりとしたピンクの花が七海は好きだった。すぐに散ってしまうけれども、だからこそ自分の誕生日の頃に桜の花が咲くのは嬉しい。
「まあ、桜はいいかもー」
「そうだよ、プレミアものだよ」
「プレミア? 初回限定版みたいな感じ?」
 上の兄がこの間ゲームを買ってきたときにそんなことを言っていたのを思い出して呟いた七海だったが、それを聞いた亜希がなぜ大笑いするのかついていけなかった。
 ひとしきり笑った亜希はふと何か見つけて指さした。
「ナナちゃん、あれ見て」
 亜希の指先を辿ると、クラスの男子が何人か集まっている姿が見えた。いろいろ板や段ボールなどの道具を持っている。そして、一目で怪しいと思えるほどにこそこそしていて、周囲を警戒している様子はどこか間抜けだった。
「あーやしいー」
 亜希はにやりと笑った。
「ついてかない?」
 七海の返事を聞く前に、亜希は男子たちの尾行を始めた。七海は慌てて亜希を追う。
 亜希は完全に刑事か探偵になりきっているようだった。そういえば、彼女の最近のお気に入り番組は、金曜の夕方六時から放送中の刑事アニメだった。
 電柱や曲がり角に潜んで、こっそり男子の様子を窺う。亜希は小柄だが七海は大きい。自分がはみ出してしまわないか七海は神経をつかった。
 男子たちの向かった先は、近くのマンションの敷地内にある倉庫の裏だった。倉庫の屋根とブロック塀の間を、遠足のときに使うようなシートを渡して屋根を作っており、段ボールや板、それからどこから持ってきたのか、カラーボックスで囲っている。
 彼らは壁の間に毛布ぶら下げて、そこを出入り口にしているようだ。布をめくって、そのなかに入って行った。
 その様子を二人でこっそり偵察していると、背後からいきなり声をかけられた。
「くせもの!」
 まだ仲間がいたらしい。いわゆるガキ大将にあたるクラスメートの酒井が仁王立ちしていた。
「ここから先は関係者以外立ち入り禁止でーす」
 まるで虫を追い払うように、手で出ていくように促される。しかし、亜希はそんなことでは負けない。
「先生に言っちゃうよ、酒井くんたちが変なの作ってますって」
「はあ? 何で言うの? 牧島ってそんなに偉いんですかあ?」
 亜希は両の手を腰に置いて、胸を張った。
「私はクラス委員だから偉いんですー。ナナちゃんも私の友達だから偉いんですー」
 そこで、もう一年生終わったからクラス委員はまた替えるんじゃないかとは言えない七海であった。おそるおそる、まだ話しかけやすい男子に尋ねた。
「何してるの?」
「秘密」
 彼もそれ以上は何も答えてくれず、七海も次の言葉をつなげられなかった。そうこうしているうちに、中にいた男子たちも出てきてしまった。
「スパイだ、スパイだ」
 七海は大勢に囲まれてはやし立てられると、顔が一気に赤くなってしまう。思わず俯いてしまったが、亜希は援護射撃なんてなくてもへっちゃらに見えた。
「こそこそしてるのが悪いんじゃないの?」
「してませんー。目ちゃんと見えてんの、チビ!」
 応酬が続いたが、ここはいわゆるアウェーだ。男子たちに比べて分が悪い。
 七海は、険悪モードの亜希と男子の間に割って入る。
「やめようよ、仲良くしよう? みんなでさ」
 その場にいた全員の視線が七海に集中し、すぐに反論が一斉に彼女を攻撃した。
「そっちが入ってきたんじゃん!」
「そうだよ!」
「どっちが悪いんだよ」
 七海は一気に責め立てられ、涙目になる。こういう状況は苦手なのだ。
「バカ! ナナちゃん泣かせるな!」
 代わりに亜希が怒って、酒井の肩を押した。クラスでも背は小さいほうなのに、亜希はそのハンデを補うように気を張って立ち向かう。
「牧島こそなんだよ! お前らが入ってくるのがいけないんだ」
「あんたたちが悪い!」
「もう、やめてよー」
 七海が亜希をかばうように押さえる。気まずく全員が黙るなか、七海の泣き声が響いた。
 興ざめしたのか、気だるそうな表情の酒井はカードをひとつ取り出した。七海や亜希にはよくわからない絵だけれど、しっかりラミネート加工されている。
「これがないやつは入れないの。合い言葉だってあるし。あ、男だけだから! 女関係ないから!」
 男子たちはぞろぞろ基地のなかには入っていった。もちろん、七海と亜希はシャットアウトだ。これ見よがしに、ひそひそと七海たちの方を向きながら合言葉を言いあった。
 亜希は声を出さずに彼らを威嚇すると、七海の手を引いてその場を去った。
「あいつら生意気、生意気! 別に、入れてほしいなんて言ってないじゃん」
 女子のなかでも気が強く、クラスでも中心的な存在の亜希だが、さすがに多勢の男子相手では分が悪すぎた。涙は乾いたものの、七海はしゅんとしてしまった。
「ごめんね、何も言い返せなくて」
 亜希は地団駄踏んでいた足を止めて、七海を振り返る。
「ナナちゃんもさ、もっと強くなきゃ。男子より背高いんだし、それで弱かったらなめられるよ。おっきいくせにって」
「うん……」
 とことこと二人で歩く。どちらもしばらく無言だったが、いきなり亜希がひらめいたように口を開いた。
「なんかさ、私たちもほしいね、秘密基地。あんなやつじゃなくてさ、もっと素敵なの!」
 落ち込んで暗い靄がかかっていた七海の視界がぱあっと明るくなった。
「それいいね! うん、どっかに作ろう!」
 七海の言葉に亜希がにこっと笑うものだから、七海は少しほっとした。
「でも、どこにする? 春休みだから学校はだめだよね」
「マルクニの駐車場は?」
「車来て危ないし、あんまり素敵じゃないよ」
 次々に候補地の案が出るが、そのたびにどちらかから不安要素も挙げられて、なかなかいいところがない。安全で大人が来ない場所というのもなかなか難しいのだ。アニメやマンガに出てくるような場所を確保するのは、このご時世だと厳しい。男子たちの場所だって、いつか大人から怒られるに決まっている。 
「いっそのこと、うちのおばあちゃんち――」
 そのとき、突風が吹いて、七海の帽子が飛ばされた。慌てて追いかけると、少し離れた路地に落ちていた。
「あー、砂が。ママ、絶対怒るよ」
 拾おうと手を伸ばした七海は、帽子の横に目を留めた。
「亜希ちゃん、見て」
 思わずそちらを手にとって、亜希に突き出す。亜希が眉をひそめて見ると、それは一片の桜の花びらだった。
「桜だよ」
「えー、まだ学校のも公園のも咲いてないよー?」
「でも、桜じゃない?」
 亜希は花びらを受け取ってじっくり見る。爪ほどの大きさの、薄紅色の花弁。
「本当だ。え、もう咲いてるの? それじゃ、私たちの誕生日に桜ないじゃーん」
 そよ風がふわりと二人の髪を浮かせた。またいくつかの花びらがやってきた。
「どこのかな?」
「確かめよ!」
 今度は亜希と七海は同時に走り出した。風は神社の向こうから吹いている。その脇を通って、畑を突き抜けて、林を横目に二人は進んでいった。ここまで来ると校区を抜けてしまうが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
 気づけば、彼女たちは見知らぬ場所に来ていた。両脇に背の高い生け垣がずっと続いていて、家や人の姿が見当たらない。しかし、道のあちこちに桜の花びらが落ちていて、それを辿ってきているのだから、咲いている木がこの付近にあるに違いないと二人は確信していた。
「ここ、どこかな? 別所?」
「別所にこんな大きな家ないよ」
 初めて訪れた場所への不安よりも、桜への好奇心が勝った。二人はきょろきょろと周囲を見渡しながら歩いた。
 七海はふと、生け垣の隙間に桜色を見つけた。
「亜希ちゃん、見て!」
 亜希は背が低いので背伸びをするが、ちょうどそこは茂っていてよくわからないみたいだ。七海がたどたどしく亜希を持ち上げると、亜希は目を丸くして向こう側を覗いた。
「あそこだっ!」
 ぴょんぴょんと跳ねながら、二人は生け垣の向こうへの入り口を探した。右へ行って、左へ行って。ぐるぐると回って、ようやく隙間を探り当てた。
 亜希はするりと向こう側に行けたが、七海は少し身を小さくしなければならなかった。先に行った亜希が立ち尽くしているのを訝しげに思ったが、向こう側に出た瞬間、思わず感嘆の声をあげた。
「わあ!」
 それはそれは見事な桜の大木だった。学校にあるものよりもずっと太くて高い。まだ七分咲というところで、風情のある佇まいだ。
 根元付近には、屋根付きのベンチがひっそりと建っていた。なんとなく、バスの待ち合い所に似ている。
 不思議な場所だった。何の音もしない。緩やかな風で枝がそよいでいる他は何も動かない。不思議な生け垣に囲まれたこの空間は神秘的で、七海も亜希もしばらく言葉が出なかった。
 空気が乳白色に薄く染まって、その場のすべてが溶けていきそうだった。桜はこんなに幻想的なものだっただろうか。二人は記憶を探るが、一年前でさえ幼い彼女たちにはあまりにも遠く思えた。たとえば入学式のときの、少し散り進んだ花がとても綺麗に感じた覚えはあるのだが、この桜がその全ての記憶を塗り替えてしまいそうだった。
 どちらからともなく、七海たちは木に近寄った。重そうな枝に溢れんばかりの花々。こんなに美しい桜は初めてだった。二人の小さな胸は一瞬で満たされてしまった。
 ベンチに並んで座って無言で外の景色を見つめていた。勝手には入ってしまったのだから、もしかしたらこの場所の持ち主が怒ってやって来るのではないかと思ったけれども、誰も来ない。小さな隙間以外は全て生け垣に閉ざされたこの空間は、まるで自分たちだけの場所のようだった。
「ねえ、亜希ちゃん。さっきの話なんだけどね、ここを二人の秘密基地にしない?」
 七海がそう言うと、亜希は目を輝かせた。
「いい! それ、すっごくいい!」
「うん、うん、そうしようよ!」
 ふと視線を落とすと、二人のスカートには桜の花弁がいくらか溜まっていた。そのなかで、五枚の花弁がついた花のままのものがひとつずつ。それを二人は大事にハンカチに包んでランドセルに入れた。
 ずいぶん長い寄り道になってしまった。また次の日も来ようと約束して、二人は常盤色に囲われた小さな扉をくぐった。
 さいわい、二人が思ったよりも時の流れは緩やかだったのか、日はまだ高かった。七海の家に着いた時間は午後二時半。長兄の光紀も次兄の斎も既に帰宅していた。光紀はともかく、絵に描いたようなやんちゃ少年である斎と関わると厄介だ。七海は音を立てないようにして、亜希を自分の部屋まで連れて行った。
 部屋に入った二人は同時に長く息を吐いた。緑の壁を越えたときから、ずっと呼吸を忘れてしまっていたようだ。酸素をもっと取り入れたいけれど、あの静謐で清らかな空気を全部失ってしまいそうで、呼吸をやけに意識してしまう。彼女たちの胸にはまだ余韻が残っているのだ。
 亜希は下ろしたランドセルを開けて、空色のハンカチを取り出した。七海もそれに倣う。「せーの」のかけ声とともに開くと、花は幻にもならず包んだときのままそこに存在していた。同時に歓声をあげる。
「やっぱりあれ夢じゃないよね?」
「うん、一緒にいたもんね!」
 水気を失いつつある花をうっとりと眺める。
「これ、取っておけないかな」
 ぽつりと亜希が言い出した。
「桜ってすぐダメになっちゃわない?」
「そうなの?」
「そうだった、多分」
 もしもそうだとすると、これ以上は触れない。七海は慌ててハンカチに戻した。
「亜希ちゃん、押し花したことある?」
「なーい。押し花って好きじゃないしー」
「サランラップじゃだめかな」
「ラップって食べ物にしか使えないんじゃない? あ、セロテープは?」
「テープ小さいのしかないもん」
 向かい合って悩んでいたが、七海はひらめいて、向かいの部屋のドアをノックした。中学生の兄、光紀が出てきた。
「なに?」
「ミツお兄ちゃん、これ何か取っておけない?」
 ハンカチごと差し出すと、光紀は眉をひそめて凝視してきた。
「あれ、桜ってもう咲いてるっけ?」
「秘密ー。ねっ!」
 光紀は頷きあう妹たちを見て首を傾げた。しかし、小さいとはいえ女子の内緒話にはつっこまないほうがいいことを、彼は既に学習済みだった。
「保存したいの?」
「うん、ミツお兄ちゃんいろいろ持ってるから」
 光紀の趣味はゲームと工作。いろんな道具を持っていた。しかし、彼は手頃な保存手段が思いつかなかった。
「ケースならあるよ」
 机の上においたガラスやプラスチックケースを持ってくる。細かい部品のストックを入れるのに使うのだ。
「こういうのだったらまだ余ってるから持って行っていいよ」
「いいの?」
 七海たちは吟味する。そして示し合わせたわけでもないのに、同じものを指した。
「これ」
 小指ほどの大きさのガラス瓶だ。元は、光紀が買った鉱石の細かい欠片が入っていた。コルクの蓋もついていて、魔法使いの棚に置いてありそうだと七海は思った。
「あ、これでいいの。じゃあやるよ」
 それぞれ慎重に花を納める。ガラスの底に向かってすとんと落ち、側面に寄りかかるようになったが、小学校低学年女子たちの目を輝かせるには十分だった。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
「ありがとうございます」
 亜希はぺこりと頭を下げ、七海も思わず同じように下げた。
 掌に収まった瓶は少し温かい気がした。滑らかな感触を何度も確かめた。
「ナナちゃん、明日は遊べる?」
「お昼までピアノだけど、一時からなら大丈夫だよ」
「じゃあ、明日も行こう! ね!」
「うん、また明日ね」
 そう約束して、七海は亜希を見送った。ボールが弾んでいるように歩いている姿が見えなくなるまで手を振ってから、家に入った。自分の部屋に戻って瓶を眺めた。窓からまっすぐ差し込んだ春の光に当たり、薄い影が机の上に広がっていた。
 ちょっと早く花が咲いてしまった不思議な場所。自分と亜希しか知らない特別な場所。その高揚感に胸が満たされ、七海は飽きもせずにずっと見つめていた。


 次の日、上の空でピアノのレッスンを終えた七海は、急いで帰宅した。もう、教室で先生に見てもらいながら鍵盤を叩いていても、心はあの生け垣の道まで飛んで行ってしまっていた。
 昼ご飯も急いで済ませて、亜希の家に向かった。彼女が住んでいるのは、七海の家の通りよりも一本奥へ行ったところにある。チャイムを鳴らす前から既に泣き声がした。亜希の妹、沙耶のものだ。
 しばらくして、亜希が鞄を片手に出てきた。その脚にはまだ歩くのがやっとの沙耶がまとわりついている。
「ごめんね、ナナちゃん」
「ううん。沙耶ちゃん、こんにちは」
 沙耶は亜希の後ろに隠れてしまう。挨拶するように亜希が叱っても、首を振るばかり。亜希が遊びに行くので拗ねているようだった。
「沙耶ちゃんはお姉ちゃんが好きだね」
「うーん、まあね。お母さーん、ナナちゃんと遊びにいくねー」
「沙耶も行くぅ」
「だーめ、大きい子しか行けない場所なの。ね、ナナちゃん」
 亜希が七海に視線を合わせてにっこりと笑う。七海が頷くと、まるで沙耶はすがるように七海を見る。
「ナナちゃん、沙耶も連れてって」
 七海は困惑しつつも、首を横に振った。
「ごめんね、沙耶ちゃん。私たちしか行けないんだ」
 沙耶は大きな目を濡らしはじめた。
「あ、やばい。泣くと本当に長いんだ」
 亜希は慣れた手つきで沙耶を抱きあげ、母親を呼んだ。そして、沙耶の泣き声が発せられると同時に玄関の戸を閉めた。
「あー、もう。沙耶ってすぐ連れてけ連れてけって言うんだから」
「小さいからね。私もお兄ちゃんに言ったことあるよ。もうちょっと大きくなったら言わなくなるから大丈夫だよ」
 正直、七海は沙耶を連れていく事態にならなくて安堵した。七海は三人兄弟の末っ子だし、いとこたちも皆年上で、身近に小さな子どもがいたことはほとんどない。あえて言えば、亜希の弟妹たちがもっとも近いところにいる年下の子だ。しかし、七海は彼らですらうまく扱えない。だから、いざ連れて行ってもどう構ってやればいいのかはわからないのだった。
「あーあ。いいな、ナナちゃんは」
「なんで?」
「お兄ちゃんだったら面倒みなくていいでしょ」
 亜希の母は現在仕事を減らしているので亜希が全部面倒を見る必要もないが、それでも姉として世話しなければならないことも多々ある。
「一番上って面倒くさいよ。ちょっとお買い物行くから沙耶とお留守番してー、とか。ヒロ迎えに行ってー、とか。お皿出してー、お風呂掃除おねがーい」
 亜希は自分の母親の真似をする。よく似ているので、つい七海は吹き出してしまった。
「沙耶が小学生になってもさ、下に誰もいないから、お留守番で遊びに行けないってことないじゃん。そういうのいいなー」
「お兄ちゃんたちは私置いて普通にお出かけしちゃってたよ。亜希ちゃん偉すぎるよ。むしろ、うちのお姉ちゃんになってほしいもん」
「……ナナちゃんちの子になっても、ナナちゃんのほうがお姉ちゃんだよ」
「そういえば」
 二人は苦笑する。どうも、生まれた日や背丈と、二人の気質はまるっきり正反対だった。もしももう少し背格好が似ていれば、絶対に亜希の方がお姉さんに見られただろう。
 七海たちは昨日と同じように神社の脇を抜けて、畑に出た。反対側まで貫いている畦道を渡って、林を通りすぎる。そうしたら着くはずだった。しかし、長い生け垣になかなかたどりつけない。
「おっかしいなー。このへんだよね?」
「うん」
 まだ低学年の彼女たちは、子どもだけで通学路の外まで行く機会は少ない。ましてや、公園でも店でもない場所になど興味はないので、よその住宅地の土地勘もない。初めて訪れたのがつい前日であったため、場所に自信はなかった。どうやってあの通りにたどり着いたのかも詳しくは覚えてなかった。
 これが七海か亜希のどちらか一人しかあの桜とベンチに出会っていなかったら、幻か勘違いで済んでしまったかもしれない。しかし、二人同時に目撃して、桜の花まで持ち帰っているのだ。きっとどこかにあるにちがいなかった。それなのに、何十分もうろついても、一向に見つからない。昨日のように、桜の花びらひとつも落ちてないのだ。
「ねえ、ナナちゃん」
 聞かれて困るような話ではないのに、亜希は声を潜めた。
「あの瓶、持ってきた?」
「あ!」
 確か寝るまでベッドで眺めて、脇の机に置いたままだった。
「私も忘れた。もしさ、帰ってあれがなかったら……幽霊じゃない?」
「ええー? 怖いこと言わないでぇ」
 七海の反応を面白がって、亜希はけたけた笑う。
「一回戻ろうよ。こうなったら本当にあったか気になるもん。じゃあ、競争!」
 亜希は弾けるように、来た道を戻っていく。意表をつかれた七海は、一瞬遅れて走り出した。
「ずるーい!」
 亜希は体育の成績もいい。七海はいつもクラスの子にバカにされる。大きい身体でも鈍い動きになってしまうせいか、余計にからかわれるのだった。五十メートル走のタイムだって、亜希の方が早いのだ。
 亜希を抜かそうと思ってもなかなか抜かせない。亜紀曰く、もっとおどおどしたところ直せば早く走れるよ、とのことだったが、どう直せばいいのか七海にはわからなかった。
 結局、最後まで亜希の背中を見つめる形になって、二人は七海の自宅に到着した。階段を駆け上がって、七海の机のうえを確認すると、そこにはきちんと花を収めた瓶が存在していた。
 次に向かった亜希の家でも、瓶が同じ状態で留まっていた。沙耶に見つからないように家を離れた二人は、改めてお互いのものを確認しあう。
「ちゃんとあるよね」
 七海はつるつるとした面を指の腹でなぞる。その質感は確かに現実のものだった。亜希を見ると、やはり彼女も同じようにしていて、七海を見返して頷いた。
「ナナちゃん、ちょっとごめんね」
 亜希は軽く七海の頬をつねった。思わず七海は後ろへ飛んだ。
「うわ!」
「痛い? じゃあ、いまも夢じゃないね」
「もー、自分でやりなよ」
 七海は亜希の額にでこぴんを食らわせた。亜希は目をぱちぱちさせたあと、噴き出した。
「うん、夢じゃないね」
「ってことは、木もあるよね」
「もう一回行ってみよ。もしかしたら見てないとこあったかもしれないし」
 正直言うと、七海にはこの往復が体力的にきつかったが、亜希と一緒なら平気だった。瓶をしっかり握りしめて、二人はもう一度先ほどの住宅地を訪れた。何の変哲もない家々が建ち並ぶ路地を歩く。
 右に曲がって、左に曲がって、まっすぐ行って、今度も左。変わったところをひとつも見落とさないように慎重に進むと、つい少し前の苦労は何だったのか、すぐに例の道に出た。
「やった!」
 ハイタッチして、今度は入口を探す。それは、生垣よりももっと簡単に見つかった。みっしりと葉が重なった木々の隙間から桜色が見えた瞬間の幸福は、テストで百点を取ったり、運動会で一等賞を取ったりするときよりもずっと大きく感じた。
 桜は同じように佇んでいた。ベンチもそのままだ。そして、やはり周囲に人の気配はない。
 相変わらず静かだった。ここだけ垣根に切り取られて、自分たちのいた世界から切り離されてしまったかのように。その日、七海と亜紀はのんびりビーズアクセサリーづくりに興じた。ベンチの座面を机代わりにして、ビーズのケースをいっぱい広げた。
 差し込む日差しがあたたかくて、冬の間待ちわびた春を実感する。永遠にここにいたいと思ってしまうほどに。
「ね、ナナちゃん。どうしてさっきここ来れなかったのかな?」
 青と緑の粒をワイヤーに慎重に通しながら、亜希は尋ねた。
「うーん、道の順番覚えてなかったから?」
「でもさ、あんだけぐるぐる回っててさ、こんな長い木の壁にぶち当たらないってありえなくない?」
 それは七海も思った。百メートル走をやってもまだまだ余裕がありそうなくらい、生垣で挟まれた道は長い。これに気づけないなんてことは彼女にも考えられなかった。しかし、そもそも二回ともどうやってそこまで来たのかもよく理解していなかった。気づいたらその道に出ていたとしかわからないのだ。
「さっき、すっごい探したのにね」
「うん……」
 もしも瓶の桜がなければ、探すのを諦めていたかもしれない。七海は椅子に並んだふたつの小瓶を眺める。ふと七海は閃いて立ち上がった。
「もしかしたら、これがないと着けないんじゃない?」
 亜希は小首を傾げて、相棒を見上げる。
「ほら、昨日は花びら持ってたじゃない? 今日はこれ持ってきたら普通に来れたじゃない?」
「あ、言われてみれば」
 二人で手を叩く。
「パスポート? チケット? なんかそんな感じ」
「うんうん、わかる。男子たちのあれだよね」
 そう思うと、もっと瓶が愛おしくなる。実際、七海も亜希も、酒井たちが持っていたあのわけのわからないカードよりも、自分たちはずっと素晴らしいものを持っていると思った。
「これって私たちだけのものだよね。あんな、どこにでもありそうなのじゃなくて!」
 亜希は頬を紅潮させて、早口になる。
「すっごい、すごいよね。こんなの誰も持ってないよ!」
「ね!」
 自分たち専用の基地に、自分たち専用のチケット。その存在は、二人の気持ちをいっそう明るくした。その場にあったどのビーズよりもきらきらして見えた。
 ひとしきり遊んで満足したら、時刻はもう夕方。綺麗に後片付けして二人は基地を後にした。
「あー、楽しかったぁ。なんでだろ、家よりすっごく楽しい!」
 歩きながら亜希は伸びをした。彼女の言葉には七海も同意だった。いつもとやっていることは変わらないはずなのに、ずっと開放感があった。自分と亜希しかいないあの空間にいると、とても幸せで透き通るような気持ちになった。
 他の子たちが秘密基地を作りたがるわけも、同じ立場になることでようやくきちんと理解できた気がする。誰にも邪魔されない、自分たちだけの場所を手に入れたのだ。いつも大人やクラスメートらが自分たちの日常にはいたけれど、彼らが一切介入できない非日常空間が存在する。幼い彼女たちにはそれだけでとても特別に思えた。
「ねえ、ナナちゃん。明日も明後日も、また行こうね。行けるときはいつもあそこに行こうね」
「うん。桜は忘れちゃだめだね」
 亜希は花が開くように笑った。
「うん! 一生大事にしようね」
 それぞれ手に持った小瓶を軽くぶつけあった。透明な音が軽く響く。中の桜の花がわずかに跳ねた。
 その後も二人は連日自分たちの秘密基地を訪ねた。バドミントンをする日もあれば、ゲームをする日もあった。近くの公園は大人がうるさくて思いきり遊ぶことができないが、基地では遠慮がいらなかった。
 七海も亜希も、男子たちのそれよりも自分たちの基地のほうがずっと素敵だと感じていた。しっかりした屋根があるから、雨が降ってものびのびと遊べる。誰も邪魔しにやってこない二人だけの場所だった。どんなに騒いでも、叱りにくる人間なんていなかった。
 不思議なことに、瓶のなかの桜は何日経っても瑞々しく、予想以上に保っていた。二人には、それが魔法の花のように思えた。七海は習い事のときも絶対持って行き、誰にも触れられないようにした。亜希と自分以外の誰も、秘密基地に行けないように。


 春休みも半ばにさしかかったある日のことだった。亜希はその日、家族で外出していた。予定のない七海は、のんびりと机に向かって自由帳に落書きしていた。
 日の光が机上の瓶に差し込むと、亜麻色の板に薄い影ができる。その美しさに、七海はうっとりとしていた。
「ナナー、定規貸して」
 次兄の斎がノックと同時に入ってきた。それじゃノックの意味がないと他の家族から何度注意されても、彼のこの癖は直らない。
「えー?」
 ただでさえ乱暴な入室で七海は嫌な気分になっていたが、それ以上に斎に物を貸すことに抵抗があった。兄の光紀に借りるのは彼も遠慮があるのか、何か必要なものがある場合はいつも七海の持ち物から取っていく。無事に返ってきたのは半分もない。壊されたり失くされたりは珍しくなく、運がよくて傷ができてしまうほどだった。
「何に使うの?」
「ちょっと土掘る。虫がいるから。俺のどっかいっちゃってさ」
「絶対、やだ!」
 斎はむっとした様子で、七海の机の上に目を留める。
「あ、でかいの持ってるじゃん。それ貸して」
 今度は七海が少ないお小遣いを貯めて手に入れた、特大消しゴムを勝手に取っていこうとする。筆箱にも入らないくらい大きいサイズで、七海の密かな自慢だった。
「それもやだ。イツお兄ちゃん、ナナの許可なしで角使うじゃん」
「いいじゃん」
「よくないもん。角はナナが全部使うの」
 斎は立ったまま、七海は座ったままで取り合う。力は圧倒的に斎のほうが強い。けれども、ここで負けて取られたら台無しだと、七海も負けじと引っ張る。
 ケースを持っていた斎の指が滑ったのを七海は見逃さずに勢い良く引っ張った。成功だ。しかし、斎がつんのめることは残念ながら予想できなかった。
「うわ!」
 一瞬の出来事だった。斎が机にぶつかって瓶が床に落ち、絶望的な音が響いた。しかも、驚いた斎がバランスを崩して、よりによってそのガラスの切っ先に足を突っ込んでしまった。
「いってー!」
 七海はとっさに斎を退けて、床の惨状を確認した。原型がわかるくらいに大きな破片がひとつ、中くらいの破片が六つ、細かい破片は飛び散っていた。肝心の中身の桜は、運悪く斎が踏んでしまったところにあり、へしゃげていた。しかも、斎はそのまま足を滑らせたらしく、擦った血の跡の上で花自体がばらばらになってしまった。
「ああああ!」
 七海は花の残骸のひとつをつまみ上げた。大事なものなのに、秘密基地のチケットなのに。
「イツお兄ちゃんのばか、ばか、ばか!」
 いつもならすぐに反撃する斎だったが、このときばかりは切った足の痛みに耐えるしかなかった。そうこうしているうちに母が飛んできた。
「ちょっと喧嘩は――きゃあ、斎? どうした? 切ったの?」
「ママ、イツお兄ちゃんがぁ」
「水で流したほうがいいのかな、まず病院?」
「イツお兄ちゃんがナナの壊したぁ」
「ちょっとナナ、そんな場合じゃないでしょ。お兄ちゃんが怪我してるんだから心配しなさい!」
 母は母で、混乱しているようだった。斎の足をタオルで押さえて一階に連れて行くと、どこかに電話しているようだった。そして、ばたばたと音を立てながら二階にあがってきて、持っていたほうきを桜と一緒にガラスをちりとりに入れる。
「あ、だめ! 捨てちゃだめ!」
「手出さないで、危ないから」
 何か口を挟む暇もなく、母はちりとりの中身をレジ袋に入れて口を結んでどこかへ持ち去った。そして、車に斎を乗せてさっさと病院に行ってしまった。七海は泣きながら追いかけたが、追いつけやしなかった。
 しかたなく家に入った七海は、破片が入っているはずの袋を探してみたけれども、どこにもなかった。
 どうしよう、亜希ちゃんとお揃いなのに。
 そこらの桜ではだめなのだ。亜希と一緒に持ち帰ったあの桜ではないと。
 母と斎が帰ってくるまで待つしかなく、七海は自分の部屋でおとなしく待っているうちに寝てしまった。起きたころには既に夜の八時を過ぎていた。一階に降りると母は戻ってきていて、リビングでは足に包帯を巻いた斎が光紀と一緒にゲームに興じていた。
「ママ」
「あ、起きた? 晩ご飯取ってあるけどどうする?」
「ママ、桜は? ガラスの袋」
 母は首を傾げた。彼女にとって重要だったのはガラスであって、破片のなかに何か混ざっても大した問題ではなかったのだ。
「えー、病院に行ったときにゴミに出しちゃったわよ。何? 何か入ってたの」
 その言葉に、七海は地面に開いた深い穴に突き落とされた気分になった。悲しいと思うよりも前に涙が溢れていた。
「ちょ、ちょっと、どうしたの?」
「あの瓶、七海の宝物だったんだよ」
 焦る母に、光紀がテレビから目を離さずに口を挟んだ。
「桜入れたいからって言ったから、俺があげたの」
「えー、だったらもっと早く言ってくれてもよかったのに。だいたい、光紀、ガラスなんて危ないもの渡さないでよ」
「七海と亜希ちゃんがあれがいいって言ったのに。なんで俺怒られなきゃいけないの」
「七海はまだ小さいんだから、光紀が注意しなきゃ」
 母と光紀のやりとりが続いていたが、七海は何も耳に入らなかった。ただ、あの宝物が失ってしまったショックに足の先から頭のてっぺんまで浸かって溺れてしまいそうだった。
 亜希ちゃんになんて言おう。
 七海はその夜、遅くまで眠れなかった。母の手によるゴミ袋直行を免れたのは、あの直後に拾い上げた一片。ぼろぼろで、全然綺麗ではない。ひとひらの花びらの形にすらなっていない。
 これではだめだ。自分はもうあの場所に亜希と一緒に行けないかもしれない。亜希は怒るだろうか。七海は、朝がくるのが怖かった。
「ナナちゃん、あそぼー」
 しかし、どんなに悩んでも朝はやってきて、時はいつものように過ぎてしまうもので、亜希がいつものようにやってきた。
 お腹が痛いから、ピアノの練習が入ったから、ママに用事頼まれたから、お兄ちゃんが言っちゃだめって命令したから……。たくさん言い訳を考えたが、亜希に嘘を言ってばれたときのことを考えたら、どれもとても言えなかった。
 今日やり過ごしても、明日がある。明後日は亜希が一日中水泳だから行かないとしても、明明後日になったらまた遊ぶことになるだろう。春休み中、ずっと遊べないなんて無理だ。
 机のうえに広げたティッシュに乗せた花びら。亜希と母の声が階下から聞こえる。ああ、言わなければならない。
 七海は意を決して桜を手に階段を下りた。
「七海、何してたの? ごめんね、亜希ちゃん」
「いーえー。ナナちゃん、おはよー。どうした?」
 引っ込む母とすれ違って、七海は玄関に出る。亜希はいつも通りの快活な笑顔で、いつも通りの用意をしていた。ここで自分も、昨日までと同じように何の憂鬱もなくすぐに出かけたらいいのに、と七海は重い頭と心で思った。
「早く行こ」
 うん、と返事ができない自分が、七海は嫌でたまらなかった。昨日までは言えたその一言が、口に出せないのだ。
「どうしたの? 具合悪いの?」
 何も知らない亜希は七海を心配する。七海はそんな友達への罪悪感でいっぱいだった。言いたくない。けれども、言わなければもっと苦しいことはわかっていた。
「あのね、亜希ちゃん」
 七海は恐る恐る右手の中身を差し出す。ティッシュの上に乗っているそれに、亜希は最初気づかなかった。この子はどうしていきなりただの紙を見せるんだろうと思った。しかし、ティッシュの白に紛れた、少し鈍い色になった花弁の残骸をみとめて、彼女は顔色を変えた。
 その表情の変化に、七海は逃げ出したくてたまらなかった。けれども、七海はこの苦しさを吐き出さなければならない。吐き出して楽にならなければならなかった。
「ごめん、桜、壊れちゃったの」
 亜希は絶句して七海の右手を見つめていた。七海は途方に暮れた。
「ごめんね、イツお兄ちゃんが――」
「――ナナちゃんのばかっ!」
 亜希の大声に、七海はびくついた。亜希の握った拳がふるふるとふるえていた。
「どうして、どうして壊しちゃうの? 一生大事にしようねって言ったじゃん!」
「ごめん、お兄ちゃんが壊して、これしか残ってないの」
「ちゃんと持ってなきゃだめじゃん! 私だって、ヒロとか沙耶が手出さないようにってちゃんと守ってたんだよ? どうしてお兄ちゃんしかいないナナちゃんができないの?」
「ごめん、ごめんね」
 それ以外に何と言えばいいのか七海にはわからなかった。ただ、その言葉しか出てこなかった。
「もういいよ。ナナちゃんっていっつも、うじうじうじうじ! もう、ナナちゃんなんて知らない!」
 亜希は玄関を乱暴に出て行く。
「今日は私一人で行くから! ナナちゃん行けないでしょ」
「あ、亜希ちゃん待って、待って……」
「来ないで!」
 亜希が怒鳴って、七海は固まった。
「私、すっごく怒ってるんだからね。チケットないんだからナナちゃんは行けないでしょ、だから今日は来ちゃだめ! 絶対、絶対来ちゃだめだからね!」
 そう言って走り去った亜希は振り向かなかった。パーカーのフードを左右に揺らしながら、行ってしまった。怒っているのは背中の様子だけでよくわかった。
 怒らせちゃった。七海はぽろぽろと涙を流した。今まで喧嘩したことはあっても、こんな風になったことは一回もなかった。一度も経験したことのないことに直面し、七海は困惑した。
 いつも喧嘩しても、亜希がすぐに折れてくれた。怒るとは思っていたけれど、しょうがないねの一言を七海は待っていたのだった。
「何? 亜希ちゃんは?」
 呑気に母が顔を出して声をかけてくるのがまた憎らしい。
「今日は遊ばないんだ」
 七海は肩を落として自分の部屋に戻った。
 今日も夕方まで、亜希と遊ぶ予定だった。別にたいしたことはしない。昨日と同じようにお絵かきしたりゲームしたりするだけだ。でも、一人でやっても全然楽しくなんてなかった。
「暇だー」
 怪我で外出禁止令が出ている斎がソファに寝ころんで、七海の邪魔をする。
「ナナ弱すぎ。代わって」
「うるさい」
 元はと言えば斎がいけないのに。七海は苛立ちをぶつけるが、斎はどうして七海が怒っているのかも理解せず、七海にちょっかいを出すばかりだった。
 時計の進みはやけに遅く思えた。ようやく四時。亜希は四時半から習字だったはずだ。今日秘密基地にいるはずだった時間を終えると、七海はなんだかほっとした気分だった。けれども、次のことは何にも考えられなかった。
 明日、亜希が水泳から帰ってきたあとにもう一度謝りに行くべきかどうか考えていると、チャイムが鳴った。母が出て行く。何か話し声がぼそぼそ聞こえていたが、いきなり母の驚いた声が明瞭にリビングまで響いた。
「えぇ? 今日は来たけど、なんか遊びに行かなくなったみたいよ?」
 嫌な予感が、七海の心に墨を落として濁らせた。
 母が呼ぶ。
「ナナ、七海ー!」
 怖々玄関に行くと、亜希の母が沙耶を抱っこして立っていた。七海を見て、目を丸くする。
「あ、ナナちゃん本当にいるの! じゃあ、亜希どこ行っちゃったんだろー」
「亜希ちゃん、まだ帰ってないの?」
 亜希の母は空いた手を額に当てながら頷いた。
「やっぱり携帯必要かもねー。ああ、どうしようかな」
「ねえちゃんはー?」
 沙耶が今にもぐずりそうだ。
「ああ、ああ、大丈夫だから。最近沙耶が甘えん坊でねー、亜希がそれ嫌がって反抗期なんだ」
「えー、亜希ちゃんがぁ?」
「もうすっごいよー。今日だって習字行きたくなーい、水泳もやめるーとか言うしさ」
 母親たちが会話する横で、七海は俯いていた。亜希がまだ帰っていないという事実が頭のなかをぐるぐると回る。もしかして、ずっとあの場所にいるのだろうか。
「え、最近物騒だし、警察行ってもいいんじゃない?」
「とりあえず習字はお休みするとして、ちょっと探してからでもって思ってるんだけど」
「亜希ちゃんしっかりしてるけど、誘拐だってありえるし」
 母がぐるりと振り返って、やや緊張した面もちで尋ねる。
「ナナ、今日は亜希ちゃんどうしたか知ってる?」
 母の言葉に、七海は返事が出来なかった。
「ナナちゃんなんて知らない!」
 そう言って走り去る亜希の背中だけが何度も脳裏に浮かんでは消えた。いつも亜希は七海と一緒にいてくれた。こんな風に言われたことなんてなかった。
 亜希ちゃんなんて、知らない。
 真似するように、そう心でつぶやいてみた。けれども、それを声に出せなかった。だって、知っているから。亜希がどこに向かったのか、七海はわかっているから。
 今までずっと亜希の後ろを歩いてばかりだった。何かあったらいつも亜希を頼りにしていた。いじめられたら助けてくれたし、困ったことがあればすぐに気づいて話を聞いてくれた。そんな亜希を、知らないなんて言えない。
 行かなきゃ。
 七海はポケットに入ったままの花びらを取り出した。そして、そのまま駆けだした。母たちが追いかけてくる気配を背中に感じたが、振り払うように全速力で走っていった。大人の足をどう振り切ったのかは覚えていない。
 どうしてこうやってすぐに追いかけなかったのだろう。走りながら七海は後悔した。亜希と一緒じゃないと何も楽しくなかった。亜希は秘密基地に一人でいて楽しく過ごせただろうか。
 本当にばかだ。追いかけてこないですぐに諦めてしまった子なんて、嫌われてもしかたない。七海は走りながら自分の頬を叩いた。
 神社、畑、林。そこまではいつも通りだ。しかし、その先に行けなかった。何度右往左往しても、ここ数日通って知らぬわけでもなくなった住宅地のなかをさまようだけだった。
 足がだんだんと鈍くなってきた。もう春だとはいえ、上着なしだと肌寒い。日もだいぶ傾いてきた。
「亜希ちゃん、亜希ちゃん」
 角を曲がるたび亜希を呼ぶ。しかし、どこにもいない。道行く人が訝しげに七海を見ながら通り過ぎるだけだった。あの長い生け垣はない。コンクリートの塀や金属製の柵ばかり。その他には、ガレージのシャッターだったり、背の低い木が植わってたりしているだけ。
 七海は汗をかいた手に握っていた花弁を見つめた。
 やっぱりきちんとした花でないとたどり着けないのだろうか。七海は途方に暮れた。もしも亜希が帰ってこなかったらどうしよう。二度と会えなかったらどうしよう。
 もう一度あの場所に行きたいわけではない。亜希とまた遊びたいのだ。亜希と仲直りをして、元通りになりたいのだ。
「お願いです、亜希ちゃんを見つけてください。会わせてください」
 掌に埋め込まれるのではないかというくらいに深く握り直して、地面を見つめながら角を曲がった。
 そのとき七海は、はっと顔を上げた。長い長い緑の壁が遠くまで続いている。道の奥から手前まで、傾いた日差しががまっすぐ照らしていた。
 光のなかに影がぽつりとひとつ。それを発見した七海は、短く息を吸うとともに進む足を早めた。たった数十メートルの距離がとても長く思えた。
 亜希ちゃんだ、亜希ちゃんだ、亜希ちゃんだ。一歩進むごとに七海の視界が滲む。
 こんな時間になるまでずっとここにいたのだろうか。生け垣に埋もれるようにしゃがみこんでいる彼女は、いつもよりももっと小さく見えた。そのまましぼんで消えてしまいそうなくらいに。
 亜希ちゃんって、こんなに小さかったっけ。七海は、赤ん坊のころから亜希とずっと一緒にいたはずなのに、なんだかまったくの別人を見ているような気分だった。
 いつもは元気いっぱいで弾けるような立ち振る舞いなのに、いまの彼女はぎゅっと体を縮めてじっと座っていた。顔を覆う夕方の影が、そのまま彼女の不安を表しているようだった。
「亜希ちゃん!」
 ぱっと亜希が顔を上げる。口元や瞼がふるえていた。こんな亜希の表情、幼稚園のときでも見たことがなかった。
「ナナちゃん」
 亜希が立ち上がるよりも七海が駆け寄ったほうが早かった。亜希は何かから守るように小瓶を握りしめていた。
「桜、探したの」
 つっかえながら亜希は言う。
「でも、ないの。何回も来てるのに、いっぱいぐるぐる回ったのに、どこにもないの。私、ちゃんと持ってるのに」
 言葉を一つ発するたびに、涙が一粒こぼれ出た。
「どこにも、ない」
「亜希ちゃん、ごめんね、ごめん」
 その言葉に、亜希は何度も首を横に振る。
 七海も泣いてしまった。亜希の頼りない、自分よりもずっと小さい女の子であることを実感させる姿に、いつも彼女に頼ってばかりの自分が恥ずかしかった。
 しばらく二人は泣いていたが、七海はばらばらになった自分の桜を見せた。
「見つかるよ、私、ちゃんと見つけるよ。がんばって探すから」
 そのとき、ざあ、と音がした。これまでがあまりにも音もなく静かだったため、それが風だと気づくのに時間がかかった。
 顔を上げると、すぐそこにあの桜とベンチがあった。
「亜希ちゃん、見つけた」
「え、早いよ」
 亜希はしゃくりあげながら涙をぬぐう。
「あれじゃないよ、だって木くぐってないよ」
「でも、あれ、きっとそうだよ」
 七海は亜希の手を引いて、近づこうとした。そのとき、強い風が吹いた。最初に吹いた風よりも何倍も強くて、季節はずれの台風がやってきたようだった。
 反射的に、七海はしっかりと亜希の手を握った。瞼を開けることができない。薄目でなんとか前方をみようとした。
 風にあおられ、木は踊っていた。花弁が散る、散る、散る。吹雪なんて経験したことなかったが、肌にぶつかってくる空気がやけに冷たくて、まるで本物の雪みたいだった。
 枝に絡んだ雲のような花々が失われていく。満開だった桜は、向こう側がよく見えるようになるまで、花弁を散らし続けた。もう何も残らないように。葉なんて出さないで、むしろ冬へ逆行するように。
 いっそう強まる風に思わず顔をかばった。そして顔を上げると、目の前に林があった。よく知っている風景だ。道を視線で辿ると畑が続き、その先は神社。生け垣はどこにもなかった。
「亜希ちゃん、桜は?」
 亜希も呆然としていた。そのまましばらく周囲を散策したが、とうとう生け垣すら見当たらなくなってしまった。
「夢みてた?」
「夢だったら、多分亜希ちゃんとも会えてない」
 放心状態で橙と青が混ざった西の空を見つめていたが、自然と二人は自分たちの家に向かって歩き出した。
 延びた影を見つめながら、いつもの道を行く。影も七海のほうが長いけれども、亜希のも本人以上に背が高く見えた。涙が乾いてぱりぱりになった頬に空気は冷たかった。
「亜希ちゃん、ごめんね」
 七海はもう一度謝った。
「ううん。私もナナちゃんにひどいこと言った。ごめん」
 視線を合わせる。亜希の目は真っ赤だ。きっと自分の目も同じだろう、と七海が笑うと、亜希はにやっとして七海の手を強く叩いた。
「わっ!」
「ナナちゃんも私の手叩いて」
 亜希は自分の両手を差し出した。
「え?」
「ナナちゃんも叩いて、それでおあいこ」
 七海は迷ったが、思い切って手を振り上げた。
「えい!」
 いい音がした。思わず二人で座り込む。叩いた七海の手もじんじんとして、じわじわと熱を帯びてきた。
「本気になりすぎだよ、いったーい」
 亜希は責めるような口調で話そうとした。けれども、目が合うとどうしても笑ってしまう。それは七海も一緒だった。さっきまであんなに泣いていたのに、何が楽しいのかもわからないくらいおかしかった。
 家に帰ると二人の家族がすぐに駆け寄ってきた。大人たちからはひどく叱られたが、最終的には厳重注意だけで済んだ。
 亜希たちが帰ろうとするとき、七海は亜希のパーカーのフードを見て、あるものに気づいた。
「亜希ちゃん、これ」
 七海が手を突っ込んで、中のものを取り出してみせる。たくさんの桜の花だった。
「夢じゃなかったね」
 七海も亜希も、あの場所にはもう二度と行けないだろうと確信していた。他の誰かに言っても、おそらく信じてもらえないことも。しかし、あれは自分たちだけの幻ではないと言ってくれる証拠がここにあった。それだけで二人には十分だった。
「亜希ちゃん、また明日ね」
「うん、明日ね」
 二人はいつものように手を振る。二人がそれぞれひとつ歳を増やす四月はまであと数日。きっと、またすぐに一緒に桜を見られるだろう。





2012/02/26
戻る