キオク


 もう苦しくて、まともに動けなかった。
 久彦が真っ赤な顔をくしゃくしゃにして、『私』の肩を揺らしていた。その頬に手を伸ばそうとしても、届くどころか腕を上げるほどの力も入らなかった。
 だって『私』は、まさに死にゆくところだったのだから。
 代わりに、『私』は唇を懸命に動かした。
「生まれ変わって、もう一度あなたに会いに来るから」
 その声もかすれていて、届いたかどうかはわからなかった。でも、届いたのだと信じている。だって、一瞬、彼は驚いた顔で目を見開いたから。
 久彦の肩越しに、天井の明かりが点滅しているのが見えた。ちか、ちか、ちか、という音に合わせて、『私』はこの部屋で得た彼との思い出を数えていた。
 彼が『私』の名前を読んだ気がした。でも、そうだと認識するまえに、『私』の意識は途絶えた。すこしだけ甘く苦い感情を残して。


「あ」
 間違えちゃった、と優希はごまかすように笑った。クラスメートの廣森巴が首を傾げるのを横目に、ボールペンで二重線を引く。そこには、竹冠の下に「同」という字が途中まで書かれていた。
「なんか、つい間違っちゃうんだよね。篠って字、結構面倒くさいし」
「あー、私もたまに面倒なときあるよー」
 けたけたと笑う巴を見つめながら、危ない、と優希は小さく息を吐いた。十四歳になった今でさえ、ふとしたときに、つい今の自分のものではない名前を書きそうになる。
 優希は訂正された字のついたノートを見ながら苦笑した。
 篠谷優希は幼い時分より、周囲に比べると少し大人びていた。その理由は、彼女だけが知っていた。優希には前世の記憶があるのだ。
 筒井万里子。それが、優希の前世の名前だった。
 万里子は一言で言うなら薄幸の美女だった。容姿だけは生まれつき際立っていたものの、貧しい家庭に育ち、両親の愛を受けることはなかった。そして、高校も中退して以来ろくな職にもつけず、一緒に暮らしていた男も真っ当な人間とはほど遠い。結局、苦労のわりには二十六という若さであっけなく亡くなってしまった。
 それに比べると、篠谷優希はずいぶん恵まれていた。大会社で順調に出世する父と資産家令嬢の母を持ち、幼稚園から私立に通い、望むものは何でも手に入れられる。
 ただひとつ、儚い美しさを持っていた万里子に劣っているとしたら、優希はごくごく平凡な顔だちなことだ。しかし、これもさして問題ではない。化粧や格好で女性の顔の印象などいくらでも変えられると、優希はわかっていた。それに、万里子にはない健やかさが優希にはあった。
 中身がたいして変わらなくても、生まれついての環境で人生はこんなにも差が出てくるのだと、皮肉な笑いがわきあがる。
 万里子は死んだのだ、今の自分は篠谷優希だ。そう何度も言い聞かせてきた。
 物心ついた時点ですでに、優希には万里子の記憶が備わっていた。万里子は、自分が別の人間として生まれ変わったこともすぐに理解した。だから、誰にも何も言わずに篠谷優希になることを受け入れた。
 幸い、優希の両親は大らかで、幼いのにどこか大人のように振る舞う娘を利発だとか優秀だとか言って喜んだ。前世の記憶が彼女のなかにあるだなんて思いもしなかった。
 優希になった万里子は、不幸な人生をやり直すつもりでいた。何も得られなかった前世とは違い、今の自分にはあの頃欲しても手に入れられなかったありとあらゆるものが与えられる。
 たったひとつ気がかりなのは、恋人だった久彦のことだった。優希よりも更に裕福な家庭に生まれた彼は、いくらでも両親が甘やかしてくれるというのに、妙な反発心があった。
 親の跡を継がずに芸術家になりたいと言い、実家を出て親の所有しているアパートの一室で生活していた。仕送りだけはちゃっかりもらい、働かずに詩ばかり書いていた。
 筒井万里子と彼の出会いは、万里子が働いていた店の客が久彦を連れてきたことがきっかけだ。
 それからこっそり連絡を取り合うようになり、同棲するに至った。実家などない万里子は住むところにはこだわらなかったから、久彦の部屋に転がり込んだ。
 事実上無職の久彦とは違い、万里子は夜の仕事を持っていたが、あまり真っ当な暮らしとは言えなかった。薄暗く、退廃的な日々を送っていた。
 昼間にふとすれ違う会社員や学生を見ると、万里子は自分の人生が虚しくて立ちすくむことも少なくなかった。それでも一人よりはましだと己に言い聞かせて、久彦との日々を送った。
 彼はよく言った――満たされないのだと。万里子からすれば何でもそろっている人生なのに、今ひとつ彼にはその自覚がなかった。
 いつも何かに不満を抱き、両親には金の無心ばかりして感謝の言葉もない。万里子からすれば、心配してくれる親など夢のようだった。
 彼は今、どうしているだろうか。優希は、成長するにつれ、そのことばかりを考えてしまうようになった。
「生まれ変わって、もう一度あなたに会いに来るから」
 そう約束したのに、私立とはいえ中学生はまだ不自由な身だった。
 しかし、優希に好機が訪れた。水曜日は習い事のかけもちをしている。バイオリンとバレエのうち、バイオリンのレッスンが講師の都合で取りやめになってしまった。バレエまでの空き時間は約二時間。彼女は携帯で路線図と乗り換え案内のアプリを確認しながら、電車に飛び乗った。
 乾いた空気が似合う町。ここで、かつて久彦と万里子は暮らしていた。
 優希は記憶を探りながら、道路を歩く。交差点を右に、花屋を通り過ぎる。そこでダリヤを買い、横断歩道を渡って左へ、そして三本目の路地裏。
 優希は目を見開いた。あれから長い時間が流れたはずなのに、そこにあったアパートは記憶と何も変わりはしなかった。
 彼は、いるだろうか。花を握りしめた彼女の胸は大きく脈打つ。郵便ポストの一〇一号室を見ると、忘れようにも忘れられない名前がそこにあった。
「久彦……」
 思わず唇からこぼれた名前の柔らかさに、優希は笑みを漏らした。
 部屋を確認すると、見知らぬカーテンがかかっている。その向こうは、電気がついているようだ。
 深呼吸をした彼女は、思い切ってそのチャイムを鳴らそうとしたが、やめた。向こうから足音が聞こえたからだ。優希はとっさにアパートの敷地の外に出た。
「帰ってくれ」
「でもね、久彦さん」
 一組の男女が、一〇一号室から出てくる。四十過ぎの男と、六十前後の女。男の横顔を見て、優希は懐かしさで心がいっぱいになる。
 久彦。優希は心の中で、もう一度彼の名を呼ぶ。
「もうお仕事もしているわけだし、どうしてこんなところでいつまでも暮らしているのよ」
「放っておいてくれ」
「だいたい、このアパートだって、もういい加減建て替えたいのよ? 学生さん向きに」
「頼むから」
 女の顔も、優希は――万里子は一度だけ見たことがある。久彦の母親だ。
 この近辺の土地や物件を多数保有している彼の家は、万里子の存在を好ましく思っていなかった。別れてほしい、とは直接言われなかったが。
「まさか、あの人との思い出があるから、という理由ではないでしょうね」
 久彦の母の声が低くなる。同時に、久彦はぱっと顔を上げる。
「いつまでも独身でいてもしかたないでしょう。あの人はいなくなったんだから。ロマンチスト気取っていてもしかたないでしょ」
「そうじゃない」
「じゃあ、何?」
「いいかげんにしてくれ!」
 久彦は腹の底から怒鳴る。彼の母は、思わず怯んでしまう。
「今度、お父さんや叔父さんともちゃんとお話しなさいね」
 彼の母は声を裏返しながら、駐車場に停めてあった車に乗りこんだ。遠ざかる銀の車体に背を向け、久彦は部屋のなかに戻っていく。そんな彼を見つめ、優希はこみ上げる感情をこらえながら笑う。
「まだ、忘れてないんだ……」
 あの人との思い出があるから。母親にそう指摘された久彦の動揺した顔が、優希は愛しくてならなかった。今までで一番幸福な心地ではないかと思うほどに。だって、彼の心にはまだ、筒井万里子という存在が残っているのだ。広い世界の片隅で生きた、あんなちっぽけな女が。
 生きた証を残すことができた。しかし、ここで余韻に浸りながら去るなんてことはできない。頃合いを見計らって、優希は玄関の前に立った。
 かつてこの部屋で暮らしていたときは、何の躊躇いもなくこの扉を開けた。しかし、今は他人行儀なことをしなければならない。形のいい自分の爪を見つめながら、彼女はチャイムのボタンを押した。
「はい」
 ぼそっとした声とともに、扉が開く。見知らぬ女子中学生の姿に、彼は首を傾げた。
「あの……どちらさま?」
「筒井です」
 その名を出すと、彼の顔が見開かれる。優希は、ダリヤの花を差し出す。
「万里子さんのことについて、お聞きしたくて来ました」
 久彦は狼狽した様子で、周囲を確認する。そして、もっと扉を開けて、入るように優希を促した。
「おじゃまします」
 その言葉のくすぐったさに苦笑しながら、優希は中に入った。


 一緒に暮らしていたときを思い出しながら、優希は感慨深げに室内を見渡した。畳も新しくなっているし、家具もだいぶ様変わりをした。万里子が生きていたころは充満していた煙草の匂いもしない。それでも、懐かしかった。
「君は、万里子の何なの?」
「煙草は、やめたんですか?」
 ぎょっとする久彦が楽しくて、なんだかからかっているような気分になる。今の自分を鏡で見たら、小悪魔に見えるだろうか。そんな下らない考えが頭の隅で忍び笑いをする。
「万里子さんの、何だと思いますか?」
 彼の顔が警戒の色に染まっていく。それも当然かと、優希は座ったままじっと彼の目を見つめる。そして、生まれる前の口調でこう言った。
「久彦、私、約束したよね? 生まれ変わったら、もう一度会いにくるって」
 彼はひっくり返り、後ずさった。
「ど、どうしてそれを?」
「わからない? 私、生まれ変わったのよ?」
 その口調は普段の自分のものではないのを、優希は自覚しながら喋る。
「いつか、来ようって思ってたの。私が死んだ、この場所に」
 久彦は、完全に血の気が引いていた。
「あれから、『私』をどうしたの?」
 彼は答えない。嘘だ、嘘だ、と首を横に振るばかり。
 優希の意識が、すっと透明になる。かつての自分が愛した男を前にした彼女の心は凪のようだった。聖母のように、鬼のように、彼女は唇の両端をわずかに広げる。
「どこかのお墓に持って行けるわけないわよね? だって」
 優希は、目をそらさない。感情をこめて、ゆっくりと丁寧に言ってやった。
「あなたが殺したんだから」
 四十代とは思えぬ、幼子のような声があがる。優希は冷めた目で彼を見つめながら、情けなさが心に積もっていくのを感じる。
 こんな男をかつて愛し、こんな男に命を奪われたのか。
「煙草、私があんなにやめてやめてって言っても、ついにやめなかったのにね。私を殺してから?」
「お前は、何を言ってるんだ! 誰から、そんな……!」
 畳を蹴るようにしながら、久彦は怒鳴る。その声の調子すら、今となっては懐かしい。あの日、死の直前、万里子はやはりこのような声を聞いたのだ。
「誰から聞いたのかって? 私が万里子なんだから、知ってるに決まってるじゃない。あの日の言葉、他に誰が知ってると思ってるの」
 優希は立ち上がり、久彦に寄り添うように近づく。かつての恋人に、もう一度愛を捧げるように。
「約束だったものね。また会いに来るって。そう、だから来たのよ」
 優希の目は、すうっと細くなる。
「あなたを呪うために」
 がくがくと彼の膝が震える。そして、彼は首を横に振る。
「許してくれ、俺が、俺が悪かったから。あれは、わざとじゃなかった、本当に、殺すつもりなんて」
 腰をぬかし、久彦はそのまま後ずさる。優希は大股で歩き、彼の脇まで来るとその耳に囁く。
「でも、私の人生はあそこで終わったのよ。あなたの人生がこうして続いているのに」
 もしもあそこで死ななかったら、四十代の万里子は今どのような人生を歩んでいただろうか。虚しい空想が広がっていく。
 がたがたと久彦の歯が鳴る。優希がもう一度優しく彼の名を呼ぶと、彼は悲鳴に似た声をあげた。そしてそのまま扉を開け、乱暴な足音を響かせて出て行ってしまう。
「馬鹿な男」
 ちょっと揺さぶっただけで、あんなに大げさに騒いで。そう呟いた瞬間、彼が殺人者であることを思い出す。
 他人の厳しい言葉には弱い男だった。社会の荒波に立ち向かって成長するよりも、穏やかな波打ち際で生涯子供のまま過ごしたいような男だった。
 それでも、万里子には彼だけだった。彼以外、万里子の晩年には何もなかった。
 優希は、確かに呪いをかけた。これで彼は万里子のことを、忘れようにも生涯忘れらないはずだ。どこまでも行っても、あの日と今日の記憶がよみがえって亡霊のようにつきまとうにちがいない。
 彼女は室内をぐるりと見渡す。持ち物の趣味は、この二十年弱の間に若干の変化を見せている。
 彼の性格なら、嫌な出来事にまつわる場所ならばすぐに逃げるはずだ。それなのにここに留まっていたのは……。
 優希はアパートのガラス戸を開けた。一階のため、すぐに庭に下りられる。一〇一号室だけは庭が独立しており、まるで秘密の場所のように隔離されている。
 かつて、花壇には万里子がささやかな趣味として、いくつか花を植えていた。しかし、今は何もなく、ただ雑草が伸びているだけだった。片隅にある用具入れを開けると、シャベルが出てきた。何も考えずに、優希はそれを花壇の土に差し入れた。
 土を、掘り返す、掘り返す、掘り返す。ただひたすら繰り返した。
 小雨が降る。雫が彼女の肩を、脚を、頬を濡らす。それにも構わず、彼女は無心で手を動かし続けた。誰かに呼ばれるように、何か使命感に燃えているように。
 そして、シャベルの先が硬いものに当たる。彼女は注意深く、その周囲を浅く掘り広げた。
「やっぱり……」
 湿った土の真ん中に、白い頭蓋骨。雨の粒がぽとぽとと落ち、いっそう物悲しさを演出する。
 これが、筒井万里子の現在の姿。美しかった彼女を構成していたものは、もう骨しかない。
 ああ、なんて可哀想なのだろう。優希は無言でその頭蓋、哀れなかつての自分を見下ろした。
 もしかしたら、もっと楽しい人生が待っていたかもしれない。あんなつまらない男によって、こんなところに捨てられる人生ではなく。幸せの可能性が全部逃げてしまった、虚ろな骨。もう何も掴めない。
 優希の心にあったのは、筒井万里子への同情だった。そのとき、彼女は生まれて初めて、万里子を他人として認識した。
 誰からも顧みられず、惜しまれず亡くなった命。その憐れみは、かつての自分へ向けたものというにはあまりにも感情的距離があった。
 ただただ、筒井万里子という女性が哀れに思えてしかたなかった。薄暗い人生で、幸福というものから徹底的に嫌われた彼女が。唯一恵まれた容姿さえまともに生かせず、惨めに人生を終わらせた彼女が。
 万里子は本当に孤独だったのだ。愛した男にさえ愛されず、弔いではなく隠蔽のためだけに埋葬された。そして、男は自分の行いの露呈を防ぐためだけに、番人としてここに住み続けた。きっと、万里子の眠る場所を見ないふりしながら。
 もしかしたら、この骨を見つけてほしいから、万里子の記憶は自分に残ったのかもしれない。優希はそう考える。なぜなら、万里子の死を悼めるのは、優希しかいないのだから。
 安らかに眠れ。前世の人間にかける言葉にふさわしいのかと違和感を覚えつつ、優希はそっと手を合わせた。
 彼女は顔を上げる。雨はいつしか止んでいた。 
「今ね、私、幸せなの」
 もう、心残りは何もない。かつての約束を果たした自分には、輝かしい未来が待っている。優希はそう確信していた。
「行かなくちゃ」
 気づけば、バレエのレッスンまであとわずか。遅刻の連絡をしなくてはならない。
 鞄からタオルを取り出し、濡れた身体を吹く。まだ乾かぬ服とは裏腹に、清々しい気分で、優希は日暮れの町へと帰っていった。万里子の花壇に、墓標代わりに好きだったダリヤの花を添えて。


 気がついたら万里子が倒れていた。床の上に赤い水が広がっていく。万里子が苦しそうに口を痙攣させているのを、俺は呆然と眺めていた。
 手には灰皿。親から譲ってもらった、俺達の暮らしには不釣り合いな大理石。それで万里子の頭を力いっぱいに殴りつけたのだと自覚するまで、少し時間が必要だった。
 どうしてこんなことしてしまったのだろう。思い出そうとしてもよくわからない。ちょうど考え事をしているときに、万里子がごちゃごちゃと話しかけてきたような気がする。
 彼女のそばに寄って肩を揺らすと、抵抗なく細い身体が動いた。その軽さにぞっとした。
 万里子は虚ろな目で俺を見上げ、微かに唇を動かした。
「生まれ変わって、もう一度あなたに会いに来るから」
 その時の寒気を、俺は生涯忘れることはない。あいつのまなざしが突き刺すように俺に向けられていた。
 そう言った瞬間、万里子の目から光が消えた。それきり万里子は動かなかった。
 ちか、ちか、ちか、と明かりが点滅した。俺の影を重ねながら、万里子の身体を奇妙に照らしていた。





2014/04/10
戻る