センセイが好きなヒト


 ぼくはネコのラルゴ。センセイと一緒に暮らしている。正確には、イヌのマルカート、トリのアマービレも一緒だけど。
 センセイは背がとっても高くて、しょっちゅうどこかに頭をぶつける。掃除は得意なのに、料理はちょっと苦手。たいてい白い服を着ていて、いつも大きな本をたくさん読んでいる。
 そんなにおしゃべりじゃないけれど、棚にかざった女の人の写真と同じくらい、ぼくたちのことを大切にしてくれる。だから、ぼくたちはセンセイのことが大好きなんだ。
 ある昼下がりのこと。玄関のドアを叩く音がした。
「ミツモリさぁん、ミツモリセンセェー」
 この声は大家さんだ。
 あいにく、センセイは仕事部屋にこもってお仕事中。危ないものがたくさんあるから、ぼくたちは近寄っちゃだめって言われてる場所だ。
「ね、どうする? センセイ呼ぶ?」
 ぼくは仲間に呼びかける。
「ラルゴ、お願いね」
 アマービレはツンと横を向く。
「えー?」
「えー、じゃないわよ。私は籠にいるから呼びに行けません」
「じゃあ、マルカート行ってきなよ。ぼくより君のほうが声大きいもの」
 マルカートは居眠りする振りをした。さっきまであんなに喋ってたくせに。
 しょうがないから、ぼくが仕事部屋に行く。こういうとき、下っ端はつらい。
「センセイ、大家さんが来てますよ」
 にゃあにゃあ鳴いて、扉に手を当てる。爪を立てないっていうのはなかなか難しい。
「ラルゴ、どうした?」
 センセイは扉を開け、そこでお客さまに気づく。
「ああ、ありがとう」
 そう言って玄関に駆けていくまえに、きちんとぼくの頭をなでる。センセイってそういう人。
 ぼくはのんびりリビングに戻る。
「いや、でも……」
 廊下のさきから聞こえてくるのはセンセイの困った声。
「ほら、こういうときいつもミツモリさん引き受けてくれるし」
「さすがにこれ以上は」
「前も学生さんに頼んだりしたでしょ? 今回もお願い」
「は、はあ……」
 強引にドアが閉められる音がした。困り顔のセンセイはとぼとぼとリビングに入ってきて、ぼくらを見渡す。
「みんな、どうしよう。仲間が増えちゃうかも」
 そこにいたのは、一羽の真っ白なウサギだった。
 とりあえず、センセイは寝室にウサギさんを移動させる。
 センセイはなんでだか大家さんに頭が上がらない。
「でもさ、いくらなんでも、ネコのいるうちにウサギもってくるとか、あのオバサンなんなの?」
「アマービレ、別にぼくは引っ掻いたり食べたりしないもん」
「わかってるわよ! 一般論!」
 アマービレはぼくがここに来てから一回も外に出てないはずなのに、どうしてそんなことがわかるんだろう。なんか不思議。
「捨てペットで困ったらうちに持ってくるのもいいかげんやめてほしいんだけど!」
 大家さんはいろんなアパートやマンションを持っている。それでときどき、どうしてもペットを飼えなくなったおうちも出てしまって、センセイを頼ってやってくるんだ。ぼくもマルカートもアマービレも、そういうわけでセンセイに引き取られた。
 本当は、ぼくのあとにも何匹かいた。でも、さすがにセンセイも手いっぱいだから、学生さんっていう人たちに引き取ってもらうことにしてるんだ。
「イヌとかネコならともかく、ウサギってどうなのかね」
 窓辺のいちばんいいところを独占して日向ぼっこしてるマルカートが、あくびまじりに言う。
「なんで? イヌとネコはよくて、ウサギはだめなの? かわいいのに?」
「バカね」
 アマービレは文字どおり見下ろしてくる。
「イヌとネコは飼ってる人も多いし、引き取り手は見つけやすいの。でも、ウサギをわざわざ引き取ってくれる人って意外といないのよ」
「そうなの?」
「私の経験上ね」
「じゃあ、あの子、ここの子になるのかな」
 いま、ウサギさんはセンセイと一緒に寝室にいる。まだちょっとしか顔を見ていない。
 どんな子なのかな。気になるな。なかよくしたいな。
「どうだか」
 マルカートは寝返りをする。
「とりあえず、センセイが学校にかけあうみたいだし、話はそれからだな」
 そのとき、カチャリと寝室のドアの開く音がした。
「センセイ、あの子はどうしましたか?」
 ぼくは一目散に駆け寄る。センセイはそんなぼくをにこにこと抱き上げる。
「ラルゴ、こっちはだめだよ」
 そのままリビングに連れ戻される。でも、センセイが歩くリズムってとっても気持ちいいから、ついウサギさんよりこっちを優先してしまう。
 センセイは棚の上、写真の脇の本立てから茶色い表紙の本を手に取る。ぼくの名前はこの本のなかの言葉からつけられた。マルカートとアマービレもそうみたい。
「あ、ちがう」
 と、センセイは独り言。
 その隣のファイルを取り出して、電話をかける。センセイが仕事をしている、大学ってところだ。前もここに電話をしたら、ネコやイヌを引き取ってくれる人が来たんだ。
 センセイは相手が見えないのに何度も頭を下げる。ちょっと難しそうな顔。ぼくは励ましたくなって、そんなセンセイの胸にそっと頬ずりした。


 学生さんが来たのは、それから三日後だった。女の子が三人と男の子が一人。あと、センセイのお友達のホウジョウさんって人。
「わー、かわいいー!」
 そう言って、ミニスカートの女の子がぼくを撫でる。一応、ぼくがこの家のかわいい担当ってことになってる。
「センセイ、この子は?」
「あ、その子はちがうよ」
「今回はウサギでしょ。わかってますって! 名前聞きたかっただけ」
 ミニスカートの女の子はけらけらと笑う。
「ウサギ、いま連れてくるよ。ホウジョウ、悪いけどラルゴ抱いてて」
「ほいよ」
 ホウジョウさんは、ぬっと女の子の脇から腕を伸ばして、ぼくの首のうしろをつかんだ。この人はいつもそうだ。悪い人じゃないんだけど。
 センセイはどうやら、ぼくがウサギさんに爪をたてるんじゃないかって思ってるみたい。そんなことしないのにな。
 ホウジョウさんがちょっと乱暴に僕の喉を撫でる。センセイに比べたらぜんぜんなってないけど、これはこれで悪くないから、つい反射的に甘えちゃう。
 ぼくがホウジョウさんの腕に移ると、女の子たちはその周りに集まる。男の子だけが、あいかわらず寝たふりがうまいマルカートの背中を撫でる。
「この子、ラルゴっていうんだ」
「音楽の、ですか?」
 別の女の子――黒髪の子が控え目に口をはさんできた。ホウジョウさんは笑う。
「あ、そうそう。ここんちの子はみんな音楽用語」
「へー、ミツモリセンセイってクラシックとか好きなんですか」
 高い声の女の子が興味津々な顔で、マルカートとアマービレを順に見る。
「いや、あいつはからっきし。最初もらってきたそこのアマービレっていうのが音楽用語だったから、マルカートが来たときに、合わせようと思ってこれ見てさ」
 ホウジョウさんは、棚のうえの茶色い本を引っ張り出す。
「あはは、ミツモリセンセイっぽい」
 ミニスカートの子と高い声の子は笑いあう。男の子もうんうんと満足げに同意する。なにがおかしいのか、ぼくにはわからない。
 ただ一人、黒髪の子だけは、棚のうえを見てそっと溜め息をついた。
「ミクも音楽やってたっけ?」
 男の子の問いかけに、ミクと呼ばれた黒髪の子は慌てたように返事する。
「う、うん、ピアノ。受験でやめちゃったけど」
「あ、だからすぐピンときたんだ」
 ミクさんはあいまいに笑った。
「ごめんごめん、おまたせしました」
 ウサギさんをつれたセンセイが、扉をくぐってやってきた。そうすると、女の子たちは、ちいさくて白くてほわほわした生き物に夢中になった。
「かわいいーかわいいー!」
 女の子って、どうして「かわいい」ばっかり言うんだろう。べつに、みんなの視線がそっち行ったから拗ねてるわけじゃないよ。
「どうかな?」
 ミニスカートの子もはしゃいではいるけれど、ウサギさんのあちこちを丁寧に確かめる。
「ぜひ飼いたいです!」
「引き取りのお礼は評価Sで」
 いたずらっぽく呟くのは、高い声の女の子。
 センセイは苦笑する。
「ウサギはウサギ、評価は評価です」
「あはは、冗談ですよ、冗談」
「カナちゃんは前にもウサギ飼ってたんだよね?」
 ミクさんの言葉に、ミニスカートの女の子――カナさんはうなずく。
「中学のときね。死んじゃったときはわんわん泣いて、結局そのあと、新しい子飼えなかったんですよ。でも、もう何年も経ったし、やっぱりウサギ好きだし」
「もしもこのまま飼ってくれるならありがたいですよ。しかも、前にも経験あるならなおさら」
「ケージまだありますし、ちょっと親にもう一回確かめてみます。本当に大丈夫なら、すぐ迎えにきますけど、センセイの都合のいい日ってありますか?」
「今週ならいつでも」
 みんなで相談した結果、カナさんとミクさん、ホウジョウさんの三人が土曜日に来ることになった。
 そして、学生さんたちは我が家をあとにした。ホウジョウさんだけが残る。
 お湯が沸くまでの間、ホウジョウさんはネコじゃらしでぼくと遊んでいた。そして、ふいに口を開いた。
「もうさ、結婚は考えないの?」
「考えない」
 いつになく、センセイはぴしゃりと言う。
「出会いがいっぱいあるのに」
「学生? それは出会いって言わないよ」
「こりゃ失礼」
 ホウジョウさんは苦笑する。
「学生には人気じゃないの、ミツモリセンセイ」
「単位とりやすいからね」
 いいタイミングでポットのアラームが鳴る。センセイはそっけない態度でキッチンに向かった。
 ホウジョウさんは困った顔をしながら、棚のうえの写真を見つめた。
「……いや、無神経だってのは、わかってるんだけどさ」
 イイワケのような言葉。
 写真のなかの女の人は、とてもきれいな顔で笑っているだけで、なにも答えなかった。


 土曜日になって、予定どおり、ホウジョウさんがカナさんとミクさんを連れてきた。カナさんはすっかり準備完了って感じの様子だ。
「ラルゴ、こんにちは」
 ミクさんがにっこりとあいさつしてくるから、ぼくも愛想よく、にゃあと返事する。
「あ、こいつ、俺にはそっけないのに」
 ホウジョウさんがむりやりぼくを抱きかかえて、ほっぺたをぐりぐりしてくる。そういう態度を考えれば、ぼくはけっこう律儀に相手してやってると思うんだけどな。
「やっぱ女の子のほうがいいよねー」
 カナさんはからかうように言う。まあ、本当はセンセイが一番好きだけどね。
 センセイが飲み物を買ってくると言って外に出ると、ミクさんはそわそわと部屋を見渡してまたちょっと溜め息をつく。
「……気になるものある?」
 ホウジョウさんはにやりとしながら尋ねる。
「え、あ、その」
「この部屋には詳しいからね。解説ならするよ」
「質問!」
 カナさんが挙手する。
「はい、マナベさん、どうぞ」
「単刀直入にいきましょう。そこの女の人はだれですか?」
 びくりとミクさんの肩がはねる。
「ちょ、ちょっと、カナちゃん……」
「だって、ミクちゃん。ここで聞かなくてどうするの」
 ホウジョウさんは自分の曇った気持ちを晴らすように咳払いをする。
「では、説明しよう。その人はミツモリの昔の彼女」
 その瞬間、ミクさんのまぶたがきれいにふるえた。
「彼女、ですか?」
「うん。でも、もう何年もまえに亡くなったよ」
「亡くなった? え、じゃあ、それからご結婚、とかは?」
 カナさんはおもいのほか突っ込んでくる。マルカートとアマービレも、いつになくはらはらしている。
 ぼくは、この話を知らない。ちょっと、聞いてみたい気持ちがあった。
「してないよ。彼女ひとすじ」
 あ、泣く。
 ぼくはミクさんを見上げ、そしてその足に擦り寄ろうとする。
 同時に、玄関のドアが開いた。
「悪いね。ちょうどコーヒー以外切らしてて」
「ちゃんと常備しとけよ。女の子ウケ悪いぞ」
「いちばん来るのお前なんだけど」
 センセイとホウジョウさんのやりとりに隠れて、ミクさんは袖をそっと自分の目に押し当てた。
 カナさんはそんなお友達のそばに来て、そっとなにかをささやいた。
 それからみんなでちょっとだけお茶をして、カナさんとウサギさんはホウジョウさんがクルマで送っていくことになった。
「ホウジョウ、セキヤさんは」
「ああ、彼女は反対方向だし、とりあえずウサギ優先。早く新しいおうちに行ったほうがいいでしょ。セキヤさん、ちょっとくらいなら待てるよね?」
「え、あ、は、はあ」
「ちょっと、そりゃない……」
「じゃあ、また帰ってくるから」
 センセイの引きとめる声なんて聞かずに、ホウジョウさんは手を振ると、カナさんと一緒に出ていってしまった。
 センセイとミクさんは顔を見合わせる。
「……二人とも乗せていって、順番に下ろせばいいのに。ごめんね、気のきかないやつで。まあ、ぼくが乗せてあげられたらいいんだけど」
 センセイはクルマを持っていない。
「不便な男ですみません」
「い、いえいえ! あ、その、えっと……私、歩いて帰りますので……」
「半端な時間だし、ここから歩いていくよりホウジョウの帰り待ったほうが楽だと思いますよ。まあ、ちょっとの間だ、のんびりしていきなさい」
 センセイはキッチンに向かう。ちょっとして、ポットに水をいれる音がした。
 ミクさんはちらちらと棚のうえを見る。やっぱり気になるんだ――と思ってたら、センセイがすぐに戻ってきて、その姿を見て首を傾げる。
「どうしました?」
「あ、その、き、きれいな人だなって思って……」
 アマービレがあちゃーって動きをした。うん、ミクさん自身地雷を踏んじゃったって顔してる。
 でも、センセイはおだやかに微笑んで、そっと写真を持ち上げた。
「なにかホウジョウが言ってました?」
「い、い、いいえ」
「……昔の恋人です。事故で死んで、もう七年ですか。とてもいい演奏をした人でした」
 ずっと変わらず笑ってる彼女の手には、バイオリンって楽器。
「ぼくは、音楽のことなにひとつわからないけれど、はじめてホールで彼女の弾く音を聞いたときとても感動しました。彼女自身みたいに、とてもやさしい音でした」
 そうやって語るセンセイの顔はやわらかで、反対にミクさんの顔はどんどんかたくなっていく。
「その、本も、彼女さんのものですか?」
「……ええ」
 脇にあった茶色い表紙をぺらりとめくり、センセイは目をほそめる。
「音楽の知識なんてまったくないってぼくが言ったら、これで勉強するようにってわざわざくれたことがあったんです。それからずっと大事にとっておいて、飼ってる動物たちにつけた名前も音楽用語。未練がましいでしょう?」
 ミクさんは一生懸命無言で否定する。
「気をつかわないでください。まあ、こんな商売なので気ままに独り身生活送っていますし、いまは彼らがいますから」
 そう言いながら、傍らに寄ったマルカートの頭に手を置く。
「すみませんね、変な話をして。もうそろそろホウジョウも」
「あの、私、センセイが好きです」
 突然の言葉に、センセイが珍しく真顔になった。
「ミツモリセンセイが、一年生のときからずっと好きでした」
 ミクさんの顔の色が、みるみるうちに変わっていく。夕焼けの空みたい。
 センセイは笑顔を作った。
「ありがとうございます。でも、お気持ちは受け取れません」
「はい、今日で、叶わないってはっきりわかりました。でも、好きなんです。もう、どうしたらいいか」
 センセイは困ったように写真を棚に戻した。
 気まずい沈黙。ぼくもマルカートもアマービレも、ぜんぜん鳴けない。
 でも、ポットはちがう。こんなときにも空気読まずアラームを鳴り響かせる。
 センセイは無言でキッチンに入り、湯気のたったお茶をマグカップに淹れて戻ってきた。
 それをダイニングのテーブルのうえに置いて、ミクさんを座らせる。
「もうすぐ就活も卒論もあるでしょう? それで社会に出れば簡単です。学校でのことなんて、すぐにいい思い出になりますよ」
 ちく。
 ミクさんの心の痛む音が聞こえた気がした。
「それでも、忘れられなかったら?」
「……せっかく、いま大学生なんだから、もっと楽しい恋愛しなさい。うちの学科は男子多いんだし、セキヤさんは美人だし、選びたいほうだいですよ」
「いやです、センセイがいいんです」
 ミクさんは、ちいさい子がするように首を横にふった。
「彼女のこと、忘れなくていいです。それでも、そばにいたいです。分野ちがうから研究室行けないだろうし、こういうことないと一生言えない気がして、それでカナちゃんのウサギばなしに便乗して、それで今日」
 だんだん早口になっていく。
 そんなミクさんの前にマグカップを移動させて、センセイは微笑む。
「まあ、落ちつきなさい」
 そこでようやくミクさんはお茶を飲む。それを見ながらセンセイは声をかけた。
「セキヤさん、ぼくはちょっとしかあなたのことを教えていないけれど、とても賢い人だなって思っています」
 慎重な感じ。いつものセンセイとちょっとちがう。
「だから、その……わざわざこんな相手を選んでもしかたないっていうのも、理解してくれると」
 ミクさんは、顔と手をぎゅっとする。
「センセイは、人を計算して選んで好きになるんですか。その人のこともそうやって好きになったんですか」
 センセイはうつむく。
「だったら、ずっと忘れられないっていうのもおかしいですよ」
 ミクさんは立ち上がって、荷物をとる。
「セキヤさん」
「すみません、帰ります。ホウジョウセンセイには悪いけど」
 そう言って、足早に玄関にむかう。
 ぼくは思わずその足もとに絡みついた。
「――ごめんね」
 とっさに出た言葉に、はっとする。その間に、センセイに声をかけても振り返らず、ミクさんは行ってしまった。
 センセイはぼうぜんと、閉まってしまったドアを見つめていた。動けない。
 のそのそとマルカートがやってきて、くーんと鳴く。いつもならすぐに撫でてくれるはずなのに、センセイは立ったまま動こうともしない。
 アマービレが、出せ出せってうるさい。でも、センセイはそれにも反応してくれない。
 どれくらいそうしていたのかな。
 玄関のドアが開いた。
「うお!」
 ホウジョウさんだった。
 ホウジョウさんはぼくとマルカートを交互に見て、とりあえずセンセイをリビングに引きずった。
 この人は、カップの位置もコーヒーの豆の位置もよく知ってる。センセイをソファに座らせて、ホウジョウさんはもう一回お湯を沸かし直す。
「実は、さ。セキヤさんに下で会ったんだ。それで、送っていった」
「そっか」
 センセイの声はかすれてた。
「ありがと。心配だったから」
「だったら追えばよかったじゃん」
「追えないよ。追ってどうするんだよ」
 ホウジョウさんは、先生の二割くらいの丁寧さでコーヒーを淹れてくれた。
 センセイの大好きなコーヒー。こういうの、ぼくたちはしてあげられない。
「他の子と一緒。ただの学生だと思ってたからさ、正直どうしようもないし、困っただけだよ」
「そうか」
「でもさ、あの子が言ったの、結構きたな」
「なにが?」
 センセイは痛いのをがまんするように笑った。
「頭でわかってても、心がそれに従うとは限らないって話」
 ね、と笑いかけた先は、ホウジョウさんじゃなくて写真の女の人だった。


「あー、やっぱり籠って不便!」
 アマービレはぴいぴい言う。
「私があのとき自由だったら……」
「そんな話してもしかたないだろ。何度目だよ」
 籠を見上げながら、マルカートはごろりと寝がえりをうつ。
「ねえねえ。アマービレは、先生に奥さんがいたほうがいいと思う?」
 ぼくが尋ねるとアマービレは頭を揺らす。
「別にいなくても、センセイは生きていけるわよ。私たちだっているし。でも、なんか惜しいの!」
「なにがだよ」
「なにかが!」
 アマービレの答えに、マルカートはそのまま目をつぶってしまう。
「俺たちもふくめて、周りがとやかく言ってもセンセイの気持ちがあのままだったら無理じいはよくないだろ。ラルゴ、お前だってそう思うよな?」
「う、うん……」
 ぼくは棚のうえにちょこんとのぼって、写真と向かいあう。
 ぼくが来るまえから、この写真はずっとここにある。埃はかぶってるところは見たことない。
 ずっと大事にしてきたんだ。
「あら、あの子」
 アマービレが窓の外を見て呟く。
「どうしたの?」
「ミクちゃんがいるわ」
 ぼくはもう一段高い場所に上がる。下の道路をうろうろしているミクさんが見えた。
「センセイ、今日お仕事休みだからかな?」
 火曜日は大学に行かなくてもいい日なんだって。でも、センセイはちょっと遠くへお出かけ。もうそろそろ帰ってくるはずなんだけど。
 ミクさんは、センセイが留守だってわかったのかな。急に振り返って、そのまま行っちゃおうとするところだった。
「あ、行っちゃう! ラルゴ、追いかけて!」
「え?」
「マルカート、ベランダ開けてあげて」
「なんで俺が」
 マルカートは顔は上げないけど、けだるくしっぽを振って自己主張する。
「ラルゴじゃ届かないでしょ。根性で開けなさい」
「お前は命令だけかい」
「私は籠にいるからできません」
 ふいっと横に向くアマービレ。
 さすがにマルカートも、センセイの次にさからえない相手に言われちゃ従うしかない。
 マルカートって意外と器用で、なんどかチャレンジしただけで、ベランダのカギなら開けられちゃう。
 そこをぼくがよいしょって扉を開けて、外にでる。
 ここは三階。下りられないことはない。
「センセイが帰ってくるまで時間稼いで、ちゃんと戻ってきなさいよ」
「はーい」
 ぼくもまた、アマービレにはさからえないのだった。
 途中、あちこちを経由して、ぼくは見事に着地する。
 センセイが心配するから、無断で外に出るなんて普段は絶対しない。地面まではなんてことない道のりだったはずなのに、やけに心臓がどきどきしていた。
 道に出ると、ミクさんはとてもちいさくなっていた。
 ぼくはとりあえず見失わないように、クルマに注意しながらあとを追う。
「ミクさんミクさん、ちょっと待っててくれませんか?」
 そう声をかけられる距離まで縮められたのは、そこそこ時間が経ってから。
 ミクさんはとても驚いていた。
「ラルゴ? え、どうして、ここ……」
 そりゃそうだ。ぼくはセンセイの家からほとんど出ないって、最初来たあたりでホウジョウさんがミクさんとカナさんに話してたもん。
「どうしたの、迷子なの?」
「いや、その、なんていうか」
 ま、ぼくの言葉なんか通じないんだから、逆になに言ってもいいんだけど。
「戻りませんか? センセイ、あとちょっとで帰ると思うんですよ」
 ぼくはミクさんにおしりを向けて、元の道を戻ろうとする。
 ミクさんは慌てる。
「だ、だめだよ。おうちに連れてってあげるから」
 そうやって、おっかなびっくりぼくを抱える。ホウジョウさんよりじゃっかん優しいけど不安定だ。
 でも、なんかセンセイに似てる。ぼくは喜んで、ゆりかごみたいなミクさんの腕に収まった。
 おうちに着くと、あかりがついていた。やっぱりセンセイはもう帰ってきていた。
 ミクさんの顔がしゅんと暗くなる。
「ミクさん、連れてってくれますか」
 不安そうにミクさんはぼくを見る。そして、決心したようにうなずいて、エレベーターに乗った。
 ドアの横のボタンをおすと、すぐにセンセイが出てきた。
 勢いあまって、ドアのふちに頭をぶつける。
「いてっ!」
「せ、センセイ、大丈夫ですか?」
「あれ、セキヤさん?」
「あ、あの、センセイ。ラルゴが駅前にいて……」
 そう言ってミクさんはぼくをセンセイに差し出す。
 センセイは力が抜けたようなポーズになる。
「よかった。ベランダの扉が開いてて、クルマにはねられてたらどうしようかと」
 センセイはぼくをだきしめる。
「無事だったかー。お前、本当やめてくれよ。いや、ぼくがカギ確認しなかったのが悪かったんだけど」
 ごめんなさい、センセイ。主犯はアマービレ、共犯はマルカート、実行犯はぼくです。
「セキヤさん、ありがとうね。学校帰りだったでしょう? わざわざ戻ってきてくれて」
「いえ、たまたま知ってるネコでびっくりしましたけど」
 ふと二人の視線が合う。まだちょっと気まずい雰囲気。
「あの、センセイ。このあいだはすみませんでした。変なことばかり言っちゃって」
 ミクさんは頭を下げる。センセイは慌てる。
「いえ、それは、ぼくが……」
 一度言葉を切って、センセイは姿勢を正す。
「セキヤさん。やっぱり、ぼくはお気持ちに応えられません。彼女のこともそうだし、学生をそういう対象に見る自分はなんとなくいやなんです」
 ミクさんも真剣な表情になった。
「はい」
「だから、明日からはこれまでどおりに接してくれますか?」
 こくんとうなずくミクさん。廊下の奥から、マルカートが聞き耳立ててるのが見える。
「センセイ。私、再来年、卒業しますけど、そうしたら学生じゃなくなりますよね」
 センセイは頭をかく代わりに、ぼくの背中をなでる。
「確かにそうですけれど」
「そうしたら、ちょっと考えてくれるとか」
「……あなたが他の人を好きになったときのことを考えると、約束をつくるというのも」
「じゃあ、もし三年経ってもまだ好きだったら、また言いにきます。そうしたら、もう一度お返事ください。そのときもセンセイからダメだって言われたら、今度こそ諦めます」
「セキヤさん……」
「それで、それまでに、もし他に好きな人ができたら、一緒に訪ねてきてもいいですか?」
 ミクさんって、なんだかアマービレに似てる。ふとそう思った。
 センセイはちょっと黙ったあと、ふきだすように笑った。
「そのときは、ぜひ」


 晴れた休日の昼下がりは、マルカートと日当たりのいい場所の取り合い。最終的に昼寝をしながらまったり過ごすのがいちばん。今日はアマービレも自由にお部屋のなかを飛びまわってる。
 あれからも、この部屋にはちょこちょこ人が訪れる。いちばん多いのは、やっぱりというべきか、ホウジョウさん。
 ホウジョウさんはあいかわらずガサツだけど、それは許してやる。あの人もセンセイのことが好きみたいだから。
 そうだ、ここに来るのって、なんだかんだ言ってセンセイのことが好きな人ばかり。そして、ぼくたちもそう。
 だから、センセイが好きなもの同士で仲良くできるなら、ほかに家族が増えてもいいかなってぼくはなんとなく思ってる。
 センセイはどうなのかな。
 当の本人は、今日もコーヒーを飲みながら、大きな本と新聞を見比べてる。
 ミクさんとの約束の三年って、どれくらい長いんだろう。ぼくには、いまいちよくわからない。
 でも、それはセンセイとミクさんの問題だ。ぼくは、いざというときにセンセイのそばにいればいい。
「ちょっと失礼しますよ」
 ぼくはちょこんとセンセイのひざに乗る。こういうとき、ネコって得だ。
 センセイは本から目を離さないけれど、ちゃんとぼくのこと撫でてくれる。
 ちょっと遅れて、アマービレが先生の肩の上、マルカートが先生の足もとに移動してくる。
 うん、日なたもいいけど、やっぱりセンセイがいちばん好き。





2013/03/02
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