赤ずきんは帰らない 十年前の秋、上の妹がいなくなった。 俺が八歳で、遊奈が五歳、明璃が三歳。始まりは、三人で祖母ちゃんちに行く途中、遊奈がいきなり聞いてきたことだった。 「ねえ、お兄ちゃん。あれ何?」 指した先は公園。その片隅が、なんだかぼんやりと光ってた。 「何だろ」 俺が呟いたときにはもう、遊奈は小走りで公園に入っていた。 「ちょっと、ダメだって」 寄り道せずにまっすぐ行きなさいって、母さんから言われたのに。俺はイライラしながら、明璃を抱えて追いかけた。 正直、遊奈のことは鬱陶しいとこの頃から思ってた。気味悪かったから。 幼稚園に入る前から、あいつは小学生が読むような図鑑とか小説とかばっかり読んでて、テレビのニュースも親より詳しかった。 幼稚園に上がったら余計にひどくなって、図書館に入ってすぐに向かうのは科学だの歴史だの。児童書コーナーなんてまるっきり無視。 みんなはそんな遊奈のこと、偉いだの賢いだのちやほやしてたけど、俺からすると不気味だった。「お兄ちゃんなんだからもっと頑張れ」とか言われてうんざりしてたってのもあるかな。 でも、俺はやっぱりお兄ちゃんだから、本当は遊奈も明璃みたいに可愛がってやりたかった。 「行こう」 追いついて、しゃがんだあいつの赤いポンチョを引っ張ったけれど、まったく動かない。 また赤ずきんごっこか。俺は溜め息をついた。 絵本なんて読まないで、桃太郎もシンデレラもまったく興味のない遊奈が、たったひとつだけ好きな話があった。それが、赤ずきんだ。 遊奈は、フード付きの真っ赤なポンチョを作ってもらって、夏が終わったあたりからいつもそれを着ていた。うきうきしながら、その格好であちこちうろつく赤ずきんごっこがマイブームだった。そのときだけは、何か普通の幼稚園児ぽくて、遊奈のこと嫌な風に思わなかった。 でも、のんびりしてられない。さっさと祖母ちゃんちに行かないと怒られるから、何とか立たせようとした。 「遊奈、行くよ」 「にいちゃ、きれい」 明璃が顔を上げて笑った。つられて俺も視線を上にやった。 薄く曇った空から、光が差してきた。鳥が飛んでいるみたいに、ひらひらとプリズムを切り刻んだようなものが飛んでいた。まだ秋なのに、雪が降ってるみたいだった。 「オパール色だ」 遊奈がうきうきしながら言う。その頃、遊奈には他にもいくつかマイブームがあって、そのうちのひとつが宝石だった。飽きることなく、宝石の本をいつまでもじーっと眺めていた。 ああ、確かに。俺は遊奈が見せてくれたオパールの写真を思い出して頷き、そして我に返った。 「ほら、二人とも行くよ」 「お兄ちゃん、これこれ」 遊奈が地面を指す。そこには、空を飛んでいた光る粒が積もっていて、真ん中に花が落ちていた。見たことない形で、粒と同じオパール色をしていた。 「こんなの見たことないよ」 図鑑持ってくればよかった。そう言う遊奈がその日持ってきていたのはSF名作集だった。 「ね、もう行こうよ」 「君たち、ここらへんの子?」 いきなり声をかけられて、びくりとする。 恐る恐る振り返ると、知らない男が立っていた。丸太みたいな身体で、髪は短くて、目がくりっとしていて、顔は真っ白で……オパール色の服を着ていた。 知らない人に声をかけられても、仲良くしちゃダメ。俺は遊奈を隠すように立って、明璃の手をぎゅっと握った。だけど、そんな俺のいじらしい努力を無駄にして、遊奈は俺の前に出た。 「おじさん、これ、もしかしておじさんの?」 その手には、花。男はにやりと笑った。 「拾ってくれたのかい」 優しい口調のはずなのにどこか冷たい感じのする声だった。顔も仮面がひっついたようで、気味が悪かった。 「すいません、母さんが呼んでるんで」 さっさと退散しようと足を動かしたとたん、肩をがしりと掴まれた。肌がやけに冷たくて、背中まで凍るみたいだった。人間とは思えなくて、化け物みたいだった。 「ちょっと教えてくれないかな。あの道具はいったいどうやって使うの? やってみせてくれないか?」 男は顎でぶらんこを指す。 「え?」 ぶらんこを知らない大人なんているか? 思いがけない質問に、俺はパニックになった。そんな俺のことなんて気にしないで、遊奈は遠慮なく喋る。 「おじさんのこれは何?」 「これ?」 「教えてくれたら、私も教えてあげる」 遊奈は男の腕に触る。そこには、黒い機械が埋め込まれていて、赤い光が点滅していた。映画のロボットみたいだった。機械の周りの肉が、ちょっとだけ盛り上がっている。 何だこれ。何だ、何だ、何だ、何だ。 ――こいつはやばい! そう感じたのは、本能だったのかもしれない。俺はとっさに明璃を抱き上げて入口まで走った。 「遊奈、こっち来い! 早く! 祖母ちゃん待ってるから」 でも、遊奈は振り向かずに男に何か話しかけている。 「遊奈!」 男がこっちを向いて、手まねきしてきた。にやっと楽しそうな顔で。 俺は息をのむ。引き返して遊奈を連れてくるか、それとも……。そこで、とっさに明璃の顔を見た。 二人抱えちゃ走れない。 明璃が遊奈のこと呼ぶのも聞かないで、俺はそのまま背を向けて駆けだして、ひたすら祖母ちゃんちを目指した。 徒歩五分の距離なのになかなか来ない俺たちを心配した祖母ちゃんは、三人来るはずが二人しかいないことに驚いていた。 すぐにみんなで公園に行ったけど、遊奈も男もいなかった。あのきらきらとした山すらなくなっていた。あの光も消えて、薄暗い空があるだけだった。 遊奈はその後、見つからなかった。でも、母さんは俺を責めなかった。 「お母さんがついてなくてごめんね。明璃のこと守ってくれたんでしょ?」 思わず頷いた。けれど、それが正直な答えだという自信はなかった。 「ねえ、お兄ちゃん。免許取ってよ」 いきなり明璃が話しかけてくる。 「何で?」 「練習行くのめんどくさいんだもん。バイクでもいいからさ、お兄ちゃんが免許取ってくれるとすっごく助かるんだけどな〜」 「学校まで徒歩十五分じゃん。それぐらい歩けよ、食べてばっかりないでさ」 明璃の地雷を踏んでしまった。いつも甘いもの食べてるくせに、体重を気にするのは俺には理解できない。 ぎゃあぎゃあ騒ぐ明璃に、母さんからの援護射撃が飛ぶ。 「そうよ、受験生に何やらせるの。バカなこと言ってないで、さっさと行きなさい」 「はぁい」 明璃は新品のラケットを背負って玄関に向かう。それを母さんが追う。 日曜日も練習か。運動部って大変だな。 「俺ももうそろそろ行かなきゃ」 「予備校、十時からだろ。ちょっと早すぎないか?」 父さんが新聞から目を離して言う。 「その前に自習室行くから」 立ちあがってリビングを出ると、母さんとはち合わせする。 「もう行くの?」 「うん」 何かを確かめるように、母さんは俺の顔を見上げる。 「行ってらっしゃい」 「行ってきます」 二学期に入ってから、真っ青だった空の色がほんの少しだけ落ちついた気がする。 平凡な町の片隅で暮らす、平凡な我が家。何の変哲もない日常を送っている。こうして生活していると、とても家族が一人行方不明になったとは思えない。むしろ、遊奈なんて初めからいなかったみたいだ。 ――置き去りにしたの、俺なのに。そう思うと、自然と視線が落ちる。 遊奈は、俺のこと恨んでるかな。それすら想像できない。あいつは普通じゃないから。 俺が中学に入ったくらいだったかな、母さんがぽつりと漏らしたことがあった。 「私は、あの子が不気味だった」 遊奈が一歳になったあたりで、母さんは明らかに俺と遊奈が違うことに気づいた。最初の子と二番目の子だから、男の子と女の子だから。そんなことを自分に言い聞かせていたけれども、明璃が生まれてはっきりしたようだ。 遊奈は、あきらかに異様だと。 他の子供が好きなものにはたいてい目もくれず、祖母ちゃんが俺用に買ってくれた図鑑や父さんの仕事の本を無心で読んでいた。 戦争、宗教、民族、政治、金融、医療、科学などなど、ニュースを見ながら質問ばかりしてくる娘に、母さんはそのうち得体の知れなさを感じ始めた。俺はそれを知っていた。同時にもうひとつ、遊奈がそんな母さんの気持ちに気づいていることも。 とは言っても、別に遊奈が好きだったわけじゃない。むしろ、俺も母さん寄りだった。でも、母親に嫌われてるって辛いと思ったから、せめて遊奈の敵になりたくはなかった。遊奈はたぶん、そんな俺の気持ちも知ってたんだろうな。 心のどこかで、遊奈は心配ない、迷子になっても自分で帰ってこれるって確信してた。だから、もしかしたら、帰ってこないのは俺のこと憎いからだとか、そんなことばかり考えてしまう。 あいつだって、別に百パーセント化け物ってわけでもなかったのに。 思い出すのは、一冊の絵本、赤ずきん。 行方不明になるあたりでは、古典SFの文庫なんか読むようなやつだったのに、どういうわけか遊奈は赤ずきんの絵本をいつも大切にしていた。しかも、俺に読んでってせがんで。 「それくらい読めるだろ」 実際、遊奈は文字が読めるとかそんなレベルじゃなかったから、読み聞かせてもらう必要なかった。けれども、あの絵本だけはいつも俺に差し出してきた。 「お兄ちゃんがいい」 このときだけは妹らしい妹だった、と思う。正直、唯一あいつ相手に兄貴ぶれるような気がして、面倒だったけど悪くは思わなかった。 あれはいつだったかな、狼が赤ずきんをそそのかして寄り道させる場面のときに、遊奈が口を開いた。 「マコちゃんはね、赤ずきんちゃんは馬鹿だから狼に騙されたんだって言うけど、私はそう思わないんだ」 言いながら、あいつは絵のなかの赤ずきんを撫でた。 「ねえ、お兄ちゃん。どうして赤ずきんちゃんは狼の言葉に従ったと思う?」 「花をおばあちゃんにあげたかったから?」 遊奈は、授業で指した生徒が答えられなかった先生と同じように、首を振った。 「じゃあ何?」 尋ねてやると、しょうがないと言うように苦笑した。そんな上から目線がちょっと気に障った。 「本当はね、赤ずきんちゃんは寄り道がしたかったんだと思うよ」 俺は首を傾げる。それを見て、遊奈はどこか得意げに続ける。 「寄り道しなかったら、お祖母ちゃんのところに行って帰って終わりじゃん。普通だもん」 「普通でいいじゃん」 「駄目なんだよ、それじゃ」 「何で」 「赤ずきんちゃんは主人公だから。全部普通じゃ、お話にならないんだよ」 普通じゃお話にならない、か。確かにそうかもしれない。 遊奈のこと以外に、俺の人生に特別なこととして語れるものなんて、何もない。だって、俺は凡人だから。公立の中学行って、手頃な高校に行って、来年にはそこそこの大学に入る……予定。 小学校上がる前に、遊奈と自分の違いを自覚してしまったせいかな。どうしても、自分は特別じゃないって心の底から感じるし、特別になろうともまったく思わないんだ。 そういえば、あの絵本、最近触ってすらいないな。 遊奈の遺品とやらは、もうほとんど残ってない。明璃にお下がりしたり、人に譲ったりして、どんどん減っていった。 あの絵本は、持ってなきゃいけない気がして、俺の本棚に置いてある。遊びにきた友達に笑われることがあっても、ずっとそのままだ。 捨てたら、さすがに遊奈も怒るかな。でも怒ったあいつの顔が想像できないまま、駅までぼんやりと歩いていった。 予備校の授業が終わって家に帰ると、まだ明璃は部活。父さんも帰ってきてなくて、俺と母さんの二人だった。 「達希。母さん、お祖母ちゃんち行ってくるわ」 祖母ちゃんはさすがに歳とったせいか、昔のようなシャキッと感はなくなってしまった。まだ一人暮らししているけど、母さんが毎日のように様子を見に行ってる。 「わかった」 返事をしたその瞬間、電話が鳴る。出た母さんは、顔をしかめる。 「え? うん、うん……わかった」 切った瞬間、溜め息が出る。 「どうしたの?」 「お父さんから。電車止まってるんだって。迎えに行かないと」 母さんは頭を押さえる。とっさに俺は声をかけた。 「……祖母ちゃん、俺が見に行こうか?」 母さんは首を横に振る。 「いいよ。すぐに帰ってきて、それから向かうから」 「でも、父さんとこまで一時間くらいかかるでしょ? 明璃だってこれから帰ってくるんだし」 俺は免許持ってないから父さん拾いにいけないし。そう言うと、母さんはゆっくりと頷いた。 「じゃあ、お願い。ご飯食べてるか、洗濯物大丈夫か見てきて」 「わかった」 「ちゃんと、ね」 母さんはいつものようにしっかりと俺を見る。 「うん、帰ってくるから」 遊奈がいなくなってから、このやりとりを何度しただろう。母さんは、俺や明璃がいなくなることが怖いらしい。 ――あの子が不気味だった。遊奈には、あんな風に思ってたのに。 母さんが車を出すのを見送って、明璃にメールを入れつつ、俺は祖母ちゃんちに向かった。 あの日と同じ、薄曇りの空。夏から秋に変わっていく今は、日暮れまでまだちょっとだけ時間はある。それでも意外と夜は涼しいから、上着着てきてよかった。 蝉の鳴き声もだいぶ減った。そう考えながら歩いていると、俺は自分がいつかのように公園に向かっていることに気づいた。 確かに、祖母ちゃんちまではここを通るのが最短距離だけど、あの日以来俺はいつもわざと遠回りしていた。だって、後ろめたいことを思い出すから。 「ねえ、お兄ちゃん。あれ何?」 遊奈の声が聞こえる気がした。 俺は顔を上げる。その先の公園は――光が舞っていた。 「嘘……」 何度瞬きをしても、空気はきらきらとしていた。 ぞわっとする。あの男が、いる……? 呼吸が浅くなる。無意識に背を向けて走り去ろうとした瞬間、俺の足は硬直した。 「ねえ、お兄ちゃん」 それは、明璃の声じゃない。でも、どこかで聞いたことがあるような気がする、懐かしい響きだった。 「もしかして、お兄ちゃんじゃない?」 俺は、恐る恐る振り向いた。あの日のように。 そこにいたのは、白い肌で、オパール色の服を着た――女の子だ。中学生くらいに見えた。 にこにこと笑ったその子に、見覚えがあった。 「やっぱり、お兄ちゃんだね?」 その喋り方に、あのときの男の顔が過ぎる。でも、その顔だちは何となくあいつの面影があった。 「遊奈?」 女の子はぱっと表情を明るくする。 「そうだよ!」 遊奈? この子が、本当に? 心の準備もなしに現れた存在に、俺はただただ呆然とするしかなかった。 遊奈は懐かしそうに近寄ってくる。 「久しぶり。あれ、何年ぶり? 今何年?」 「は?」 「あ、待って」 遊奈は手を開く。そこには、男の腕に埋め込まれていたような機械があった。 それを見つめると、遊奈は一瞬だけ目を閉じた。 「そっか、十年ぶりかぁ。お兄ちゃん、あんまり変わらないね。明璃はもうだいぶおっきくなった?」 まるで親戚のおばちゃんみたいな会話に、俺は反応できないでいた。 「お兄ちゃん?」 ぼんやりと見つめるだけの俺の顔を覗きこんで、苦笑する。その表情すら懐かしかった。 成長した遊奈は赤いコートも着ていないし、本も持っていない。でも、これはやっぱり遊奈なんだ。 「な、あれからどうしてた? 今までどこにいたの?」 行方不明だったはずの妹は屈託なく笑う。あの頃よりも、ずっと無邪気に。 「火星と木星の間に小惑星群があるでしょ? その裏」 「裏?」 「あ、裏って言っても、次元の裏ね。ちょっとずれてるの」 何を言っているのかさっぱりだ。 「あの人がね、私のことすっごく気に入って、連れて帰ってくれたの」 「あの男にさらわれたのか?」 「ううん。自分でついていこうって思ったんだよ! だって、宇宙だよ、宇宙!」 なんだろ、目の前にいるのは実の妹で、でもやっぱり異星人だ。そうとしか言いようがなかった。 「もう、すっごく楽しくて、時間なんて忘れちゃって。ごめんね」 何が「ごめん」なんだろう。こいつの物言いには、十年って時間がまるで感じられない。 「でもね、本当にすっごくすっごく面白いんだよ、あっちは」 うっとり、って言葉は、こういう顔のことを言うのかな。こいつには、十年間自分の家を離れていたっていう自覚がないみたいだ。 いなくなった遊奈のことを、うちの家族はそれぞれ複雑に、悲しんだり自己嫌悪したりしながら過ごしていた。その十年間が一瞬で崩された。 すっきりしなさを感じながら、俺は問いかけた。 「なんでお前帰ってこなかったんだよ」 返ってきたのは、予想外に力強い言葉だった。 「物語が始まったからだよ」 「は?」 ふざけた答えを、遊奈は目を輝かせながら言い放つ。 「この世界の誰も知らない、私が主人公の、普通じゃないお話が」 ふと、赤ずきんを見ながらのやりとりを思い出す。 ――本当はね、赤ずきんちゃんは寄り道がしたかったんだと思うよ。 「お前も、赤ずきんになりたかったの?」 「うーん」 遊奈は上に視線をやりつつ、こくんと頷いた。 何だよ、何だ、何だっていうんだ。どうしてあんなに、俺よりずっと老けた言動だったくせに、そうやって幼稚園児みたいに……。俺は歯をしっかりと噛みしめる。 「赤ずきんは寄り道はするけど、ちゃんと祖母ちゃんちに行くじゃん。でも、お前、来なかったじゃん」 赤ずきんになりたいなら、さっさと花を摘んで戻ればよかったのに。こっちの世界に、祖母ちゃんや俺たちを食べる狼なんていなかったのに。 「狼がいないからだよ」 俺の心を読んだみたいに、遊奈は微笑む。 「こっちの世界には、狼がいない。不思議な人と会って終わり。お祖母ちゃんに綺麗なお花をあげて、一緒にケーキを食べて、それで帰って。それってメルヘンかな?」 小首を傾げる。あっちは馬鹿にしているわけじゃないはずなのに、イライラする。 「メルヘンじゃなくていいじゃん! 別にそんなの」 「だからね、お兄ちゃん。私は、狼について行ったんだよ」 遊奈は機械をブランコのほうに向ける。そして、スイッチを押した。 風が吹いたような音がした。 眩しい。とっさに俺は腕で目を覆う。 「ほら、見て」 光に慣れた俺の目に飛び込んできたのは、丸い窓だった。 向こうに広がるのは、高速道路、高いビル、飛行機と車を合わせたような乗り物……そのすべてがオパール色だった。遊奈やあの男が着ている服と同じ。 空は紫とオレンジ。夕日が沈む途中なんだろか。綺麗だと、とっさに思ってしまった。 それを見て笑いながら、遊奈は窓のなかに入って、腕を広げる。 「素敵でしょ? 楽園みたいでしょ?」 宙に浮いている。羽も生えていないのに。 遊奈はやけに誇らしげだ。それを見て、俺は喉が渇くような気分になる。 「置いて行った俺のこと、恨んでないの?」 むしろ、恨んでるって一言言ってほしかった。でも、遊奈はこっちの予想なんか知ったこっちゃないような、笑顔で首を横に振った。 「全然! だって、お兄ちゃんが邪魔しなかったから、私は別の世界に行けたんだよ?」 「こっちの世界に未練とか、そんなのは」 「……ない、かな」 その返事を聞いた瞬間、すごく苦しくなる。遊奈はそんな俺の目をまっすぐ見て、続けた。 「だって、そっちの世界の人間なのに、私は異物だったもの」 縦にも横にも首を振りたくなかった。 遊奈がいなくなってからのほうが、母さんはぴりぴりとしなくなった。うちはずっと穏やかになった。まるで、遊奈がいるほうが不自然だったみたいに。 こいつは、俺とも明璃とも、他のすべての子と違っていた。まったく合わなかった。 異物。その言葉は適格だ。 「ねえ、お兄ちゃん」 ゆっくりとこっちに手を差し出してくる。 「一緒に行こうよ」 「……俺?」 こいつがそんなこと言うなんて思いもしなかった。 「何で」 「みんな、私のこと、気持ち悪いって思ってた。実の母親でさえも。本当は知ってるんだよ。褒めてるつもりで、化け物みたいな目で見るの」 逆光だったけど、声の低さで、遊奈が今どんな顔しているのかがわかった。 「お兄ちゃんも、そうだったでしょ?」 「……そこまで気づいてたんだったら余計に」 「でも、お兄ちゃんはそれでも私のお兄ちゃんでいようとしてくれた。だから、私、お兄ちゃんのこと嫌いじゃなかった」 絵本を読んでとせがんだことを思い出す。俺がお兄ちゃんらしくいようって思ってたから、こいつも妹らしくいようとしたのかな。 「そんな世界より、こっちの世界のほうがずっと楽しい。だから、お兄ちゃんだけでも連れて行きたいんだ」 こっちは素敵、そう言いながら遊奈は笑う……そう見えた。 「空だって飛べる。綺麗な鉱石も植物も動物も機械もたくさんある。文明だって進んでて、宇宙のいろんなところに行ける。プレデアスだって、アンドロメダだって。それに、私を排除する人間がいない。お兄ちゃんだって、きっとうまく生きていけるよ。そっちよりもずっといい人生が送れる!」 遊奈は、きっとあっちで幸せなんだ。そう感じるのは、ここまで熱のこもった言葉を、十年前は聞けなかったから。 異世界って、本当にあるんだ。俺は、そんなことを思いながら、窓の奥を見る。 まるで、昔の映画みたいだ。まさに昔の人たちがイメージした未来の景色が広がっている。 どんなところなんだろう。こっちと何が違うんだろう。興味はないわけじゃない。だって、あの遊奈がこんなに楽しそうに笑って誘うんだから。 本当に逆光が眩しい。知らない音楽が小さく流れてくる。 固まってると、いきなり遊奈が手を伸ばして、俺の胸倉を思いきり引っ張った。その瞬間、目の前が一気に真っ白になった。 身体が一回転する。平均台で、最後に側転で下りるときみたいな感覚に似てる。でも、ここに床はない。まっすぐ落ちていく。 悲鳴をあげようと口を開いたら、冷たい空気が入ってきた。身体の中心まで冷える。 腕が引っかかる。遊奈が俺の袖を強く握ってた。 「これ、持ってて」 黒い機械の、小型版だ。ネックレスみたいに輪っかがついてて、遊奈はそれを俺の首にかけた。その瞬間、俺の身体は一気に安定した。 「ゆっくり、息をして」 深呼吸すると、喉がぴりっとした。 遊奈は七分袖が破けそうなくらい乱暴に、俺を引っ張り上げる。すると、同じ高さのところで安定した。 「ほら、今、空を飛んでるんだよ」 ぶよぶよしたものに支えられてるような気分だった。トランポリンに乗ってるような。足の裏が変な感じだった。 「慣れたら、飛行機みたいに急下降も上昇もできるよ。そういうスポーツだってあるんだ」 ほら、見て。遊奈が指さすのは、異様に小さい、強烈なオレンジ色の夕日。そっちに向かって、何人かがひらひらと動き回ってる。鳥の大群を思い出した。 この世界では、空を飛べるのが当たり前みたいだった。実際、俺たちが宙に浮かんでても、何の騒ぎもない。 振り返ると、窓の向こうに、さっきまでいた公園が見える。あの暗い灰色の空が、やけに味気なく思えた。 見渡すと、オパール色の洪水が広がっていた。空と違って、こっちは一色。どこもかしこも虹みたいな光が反射している。おもちゃみたいだけど綺麗だ。 「降りてみようよ」 遊奈は俺の袖を掴んだまま、ゆっくり下降していく。俺はどうしたらわからなくて、ただこいつを頼るしかなかった。 オパール色の石の道に下りると、空よりは安定感があってちょっとほっとした。でも、自然のかけらもない町に、これはこれで不安な気分になる。東京とか都会みたいにごちゃごちゃしていないせいかな。逆に落ちつかない。 「植物、あるんじゃないの?」 「あるけど街中は昼間だけ。夕方になると、しまっちゃうんだ」 「しまう?」 「地面のなかに入れちゃうの。郊外は出しっぱなしだけどね」 遊奈は大きく切り取られた石の上に立って、爪先でとんとんと地面を叩く。その靴も、やっぱりオパール色だ。 「ここって、みんなオパール色なの?」 「そうじゃないときもあるよ。でも、私はこれがいちばん好き」 歩こう、と遊奈はこちらを向きながら、後ろへと進んでいく。 俺は見上げる。紫がどんどん濃くなって、オレンジを侵食していた。夕焼けなんて毎日見ているはずなのに、今日の空はやっぱりどこか違う。 ここは異世界なんだ。 背筋の寒さを感じながら遊奈を見ると、やっぱりにこにこと笑って、早くおいでとか言ってくる。 空はどんどん暗くなって、その分町の光が強くなる。 不気味だ。綺麗なのに、綺麗だって自分でも思うのに、ここが怖くて怖くてたまらなかった。 進みたくない。でも、あいつから離れてここに取り残されるのはもっと嫌だ。 俺は早足で遊奈に追いついた。 すれ違う人はたくさんいるけど、どれも人形みたいなやつらだ。 大きな建物がずらりと並んでいるのに、そこから人間の気配みたいなのは全然感じない。映画のセットを歩いている気になる。 道路らしきものはある。近くで通りすぎる車は、上から見てたときよりも速く思えてびびった。でも、空気が動いている感じはしない。 小さな川があちこち流れていて、もう夜になろうとしてるのにやけにキラキラしている。どういう原理かわからないけど、これのせいで空が暗くて街灯もそんなないのに周辺は明るい。 やっぱり、俺、夢みてるのかな。遊奈は想像の遊奈で、本当は異星人だか異世界人だかに攫われていなくて、こんなに楽しく笑っていなくて。 昔は本当に大人びてて、気持ち悪いやつだった。成長してもっと老けててもいいはずなのに、五歳児がアスレチックで遊んでいるように楽しそうにしている。そのギャップがまだ理解できない。 どうせなら、あの頃こんな風にはしゃげばよかったのに。そうしたら、俺も母さんも、こいつをどうとか思わなかったのに。 どこかから小さな音が聞こえてくる。何かが弾けて高く響く。オルゴールに似ているけれど、ちょっと違う。もっと、硬さが耳に残るような音だ。 「音楽……」 俺の呟きを聞き逃さなかった遊奈は、嬉しそうに説明する。 「ここの音楽、面白いんだよ。星を削って、円盤にしてね」 「ユウナ!」 遊奈が喋るのを遮って、誰かが浮き上がりながら話しかけてきた。 目がやたら大きくて、やっぱりオパール色の服を着ている……おそらく女の子。最初に公園で会った男にどっか似ている。 遊奈はにこにこと、俺を指さしながら喋る。 その言葉は、まったく聞き取れない。日本語でも英語でも……いや、たぶん地球にある言葉じゃない。何を言っているのかさっぱりわからないどころか、聞いているだけで不安になってる。 録音した声をいじってるような、金属を曲げてるような、発泡スチロールをこすってるような。そんな、嫌な感じのする喋り方だ。 「遊奈、この人誰?」 「ああ、友達。優秀な技術者だよ」 そこで遊奈は手を叩く。 「そっか、言語システムはその中に入れてなかったんだ。入れたら、ちゃんとわかるようになるよ。まあ、喋ってれば翻訳なくてもどうにかなるけど」 その笑顔に、さっきの遊奈の言葉を思い出す。お兄ちゃんだって、きっとうまく生きていけるって、そう言った。 「本当に俺をここに住ませるつもり?」 遊奈は首を傾げながら頷いた。 「自然に覚えるから大丈夫だよ」 「自然にって無理だろ。こんなとこに放り出されちゃ、生きてけないし」 遊奈は眉をひそめる。 「お兄ちゃんは日本語喋れるようになるまで苦労したの?」 「……ううん」 「じゃ、大丈夫だよ」 その根拠がわからない。まったくもってわからない。日本語とこれは違うだろ? 遊奈は、女の子と楽しそうに話す。幼稚園のときのこいつからは想像できない。いつも、ぼっちだったのに。 二人の会話を聞いてると、がんがんと頭が痛くなる。異星人の言葉だから? じっとしていても、頭痛はひどくなっていく。俺は頭を押さえながら、周りの景色を眺めた。 たくさんの、同じような人間がいる。見たことない車、奇妙な建物、よくわからない素材と、やけに光る川。全部人工物で、自然のものが何ひとつない。 楽園。遊奈はこの世界のことをそう言った。ここだったら、うちの世界ではあんなに変人だった遊奈も一般人やってられるのかな。 そこではっとする。 「遊奈。俺……」 俺は後ずさる。とっさに首にひっかけた黒い機械に手がいったのは、どうしてだろう。 カチ、と音がした瞬間、また空と地面がひっくりかえった。絶叫マシーンに乗っている気分。 そして、ざりっとした感触がして、見ると土があった。慌てて周りを確認したら、あの公園だった。 戻ってきたんだ……。俺は無意識に溜め息をついた。 「お兄ちゃん、どうしたの?」 窓の向こうから、遊奈が声をかける。やれやれと言うみたいに。 「ごめんね、説明するの忘れてた。まだ開いたままにしてたから、スイッチ押すと一回出ちゃうんだよね。もう閉じる設定にするから。早くおいで」 そう言いながら俺に手を差し出す。俺は……取ろうとしなかった。 「行かない」 遊奈は固まる。 「どうして? 何か忘れ物?」 「違う、そうじゃない」 遊奈にとって、そこは楽しいところなんだろう。でも、俺は? あの世界に行って、俺はどうなる? そう思った瞬間、いつかの遊奈の台詞を思い出す。 ――赤ずきんちゃんは主人公だから。全部普通じゃ、お話にならないんだよ。 ああ、そうだ。 「俺は、普通だから」 ここでは、遊奈は異物だった。向こうに適応できるくらいの才能を持って生まれた。でも、俺は違う。 俺は、主人公にはなれない。 遊奈のように頭いいわけでもないし、この世界に不満はない。この世界で普通なことに、俺は満足している。だから、別の世界に行く必要なんてないんだ。たとえ、ここではどんなにちっぽけな存在であっても。 「どうして」 遊奈は顔をしかめる。きっと、理解できないと思ってる。 遊奈は、あっちに行くこと躊躇ったりしなかったんだろう。兄弟なのに、やっぱり俺とこいつは違うんだ。なんでだろうな、同じ親から生まれたはずなのに、どうしてこんなに違うんだろうな。 「ちゃんと見ればわかるから」 遊奈は身体を乗り出して、俺の手をぎゅっと掴む。そのひやっとした肌は氷みたいだった。考えるよりも先に俺は払いのけた。 俺たちはお互いに、目を丸くする。見つめ合ったまま黙ってしまう。 あの日会った男と同じ、人間じゃないような冷たい手。真っ白で、血が流れてるとすら思えない。遊奈は、いつからこんな身体になったんだ。 「お前はそっちのほうがいいんだろ? でも、俺はこっちのほうがいいんだよ」 「こっちを知らないから、そんなこと言うんだよ。ちゃんと、一回来てみなよ。街歩いてみて。そしたら、もうそっちに帰りたいなんて思わなくなるから」 そっちとこっち。同じ単語使ってるのに、お互いどっちのこと言ってるのか、まったく逆だ。 ああ、もう遊奈はこっちには帰ってこない。未練もない。あっちの人になったんだ。そう実感した。 だから、俺は、遊奈がいちばん傷つく台詞を吐いた。 「俺の妹は、明璃だけだから」 反応は、思ったとおりだった。でも、予想はできても、遊奈がこんなにも悲しんで泣くところを、俺は初めて見る。兄妹なのに。 十年前置き去りにした罪悪感は消えたのに、代わりにもっと気分が重くなる。それをごまかしたくて、俺は口を開く。 「遊奈は、みにくいあひるの子でも読んでおけばよかったんだよ」 追いうちをかけるようにそう言ってやると、遊奈は涙を拭かないまま呟く。 「最初から、こっちの子だったってこと?」 「そう」 今の言葉で、また俺はこいつを傷つけたんだと思う。でも、遊奈は納得するように窓の向こうでうんうんと笑って頷く。 「そうかもしれないね。でもね、お兄ちゃん。私は、いたんだよ」 わかってる。でも、わからないふりをしたかった。 「赤ずきんなんて、寄り道してるうちに祖母ちゃん食べられて自分も食べられて、それで猟師に助けてもらって石詰め込んでやって終わりじゃん」 ようやく涙が収まった遊奈は、落ちついた声で返す。 「それはね、私にとっての赤ずきんちゃんの本質じゃなかったんだよ。みにくいあひるの子は、時間が経てば自動的に本来の姿になるでしょ? あれは私とは違う」 「じゃあ?」 「赤ずきんちゃんは、狼の言葉に耳を傾けたから、物語が始まったんだよ」 あの日が、チャンスだったって言えるのかな。でも、遊奈の思考回路も赤ずきんにそんなに感情移入する理由も、俺にはよくわからない。 「あの本、まだある?」 ちょうど今朝、その存在を久々に思い出したところだ。 「俺の部屋に」 「そっか、ありがとう」 次の瞬間、窓が消えた。ごくごくありきたりの公園だけが残った。 遊奈? 見渡しても、どこにもいない。 「ねえ、お兄ちゃん」 肩を触られ、思わず叫ぶ。 「え、何?」 振り返ると、目を丸くした明璃が立っていた。 「こんなとこで何してんの? お祖母ちゃんち行ったって聞いたのに」 「ごめん」 「私が代わりしといたから、何かおごってよ?」 中学生になってからちょっと丸くなった顔で、偉そうに言う。俺はそんな明璃の頭を撫でてみた。その瞬間、明璃は顔をしかめる。 「何? 気持ち悪い!」 「そんな気分だった」 「意味わかんない! コンビニ寄るから、アイス買って」 「一個ね」 ごちゃごちゃうるさくしながら歩き出す明璃を追いかけて、一瞬振り向く。そこには、やっぱりただの公園しかなかった。 明璃にアイスとプリンをおごらされて、家に帰る。なんだか疲れて、そのまま自分の部屋に直行して、ベッドに倒れこんだ。 遊奈に会ったのは、夢だったのかな。なんだかずっと眠っていたような気分になる。 ふと、本棚を見ると、そこには一冊分の隙間ができていた。 2014/04/12 戻る |