ポートレート


 母が礼にくれたのは、この命と真っ赤な口紅だけだった。
 美しくて遊びが大好きで、自由奔放で飽きっぽい。父親を明らかにできないような子どもを身籠ったとき、彼女は意外にも初めての妊娠に興味を惹かれたようで、周囲の反対を押し切って産むことを決意した。
 そしてその翌年に、怠惰な不良妊婦だった割には元気な子どもを出産。それから三カ月くらいは赤ん坊の世話を趣味としていたが、やはり飽きたようで、子どもを置いて出ていってしまった。そんな人間でも今では大女優と名高いのだから、世間とは不思議なものである。
 礼は遠縁の子という扱いで祖父母に引き取られた。母は既に女優として顔が売れ始めていたために極秘出産で、礼の出生をきちんと知る者は少ない。無論、薄々感づいている者や邪推する者も周囲にいるが、適当に受け流して各々の想像に任せている。自ら真実を口にしたことは一度もない。
 礼の祖父は小さな写真館を営んでいる。元は更にその父、礼にとっては曾祖父が始めたのだという。館内には、数十年の歴史を記すように、これまでに撮影した様々な写真が飾られているが、一番目を引くのは母の十代の頃のものである。
 捨てられたはずなのに、どういうわけか礼は母の写真を目にしても憎しみはあまりわかなかった。血のつながった親だとわかっているのに、見知らぬ他人のような気分だった。
 それは自分で産んだ子どもを置いて行った娘に対して怒った祖父が外して倉庫に放り込んでいた物ではあったが、むしろ礼は自ら進んでこのポートレートを壁に掛けた。
 念入りに化粧をして煌びやかなドレスを身に纏って気取った若き母は本当に美しくて、眺めていると目の保養にはなった。祖父母は今でもそんな孫が理解できないでいるけれども、不肖の娘のことで負い目があるらしく、好きにさせてくれている。
 一度、「あの子はよく色々な衣装や化粧を隠れて試していたね」と祖母は苦笑いを浮かべながら話してくれたことがかつてあった。平凡な人間として毎日過ごす彼女が異なる自分に変身できる瞬間。それが何よりも幸福だったらしい。女優を職業として選んだのもそうしたことがあったからかもしれない。誰もが見惚れるような容姿を持っていたことが母の幸運だった。数多くの別人になれる仕事は性に合っていたに違いない。
 礼のお気に入りである例のポートレートに映る母親は、当時の流行であった派手な化粧をしている。華やかな彼女の顔立ちにとても合っていた。現在テレビや雑誌などに出ている母は、昨今の風潮を反映してかそれなりに自然な仕上がりだが、彼女には赤い口紅が一番よく似合うと礼は思っている。
 恐らく彼女が置いて行った口紅は、この写真のときに使われた物であろう。母が出ていった日、なぜか彼女は礼の小さな手にこれを握らせていたらしい。祖母は「クレヨンの代わりにと思っていたのでは」と言っていたが、真相は定かではない。
 何度かごみ箱行きを逃れているこの幸運な銀色のスティック、礼は一度も使ったことがない。そもそもこんな代物、自分には用がなかった。かといって処分する気にもなれずにいて、礼の引き出しの中で何年もごろごろしている身の上であった。
 礼が中学二年生の春、近くの大きな駅の周辺に巨大な母の顔がいくつも出現した。化粧品の広告だった。年齢の割には若く見える母が意味深に微笑んでいて、お洒落に敏感な女性達には好評のようだった。けれども、礼は頗る不満だった。母の唇を彩っているのは、ピンクとオレンジの間を取ったような、中途半端にも程がある色だったから。
 だからある晩、人通りが少ない時間帯にこっそりと家を抜け出した。手にはあの口紅を持って。何枚も並んだポスターにある母の唇の一つ一つに、それを塗りたくってやろうと思った。けれども三枚目当たりでやめた。確か、もっと大きなのが向こうにあったはずだ。どうせならそっちのほうがいい。礼は楽しくて楽しくて仕方がなかった。
 先程よりも何倍も大きな広告の前に足を運ぶと、力強く一気に唇に紅を重ねた。その面積は想像よりもずっと広く、あっという間に残っていた口紅の全てを消費してしまったけれども、おかげでなかなかいい仕上がりになった。ライトで照らされた彼女の顔は、塗る前よりもずっと引き締まった感じがする。
「絶対こっちの方がいいよ、母さん」
 母さん。親しみを込めたはずが、逆に空々しく響いてしまった。
 怒鳴り声がした。首を巡らせると、警察官か警備員かは定かではないが、誰かがこちらに向かって走ってくる。意外と発見が遅かったな。礼は素早く自転車に飛び乗ると、大笑いで逃げた。 ここで捕まったら祖父母が嘆くだろう。お前も所詮はあいつの子かと泣かれるだろうか。周囲からは、あの子は親に育てられてないからと陰口を叩かれるだろうか。
 愉快で愉快で、腹の底から笑いが溢れてくるようだ。自分は母のことを、無関心を気取りながら実は憎んでいたかもしれない。そんなことを思いながら、礼は自転車のペダルを漕いで夜道を進んだ。





2011/10/10
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