こころ ゆれる


 私と先生の出会いは一方的なもので、中学生のときだった。他人に勧められた先生の著作に感銘を受け、いわゆる熱狂的なファンになってしまったのだ。
 先生の書いた作品はすべて目を通し、雑誌の書評やインタビュー、先生が解説者として寄稿した文庫本、しまいには先生の作品の広告にいたるまでスクラップしてしまったほどだった。どんなに笑われようと、先生の作品が好きだからよかったのだ。
 先生の書く物語は、生と死の狭間で繰り広げられる人間ドラマが中心だった。どこかで先生の作風を死別マニュアルと評した人があったが、うまい言葉だと思う。
 登場人物を深く掘り下げ、まるで現実に存在しているかのような写実的な描きかたが実に巧みだ。それゆえに、死というどうしようもない問題で終わってしまう登場人物の末路に、いつも涙してしまった。そして、残された者の生き方を幾通りも提示しながら物語をどこまでも掘り下げて、死という事実を浮き彫りにする。
 生きる者死ぬ者全ての登場人物の心情が、呼吸や苦痛、嗚咽まではっきり感じてしまうほどに自分の胸に突き刺さるのだ。しかも、文字や展開、人物描写の全てが計算されたように理路整然としていて、流れるように頭に入るのである。
 先生の記す言葉の羅列は、そのひとつひとつが重い礫のようだった。この内容を伝えるために、この言葉を選択するのか。そう衝撃を受けずにはいられなかった。
 何度も読んだ今となっては普遍的な表現に感じられるが、最初に読んでからしばらくは、どうしてこんな単語を持ち出してくるのか理解できないほどの斬新さだったのだ。先生の作品を最初に読むと、いつもこの言葉選びに頭を強打された思いを味わった。漫画にしたら、背景には星や雷が描かれていることだろう。
 私は、先生の作品を読み込んでいくうちに、ペンをとるようになった。そして、稚拙な物語をいくつも綴って、出版社経由で先生に送ったのである。手紙には、弟子にしてくださいという不躾な要望を記して。返事が来るとかそういうこともよく考えずに、何度も懲りずに送っていた。出版社は律義にそれを先生に渡しており、先生も律義に私の文章を読んでくださった。
 そして、大学一年生のとき、八作目を送ったあたりに返事がきて、とにかく一度会うこととなった。そのことを出版社から電話で話された時は、雷に打たれたような思いだった。三日ほどまともに眠れず、講義も耳に入らなかった。
 編集者立ち会いのもと訪れた喫茶店で、私は先生と初めてお会いした。意外に若いというのが第一印象だった。あれだけ死の悲しみを描けるのだから、人生経験が豊かな四十後半か五十くらい、あるいはそれ以上だろうと踏んでいた。しかし、先に待っていた私と編集者の前に現れたのは、ほっそりとした三十半ばの男性なのであった。穏やかで静かな微笑を備えた、人の好さそうな雰囲気であった。私と一回りと少ししか違わないことに、まず驚いた。
「大坂さんと一緒に読ませて頂いたのですがね、これはなかなか面白い作品でした」
 わざわざ持ってきてくださった私の八作目の原稿を指しながら、先生はにこにことしていた。大坂さんというのは、そのときの面会をセッティングしてくれた編集さんのことだ。大柄で身なりのいい中年男性で、最初はこの人が先生だと思った。
「今の時代、なかなか弟子になりたいとか言う人は、君が思っているよりも少ないのです。私も、どこかの大先生にお世話になったとか、そういうことはありません。強いて言うならば、この大坂さんが私の先生にあたります」
 先生と同じくらい控え目な大坂さんはそれを聞いて、少し照れたように笑った。そのやり取りを見て、二人の仲の良さがうかがえた。そして、先生の言葉を受け継ぐように大阪さんは言った。
「正直、五作目まではつまらなかった。けれども、六作目から少し雰囲気が変わりましたね。何か、心境の変化はありましたか」
「心境というか、大学受験を終えて時間ができたので、毎日図書館で本にかじりついていました。小説以外に専門書や研究書も読むようになりました」
 ああ、それはいい、と先生は笑った。
「私のようにただ好き勝手に書くだけではいけません。物語に必要なのは知識です。六作目はずいぶん鉱石の本を読んだのでしょう」
 先生も大坂さんも、私の作品をずいぶん細かく読んで下さっていた。評する言葉は単純で的確、三〇分もしないうちに私の作品は丸裸にされた。それは苦痛ではなく、とても快いものだった。
 先生は、六作目から三作読んで、私と一度話そうと思ったらしい。それは、大坂さんからの受け売りらしく、大坂さんも三作読んでこの場をセッティングしようと思ってくれたとのことだ。敬愛する作家にいきなり自分の作品を送りつけるのは愚行であったが、やる価値がないわけではないものも世の中には存在するわけだ。
「お話ししたとおり、私は弟子らしいことを何一つ行いませんでしたから、何の指導もできません。なので、作家の弟子になるのでしたら、別の先生の所に行ったほうがあなたは伸びると思います。他の方の作品もたくさんお読みになっているのでしょう」
 その日、先生が言いたかったのは、そういうことだった。私は嬉しくもあり悲しくもあった。そこをどうにかなりませんか、と言いながら、私が無意識に大坂さんを見ると、先生は笑いながら手を横に振った。
「いけませんよ。大坂さんは出版社の人ですからね、私のマネージャーでも秘書でもありません。作家と出版社は、単なる取引相手でしかないのです。今回は、個人的に僕らを取り持ってくださっただけですよ」
 大坂さんは私と先生の反応を見ながら、曖昧な声を出した。では、と私は先生に向きなおった。
「もう一度はっきり言います。先生、僕をどうか弟子にしてください。先生に見ていただきたいんです」
 そう言って深々と頭を下げると、狭くなった視界の上のほうで、先生が慌てる姿が少しだけ見えた。けれども、私は可と言ってくださるまで上げるものかと決めていた。
 頭を下げたままの押し問答が続いた。何を言われても、私は首を横に振りつづけた。そのとき、先生がぽつりと言葉を落とした。
「君、失ったものはありますか」
 思わず顔を上げると、先生は静かな表情で、少しだけ唇を歪めていた。それを、私は今でも忘れることができないのである。
 結局のところ、私と先生の間柄は「創作仲間」で落ち着いた。先生が最後まで師匠という立場を拒んだからだったのだが、私は満足だった。この人と接すれば接するほど、自分の人生も深くなる気がした。
 創作仲間といっても当初の目的と全くずれてもいない。先生は私の作品を見てくれ、私は先生の作品を一番か二番くらいに見る権利を与えられたのだ。これ以上望むことはなかった。
 ときどき大坂さんも加わって、皆で批評し合った。大坂さんは大学生でもできるような簡単な仕事をいくつか紹介してくれたおかげで、アルバイトは多少のゆとりができ、その分たくさんの作品を書くことができた。先生も仕事をしながら、時々ただの思いつきで書いたような話を持ち出してきて、私と大坂さんはよく盛り上がった。
 大坂さんは絵に描いたような大人だが、静かな時と激しい時の差が激しいことを、しばらくして理解した。この人こそ、本当に本の虫だろう。
 出版社は取引相手だとか先生は言ったが、それ以上の友愛のようなものを持っていたように思える。私にとっては楽しい日々だったので、あまりビジネスで片付けたくないという気持ちがあるのだ。そういうことを言葉にすると、君らしいなあと先生は笑ってくれたかもしれない。
 先生も大坂さんもあまり否定的なことは言わず、どうしたら長所が強調できるのかを考えることに重きを置いていた。そういうところは、この二人の人柄だ。私もおこがましくも真似をしようと思ったが、やはりなかなかできないものだ。
 仕方がないのでただ自分が思ったことを素直に言うのに留めた。二人は、とりあえずそれで良しとしてくれた。そうやって過ごす日々は、燦然と輝くようであった。
 あるとき、私と先生は、とある映画の試写会に出かけた。先生が評論か何かを依頼され、私がお供のように同行させてもらったのだ。はっきり言って、退屈な内容だった。俳優陣はなかなか豪華なものの、脚本が気に入らない。どうだ、感動するだろう、と押しつけがましいお涙ちょうだい話だった。
 主役格が終盤で死に、恋人も家族も友人も号泣する。ふと隣に目をやると、女性陣はこぞって泣いていた。すすり泣く声も響く中で、自分だけ泣けないことが異常に思えて悩んでしまった。実力の高い俳優が、彼の代表作になるのではと思わせるほどの演技を見せたのに、台詞や状況がふわりと浮かせて軽いものにしてしまう。空回り――そんな単語がちらつきながら、私はクライマックスを居心地の悪い思いでただ見つめるしかなかった。
 私たちは諸々の用事を済ませ、言葉少なげに会場を後にした。都会にしては静かな夜だった。帰り道ではいろいろ語ろうと思っていたのに、何も言葉が出なかった。無言が気まずい、そう思っていたところ、先生がほころぶようにクスリと笑った。
「あれは、君の好みではないでしょう」
 うなずくと同時に、先生もそうでしょう、と尋ねると苦笑された。
「私は仕事ですから」
 先生は、件の映画を細かく分析し、語ってくれた。この人と一緒にいる限り、映画や舞台といったものは劇場でなく自宅で見るべきだと思った。うろ覚えのまま先生の講釈をきいても、ありがたみが一割ほどにしか伝わらないのだ。
 ここでも、先生は控えめに褒めた。その言いようで、先生もあまりお好きな話ではなかったのだと読めたが、あえてご本人がそれを口に出さなかったのだから追及することはできなかった。その代り、私は自分の思いを吐かずにはいられなくなった。
「死って、感動させるためのお涙ちょうだいのアイテムとして使われても、どうとも思えません。泣けるだろ、どうだ、泣けるだろ、と押しつけがましく言われているようで。僕は、先生の作品のような死なら、いくらでも泣けるんですがね。あれほど厳かに胸をえぐられるような体験はできません」
 先生は立ち止った。私はそれに一瞬気づくのが遅れてから立ち止った。振り返ると、先生は静かな微笑を浮かべていた。あ、あの時の顔だ、と私はとっさに思った。
 眼鏡の奥で、先生は何を考えていたのか。追憶するように私と足元を交互に見て、もう少し深く笑った。
「君が私のお話を好きだと言ってくれて嬉しいです。けれども、感動させるために死を用いるという点においては、私もあの脚本家も何ら変わりのないことです」
 意外な言葉に、私は面を食らった。そして、最初は先生の作品をあのくだらない脚本と比べてしまったことに気分を害したのかと思ったが、先生はそれを察知したかのように首を横に振った。
「小説は、読み物です。人に読ませる価値を持たなければなりません。読んでよかった、と思ってもらうことが創作する者の義務です。自己満足とか芸術とかそういうのは二の次なのです。そして、私は死しか人を感動させる手段を持たない」
 先生は前髪の生え際をつかむように左手を額に当てた。私は先生の様子に戸惑い、何の声も出なかった。ただ、いつもと同じように淡々と話す先生を見つめることしかできなかった。そう、一見した振る舞いは、いつもの先生だった。それなのに、その背後には大きな闇が広がって、そこの住人が一斉に私を見ているような気分にさせられたのだ。
「かつて、私は大切な人を失いました。その時以上の感動を先にも後にも体験したことがないのです。私は死以外の感動を知らない……」
「先生」
 ようやく出た言葉は何の意味ももたなかった。いつものように、先生は微かな笑い声をあげた。自嘲するような様子がとても痛々しくて、私は胸が詰まる思いだった。ふと、空気が緩み、先生はそれまでとは変わらない口調で続けた。
「感動させるために死を用いるのは、私も一緒です。ただ、君が私の作品を好いてくれるだけですよ」
 そうやってようやく先生と目が合った気がした。私はどこかほっとしたような、まだ不安を抱えているような心持だった。そういえば、先生があんなにご自分のことをお話しされたのは、その時だけだった。
「私もね、君のお話が好きですよ。前向きで希望に満ちた雰囲気がね、読んでいて楽しいのです。君の作品には光を感じます。君という人が本になったら、きっとこういう感じなのだなあといつも思います。羨ましいとさえ思います」
 いきなり、今までにないくらいの褒め言葉に、今度こそ私は完全に狼狽した。その様子を、先生はとても面白そうに見ていた。先ほどまでの緊張感が嘘のようであった。ふと、先生の言葉がよみがえった。
「物語に必要なのは知識です」
 先生が知っているのは、死の悲しみだ。それを、どこまでもどこまでも広げていくのだ。先生はいつも謙遜されたが、やはりひとつの主題をさまざまなように書くことのできるあの人の技量はすばらしい。私は、あの人にここまで書かせる死というものがどのようであったか知りたくなったが、ついに先生は語らずじまいだった。
 そんなことがあっても、やはり先生の描く死は別格であると思われた。美しさも残酷さも依然として紙の上に広がり、その波が私の心まで届いて揺さぶるのだ。けれど、それは先生の体験した死を間接的に知っただけだ。それほどまでに心をゆらす死を、私は直接知らない。
 先生がまだ四十にもならないのに病であっけなく逝ってしまったときも、私はもちろん慟哭したものの、先生ほどの死をえぐりだす能力は身につかなかった。先生自身を好きではなかったかのように、私は先生の死を激しい心の動きとして表現できなかったのである。
 あの日のあと、先生は言ってくれた。
「人生最大の感動が死ではない人は、とても幸福です」
 先生曰く、人間の最も激しい体験が創作の根底にあるのだという。私にとって最大の感動は、先生の死ではなかったことが確かなのは、私の作品が証明してくれている。それでは、何が私の作品の根底にあるというのだろう。
「ああ、大坂さん。僕にとっての感動は、先生みたいなすばらしい文豪達の作品に出会えたことなんですよ。人生を何も知らない僕にたくさんの感動を与えてくれる文学こそが、僕を動かして新しい小説を書かせるのです」
 先生の話を大坂さんとしたときに、ふとその言葉が出た。大坂さんは悲しそうに笑った。その表情は、どこかで見た先生の顔によく似ていた。




2008/11/30
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