トライアングル 「ありがとうございました」 隣で目を細めて笑う妻のフェリアを、王子ルーカスは訝しげに見つめる。 前方の祭壇で愛を誓うのは、彼の親友にして腹心の部下と、華やかな雰囲気をまとった女性。 本来なら、あの場にいるのはこのフェリアのはずだった。 「何を言う」 フェリアは夫を見て穏やかに笑った。その表情はあの花婿とどこか似ていて、ルーカスの心にさざ波を立てた。 ルーカスは第二王子として生まれ、国王夫妻や兄夫妻に甘やかされて育った。その性格は傲慢で気まぐれ、自己中心的。友人と呼べるのは、幼いころから遊び相手として召し上げられていたクレタスただ一人だけ。 クレタスは中堅貴族の嫡男で、常にルーカスに振り回されてばかりだった。控えめで真面目な彼は、それでもわがまま王子を見捨てずにいつも側にいた。ルーカスもそのうち彼に心を許し、信頼するようになった。 しかし、この二人の間に、ある日誰もが予期しなかった事件が起きた。 「アルキサス卿の息女フェリアを我が妻にする」 前触れもなく発せられた王子の言葉に、宮廷は騒然とする。 元より何度か縁談が持ち上がったものの、結婚の意志はないとルーカスは念を押すように明言していた。 しかし、重臣たちはそれを咎め、さまざまな女性を花嫁候補に推薦した。しかし、ルーカスは彼女たちの顔を見ることすらせずに拒否しつづけた。 そんななか、突然飛び出したのが、一方的なフェリアとの結婚宣言だった。 王子の花嫁について議論される際、フェリアの名が挙がったことは一度もなかった。彼女は既にクレタスとの縁談が決まっており、婚儀の準備もおおかた進んでいたからだ。 側近の婚約者を娶るなどとんでもない! 人々は慌てふためいた。 「ルーカスよ。お前には他のどんな女性でも選べるというのに、なぜ、よりにもよってフェリアなのだ」 国王ですら説得にあたったが、ルーカスの意志は変わらなかった。 「出会ったときは既に彼女はクレタスの許嫁でございました。けれども、私はどうしようもなく彼女に心を奪われてしまったのです。慎ましい性格で、慈愛に満ち、実に聡明。まさに王家に上がるのにふさわしい女性だと思いませんか、陛下?」 そう反論してからは、まったく誰の言葉にも聞く耳を持たなかった。 国王がくりかえし諭しても効果はなく、周囲は途方に暮れた。 そしてついに、クレタスとフェリア、およびそれぞれの家の者が王に召し出された。 困惑しているのは当人たちも同様だった。フェリアも、なぜ王子が自分を妻にしたいと言い出したのか、心当たりがまったくなかった。 確かにクレタスを通じて何度か対面し、言葉も交わしたが、それで王子が自分を見初めるなどと思いもしなかった。 ただ、元々クレタスとの縁も家同士が定めたものだった。家格はフェリアの家のほうが高く、彼女を嫁がせることによって、クレタス側は王子の側近として箔をつける狙いがあった。 そして、王が息子の説得をしている間に、両家でも話し合いが行われ、ひとつの結論を出していた。 「私どもといたしましては、ぜひフェリアを妃に……」 フェリアの親からすれば、嫁ぎ先が王家とは願ってもない話。クレタスの家としても、わざわざ王子を敵に回す理由はなかった。 「フェリア、お前はそれでよいと言うのか」 複雑な心境を顔に出しながら、王は彼女に問うた。 フェリアはクレタスを見た。彼の顔色は悪い。ここ数ヶ月はずっとそうだった。それまでは穏やかで優しさにあふれていたのに、最近の彼は葛藤と苦しみに満ちていた。 彼の表情を見て、フェリアの心は決まった。 「殿下の求婚をお受けいたします」 フェリアは、ちらりとクレタスの様子を伺った。そして、彼の様子に胸が痛んだ。 そのとき、ずっと黙っていたルーカスがふと目に入った彼女は、彼が自分たちを見つめていたことに気づいた――すぐに視線を逸らしてしまったけれども。 それから半年後、フェリアはルーカスと婚礼を挙げた。 クレタスは振られた形になったが、彼をあざ笑う者は少なかった。むしろ、王子に振り回されて同情する声が多かった。 それでもクレタスは二人に忠節を尽くし、以前にも増して精力的に働くようになった。 最初はフェリアも、王家の地位に目がくらんで、真面目で有能な男よりも不誠実な男を選んだと人々から蔑まれた。 ――こうなった以上、覚悟を決めるしかない。 自分を見下げる者たちの言葉は気にせず、彼女はルーカスとともに、文化の保護や慈善活動に尽力した。 「せっかく妃になったのだから、ちょっとは着飾ってもいいのに」 ルーカスがそう言っても、フェリアは式典や賓客を迎えるとき以外は質素な格好で通した。 華美なものは性に合わなかったし、最低限の品格さえ保てればよいと考えた。 「変な女」 いつもルーカスは彼女のことをそう称した。フェリアはそのたびに苦笑した。 そうこうしているうちに、次第に彼女を認める声も増え、いつしか彼女とルーカス王子の結婚は正しかったと言われるようになった。 結婚騒動から二年が過ぎていた。 二人の間に子はないが、夫妻は立派な国王の支えとして人々に受け入れられた。 クレタスから結婚の報告があったのは、ちょうどそんなときだった。相手は、とある男爵家の令嬢パルテニア。 元より親しい友人だった彼らは、ルーカスとフェリアが結婚したあとに徐々に距離を縮め、ついに婚約に至ったのだ。 「おめでとう」 フェリアの唇は震えた。 けれども、安堵が心に広がっていく。ようやく、これですべてがうまくいったことになるのだと。 「殿下、殿下はご存知だったのでしょう? 私たちがまだ婚約していたころから、既に二人が惹かれあっていたことを」 ルーカスは何も答えない。フェリアは続ける。 「私はわかっていました。ずっとあの人の側にいましたから」 フェリアがルーカスに初めて会ったのと同じころ、クレタスはパルテニアに出会った。 顔の美しさはもちろんのこと、彼女の赤毛は花や夕日に例えられるほど。 踊れば、その場にいる人間すべての視線を集めてしまうくらい華があった。 音楽の才能もめざましく、歌っても楽器を弾いても誰もが思わず聞きほれてしまう。 そして、相手を楽しませる話術に長けていた。 そんなパルテニアの泣き所は、母の身分が低かったことにある。彼女は妾腹の娘だった。 世に出さぬにはあまりに惜しいと、母と別れて父と正妻のもとで貴婦人の教育を受けた。しかし、社交界に出て、その資質の高さを遺憾なく発揮しても、彼女の出自を侮辱する人間は一定数存在した。 クレタスやフェリアは、数少ない、パルテニアの理解者だった。フェリア自身、彼女の人柄に魅了された。 どれほど嘲笑されようと、彼女は悲しみを見せない。凛として強く、堂々としている。 身分で判断する人間など、こちらも気にかける必要はないという。そして、自分に接してくれる相手への気配りだけは忘れない。 パルテニアはそういう女性だった。 そしてフェリアは察してしまった。クレタスが彼女に惹かれていることを。そして、その想いが日に日に強くなり、同時に、近づくフェリアとの結婚が重荷になっていることを。 「あの方が愛したのは、あとにも先にもパルテニアさんただ一人。けれども、自分の意志だけでは未来を変えられなかったのです」 彼はその性格ゆえに、フェリアを傷つけられなかった。 また、家の命運を担っているため、彼女との婚姻を取りやめにするわけにもいかなかった。パルテニアが、客観的に見れば結婚相手にふさわしくないと見なされる立場だったのも大きい。 かといって、パルテニアへの愛も完全に捨てきれず、彼は苦悩した。 パルテニアもまた、クレタスに恋心を抱いていた。彼は王子の側近というだけではなく、婚約者のある身。自分の想いが届く可能性はないと陰で悲嘆にくれていた。 そんな状況で、降ってわいた王子の求婚。フェリアがそれに応え、クレタスは独り身になった。 周囲の目や遠慮もあり、最初はなかなか溝が埋まらなかったものの、次第に壁もなくなり、ついにお互いの気持ちを知ることになったのだ。 「君は、クレタスのことが本当に好きだったんだろ? 悔しさや嫉妬はなかったのかい?」 ルーカスは意地悪い表情を作って尋ねる。フェリアは目を伏せた。 「そうですね。もしも、もしもパルテニアさんが……冷たい方だったら、私も我を通したかもしれません。でも、話してみたらとっても魅力的な方だったんですもの……」 「まあ、クレタスが惚れる相手だからな」 お人よしだが、悪意を持つ人間を愛する人間ではない。それはルーカスもわかっていた。 「敵わないとはっきり思いました。なにより、クレタスさまはパルテニアさんといるとき、とても素敵な顔をなさるんです」 ずっと隣にいて、誰よりも近くで彼を見てきた。だから、フェリアは彼の心を察知してしまったのだ。 悟った瞬間のことを思い出すと、声が弱くなる。フェリアは呼吸を一度入れる。 「そのとき、身を引こうと決めたのです。ですから、殿下のお話は渡りに船だったのですよ」 自分の存在が彼を傷つける。フェリアはそれが苦しかった。このまま夫婦になっても、きっと彼の愛情が手に入らないのもわかっていた。 「私はあの人を心の底よりお慕いしていました。だからこそ、他に想う人を持ち、私との結婚に葛藤するあの人を見ていて苦しかった」 その緑の瞳で、フェリアはルーカスを見つめる。 「あなたは、あの人を解放してくれたのですよ」 王子に嫁ぐと決めた瞬間、クレタスは戸惑いのなかにわずかにほっとした表情を見せた。 あの瞬間、彼を苛んでいた大きな苦悩は消え去ったのだ。 ルーカスは聞こえよがしに溜め息をつく。 「バカを言え。お前を失恋させたんだぞ、僕は」 フェリアははっきりと告げた。 「殿下。あなたもおわかりのはずです。自分の幸せよりも大事な幸せがあるのですよ」 彼女はそっと、ルーカスの手に触れた。 「あなたが愛してもいない私をわざわざ自分の妻にし、彼と彼女を結びつけたのも」 「別に。僕は愛情というものが希薄でね。別に女性なら誰でも構わなかったし」 彼は世継ぎではない。兄である王太子夫婦にも子は生まれ、無事に兄の予備としての役割は終えている。 本人としては独身のままでいいところを、側近たちから迫られ、しかたなく相手を選んだだけのこと。 ルーカスはたびたびそう口にしていた。 「たとえあなたがそう仰ろうと、三人とも不幸になりそうだったところを救ってくれたのは事実です」 「あの二人は幸せだろうねえ。でも、君は?」 フェリアは、祝福を受けているクレタスとパルテニアに視線を注ぐ。 「……私も、幸せですよ」 ルーカスは、妻と親友夫妻を見比べて、鼻で笑った。 「君は本当に変な女だな」 フェリアは唇を開きかけるが、ルーカスはそれを遮る。 「……でも、そういう変なのが僕は好きなんだよね」 彼女の指を握り、彼はいつもどおりの口調で言う。 「君のこと愛してなんかいないけれど、親友にはしてやってもいいよ」 フェリアは苦笑する。 「喜んで」 あの幸せで愛しい花婿と同じ、親友。それだけで彼女は満足だった。 清涼な風はどこかから花の香りを運ぶ。一段と美しい青空の下、華やかな婚礼衣装をまとった二人は、幸せそうに寄りそった。 2013/01/26 戻る |