HELP! 第二話 Come Again 志織はかれこれ二時間ほど悩んでいた。目の前には、学校から配布された進路希望調査票。彼女ももうすぐ高校三年生。受験勉強に本腰を入れなければならない。 これほど悩むのは、志織には既に父がなく、渡辺家の家計は母の稼ぎだけで成り立っているからだ。できれば高校卒業後はすぐに就職して働きたかったが、それは母に止められた。既に何らかの能力があるならともかく、いまの志織だったらそのまま大学に上がってほしいという。それならせめて専門学校へ行って、資格を取るなりして働くための勉強に専念したいと思っていたが、これといって就きたい職業が思いつかなかった。 母には安定した職もあって、きちんと収入を得ているから、学費の心配はしなくていいという。それでも、なるべくだったら不必要な負担は避けたかった。 志織の母は、妙なところで頑固だった。夫に先立たれても、それで娘に苦労してほしくないといい、家計の助けのためのアルバイトは認めないほどだった。小遣いくらいは自分で稼ぐと主張しても聞き入れず、結局アルバイト全面禁止令を出されてしまった。志織も浪費する性格ではないので、月々にもらう分で十分やりくり可能だったが、単純にアルバイトをしている他の子が羨ましい気持ちもあった。 「お母さんも志織も真面目だね。なんでそんなに堅いの」 友達からはそう笑われたが、母一人子一人となると、お互いしがらみや意地や相手への思いでがんじがらめになってしまうのだと志織は主張したかった。 学校の成績は問題ない。予備校なしでも受かるところは受かるだろう。問題は学費についてどうやって折り合いをつけるかだ。安いところにするか、奨学金にするか、学費免除の制度があるところにするか。 「好きな勉強をすればいいのよ。たとえそれが就職に結びつかなくても、何かの役に立つのだから」 母はそう言うけれども、志織は遊ぶための四年間はいらなかった。そんな余裕があったら、もっと他のことに使いたい。母と自分の暮らしに充てたい。 推薦入試で入れるところで、志織が心ひかれるものはなかった。将来どうしたいのか、全然決まっていない。大学に通って卒業したらどこかに就職して――その先は何ひとつ想像できなかった。もしも適当に入学して、そこで勉強になじめずに苦しんで、留年やら退学やらになってしまったらどうしようか。志織は大学生活に不安しか感じられなかった。 (お父さんが生きていたら、相談できたかな) 彼女がこんな不毛な過程をするのは何十回目になったのかも不明だ。事あるごとに、父が亡くなっていなければ、と思わずにはいられなかった。いまの時期になっても、まったく目標が定まっていない自分に腹が立った。 「あーあ、もう嫌だなあ」 方々からの大学案内や赤本が置かれている進路相談室の机で、志織は突っ伏す。どうせ自分しかいないからと、独り言も大きくなってしまう。 いきなり、ぶるぶると携帯電話が鳴った。タイミングが良くて思わず変な声が出てしまった。 赤のライトはメール受信のサインだ。志織が携帯を開くと、予想外の人間の名が目に入った。 祝みさき。いまからほんの数ヶ月前、志織が突然巻き込まれた校内の心霊現象をきっかけに出会った霊能力者。いろいろあったはずだが、まず浮かんでくるのは悲鳴とくしゃくしゃに歪めた顔だった。 結局あのあと、二人が連絡を取りあうことはなかった。みさきはみさきで忙しかったし、志織も制服の惨状や夜遅くまで学校にいたことを母親に隠すので精いっぱいだった。 志織は件の夜のことを思い返し、苦笑する。そういえば、まだまだ聞いていないことはたくさんあった。一度、飲食店かどこかで話しこんでみたいと思った。 メールの内容を読む。件名は「助けて!」だった。志織は笑顔のまま携帯電話を閉じた。もしかしなくとも、いやな予感がした。できればそのまま放っておきたい気持ちでいっぱいだったが、もういちど開いて内容を確認する。 「みさきです。お久しぶりです。最近はどうですか? 実は困っていることがあって相談に乗ってほしいので、今週の夜で空いている日があったら教えてください。できれば早いほうが嬉しいです。よろしくお願いします」 文面は高校生にしては十分丁寧で、しかも華やかな絵文字もついている。かわいらしい彼女のイメージそのままだ。しかし、志織のいやな予感はまだ続いている。困っていることとは何か。たったひとつの可能性を必死に追い払い、志織は何パターンも考えてみた。そのたびに、志織が必死に絞り出した脆弱な他案は最有力候補によって見事に押しのけられてしまうのだった。 「お久しぶりです。何に困っているの?」 そっけない、文字だけのメールを返す。数分もしないうちに、みさきからの返信が届いた。 「実は、また除霊に付き合ってくれたら嬉しいです!」 志織の肩の力が一気に抜けた。この間みたいな目に遭うのは、もうこりごりだった。できれば一生一般人でいたい。やはり霊には関わらない方が身のためだと、あの一件で志織は判断していた。 志織は何度か携帯を見つめては溜め息をつく動作を繰り返した。みさきは、貴重な存在だと思う。他に見える人と出会うことは稀だった志織にとって、自分以上の能力を持っているだけでなく何か起きても対処できる術を持っている彼女は特別な存在だった。彼女が困っているのなら助けてやりたいとも思う。けれども、あと一歩のところでその答えを出せずにいた。 逡巡していると、今度は音声着信のバイブ音が響いた。慌てて落としそうになる。画面に出た名前は、みさきだった。 「もしもし?」 恐る恐る出ると、みさきの声がした。 「もしもし、渡辺さん? 祝です。先にメール送ったんですけれど、電話しちゃいました。ごめんなさい」 たった一回しか会っていないのに、みさきの顔がすぐに浮かんだ。ただし、主に叫んでいる顔が。 「ごめん、まだ返事見てないや。で、何?」 「それがねぇ、またちょっと依頼が入ったんだけど……あああああ、怖いよおおおおおおおお」 すぐに涙声になる。それをもう既に聞きなれたと感じてしまうのはなぜなのか、志織にはわからなかった。 「え? あのあとも仕事とかなかったの?」 「あったけど、ちっちゃいやつか霊じゃないやつだったんだもん。今回はそういうのじゃないんだ」 「いや……頑張って……」 志織が力なくそう言うと、みさきはヒートアップする。 「やっぱり怖いよー。みんなついてきてくれないし、もう渡辺さんくらいしか頼れないんだよー」 「私、一回しか会ってないだけの他人なんだけど」 「冷たいこと言わないでぇ。一緒に解決したじゃーん。私、渡辺さんを心の相方だと思ってるの。お願い、来てぇええ、助けてぇええええ」 いつの間にそこまでの地位に昇格したのだか。志織には謎だった。 「お願いだよー。一緒に来てぇ。なんならバイト代出すからさ」 バイト代? そこで志織の目が輝き、すぐに自己嫌悪に陥った。お金で心を動かされてはならない。 「祝さん、お金で友情をどうにかしようなんて良くないよ? スネ夫じゃないんだから」 自分にも言い聞かせるように、志織は諭す口ぶりで答える。そう言いながらも、進学にあたって何かの足しになりそうだと考えてしまう自分が嫌だった。 「あ、そうか……。じゃあ、お友達ってことで!」 それでも志織には抵抗があった。あんな面倒な夜になるのは懲り懲りだった。 「本当に渡辺さんしかいないんだよぅー。見える仲間じゃないー。お願い、協力してぇ」 見える仲間――いい響きだ。しかし、みさきは自分とは格が違う。また足手まといにしかならないに決まっている。複雑な感情が喉に絡みついて絞めてくるような心持だった。 「私にどうしてほしいの? せいぜい走り回ることしかできないよ?」 「走り回るなんて……。この前みたいな目に遭わせちゃったのはごめんなさい。今後はね、ただ、そばにいてほしいだけなの」 みさきだったら、それを男子に言えば何人でもついてきてもらえるのではないか。その言葉を志織は飲み込んだ。 総合的にはみさきのほうが志織よりずっと優れているが、ひとつだけ志織のほうが優っているとしたら、霊を怖がらない精神だ。志織だってまったく恐ろしくないわけでもないが、これに関してはみさきがあまりにも論外の域に達していた。 (これで失敗してどうにかなっちゃったら、目覚めが悪いなあ) 自分がいなくてもどうにかなるだろうと推測したが、志織の脳裏に焼きついたみさきの姿の大半は、悲鳴をあげたり怯えた姿だった。なんとなく心配する気持ちもわいてくる。 「……今週の予定言うね」 一瞬の沈黙。 「あ、ありがとおおお! 渡辺さん大好き! 大好きだよおおお!」 電話からみさきの魂だけ現れて抱きつかれても不思議ではないくらいの喜びようだった。けれども、自分にいま巡った感情は、霊が見える仲間がほしい、バイト代、みさきは頼りなくて心配などと言ったどうしようもないものばかりで、後ろめたい志織だった。 志織は手帳を開いて予定をチェックし、翌日が母の夜勤であることを確認した。そのことを告げるとみさきは大喜びで、通話を切るまでに数え切れないほどの礼を志織に告げた。 「あ、渡辺さーん!」 ターミナル駅は賑やかで、待ち合わせしやすい場所はどこも混んでいた。それでも、みさきがすぐさま志織を見つけ、一生懸命跳ねて自分の居場所を教えるものだから、志織も難なく合流できた。 「久しぶりー。元気だった?」 「おかげさまで。傷ももうないし」 脱がないと見せられないけどと志織が付け加えて言うと、みさきは口を押さえて笑った。自分もと見せてきた指先は、時間が経っていることもあってすっかりきれいになっていた。 「絆創膏、ありがとね」 「ううん、ただ親に持たされているだけのものだし」 「へぇ、親御さん、しっかりしてるねー」 みさきは前回のようにカジュアルな女の子らしい私服で、通学用の鞄と市販のボストンバッグ、斜めがけバッグ、それから霧風を入れた袋を持っていた。 「何入ってるの?」 「あ、こっちは制服。これからロッカー入れるけど、渡辺さんの服も一緒にでいい? こっちの斜めのは除霊道具」 みさきは事前に、志織にも私服を持ってくるよう頼んでいた。待ち合わせたのは、飲み屋が建ち並ぶ繁華街の近く。あまり高校生が制服でうろつくような場所ではない。志織も事前に動きやすい格好に着替え、制服は適当にバッグに突っ込んでいた。 「貴重品は大丈夫?」 「うん、このなかに入れてあるから。これだけお願い」 みさきは領収書が出るというコインロッカーに移動し、そこで二人分の荷物を詰めた。手なれた様子に、志織は思わず尋ねた。 「いつも制服そのなかに入れてるの?」 「うん、制服でうろつくと補導されちゃうかもしれないし」 「いっそ私服校に行けば良かったのに」 みさきは苦笑いした。 「徹夜になったらそのまま学校行くから着替えは必要だし、荷物があるのは変わらないよ。だったら、万一のことを考えたら、昨日と同じでも問題ない制服校のほうがいいかなって。制服が汚れたときは慌てるけどね」 前回の事件で、夜中に帰宅した志織はセーターとブラウスを修繕する暇もなく寝てしまった。おかげで翌日は、まだ寒くないからとクローゼットに押し込んでいたブレザーを着て登校するはめになった。それを考えると、どちらにしろ大変さは大差ないような気がする。 みさきはロッカーの施錠をし、暗証番号を控えて志織に渡す。 「もしもはぐれたら、これで開けて。その場合、私の荷物は落としもの扱いでいいから。その際に領収書は受け取って私の鞄に入れといて」 「領収書って、やっぱり商売なんだね」 「まあねー」 バイトもしていない志織には、高校生で商売をしているみさきはやはり別世界の人間に思えた。だからこそ、第一印象とのギャップに戸惑う。 「さ、行こうか」 みさきに案内され、志織は夜の街に足を踏み入れた。自分も普段付き合う友人もこういう場所には馴染みがないから、ネオンや賑やかな大人たちの人波が新鮮だった。しかし、これから行く場所のことを考えると、興奮と同じくらいの不安が広がった。 「やあ、みさきさん。そちらがお友達ですか? こんなところまでよく来てくれましたね。ありがとうございます」 そう言って二人を出迎えてくれたのは、五十代半ばに見える紳士だった。相手に指定された事務所につくと応接間に通された。自宅で使っているものとは比較にならないほどの質のいいカップで茶を出され、志織は思わず固まってしまった。ソファもふかふかで、身体が沈んでしまいそうになる。みさきが姿勢を正して品よく座っているのが信じられないくらいだった。 「社長、おみえになりましたよ」 紳士が奥にむかって声をかけると、社長室の扉が開く。登場したのは、恰幅のいい男性だった。スキンヘッド頭でサングラスをかけており、派手なスーツを身にまとっていた。小指が関節ひとつほどなかったが、志織は見て見ぬふりをした。 「ずいぶん若いなあ。君も現役高校生?」 「は、はい!」 思わず立ち上がると、男たちは苦笑して座るように言う。志織は顔を真っ赤にして、椅子に腰かけた。 「彼女が昨日お話しした助手です」 「渡辺と申します」 一生懸命会釈すると、社長は笑った。 「みさきちゃんだけでもかわいいのに、こんな助手までつけちゃあ大忙しだなあ」 「まだ修行中の身ですよ。渡辺さんについては、私はとても頼りにしていますけれども」 その言葉は本当といえば本当とも言えるが、この場では口にしないでほしかった。威圧感ある男たちに囲まれても平然としていられるみさきが、志織には信じられなかった。いまの状況では、明らかに志織のほうがよほどみさきに頼ってしまいたくなる。 「自己紹介が遅れてごめんなあ。俺が横川で、そっちが立野。ここいらのビルやら土地やらで商売してるんだ」 一等地に物件を持っているということはかなり裕福なのだろう。事務所の内装も豪華だし、横川も立野もじろじろ見なくてもわかるくらいに身なりは立派だ。 「こういう場所には変なものがでることも多くてね。みさきちゃんの家にはお世話になっているんだ。爺さんが亡くなったときはどうしようかと思ってたんだけどさ。ほら、祝家も跡継ぎがいなくて大変だって聞いていたから。でも、みさきちゃんが頑張ってくれるっていうんで、ほっとしたんだよ」 「やだ、横川さん。私はまだまだですから」 「いやさ、みんな本当に喜んでいるんだよ。こういうので頼れる人がいるって、それだけでありがたいんだから」 みさきは曖昧に笑う。横川の熱心な口ぶりで、みさきが言っていたしがらみというものを窺えるような気がした。 「それで、今回は」 「ああ、そうそう。ここからちょっと離れたところにあるんだけどさ」 立野がこの近隣の地図を広げる。現在地である事務所は赤く塗られていた。 「ここの二階。最近ヘアサロンなんだけど、オープンしてから急にビル全体でラップ現象ってのが起きてさ」 老朽化した建物を新しく造りかえたのが十年ほど前。ヘアサロンの前は占いとその道具の店が入っていたが二年前に撤退し、それ以降はずっと空いていた。 「最近不景気だから、こういう場所でも店を出したがるのっていなくなっちゃったんだよ。ようやく賃料下げて入ってもらったと思ったらこれだ」 「サロンの人は」 「いま呼んでくるよ」 立野が連れてきたのは若い男性だった。飯倉と名乗ったその男は、まだ二十代後半に見える。ゆるいファッションで、渋谷や原宿あたりでうろついてそうな風貌だった。そのわりには態度が弱々しいのは、横川の存在のせいかもしれない。 「いまのサロンの様子は?」 「ひとまず、内装途中で放り出してる。こっちだって困ってるんですよ。せっかく雇った若い子は示し合わせて逃げるし、オープンの日取りも未確定なんですから」 飯倉は控え目な態度だったが、愚痴まじりの口調だった。 「心当たりは」 「特にないですけど。この歳まで幽霊自体信じてなかったくらいですから」 みさきと志織はそれぞれメモをとる。どちらかが聞き洩らしたときの保険だ。尋ねるのはもっぱらみさきの役割だが。 「横川さん、前の占いショップのときは、なにかありましたか?」 「いや、普通に業績不振で撤退。家賃安くしろってねばられたけど、こっちも商売だからさ。まあ、あのあとこんなに間空くなら下げてもよかったかもしれないね。まあ、でも、このあたりはサロンのほうがやっぱり利益出やすいし」 「うーん」 みさきはペンで顎を叩く。 「一度、現場見せてもらってもいいですか? できれば、私と渡辺さんの二人で」 飯倉は明らかに嫌そうな顔をした。しかし、横川が二つ返事で引き受けたから、反論ができないようだった。大家と店子の関係からなのか、横川自身が恐ろしいからなのかは不明だが。 立野と飯倉に案内されて、四人で件のビルへ向かった。建物自体は築十年ということもあり、新しくまだ綺麗だ。中に入っているテナントも、看板を見た限り印象がよい。 「……」 志織は思わずみさきを見つめた。みさきも複雑そうに志織を見ていた。 「あの、なんかある?」 疑わしげに飯倉が尋ねる。志織はどう返事していいのか戸惑った。あの、独特の臭いがする。別にそれはごく限られた場所で発生するものではない。霊は世のなかの至るところにいるので、微弱なものならどこだってそれを嗅ぐことはある。しかし、ここは違った。 「ちょっと、気配が強いですね。ここに立っただけでわかります……」 志織は、数ヶ月前の車輪を思い出した。あのときも同じくらい強い臭いがした。憂鬱になったが、それ以上にみさきが気になった。彼女は女子高生ということもあり、軽んじられることは多い。だからなるべく、たとえ元々馴染みのある横川たちが相手でも、しっかりとした口調を保っているのだ。ここでも平静を装っているが、さっそく声が震えている。 「とりあえず、案内するからついてきて」 飯倉は鍵をゆすりながら言うが、みさきは思わず大きな声を出してしまった。 「え?」 「え、ってなんだよ。俺の店なんだから当たり前だろ。何? なんか見られちゃまずいの? 本当はインチキしているの見られたくないとか?」 飯倉がバカにしたように笑う。 「飯倉さん、うちは祝さんの家自体にはもう何十年もお世話になっているんですよ。いんちきなんてとんでもない。みさきさんだって着実に実績を積み重ねていっているのですから」 立野が助け船を出してくれる。飯倉は納得がいかない様子で黙る。 表のエレベーターは現在二階には止まらないとのことで、階段から上がって二階通路に出る。そして、しゃれたデザインの扉を開けた。 「わ!」 みさきが立ち止まって、あとに続いた志織はその背中にぶつかってしまった。訝しみながらみさきの肩ごしに向こうを見やって、志織もわずかに驚いた。その向こうにあったのは、一人の女性のバストアップだった。それは霊でもなんでもなく、ただのポートレートだ。 「あー、びっくりした」 大げさな調子で志織が先に口を開く。ここで下手にみさきが騒ぐと厄介だろうと予想した。そんな志織を見て、立野が苦笑した。 「こういう現場は初めてですか?」 「えーっと、二回目です」 「慣れないとね。みさきさんみたいに」 それを聞いて冷や汗をかいたのは、みさきだった。横川の依頼が今回初めてではないが、いつもは人払いをして仕事をしている。みさきは志織のフォローに感謝した。 「これは?」 「ああ、これは去年コンクールで賞取ったときの。気に入ってるし、引き伸ばして飾ろうと思って。まだ仮で置いてるだけだけど」 店内は、志織が予想していたよりも広かった。小ぶりの一軒家なら、ひとつやふたつは余裕で入りそうだ。壁と床の仕上げはほとんど済んでいるが、まだシャンプー台や鏡は途中までしかできていない。壁には、同じようなポートレートがいくつも飾ってあった。 気持ち悪い。空気が濁っており、妙なものが視界にちらつく。志織は奥まで見渡して絶句した。霊が朝の通勤ラッシュのごとく押し込められていた。一斉にうつろな目で見つめられ、みさきは泣きそうになっていた。それでも依頼人の手前、絶叫しなかったところは偉いと志織は感心した。 「いますか?」 「はい。数えたくないくらい」 「あ、あの!」 みさきが挙手をした。全員の視線が彼女に集まる。 「ここ、危険です! すっごく、危険です! 立野さんと飯倉さんはなるべく離れたほうがいいと思います……」 後になるにつれて、トーンダウンしていく。志織まで気が滅入ってしまいそうになる。もっと言いかたはあるだろうに。横川と会話していたときの彼女に戻ってきてほしかった。同一人物とは思えないほどの変貌ぶりだ。 「はぁ?」 不満げな声を出したのは飯倉だった。 「俺の店なんだけど、どうして俺は立ち会えないわけ? どうせインチキだろ。そうやって大人騙して金取ってんの? まったく信用できないんだけど」 正直、志織もそう言いたくなる気持ちはよくわかるが、前回の彼女の取り乱しようを考えると逆に立ち会われたほうが信用をなくす気がした。 「飯倉さん、今回のお金を払ってるのはうちなので」 立野がなだめるが、飯倉はまだ不服そうだ。 「そもそも、面倒な物件押しつけたのはそっちでしょ? こんなところだって知ってたら、いくらなんでも借りなかったんですけど。この子にいくら渡してるの? 本当に除霊だけの謝礼?」 その態度にまっさきに怒りがわいたのは、志織だった。 「祝さんはちゃんとしてます! 大人げないこと言わないでください!」 本当は、志織はみさきの怖がりにも腹が立った。ここで一気に片をつけて、しっかりしたところを見せてほしかった。そして、霊を見ることができない彼らは、みさきが車輪を一刀両断したときのような光景を見ることもできないのだろうと考えると、唇が震えた。 「飯倉さん、こうしましょう。とりあえず、今夜は二人に任せる。それで、明日も何か起こった場合は、そのときは立ち会わせてもらいましょう。うちは彼女以外の霊能力者さんも知っていますが、こういうとき霊能者以外はあまりうろつかないほうがよいみたいです」 「でもさ」 「わかりました。そうしましょう。もしも私たちが帰ったあとも何かあるようでしたら、そのときは立ち会いをお願いいたします。今夜中にケリつけますけど」 涙目になりながら、みさきは力を振り絞って言った。その口調はとても力強く、思わず志織は呆けてしまった。飯倉はまだ納得していなかったようだが、なかば立野に抱えられるようにして階下の車へと去った。 二人の姿が完全に見えなくなり、志織がほっとしたのもつかの間、いきなり後ろから抱きつかれた――みさきだった。 「あああああ、怖いよ怖いよー。なにこれ、満員電車じゃないんだからさー。もうさ、こういうのはやめようよぅ。よくないよぅ。もう、ああああー」 いままで我慢していた分をすべて吐き出すように、みさきは愚痴りはじめた。霊があれだけいるなか無視して喋れる時点で相当彼女も肝がすわっているように感じた志織だった。 「ほら、さっさと終わらせるよ」 「うん。絶対明日も来たくない。一日で終わらせよう!」 ああ、やっぱりそういう理由か。先ほどの啖呵が急に安っぽく思えた。 密集した霊は霧風を持ったみさきが――正確には、そのみさきに抱きつかれている志織が近寄るだけで散っていった。気配が弱くなっただけで部屋にはまだいるようだ。気弱な霊たちで害はない。悪意を感じられないどころか、こちらに怯えているようで逆に気の毒になるくらいだ。 「祝さん、とりあえず皆隠れちゃったよ」 みさきは薄目で視界を確認し、ようやく両目を開いた。まだ霊の気配が完全に消えていないので怯えた様子だ。はあ、とこぼれる溜め息。 「ああ、怖かった。渡辺さん助かるわー」 明らかにそれは間違っていた。霊たちはみさきの霧風に注目するばかりで、志織やみさき自身は眼中にないようだった。 「ひとまず落ち着こう」 まだうっすらと霊の気配は残るとはいえ、これ以上怖がられてはならない。志織はみさきを部屋の中央に置いてあった椅子に座り、自分もそばにあった椅子を引き寄せて腰かけた。 なぜか落ちつかない。ぴりぴりとした空気の感触が、二人の肌を撫でる。しかも、姿を見せるようになった霊たちはまたぽつぽつと部屋の隅に溜まっていく。こちらに危害を加えるつもりはないようだが、彼らが持っている悲愴感が伝わってきて気が滅入る。 「なんか、嫌な感じだね、ここ。開いても流行らないんじゃないかな」 「渡辺さん、よく平気だね。怖くないの?」 志織は頭を掻いた。 「昔、すごいの見たんだ……」 喉からゆっくり声が上がる。当時のことを思い出すと、いつもそうなってしまう。 「そういう場合って霊そのものが怖くなるかなって思ったらそうじゃなくて、それはいまでも怖いけど、逆に他の霊が怖くなくなったっていうか。それも妙な話なんだけど、何もこっちに害がないなら、きっと私は平気なんだと思う」 できれば関わりあいにはなりたくないけれど、と志織は付け加えた。不思議なことに、いまはさらに霊への嫌悪感はない。それはみさきがいるからだ。志織は心のどこかで、いざとなったら彼女がいるという安心感を得ていた。 「とりあえず、どう感じる?」 「うーんとね、まずは占いショップが怪しいかなって思ったんだ。ああいうのは、いいものも悪いものもひきつけるから。でも……」 言いよどんだみさきの顔がひきつる。 「で……で……」 「で?」 「でたああああああああああああっ!」 振り向くと、そこには誰もいない……はずだった。鏡とポートレートしかない部屋。ポートレートに写る茶髪の女性が、やけに浮き出て見えた。それはただの写真ではない。あきらかに人の姿をしてゆっくりと出てきた。 しゃきん、と金属音が響いた。とっさに志織は、パニックになって正常な判断ができないみさきを突き飛ばした。風が吹いて髪や襟が一瞬舞い上がる。ぱらぱらと志織の首に何かが落ちて、見ると、横の髪が一房切られていた。 「またこういうの?」 車輪のときとは違い、傷がつかなかっただけよかったかもしれない。 しゃきん、しゃきん、しゃきん。女が歩くたびに金属音が鳴る。 「はさみぃ……」 床に投げ出された姿勢のまま顔を上げたみさきが呟いた。女の手には、彼女には不釣り合いに大きなカット用はさみが握られている――のではなく絡みついていた。少女二人に見せつけるように何度も刃が閉じる。 まっすぐ向かってくる。志織は思わずみさきをかばった。また風。肩に二房ほどの髪が散る。みさきは這ったまま壁際に移動し、志織も背中を見せないようにしながら慎重に足を進める。 女はそこでみさきたちに迫ってくることはなかった。ただ、はさみの音を何度も立てながら室内を徘徊する。みさき以上に怯えていたのは、他の霊たちだ。女は腕を振り回しながら霊たちを威嚇する。しかし、霊はみな逃げられず、時には彼女の刃に裂かれてしまう。 みさきは目をそむけた。志織も、霊たちの断末魔に耳をふさぎたくなった。志織は、どうして彼らが壁をすり抜けるか何かして脱出しないのか疑問だった。あの女はともかく、他の霊たちはどれもこの場所に縛られるほどの縁を感じられなかった。 一人の霊が壁をすり抜けようとするが、まるで実体があるように弾かれてしまう。 「祝さん、なんかこの部屋おかしい」 みさきは声も出せないほどだった。半泣きで、うんうんと無言で頷くだけだった。 志織はみさきの手を引いて、こっそり移動する。女の視界に入らないようにしなければ、自分たちに害はないようだ。そのかわり、切られる霊たちを見殺しにする。この密室の片隅で虐殺も同然の光景を見ないふりしなければならないのは、志織も苦痛だった。割かれた霊たちの残骸――悲しみや恐怖が部屋に溜まっていく。 志織が驚いたのは、それをことごとく女が吸収したことだ。その分、女の存在感が増す。 「な、なんか気配強くなってない?」 志織がみさきの肩を叩くと、みさきが震えながら答える。 「俗に悪霊って言われるもののなかに、そういうのいるんだ。周りの魂を栄養にして……えええーん、気持ち悪い、吐くぅうー」 みさきはよろよろと入り口近くの窓に手をかけた。そこで泣きじゃくるような表情がすっと消えた。 「祝さん?」 みさきは窓を開けることも忘れて、ある一点を凝視した。志織も彼女の視線をたどる。金属製の窓枠の一部がかすかにへこんでいる。絵が描いてあるように見えた。 とっさに志織が触ろうとすると、みさきがあわててその手を止めた。 「触らないで!」 「え?」 みさきは目を細めて、それを確かめる。 「霊たちが逃げられないのは、わかった気がする」 みさきは生唾を飲み込み、霧風を構えて向き直る。その先には女がいた。こちらを睨みつけながら向かってくる。 「まずはあの人をどうにかしなきゃ」 しゃき、しゃき、と刃が閉じる。志織はとっさにみさきの袖を握る。そこには、みさきの切られた髪が引っかかっていた。 「絶対に」 自分のものでもみさきのものでもない声に、びくりとなる。それは、あの女のものだった。 「絶対に許さない」 憎しみのこもった声色だった。じわじわと彼女の姿からにじみ出る怒りに、志織も固まる。 みさきは、女と背後を交互に見る。背後といっても、じりじりと下がっていくうちに追いつめられ、壁に迫っていた。 「あああああああああ」 みさきはまた泣きそうになっていた。霊でなくても、刃物を持った女がせまりくる構図は確かに恐ろしい。 「うええええええ、やだよ、やだよおお、来ないでよぉー」 霧風の切っ先を相手に向ける。嗚咽とはさみの音だけが室内に響く。女は急に勢いをつけてはさみを振りかざしてきた。 「ぎゃああああああああああああああっ!」 喉を痛めるのではないかと思うほど絶叫し、みさきは横によけた。志織も反対側へと飛んだ。女のはさみの切っ先はそのまま二人のすぐ後ろにあったポートレートに向かった。しかし、はさみはいくら女が突き立てても刺さらない。霧のようにすり抜けていくだけだった。 「死ね、死ね、死ね」 女の声は生々しかった。けっして触れることのできないポートレートに向かって刃を振りつづける。 「い、祝さん……」 志織がみさきを見ると、みさきはがたがたと震えていた。 「ああああん、人型にあんまり切り込みたくないよぅ……」 志織としては、前回の車輪につっこむほうがよほど勇気のいることだと思うのだが、へたに生々しい人間の姿だとよけいに尻ごみするらしい。あきらかに腰が引けていて、あるべき位置よりも二歩分は下半身が後方に下がっていた。 「でも、いま行かないと」 女の動きがぴたりと止まった。ゆっくりと彼女は首を動かし、志織と目が合う。明らかに目が据わっている。志織が後ずさりしようとしても、そこは角。逃げ場がなかった (私もあっちに行けばよかった……!) しゃきん。鼻と頬がちくりとする。細かく切られた自分の前髪が気持ち悪かったが、それに構っている余裕はなかった。 しゃきん。女が迫ってくる。女がはさみをもう一度閉じようとしたそのとき、彼女の身は真一文字に裂けた。 女は悲鳴をあげることもなく消えてしまった。代わりに、志織の視界に現れたのは、息の荒いみさきと霧風だった。 「わ、渡辺さぁん、怪我ない?」 言いながら志織の無事を確かめる手が震えていた。志織は安心してほっと肩の力が抜けた。 その瞬間。 しゃきん。消えたはずの音に、二人は固まる。 しゃきん、しゃきん。女が姿を現した、奥の写真が揺れる。みさきはすぐに駆け寄って、荷物から細い杭を取りだした。それを写真の女の両目に突き刺す。 音は止まった。追いついた志織には何がなんだかわからなかった。 「とりあえず、大きなのは片付いたよ」 みさきは力なく笑って、崩れるようにその場に座り込んだ。 「え、大丈夫?」 「また腰抜けちゃったぁ……」 志織は苦笑いして、みさきに手を差し出した。 しばらくして落ちついたみさきは、階下の駐車場で待機していた立野と飯倉を呼びに行った。そこには横川もいつの間にか加わっていて驚いたが、どうやらみさきの様子を見にきてくれたらしい。男三人を招き入れて、みさきと志織はまず彼らを窓際に誘導する。 「まずはこれですね」 「それは……?」 立野は近づいて目を細める。窓枠に施された、小さな図形。窓枠を彫り、墨を入れて表面だけ同じ色の塗料でごまかしてある。 「おそらく、これは前に入っていた占いショップの誰かがやったものでしょう。墨を動物の血で溶いた……そんな気がします」 げ、と顔を潜めたのは飯倉だった。 「これも改装したんですか?」 「ああ、窓枠は確かにそのままということになってますね」 「本当に目立たないので、みんな気づかなかったんでしょう。これが、他の窓にも、合計で四カ所ありました」 「これはなんですか?」 問われたみさきは言いにくそうに眉間にしわを寄せた。 「霊を呼び寄せて閉じこめるためのものです」 男たちは絶句した。 「推測なんですけれど、腹いせだったんじゃないかなって。この図形は外から内にどんどん取り込むもので、排出するものがないんですね。だから、ここが霊のたまり場になったんじゃないかって思います」 横川が、それこそ呪詛になりそうな言葉を吐く。立野もさすがにそんな上司を咎める気にもならなかった。 「でも、聞きかじった知識だと思いますよ。ああいう占い師さんが必ずしも呪いに精通しているとは限りませんし。これもずさんで、特にそれほど強い力も感じさせないから、弱い霊しか呼べないし」 「じゃあ、なんであんなに騒ぎになったの」 飯倉の言葉に、みさきは口を開くのをためらった。沈黙が続けば続くほど、彼は苛立ちを募らせていった。 「言えよ、別に怒らないから」 「本当ですか?」 「本当だって」 逡巡ののち、みさきは意を決した。 「ポートレートです」 飯倉は不意打ちをくらったように、目を丸くした。志織は、四枚のポートレートを見比べる。 「あの、なんというか、モデルさんたちは気が強くなかったですか?」 飯倉は目をそらして頭を掻く。志織はそれを肯定と受け取った。 「気が強いというか我が強いというか……特に、あの人」 みさきは一番奥に位置する、あの茶髪の女性の写真を指した。 「相当腹立たしい出来事があったと思うんです。こっちの写真の人に」 今度指したのは、入り口の正面にある女性の写真。そこで志織は気づいて、ぞくりとした。 「祝さん、視線が……」 みさきはこくりと頷いた。それぞれを単独で見ただけではわからなかったが、斜めに視線を逸らした構図になっている奥の女性は、そのまままっすぐに正面の女性を見つめる形になっている。その目つきが鋭く、まるで射るようだ。 「あの、飯倉さんには言いづらいのですが、あまり人間の写真って飾らないほうがいいんです。特に目には何か宿ったり、通り道になったりしますから」 「は? そうなの?」 「はい。こちらとしては、なるべくトラブル避けたいなら置いてほしくないものではあります」 みさきがいままで依頼を受けたなかにも、店や個人宅に人間を大きく写したポスターを貼ってあったがために、不要な心霊現象を引き起こした例は少なくないという。それを聞いた飯倉は長く息を吐いて天井を見つめた。 彼が言うには、正面の写真はとあるコンテストで自己最高の評価を得たものだという。その前の年のものが奥の写真だ。それまではその茶髪の女性の方にモデルを頼んでいたがどうも相性が合わず、思い切って新しいモデルに乗り換えた。そして、めでたく受賞に至ったわけだった。 「そうしたら、あっちの子が怒り狂って。それで新しい子は新しい子で挑発するようなこと言うし。もう、散々だったよ。前の子だって素材は良かったんだけどね。だからここでも飾ってるわけで」 「そうとうカチンときたんでしょうね……」 みさきに比べたら劣る志織の霊視でも、あの燃えるような怒りはなかなかお目にかかったことはなかった。 「それで、なんというか、写真にモデルさんの生き霊が憑いてしまったんだと思います。それで元々霊が溜まる部屋に来てしまったわけで、お互いが悪い方向に作用しちゃったんですね。写真の目で霊の通る道が広がってしまったのもあるんではないかと」 茶髪の女性の生き霊はただでさえ恨みを抱えていたのに加え、霊たちが詰め込まれたこの場所の影響を受けて力を増した。そこに写真の位置関係もあって、正面の女性への憎しみが高まって悪霊となってしまった。 他の霊たちは逃げられない。女は怒りにまかせてはさみを振るい、周囲の魂を切り刻む。しかし、部屋は際限なく霊を呼ぶ仕掛けが施されており、周囲の霊が次々に吸い込まれてはバラバラにされる。その残骸を女が吸収し、また力を増す。そうして悪循環となってしまっていた。それが、みさきの出した結論だった。 「申し訳ないんですけれど、写真は二つとも、できれば全部外したほうがいいと思います。一応、目は先につぶしてしまいましたけれど、取っ払って燃やしてしまうのがよいでしょう。窓のものに関しては私がもう消しますので」 みさきは、志織の高校の近くにあった碑のときも使った液体を取り出した。それを、四カ所の印にかけ、真新しい布を押しつける。そして、息を吹きかけ、祝詞をあげながら霧風に似た木の彫刻で叩く。 そして窓を開けると、夜風が室内に入ってきた。その瞬間、志織は呆然とした。一気に空気が清浄化していく。息苦しさがない。 振り返ると、あれだけいた霊がどれもいなくなっていた。まだ若干影響は残っているものの、最初にきたときと比べたら格段に状況は改善していた。 「これで、あとは写真を外すだけですね」 「それだけで大丈夫?」 あまりに地味な作業に、飯倉は拍子抜けしたようだった。志織でも、霧風を使うときだけは派手だと思うし、霊が見えずにこの変化も感じられない彼にはなおさら奇怪に見えるだろう。 「保証はします。それに、また似たようなことが起これば、すぐに飛んできますから」 「うん、これでひとまずいいかな」 黙って話を聞いていた横川が伸びをして、歩きはじめた。立野がそれに続く。まだ腑に落ちない様子の飯倉と志織が同時に動くが、飯倉はふと立ち止まって志織の髪に触れた。 「わっ!」 「なんか、変な髪になっちゃったね。明日か明後日だったら切ってあげるけど」 飯倉は、志織の髪をつまむ。さきほど切られてしまった部分だ。志織はあわてて固辞した。 「いえ、自分で切れるんで! そんなに気にしないんで」 「気にしろよ。そっちの何さんだっけ? 知り合いのところ使わせてもらえるから、明日また来てよ。一応トラブル片づけてもらったしさ、お礼くらいはするよ」 「え、いいんですか? だったら渡辺さん、また今日と同じ時間でどう?」 みさきは目を輝かせた。志織はというと、今回も自分はただの付き添いでしかなかったのに、そういうお礼に便乗していいのかわからずにいた。しかし、みさきと飯倉が勝手に話を進め、志織も翌日の予定は特になかったのでそのまま了承する形になってしまった。 横川から謝礼をもらって事務所をあとにし、二人は駅に向かった。並んで歩きながら、志織は口を開く。 「祝さんに会って、霊能者は地道な仕事なんだなって思ったよ」 みさきはきょとんとする。 「テレビとか見てると、なんか派手じゃん」 志織がそう付け加えると。みさきは意を解して笑った。 「ああ、大手はね。うちは小規模でやってるし、そもそも元々は邪道の家だからあまり表だって派手なこともしないでいっているんだ」 祝家の初代は由緒正しい家系の出で、さる有名な団体で修行を詰んでいたという。しかし、独自の除霊法を見出し、所属先に無断であちこち除霊して回っていたがために破門されてしまったとのことだ。 「だから、きちんと王道の勉強した人からすると、いろいろ変みたい。私は、おじいちゃんから教わったのをそのまま引き継いでるだけなんだけどね」 「へえ」 みさきは小さいころから素質をもち、一族待望の次世代霊能者だったこともあって、修行として祖父についてまわっていた。それで横川とも子どものころからの顔見知りだった。 「横川さんはもともとお祖父ちゃんのお客さんで、私が跡を継いでもそのまま残ってくれた人なの。伯父さんはその前に亡くなっちゃったし。それで、そのとき私はまだ中学生で、やっぱり『もうあの子には無理だろ』って思って離れていっちゃったお客さんって結構いるのね。だから、我が家にとっては恩人みたいな人で」 祖父が生きていたときと同様、横川は祝家に相談事を持ちこんでくる。それだけでみさきはありがたかった。現在は比較的小さい案件のみで、修行の場を提供してくれている形だ。いずれみさきが一人前になったら、もっと大きな仕事もまわしてくれる予定らしい。 「だから、少なくともあの人の前では、お祖父ちゃんほどじゃなくてもしっかりした人でいたいんだよね」 実際はこんなんだけど、と小さな声で付け足す。理想と現実のギャップは大きかった。 志織は素朴な疑問をぶつけた。 「たとえば、高校卒業するじゃない? そうしたら霊能者一本で稼いでくの?」 まだわからない、とみさきは首を振った。 「とりあえず大学生になって様子見かな。いまよりは確実に時間の余裕はできるし。その代わり、忙しい学科には絶対に行けないけど」 ふとみさきは目を見開いた。 「そうだ、渡辺さん! 大学か専門には行く? そのまま就職しちゃう?」 「え?」 志織は困惑した。ちょうどいまそれで悩んでいる真っ最中だ。 「まだなんとも……。親は大学に行けって言うけど、何も決まってない」 「受験勉強で忙しくなったりは?」 「未定……」 「じゃあ、また付き合ってくれない?」 志織は立ち止まった。気づかずに何歩か先に進んだみさきがふと振り返って、慌てて戻ってくる。 「え、どうした? もしかして、いや?」 「あ、ううん」 志織は、いまの自分の気持ちをどう伝えればいいのかわからなかった。幽霊と関わっても面倒だと思ってはいたが、みさきの存在はむしろ心強い。しかし、みさきはきちんと霊能者として修行して仕事も受けていて、現在の彼女は情けないことこのうえないが、それでもいつかは一人前になるのだろう。 対して、自分はただ見えるだけの素人だ。ひとりで幽霊に立ち向かっても何もできない。みさきが行動しない限り、事態は解決しない。それなのに一緒にいたら、いつか足手まといになるのではないか。 みさきは、自分が何か悪いことをしてしまったのではないかと不安そうに志織を見る。志織はおずおずと口を開いた。 「そうしたら、また今回みたいに、私はぼんやり突っ立ってるだけにならない?」 「どこが!」 みさきは目をまんまるにした。 「ぼんやりなんてとんでもない! 渡辺さんいなかったら、むしろ私、腰抜かして終わってたよ!」 みさきは志織の手をがっしりと掴む。見かけにはよらず、彼女の手は志織のそれよりも大きく、ごつごつとしている。 「私からしたら、渡辺さんってすっごくありがたい存在だよ! 今日だって、お兄ちゃんについてきてもらったとしても、きっとあの女の人避けるどころか思いきり切られるだけだったと思うし! ただ付き添うだけじゃダメなの。せめて自衛くらいできてないと」 みさき曰く、防具になるようなものを持っていたとしても、幽霊なんてかけらも見えない彼女の兄は使いどころもわからないらしい。それで幽霊に正面から衝突し、しばらく後遺症に苦しんだほどだった。 「本当さ、私はまだこんなのだから、引っ張ってくれたり声かけてくれたりする人の存在って嬉しいんだ。しかも、渡辺さんは幽霊自体が怖いわけじゃないでしょ?」 「う、うん……」 確かに、悪霊の類の霊は恐ろしいが、それは犯罪者に遭遇したときの感情と似ているだけだった。無害な霊だったらあまり恐ろしいとは思えない。それがよいのだとみさきは力説した。志織はまだ、その感覚がいまひとつ理解できなかった。 みさきの現場に二回立ち会って、自分が抱いていた霊能者のイメージの問題かもしれないとは思った。ドラマや小説に登場する霊能者は、力があって悪霊に立ち向かい、あざやかに事件を解決してみせる。なまじ自分に除霊する力はないせいか、そういう能力を持っている人間はどれも同じように怯まず恐れず華麗に悪霊退治をしてみせるという先入観があった。 それゆえに、みさきが余計に頼りなく見えた。いや、もしかしたら実際に霊能者とは頼りないのかもしれないが。みさきは、霧風など多少特殊なものを持っているが、基本的には普通の女の子だった。友人として話していれば楽しいとすら志織は感じていた。 「そうだ、これ」 みさきは封筒を取り出した。雑貨店に置いてありそうな、かわいらしいデザインだ。 「これは?」 「今回のお礼。助手って名目で引っ張り出しちゃったからさ」 同い年の、一応友人という関係の女の子から金銭をもらう。志織はその行為に躊躇した。 「だから金で釣るような真似は――」 「友達でしょ? だったら余計に無償のやりとりはよくないよ。そうしたら、私が一方的に負担かけてるだけじゃん」 確かにつきそいとやらを依頼してきたのはみさきだが、最終的にいろいろ計算してついてきたのは志織だ。 「あのさ、今度ももしついていったとして、そうしたらまたこうなる?」 みさきは真顔で頷いた。 「ついてきてくれるんだったら、毎回それ相応のお礼はする。今回は遊びじゃなくて、仕事してくれたわけだし」 あれで仕事といえるかどうか、志織にはわからなかった。肝心な部分ではみさき一人の働きになるからだ。 「とりあえず、もらっておく。じゃあさ、完全にアシスタントって立場でバイトさせてもらえない?」 志織は自分の状況を簡単に説明した。母子家庭であること、アルバイトは母がいい顔をしないこと、生活の足しに少額でも稼ぎたいこと。 「正直言うと、祝さんと出歩くだけなら、バイトに見えないからお母さんにも怪しまれない気がするんだよね。いざとなったら、祝さんと遊んでたって言えばいいから」 改めて言葉にすると、自分がとても打算的な性格でいやになる。恥ずかしくて目を見て言えなかった。それでも、みさきが無言のままでいるから、志織は顔を上げて彼女を見る。みさきの瞳はうるんでいた。 「もう、大歓迎だよ! それでいい、それでいいよー! つまり、また一緒にきてくれるってことでしょ? ありがとう、ありがとうーっ!」 みさきはいきなり抱きつく。志織は戸惑った。 「え、ええっと」 「もうね、これからすっごく、すっごく頼りにしてるっ! そうだ、もう渡辺さんのこと、しぃちゃんって呼んでいい? 私のことも、みさきでいいから!」 必要以上に感謝するみさきに、志織はこれでよかったのかとしばし困惑した。 第一話へ 第三話へ 目次に戻る |