第一章 亡霊は放たれた





「もう、先生ったら。兄さんにお酒なんて飲ませて」
 ライアの呆れた声が部屋に響いたのは、祭りの前日のことだった。私は、砦を訪ねた日から抱えていた頭痛がひどくなり、体調が思わしくなかった。おそらく酒を久しぶりにしこたま飲んだからだろうと、そのときは結論づけた。
 いつものようにライアはコリンの三割増しの課題に取り組んでおり、コリンは颯爽と終わらせてしまっていて、私の蔵書を読んでいた。私は重い体を預けるように、椅子に座らせてもらっていた。
「すまない、俺が不甲斐ないんだ。存分に怒ってくれ、俺が許す」
「コリンが三日酔いなんてしたら叩きつぶしますけれど、兄さんに怒れるはずないじゃないですか」
「おい、ライア。君は僕を何だと思っているんだ」
 コリンがパタンと本を閉じた。聞いていないような素振りでも聞いていたようだった。
「お祭りは?」
「最悪、行けないかもしれない」
「えー!」
 直情的すぎるほどの感情表現をしてくれた。
「お前らだけで行ってくれ」
 騒いでいた彼らはそこで静かに顔を見合わせ、首を傾げながら笑い、別の方向に目をやった。それは全て、寸分狂うことなく同時に行われた。
 その後はしばし沈黙が流れたが、やがてコリンが机を指先で叩いた。
「ライア、終わった?」
「ごめん、まだ」
 机にかじりついたまま視線を上げずにライアは言い、コリンは口をへの字に曲げた。
「じゃあ、僕は先に温室行ってるから」
「待って、すぐに終わるから!」
 そこでようやくライアは顔を上げたが、コリンは扉に手を掛けた。
「君は課題やってなよ。僕一人でやった方が早く終わる。分担だよ」
 それは、彼なりの優しさだった。ライアは一瞬とぼけた表情をした後、少し考えて頷き、また机にかじりついた。コリンはにっこりと笑うと、部屋を出ていった。私はどうしようか迷ったが、コリンを追いかけることにした。
「待て、コリン。俺も手伝うから。さすがにお前一人では少々きついだろう」
「今は重労働してはいけませんよ。体力ないくせに」
 少し弾んだ調子の声は、まさしく工房にいるときのコリンだった。無論、砦でも快活ではあったが、レナードと比較しなくても若干おとなしかった。あちらが 「貴族としてのコリン」だったのだろう。どちらが本当のコリンかというと、なんとなく貴族側のような気がしたが、私は工房のコリンの方が好きだった。
「体力ないとか言うな」
「それだけの力があったら、お祭り一緒に行けますよね」
 そう言われると、言葉に詰まった。しばらく私の顔をじっと見つめていたコリンは、大げさに溜め息をついた。
「お祭りのためにおとなしく寝ていてください。大丈夫、さぼったりしませんから」
 実を言うと、後輩の指導をするに寝ていてはいけないということで、若干の無理をしていた。こんな風になったのは酒のせいではなく、外の世界に交わったせ いだと私は思っていた。本当にしょうもない体質の自分を笑ったが、周囲の者にはこのおかしさは伝わらなかったらしい。口だといろいろ言っていたが、コリンもライアも本当は心配してくれたのだよ。
「でも、困ったなあ。下手するとライアと二人きりか」
「なんだ、また喧嘩でもしたのか。いつだって二人なのに」
 直前まであんなに仲が良かったのにそれはありえないとは思いつつも、私は尋ねた。案の定コリンは首の動きだけで否定し、私を力のない目で見てきた。
「複雑な事情があるんですよ、こっちは」
「ああ、そうかい。コリンは工房に来ると生意気になるな。家族とかの前の方が、お前はまともだ」
 私は何気ない口調でからかったつもりでいたのだが、ふざけて笑っていたコリンが急に真面目な顔になった。ふと、あの晩のカネル師を思い出した。
「兄さん、あの日は父が引き止めて本当にすみませんでした」
 そう謝られるのは、当日と翌日を合わせて三回目だった。私は何度も、自分の体調管理がなっていないからであり、大臣のせいではないと言っていたのだが。
「いえ、父が悪いんです。父が兄さんを引っ張り出すから……」
 そこまで言っておきながら、語尾を濁した。コリンは時々、こんな表情を見せた。家と工房に挟まれて苦労していたのだろうが、そこに私が入るのは、客観的に考えると奇妙な話であった。
「何か、見送られたときに変わったことはありませんでしたか?」
「コリン?」
 コリンは少し俯いた。その雰囲気は、間違いなく砦の中にいたときとそっくりだった。
「……あまり、父を信用しないでください。息子でも、ときどき何を考えているのかわからないときがあるので」
 私もそう言ったのでこう言うのもなんだが、ここまで信用するなといわれる大臣が少し哀れになってきた。本当に、その時まで彼が工房に何か問題を起こしたことはなかったのだ。強いて言うなら、勲章の再発注くらいだろうか。
「でも、コリン」
「僕、行きますね。兄さんは休んでいてください」
 コリンが指を私の鼻先に当てるようにすると、廊下の向こうからカネル師が音もなくやってきた。カネル師は不思議そうに私たちを見たが、コリンに向かって微笑みかけた。
「コリンだけかい。悪いけれど、ライアと一緒に、町のウェイトンのところまで行ってきてくれないか」
「はい、わかりました」
 コリンは師に丁寧に礼をし、ライアのいる次室まで戻っていった。その擦れ違いさまに彼は、「先生には今の話はしないでください」と早口で静かに言い残した。今思うと、師も含めた私の周りは秘密が多い人間ばかりだったな。しかも、師弟三人揃ってここまで言動が一致するとは。もしかしたら、彼かライアもいつか次室となって師の補佐に当たるのではないかという予感が、私によぎった。
「どうした?」
「寝ていろと言われました。今日は甘えてそうさせてもらうつもりです。明日のためにもね」
「それがいい。ゆっくり休んでいなさい。すまないが、私も少し出かける」
 どこへ、とは聞かないのが我々の暗黙の了解だった。まあ、師で言うところの「おつとめ」だな。ラーディラスの師がへたに外へ出かけると一般人が騒いで大変なことになるから、この工房内のどこかに引きこもる場所か秘密の出口を持っているという噂が弟子たちの間で流れていた。
「行ってらっしゃいませ。では、俺は表に鍵をかけてきます。コリンとライアなら、いつも裏口から出入りしているでしょうから」
 カネル師は無理するなと言ったが、私は大丈夫だと振り払った。別に大した距離ではないし、まさか師に鍵かけなんて基本的な雑用をさせるわけにもいかなかった。多少身体が重かったのだが、私はそのまま表口へ向かった。
 玄関の扉には外側から見れば真っ黒な板が嵌め込まれていたが、それは内側から見るとただの色なし硝子に変化するのだ。門の向こうでちらちらと風に揺れる草花もはっきりと見えた。それがいつもの風景だった。しかし、そこにまた黒い影があった。怪訝に思う必要はなかった。あのときの、レイフォード氏の馬車だったから。
 私は、思わず扉を開けてしまった。向こうから見れば、扉などただの飾りつきの板でしかないわけだし、鍵もかけてしまえば誰かがいることも知られなかったはずだった。なぜ自分がどうしたのかはわからなかった。警戒心がなかったわけでもなかったのだが。
 大臣は私の姿を確認すると、また丁寧に頭を下げた。ここでカネル師がいたら飛んできてどうにかなかったかもしれないが、間は悪く、もう出かけたあとのようだった。残念ながら神出鬼没の先生は危険察知能力に乏しかったようである。
 とりあえず、応接間に案内した。状況に合わせて来客の対応などできない私はライアに倣ってまた茶を出そうとしたが、それは断られた。供は外に待たせておいて、部屋のなかに私と大臣の二人きりだった。
「顔色が悪いようですが、その後はいかがですか?」
 私は、精一杯の言葉で返した。
「ええ、まだ少し疲れが残っておりますが、だいぶよくなりました」
 大臣はそんな私の目をじっと眺めてきたので、ふるまいに困った。ばれて困る嘘ではなかったが、どうも冷や冷やしてならなかった。このとき気づいたのが、 大臣が私をしげしげと眺めるから嫌な気配を感じているのだということだった。実はコリンもそういう癖があったのだが、親子の遺伝だろうか。しかし、コリンに対しては何の不快な感情もなく、不思議だった。
「そうですか。あのあと、車でお送りすることを失念していましてな、大変失礼いたしました」
 身分から言っても、私のような者が乗れる車など限られているから、別によかった。しかも、そのときは大臣やレナードたちと一緒に酒も飲んでいたし、そこまで 心配されるようなこともなかった。ここまできて、私とカネル師があの後酒を酌み交わしたことを大臣が知らないことに行きあたった。しかし、今さら言うのも体裁が悪かったので黙っていることにした。
「いいえ、とんでもない。あんなたいそうなところをお訪ねして緊張しただけです。私のような者が入る機会などめったにございませんから」
「何を仰いますか」
 大臣は口の両端を上げる。そんな印象を抱いたのは、口だけで笑っているからだ。目の奥には何か重要な思案を巡らせていて、私との雑談はそれに没頭しないための手段のように思えた。
「本日はどのようなご用件でしょうか。あいにく、師は外出しておりまして、ご子息も工房の用事で町に下りていますが」
「ああ、さようですか。では、次室殿に頼みたい」
 私の言葉に間髪入れず、大臣は言った。
「今から、イザヴェルにおいでいただけませんか」
 イザヴェルというのは、軍やその関係者が言う、エアトンの砦の正式名称だ。我々一般人はただの砦で意味が通じるが、中枢の人間にとっては複数ある砦の一つだからそう呼んだ。
 私は戸惑った。助けを出してくれる人間なんて誰もいない状況で、不得意な人間と向き合わなければならず、しかも思ってもない申し出という状況に適切な対応をする能力は持っていなかった。
「どのようなご用件でそのようなことを仰るのか、お尋ねしても?」
「誰もいないということですが、ここでは憚られます。それに、実際にご覧になるほうがよいかと思います」
 何を見るだと? 私が問うよりも先に、大臣は畳みかけるようにして続けた。
「次室殿にどうしてもしていただきたいことがあるのです」
「いえ、私は……」
「ローハイン師に深く関わる、重要なことです」
 言葉が詰まった。カネル師のことなら、師に直接相談すればいい。それなのに、なぜこの人はここまで必死に私を誘い出そうとするのか、理解できなかった。けれども、私はその内容が気になり、つい尋ねてしまった。
「どういうことですか?」
「知りたいのでしたら、ぜひお越しください」
 そこで流せなかった自分は馬鹿だと思う。しかし、師のこととなると簡単にかわせはしなかった。結局、彼に気圧され、私は頷いてしまった。たいして面識もなかったくせに、その方法を大臣は心得ていたようだった。そこまで言うなら用件をもう少し知って、それから考えよう。そんな浅い考えで、私は彼とともに、あれだけ不愉快だった砦へと向かったのである。
 大臣といるだけで、砦での扱いは格段に変化した。すぐに建物の中へ入れたし、すれ違う者が皆、レイフォード氏だけでなく私にも頭を下げるのだ。次室といっても工房内でもあまり偉い立場にはいなかったのだよ、私は。だからそういった扱いには不慣れでね、戸惑ったものさ。別に私が偉いわけじゃなかったのだがね。
 彼が迷わず私を通したのは、あの廊下の交わる地点だ。そして、その前は私が行かなかった突き当たりへと歩いていった。扉の前に衛兵が二人いて我々に礼をし、中に入るとまた兵が二人いた。その奥には地下への階段がひたすら伸びており、まるで地獄まで続いているように思えた。
 階段は幅が思ったよりも広いのだが、灯りもほとんどなく、レイフォード氏が手に持つ小さな灯りだけを頼りに二人で進まなければならなかった。どこまでも深く暗い階段を、この人と二人きりで下りなくてはならない恐怖があったが、それでも私は足を止めることができなかった。それは彼の言うことが気になったこともあり、私自身の怖いもの見たさに似た好奇心がうずいたのかもしれない。
 一段降りるたびに寒気がした。それは、あの晩、次室で感じたものと同じものだった。そこに来てわかったのが、その正体が嫌な魔力の気配であることだ。 けれども不思議に思ったのは、カネル師である。こんな力、カネル師ほどの人だったら気づかないはずないのに、師は私の看病以外はただ他愛のない話をしただけだった。気づかなかったのか、それとも気づいていないふりをしたのか。なぜ、と私が一人ごちると、先を歩いていた大臣が振り向いた。
「恐れ入りますが、もう少々お付き合いください。少し明るくいたします」
 大臣は手に持っていた灯りを一度こちらに向け、火を強くした。その瞬間、初めて壁の異様さを認識した。ひたすら墨で模様が書かれていた。私もよく知っていた封印の文様だった。確かにこれだけやれば効果はあるが、それでも本来は小さなものに用いるものであるはずのその文様がこの壁にある事実に驚いた。異常なほど執拗に、全面にわたって書かれていることにも。それは、まるで呪いのようだった。
 階段を下りる時間は、非常に長く感じた。レイフォード氏は全くしゃべらないし、壁の模様も何か悲惨なことが起きたときの痕跡のようで不気味だった。足は重かったが、ここまで来て引き返すわけにはいかず、私は自分を責めながら大臣の後を追いかけた。
 ようやく終着点までたどり着いたときには、すっかり汗をかいていた。体調が思わしくないなかそこまでやってくるとは、自分はいったい何に動かされているのだろう。水分不足の頭で考えても、わかる答えではなかった。
 やがて我々は、重厚な扉の前にたどりついた。そこにもびっしりと、上から続く壁の文様が書かれていて、不気味とさえ思った。また、扉の表面には蔓の文様が刻まれており、私たちが作った勲章を思い起こさせるものだった。
 レイフォード氏は厳重に鎖が巻かれたところに取りつけられた鍵を開け、扉を押した。冷気のようなものが漂っていて、身がいっそう震えた。促されて中に入ると、灯りがやけに眩しく思えた。
 室内の壁には、模様がより多く書きこまれていた。それはまるで茨か何かのようだった。奥半分が鉄格子で仕切られていて、隅の寝台には、鎖で体のあちこちを縛められた誰かが伏していた。老人と最初は思ったが、すぐにそれがくすんだ銀髪であることに気づいた。
「……ラーディラス?」
「さようでございます。少し事情がありまして、ここで匿っております」
 そこに至るまでの道のりを見るに、匿っているとは到底思えなかった。あれはむしろ、「閉じこめている」というのである。そこに来てわかったのは、最初に依頼された魔法使いはあまり優秀な者ではないということだ。おそらく、宮廷や都の魔法使いにやらせたのだろう。あまりにお粗末すぎて、封印の意味があまりなかった。
 レイフォード氏を見ると、そんな私の思考に感づいたのかにっこりと笑った。そのときはなぜか、普通の笑みだった。
「次室殿へのご用件はこれからお話いたしますので、まずは彼についてご紹介させてください」
 エヴァム、と彼は男に呼びかけた。男は薄く眼を開き、うつろな視線をこちらに向けると、眩しそうに腕で顔を覆った。そこには、他よりも鎖を何重にも巻かれた、きらめく腕輪があった。その刹那、私の体は雷に打たれたかのようになった。
 まあ、待て、落ちつけ。ああ、そうだ。私は、初めて見たときからそれに惹かれた。多少離れていても鎖の隙間からはっきりと見える、中央に収められた真っ赤な宝石に心を奪われてしまった。千年生きた今でさえ、どんな夕日も花も血も、この宝石よりも美しいものは見たことがない。そのまま地獄の川に引きずりこまれて溺れてしまいそうなほど、私を魅了した。私はただ黙って息をのんで、呆然と赤い石を眺めた。いつまでもそうしていたいと思った。
 エヴァムと呼ばれた男は、ぼんやりした表情から、急ににやついた顔つきになった。
「ふうん、結構なのを持って来たじゃないか。それが命の値段ってわけだ」
 彼が口を開いた瞬間、今までにないくらいの魔力が私を圧迫した。吐きそうで吐けないような苦しい状態であった。目に見えない闇が、彼を包んでいると感じられた。
 レイフォード氏は小さく悪態をついた。おそらく、息子にも見せない姿だろう。眉間に深く皺を寄せ、エヴァムを睨みつけていた。そんな彼を、起き上がったエヴァムは面白そうに眺めるのであった。
「本当のことだろう?」
「エヴァム!」
 部屋全体を震わせるような声で、大臣は怒鳴った。すると、先ほどと同様エヴァムはおとなしくなり、力なく笑った。その瞬間、威圧的で邪悪な魔力の気配も緩んだ。
「次室殿、お加減はいかがですか」
「何とか……」
 もう畏まってはいられず、嫌々顔を上げると、エヴァムと目が合った。
「エヴァム、彼はローハイン師の現在の一番弟子にあたる者で、守護魔法に長けている」
 ほんのわずかな舌打ちがあった。エヴァムは唇をかみしめる。
「カネルのなんて、どうしてそんなやつ連れてくる」
「悪いが、他に知らぬ。彼と相談してくれ」
 エヴァムは複雑そうに私と大臣を交互に見て、溜め息をついた。それを了承と受け取ったであろう大臣は、そこでようやく私とまともに向き合ってくれた。
「あの勲章の出来を見込んで、次室殿に頼みがございます。どうか、この者をここへ封じる手だてを考えていただけませんでしょうか」
 何を言われたのか一瞬わからなかった。私はただ、あの赤い宝石を見つめていた。その視線に気づいたエヴァムはそれを隠してしまったが。
 とにかく状況を確認したかったのだが、自分一人では限界があった。何をたくらんでいるのかわからない大臣、師を知っているらしいラーディラスの男、そして美しい腕輪は奇妙な取り合わせだった。
「もう少し、事情をお聞かせ願いませんか?」
「……どこから話したらいいのか、見当もつきません」
 レイフォード氏は悲しそうに笑った。その表情は、とても人間味のあるもので、微かにコリンの面影があった。
「とある縁で、私は彼の処置を任されました。この男は、ローハイン師との深い因果がございます。しかし、あるときはローハイン師を連れて来いと騒ぎ、あるときは師に自分の存在を知らせるな、と私に訴えるのです。そして、とりあえずは後者のまま、現状維持している状態です」
「しかし、これだけの魔力、師にはすぐに気づかれてしまうでしょうに」
「ラーディラスはお互いを感じることができない」
 エヴァムはそう呟くと、腕輪に巻いた鎖を引いてさらにきつく縛り、糸が切れたように横になった。奇妙な光景に戸惑ってレイフォード氏を見たが、彼は静かに首を横に振るだけだった。
「そういうわけで、ローハイン師が知ることはないでしょうが、いつまでそれが続くでしょうか。そこで、彼の要望の一つとして、自分を永遠に閉じこめる牢屋を設けました。しかし、我々では少々荷が重すぎました。宮廷魔法使いを呼び寄せて作業にあたらせましたが、彼らも高度な封印技術は持ち合わせてはいなかった。この国は、カネル師のおかげで魔法が盛んだと思われていますが、実のところ不毛地帯ですからね」
 これに関して、アールヴの魔法使いの名誉にかけて言うが、彼の思い違いだ。アールヴ宮廷や貴族に仕えていた工房士に問題があったのだ。彼らは他のアールヴ魔法使いとは違い、頑張らなくても高い報酬で生活していける、向上心もないやつらだった。
 言っておくが、そういうやつらは宮廷だろうが在野だろうがどこに行っても駄目だ。よその国の宮廷魔法使いで有能なのもいたし、在野の工房士でもまったく能力に恵まれない者もあった。また、魔法が発達した地域に下手な者がいたかと思うと、未開の地に飛びぬけて稀な才能を持つ者もいた。ひとくくりに、どこの魔法使いが、という言い方は間違っている。
 私は嫌そうな顔をしてやったが、レイフォード氏は気にしていない様子だった。
「となると、マティアスを頼るべきですが、かの国と妙な縁は作りたくないのです。秘密をもらさない、国内の人間かそれに近い人間のほうが、私にとっては都合がいい」
「それで、私ですか」
 にんまりと彼は頷いた。結局肝心な部分は聞けなかったが、自分の連れてこられた理由を聞けただけ、当時の私には十分だった。いや、本当はもっと突っ込むべきだったが、最初から話す気が見られない人間から聞き出すのは難しいものだよ。
「エヴァムに出会う前から、コリンから工房のことはよく聞いておりました。ローハイン師のことも、ライアさんのことも、あなたのことも。あの子には悪いが、利用できるものは何でも利用させてもらう」
「なぜ……」
 私は乾いた声で言った。喉がひりついていて、うまく声が出せなかった。その部屋に入ってから、悪かった体調がさらにひどくなり、頭痛が治まらなかった。
「なぜ、あなたはそれを話す。私を利用したいなら、あなたなら、もっとうまく私を言葉巧みに動かすことができるのではないか」
「意味のないことをするつもりはございません。どうです、力を貸しては頂けませんか。あなたなら、この重大さをご理解下さると信じております」
 その場で決められるほど、私は上手な生き方ができなかった。信用できない相手からの頼みなど、その場で切り捨てられてしまえばよかったのに、私はできなかった。ただひたすら立ち尽くすばかりで、考えても何も結論が出せないまま時だけが過ぎていくようだった。
 ふと、エヴァムの視線を感じたような気がした。しかし、そちらに目をやると、エヴァムはやはり腕で顔を覆ったまま横になっていた。その宝石を、私にちらつかせるように。
 吸い込まれてしまいそうな赤。どこまでも深い赤。全てを打ち消すような赤。私は、ただそれだけしか見えなかった。そして、自分でも思いがけずに言葉が出たのである。
「申し訳ございません。考える時間を頂戴したいと思います」
 どうして拒まなかったのか、あとで悔やんだ。しかし、時はすでに遅く、私はただ自分を責めるばかりだった。自分だけならよかったのだが、多くの犠牲を払ってしまったからな。
「ええ、いいでしょう。コリンの話通りの方なら、きっとそう仰ると予想しておりました。しかし、時間はない。いつ、こやつが考えを変えて我々を脅かすのかはわからないのです。明日、またおいで下さい」
 もしも翌日行ったら、そのときは手助けをすると契約を交わすのと同じことだった。私はそれには答えられず、その場しのぎの守護魔法を補強してその場を去った。
 カネル師やコリンたちに砦へ来たことを知られたくなかったので、帰りの馬車を断り、そのまま歩いて帰ることにした。人混みなど数年ぶりの経験だったのに、私の頭はあの地下牢と宝石のことでいっぱいで、何の感慨も感傷も、考えることすらなく、ふらふらと工房への道を歩いた。
「兄さん、どこへ行っていたんですか!」
 工房に帰ると、ライアとコリンが顔を真っ赤にして次室にいた。
「帰ってきたら先生も兄さんもいないから、心配しました」
「悪い。先生は外出で、俺は……」
 不満そうに口をとがらせるコリンの頭を軽く叩くと、別れ際の大臣との会話が浮かんだ。
「この件は、工房へどうぞご内密に。ご理解いただけるとは思いますが」
「よいのですか? 師に打ち明けるかもしれませんよ」
「それはない、と私は確信しております」
 レイフォード氏は私を見据えて微笑んだ。
 くそ、どいつもこいつも秘密なり何なり抱えて、と思ったのに、気づいたら自分が一番いろいろな秘密を抱え込んでしまっていた。自分に腹が立って仕方がなかったが、断ることも話すこともしなかった私の責任ではあった。
 私は結局、その日、カネル師にもコリンにも何も話さなかったのだ。好奇心もあったが、どんな形であれ、自分が認められて必要とされることが嬉しかったというのがある。砦を初めて訪れたあの晩、私は自分が小さくて情けなくてたまらなかった。せめて誰かの役に立ってから死にたいとさえ思った。その機会がその瞬間に巡ってきたように感じられたのだ。
 そして、もうひとつ、単純だが何よりも大きな理由に、あの宝石にまた会いたいと願ってしまったということがある。拒めば永久にあの輝きに再会することはできないだろう。もっと近くで見つめたい、手に取って触れたい。まるで恋でもしたかのように、私はあの石に心を占められてしまったのだ。いや、あの感情はもう、恋い焦がれていたと言ってもよいだろう。
「兄さん?」
「どうしたんですか。具合でも?」
「いや、ちょっと疲れただけだ。俺も個人的な用事ができて外へ行かざるを得なくてね。けれど、やっぱり工房が一番だ」
 二人は、安堵と呆れが混じったような表情で私を見た。
「悪いが、少しここで寝る。ライア、先ほどの続きを。コリン、温室を頼む。どっちか終わったら起こしてくれ」
 私は返事も聞かずに、長椅子に横たわった。興奮して寝られないと思ったが、エヴァムに出会って以来、体が重くて仕方がなく、意外なほど深い眠りへ落ちていった。意識の浅瀬で、ライアとコリンが怪訝そうな声色で会話していたのがわかった。
 その日、カネル師は帰ってこなかった。私は正直、ほっとした。もしも会ってしまったら、隠し事をできる自信がなかったから。もしも帰っていたら? そうだなあ、きっと私はここにいなかったろうな。


 そして翌朝、私は赤い夢をみた。あの深い赤色が海となって、私の眼前に広がった。潮騒が耳をくすぐり、私を水平線の彼方へと誘うように囁いた。
 足を波が撫でるものだからつい触れてみたくなり、かがんで指を伸ばした。しかし、波は引いてしまい、届かない。私は何度も波を捕まえようとするのだが、どういうわけかその手前で波は引いてしまう。たまらず波の先端を追いかけたが、今度は足すらも届かない。
 もどかしさはあったものの、諦めた私は背を向けた。その瞬間、視界は暗くなった。振り向くと、赤い津波が私を飲み込もうとしたのである。
「逃げられない」
 誰かがそう言っているような気がした。
 そこで私は目を覚ました。次室ではなく、宿舎の自室であった。頬が濡れているので触ると、私は泣いていた。何やらこみあげてくるものがあって、しばらくそのまま出るままに任せた。恐怖はなく、むしろ愛おしい感情が私の中にあった。それが、私の運命を決定づけた。
 窓の外は、ガラスさえも突き破ってきそうな陽気で満ちていた。ああ、今年も祭りが始まるのだ。私はぼんやりそう思いながら、身支度をした。例年のような憂鬱な気分はなかった。
「兄さん、やっぱり行けないんですね」
 いろいろ言いたいことはあったが、とりあえずそれだけは口にしたいというような様子で、ライアは言った。コリンも同感なのが顔に書いてあった。本当にわかりやすい子たちなのだから、つい笑ってしまいそうになった。そういう状況ではなかったのだが。
「二人で楽しんできてくれ」
 ライアとコリンは、二人同時にお互いを見つめ合って、何とも言えない表情を浮かべた。しかし、すぐに笑って頷いてくれた。私に土産を買ってくると言いながら、二人は仲良く並んで丘を下っていった。私は手を振りながら、カネル師が帰ってこないことを祈るばかりだった。
 コリンとライアから遅れること数刻ほどで、私も出発した。丘の下には、そろそろ見慣れてきた車があった。私はそこに座っている人物を見上げた。
「閣下、乗せてくださいますか」
「ご協力いただき、嬉しい限りです」
 大臣は、優しそうな顔をして迎え入れてくれた。このとき、我々は契約を結んだことになる。とても短く、悲惨な契約を。
 その日のエアトンは活気に充ち溢れていた。特に、街中を縦横無尽に走る六本の大通の賑わいが目立っていた。ライアは町の楽団に交じって何かをするという話だったから、まさにあの中に入っていたのだろう。お坊ちゃん育ちのコリンには少々きついかもしれない。
 我々は、比較的人通りの少ない道を通った。エアトンには高級宿街もあり、貴族たちは彼らなりの楽しみ方で満喫するために祭りへやってくる。その地域を通れば表よりは目立たずにすんだ。
 砦に到着し、私たちはまたあの階段を下りた。大臣の灯りだけを頼りに進むのだ。私も火をつける術なら身につけていたが、エヴァムという存在をまだよく理解 していなかったため、魔法を使うことはあえて避けた。二人の足音は、思いのほか響き、地獄までの道のりを演出しているかのようだった。
「できれば、今後も彼の監視役もしていただきたいのです。私一人では荷が重すぎます。ラーディラスは長命だ。後継者も探さなければなりません。あなたも私も」
 静かな口調で語りながら、大臣は先に下っていった。そして、少し間をおいて、こちらを振り向かずに言った。
「昨日は自信たっぷりに申しましたが、実は、あなたが来るかは五分五分だと思っておりました」
影に溶けこみそうな後姿を見ながら、私は口を開いた。口内が渇いていた。
「意外ですね、閣下なら私のことなど全てお見通しであると思っておりました」
「だいたいが推測ですよ。あなたのことなど、コリンの手紙からの推測で成り立っているようなものです」
 いちいち意味深なことを言う人だった。そのころになると、私は彼に何か深く尋ねることを諦めてしまっていた。どうせはぐらかされるのはわかりきったことだったのだから。
「では、よほど人間観察に優れているのでしょうね」
「そう見えますか」
 振り向いた大臣の目はどこか冷たく、また嫌な予感がうずまいた。しかし、なんとなくこの人は私自身もわからない私が見えるのではないかという気分にさせられた。もしかしたら、それが妙な気分を引き起こさせたのかもしれない。私は長い間、誰かと接触するのを避けていたから。それだけでは納得できない部分もあったが、それは単に私の勘のようなものだったのだろう。近づいてはいけない、と。
 けれども、愚かな私は、赤い宝石ともう一度会いたいがために彼と接触したようなものである。また、今さらになって誰かのために何かできると些細な喜びを感じることも理由の一つだった。それらの思いは、カネル師たちを裏切っているという罪悪感に勝った。自己嫌悪に浸りながら、私は石のもとへとむかった。
 扉は、私が厳重に封印したままだったが、材料や道具が足りなかったためにまだまだ不十分であった。幾重にも施した鍵をひとつ開けるごとに、私の胸に高揚感があった。そして、扉を開けた瞬間、逸る気持を必死で押さえている自分が馬鹿らしくて、私は笑ってしまった。
 エヴァムは相変わらず、力なく伏していた。彼の姿をとらえると、私はすぐに腕輪を探した。前日と同じように、彼の腕ごと鎖で縛められていた。これもたいした準備なしでは効果はなく、その日改めて施術する予定であった。鎖に文様を刻みこむという作業で、ライアがいれば楽だったが、あの子にこんなことを依頼できるはずもなかった。
 新しい鎖を用意してもらい、金属に処置を施したあとに削る作業に入り、すべて用意してからエヴァムにつけているものと交換することになった。まだ若干、 前の者が行った封印魔法に余裕が残っていたからだった。ただし、私も鉄格子の中に入り、何かあったときにすぐに対応できるようにしなければならなかった。
 それまでエヴァムにかけられていた鎖は、処置としては正しかったものの、削りが粗末すぎた。こういうものは鍛錬だ。私もライアに教えるまでは人並みだったので、あまり他人を責められたものではないが。あのライアに教えるのに、私が下手だとどうしようもなかったのだよ。あの子は、見本のわずかな失敗もをそっくりそのまま複写してしまうような子だったからな。
 ああ、こういう作業は他の場所でもできる。しかし、それをレイフォード氏は許さなかった。私は、最初から最後までの過程をすべて、その地下牢内で行わなければならなかった。緊張したが、日頃努力はしておくもので、何とかある程度の水準を保つことができた。ライアに感謝しながら、私は手を進めた。
 三本目の鎖を削り終わったとき、それまで口を一度もきかなかったエヴァムが、初めて言葉を発した。
「カネルは今どうしている」
 突然のことだったので、私は驚いた。くすんだ銀髪の間から、鋭い金色の瞳がしっかりと私を捉えていた。
「……お元気ですよ。弟子たちをからかったりして過ごされています」
「あいつが弟子ねぇ。大丈夫なのか?」
 ふと笑った彼の声の調子と表情がいきなり変わり、私は巻きつけている途中だった鎖を落としてしまった。幸い彫刻が損なわれることはなかったが、その瞬間、強烈な悪意のような魔力が噴出したのである。私は体が締めつけられるような感覚を抱いた。
「エヴァム、気を緩めるな」
 前日と同じように、恫喝するような厳しい声が飛んだ。鉄格子ごしに、大臣がきつい眼差しでこちらを見つめていた。私の方が竦みあがるほどだった。そしてエヴァムを見ると、また無表情の彼の姿に戻っており、私を押さえつけるような魔力も消えた。そして彼は、すまない、と小さく私に謝った。
 その作業をどれくらい行ったころだろうか、階段を少し慌てて下りる音がした。そして、扉が鳴った。
「閣下。陛下がお呼びです」
「今はここから動けない。あとで参ると伝えてくれ」
「それが……」
 そこから先は、こちらまでよく聞こえなかった。扉ごしに会話をしていた大臣は、仕方なしとばかりに少し扉を開け、何やら話していた。そして、苦々しい表情でこちらに近寄って来た。
「申し訳ないが、しばらく席を外さなければなりません」
「かしこまりました。この調子でいけば、さほど時間はかかりません。どうぞお行きください」
「……お気をつけください。やつは、隙あらばあなたを殺すことだって容易い。会話は控えたほうがよろしいでしょう」
 私はゆっくりと頷き、レイフォード氏は不本意そうにその場をあとにした。背中で、彼が階段を上がる音を聞きながら、私は冷静に作業を行うことに努めた。
 本当は、エヴァムに聞きたいことがたくさんあった。カネル師との関係やラーディラスのこと、腕輪はいったいどういうもので何のために存在しており、どうして彼の手にあるのか。しかし、尋ねる勇気はなかった。またあの強い魔力につぶされそうになるのが恐ろしかった。
 そうして、大臣が帰ってくる前に全ての鎖の彫刻が終わった。繊細で壊れやすいように見えるが、半永久的に縛めの効果を果たすものだった。私は一本ずつ交換することにした。まさか、前の鎖を全部取ってからつけるわけにはいかないからな。ただ、複雑に絡まっているので、少し苦労した。けれども、こういうものにはきちんとした巻き方があり、正しくやれば一本ずつの交換も可能なのだ。下手すると少し腕の肉が削られることもあるけれども。
 エヴァムは何の感情もない目で、私の手の先を見つめていた。私は彼の腕を持ち上げ、一本目の鎖に触れた。腕輪の封印が最優先だと、大臣に言われていた。鎖がずれた瞬間、宝石がいっそう輝きを増すように、隠れていた部分を覗かせた。思わず私は息をのんだ。
「気になるかい」
 空気が重くなった。顔を上げると、またあの表情と口調のエヴァムがいた。私は、目をそらした。
「いや」
「そういうふるまいをするものではないよ。それでは肯定と同じだ」
 私は首を横に振った。そのとき、弾みで手が腕輪に触れた。温かい。私はびくりと腕輪を凝視した。美しさは変わらなかったが、ほのかに光を放っていた。それは、その日の朝に見た夢の、赤い海の色にとてもよく似ていた。腕輪の本体はというと、今まで見たことのないくらい高度な封印魔法が細工として施されており、ところどころに封じるために巻いてあっただろう布の切れ端が引っ掛かっていた。ずいぶん古い形式の魔法だった。
「お前の心も狂わせてやろうか」
 いつかのように、視界が揺れる。鎖が高い音を奏でた。私の手は震えていた。こんなやつの言葉に耳を貸してはいけない。私は必死に自分を律しようとしていた。しかし、あの魅力的な赤が私の視界に入り、私の心を揺さぶるのだった。
「お前はいい力を持っているね。あいにく、僕にはそんなものはなくてね……欲しいな」
 その声の鈍さに動揺して、私の手から鎖が外れた。慌てて拾おうとしたが、エヴァムに蹴られて鉄格子の向こうへとやられた。
「なかなかだね。そうか、こういう状況に使えるのか。思わぬ拾い物だ」
 まるで少年のような声の調子で、エヴァムは立ち上がった。そして、緩んだ鎖から見える宝石を見せびらかすように、私に手を差し出した。ひどい頭痛がした。まるで砂嵐のなかにいるかのように、私の目の前の光景が乱れた。
「さあ、僕の呪いを解いてくれ。僕は、こんな小賢しい細工で縛られるような存在ではないんだ」
 石はなお、妖しく光った。私の手は、自分の意志とは関係なく上がった。下ろそうとしても、私ではない私がそれを許さなかった。まるで劇場を観覧しているように、私は自分の腕が鎖の一本一本を外すのを黙って見ていることしかできなかった。
 そして、全ての鎖が外れた。直後、目が焼けるような強い光が空間全体を包み、私の背に猛烈な痛みが走った。視界は暗くなり、その向こうでエヴァムの笑い声が遠ざかるのが聞こえた。





2009/02/06


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