第一章 亡霊は放たれた





 胸がつぶれたかと思った。苦しくて何度も咳きこむが、あるのは更なる痛みだけだった。砂ぼこりにむせて咳をすると、よりいっそうそれは深まるのだった。
 頭上が騒がしかった。ぼんやりとした頭で、エヴァムが上へ向かったことを思い出したが、なかなか立ち上がることができなかった。
 逃がした、解き放ってしまった、何てことをしてしまったのだろう。
私は、自分が何を犯してしまったのか考えるのが恐ろしかった。いや、そのときはまだ、事の重大さを目の当たりにしていなかった。けれども、あの瞬間にもう、自分の罪が私の心に入り込んできて、ざわめいて仕方がなかった。自分が何を犯したのか、その時点で予感があったと 言ってもよい。
 今度は階段を盛大に駆け降りる音がした。エヴァムが帰ってくるわけではないことは、聞きながら理解していた。強い力で扉を開けたのは、レイフォード氏だった。
「何があった!」
 彼は倒れている私を見て、一瞬驚いていた。口を開こうにも、鉄の味が口いっぱいにあってうまく喋れなかった。大臣は私を乱暴に起こしながら、もう一度尋ねた。
「何があった? 答えてくれ」
 答えたかったが、うまく言葉にできなかった。ただうめき声が漏れるだけで、口から顎にかけて滴が伝わる感触が気持ち悪かった。力が入らず首が傾いた。 そこで、私は初めて自分が血だらけになっていることを理解した。煉瓦の粉と混じり合って、ひどく醜い赤だった。そうすると、あの美しい宝石を思い出したのである。私はよろよろと立ちあがった。
「ま……お待ちください。その身体でどこへ行こうというのです」
「エヴァムのもとへ……。申し訳ございません、私の責任」
 喀血しながら答えると、よろけた身体を大臣が支えてくれた。
「あれの? 死にたいのですか」
「いいのです」
 あの赤にもう一度会えるのなら、生きたまま裂かれようと焼かれようと構わない。私はそんな心持で、階上を一段一段上っていった。悲鳴はだんだんと大きくなり、意識は少しずつ私を現実から遠ざけた。本当に、どこにそんな力が残っていたのだろうな。全身の骨が砕け散ったような痛みを引きずりながら、私は地上 へ出た。
 軍人たちの靴の音が会場から聞こえてきた。地下への階段を隠すように設けられた、廊下と接する扉は見事に破壊されていた。そして、窓にも大きな穴が空い ていて、その向こうに植えてあった草木は燃やしつくされていた。もう、これ以上ないと言わんばかりの荒れようだった。
 誰かが私を呼び、振り返るとレナードが血相を変えて駆け寄ってきた。
「その怪我は、まさかあの奇妙な髪の男ですか? 魔法使いが砦や町を破壊してまわっているって大騒ぎで」
私はなんとか頷いてみせた。
「ああ……馬を借りられないだろうか」
 レナードは、コリンやライアによく似た驚愕の表情を作ってみせた。
「は、正気ですか? その身体で馬に乗らないですよね? 医療士のもとへご案内します。さあ、僕に捕まって」
「いや、いい。乗る手立てはある」
 私はちょうど近くにいた馬に手をかざしてかがませ、無理やりその背に乗った。そして、手綱と鞍に血と爪で文様を描き、私はレナードを振り切って進んだ。
 揺られるたび、激痛が走った。特に胸のあたりが痛かったので、肋骨が折れていたのかもしれない。鐙にかけた足にも力は入らず、下手をすると振り落とされそうだったが、必死に食らいついた。血の文様でかけた魔法のおかげで、手綱や鞍から離されることはなかった。知識とは財産だな。たとえ朦朧としても、身体と心のどちらかが覚えていれば何とかなるものだ。
 きっと、レナードは呆然としていただろう。しかし、構う余裕はなかった。あれを探さねばならなかったのだから。
 街は想像以上に混乱していた。ばらまかれた魔力は、腐敗臭が鼻に入ったかのような吐き気を私に与えた。屋根が吹き飛んだ家に、えぐられた石畳、恐怖で逃げまとう者に、何が起きたのか理解できずに立ち尽くす者。
たった短時間のうちに、町は一変していた。美しく賑やかなエアトンは消えてしまった。それらがエヴァムの手によるものだと思うと、私は重い罪の意識に押しつぶされそうになった。
 取り返しのつかないことをしてしまった。外を出たら世界を傷つける、まさにずっと思っていたことが現実となったのだ。そのまま落馬してしまいそうなほど、がたがたと震えが止まらなかった。頭の芯が強く締めつけられ、胸に大きな槍が刺さったような気分だった。
 せめて、自分で始末をつけなければ。エヴァムはどこだ。目に入った血を拭いながら、私は魔力の濃い場所を目指した。魔力は目に見えなくても感じることはできるのだ。そしてそれは、私が唯一慣れ親しんだ丘へと続いていた。
 私は焦る気持ちを抑えられず、馬をつぶす勢いで急いだ。丘を上る道の途中で、うずくまる人影を見つけた。ライアだった。一度馬を止めて声をかけると、 ライアはこちらを振り向き、慄いた。その腕の中には、私と同じくらい血まみれのコリンがいた。私は目を見開いて、二人を凝視した。
「兄さん、その怪我……」
「何があった?」
 ライアは涙をこぼして、嗚咽をもらすばかりだった。私はもう一度、強い声の調子で尋ねた。苛立った口調に、ライアは本気で怯えたような様子だった。かたかたとしばらく震え、それが少し治まってようやく、消えそうな声が返ってきた。
「いきなり男の人が来て、私、何が起こったのか全然わからなかった。急に光って。コリンは私をかばったんです。そうしたら……」
 二人の周りには、祭りで買ってきたのであろう様々なものが散乱していた。もしも何事もなければ、きっと楽しい話が聞けただろう。
「兄さん」
 虫の羽音のような小さな声で、コリンは私を呼んだ。その声の痛々しさに胸が痛んで仕方がなく、泣きそうな気分になった。
「その傷、あの人……。父のせいですか?」
「……すまない。閣下ではなく俺のせいなんだ」
「父に会ったんですね……」
 彼の眼は虚ろだった。私は、罪滅ぼしにもならなかったが、馬をやっとのことで降りて彼の傷口に手を当てて応急処置の治癒魔法を使った。しかし、もう可能性がだいぶ失われていることをひしひしと感じた。傷が多すぎて、どこから治せばいいのかわからなかった。とにかく、目立つ箇所だけをふさぐので精一杯だった。私も傷の程度でいったら、少しましな状態なだけだったからな、残された魔力はそれほどなかった。自分の無力さがどうしようもなく私を苛んだ。
「あれに近寄ってはいけません、兄さん、砦へ一緒に、レナードに」
「もう、しゃべるな。ライア、コリンを連れて行ってくれ」
「兄さんは? 兄さんだってひどい怪我じゃない!」
 そのころになると、完全に痛みは麻痺していた。ただひとつ、胸だけは相変わらず、つぶれるような痛みが残っていたくらいだろうか。魔法を使ったことで、思ったよりも意識が覚醒した気になっていた。それは、あの宝石のもとへとたどり着くための、最後の力だったかもしれない。
 丘の向こうでエヴァムの笑い声がした。私は二人に謝り、馬を置いて駈け出そうとしたが、ライアに引き止められた。
「……行かせられないわ」
「そんなことを言う暇があったら、コリンを連れて砦に行け。……こいつを死なせないでくれ」
 ライアはびくりと目を見開いた。おそらく、彼女にとって一番傷つける言葉を選択してしまったのだろうが、その時の私にそんなことを考える余裕はなかった。
「俺も後で行くから」
 私はそのまま丘へと向かった。ライアが追いかけてくることはなかった。
 エヴァムに近づけば近づくほど、まるで体力や傷が回復するように力が増した。吐き気がするほどの魔力もその分増しているのに。丘を上りきると、夕日を背にしたエヴァムと対峙しているカネル師の姿があった。
「お客様だね、カネル」
 エヴァムの言葉に振り向いたカネル師は、私の姿に目を見開いた。そうだな、いきなり弟子が血だらけで現れたら、驚くよな。残念ながら、まったく笑いごとにはならなかったのだが。
「来るんじゃない!」
「残念ながら、彼が僕を解き放ってくれた。ああ、いいね。血はどこまでも人を狂わせる力がある」
 エヴァムは、邪悪さと無邪気さを併せ持ったような笑顔を浮かべた。カネル師は、私に何か言おうと口を開いて、結局黙ってしまった。
「あの男は想像以上に働いてくれた。忠義に厚いというのはいいことだ。時に、非常に残酷になれる」
「いつから、どこまでお前が関わった?」
 師は、いつもとは程遠い、恐ろしいほど低い声を出してエヴァムを睨んだ。エヴァムは、楽しいことこのうえないというように笑うだけだった。
「とっても幸運だったんだ。全てが僕に味方している。ただ復讐をしたいって言ったら、彼は喜んで手伝ってくれたよ。さすがは」
「そんなことを聞きたいんじゃない!」
「まあまあ、いいじゃないか。君が大切にしているそこの彼も同罪だ。何の因果かねえ。僕に惹かれたというのも、巡り合わせとしか思えないよ。まるで、まだ主神が生きているようだ」
 師は、自分を恥じて項垂れている私に近寄った。掴まれた肩の感触を、私は今でもまだ覚えている。傷口に食い込んだ痛みは、私の罪と比べたらとてつもなく軽い罰だった。カネル師は、そのまま何も言わなかった。
「二人まとめてやってしまいたいところだが、この身体は意外と不便だね。お前を殺すことはできない。いや、出来るかな。なんていったって、お前はできそこないのラーディラスだから」
 カネル師は血が頭に上ったような様子で、エヴァムに向かって腕を振った。すると、刃のような風が何千もの束になり、一気にエヴァムに襲いかかったのだ。煙が舞い、エヴァムの姿は一瞬かき消されたが、その刹那、逆に風が吹いて礫が我々に向かって飛んできた。
 粉塵が落ち着くと、ただ土埃を少しかぶっただけのエヴァムが微笑んでいた。
「腐ってもラーディラスか。よかったじゃないか、証明されて。身の置き場が決まったんじゃないか?」
「何を」
「でも、残念だよ、カネル。お前が今の僕を殺せないように、今の僕は君を殺せない。では」
 エヴァムが視線をこちらにやると、背筋がぞくりとした。湿った衣服が急に冷えたようだった。殺される――直感でそう思ったが動けなかった。さっきまで怪我などなかったようにふるまえた足はがくりと膝から落ちた。手をつこうとしたがそれもできず、私は見事なまでに無様に地に伏した。カネル師が私の名前を呼んだが、起き上がれなかった。
 カネル師が私の名前を呼びながら抱きかかえた。エヴァムの近づく足音が聞こえた。師は彼を睨む。
「中途半端なお前に何ができるんだい? 昔の約束を守ることも反故にすることもできずに、こんなところで似合わない生活をして。工房ごっこは楽しかったか?」
「ヴィーエ、敗者のお前がなぜこの世界に未だに執着するんだ」
 師がその言葉を吐き捨てるかのごとく言った瞬間、エヴァムのなかの何かがふと切れたように、彼は激高した。
「敗者? 僕が? 何を言っているんだい。エヴァムでさえ乗っ取ることができる僕が敗者? 冗談じゃない! このラーディラス崩れが!」
 二人が何を言っているのかは、このときの私に理解できるはずはなかった。そう、今のお前のようにな。ただ、圧迫されるような魔力がまた私を取り巻いて、全身に絡みつくような痛みに襲われたのだ。
 激高したエヴァムは、腕輪を掲げてカネル師に向けた。その刹那、師は吹き飛ばされて、少し離れたところにある工房の壁に激突し動かなくなった。
「先生!」
 エヴァムは、瞬時に私のもとへやってきて、頭を掴んで地面に押しやった。口の中に砂が侵入する。忘れたはずの痛みが全身に広がり、声さえ出せなかった。カネル師が叫んだ声も聞こえてはいたがまったく理解できなかった。
 ぎりぎりと締めつけられるのは、恐ろしいほどの苦しみがあった。
「君も苦しむともっと力が出せるんではないかい? 僕にそれを捧げてくれ」
 エヴァムは腕を天へ伸ばした。そこに嵌っていた腕輪は斜陽の光に反射して、この世のものとは思えないほどの美しさを誇っていた。地下であれに触れたとき、私はどう思っただろうか。思い出せない。もっと近くへ。私は這いずりながら、手を伸ばそうとした。
「俺を殺してくれ」
 その声がどこから発せられたものか、最初はわからなかった。
「この場ではお前しかいない。やってくれ」
 それは頭上から、まさに私を苦しめている張本人だった。わけもわからず混乱していると力が緩んだ。私はエヴァムの腕を遠慮なく渾身の力で払って必死に抜け出し、ふらつきながらも改めて対峙した。
「くそ、小賢しい。いや、やってくれ。何を言う」
 次々と口調を変えるエヴァムをよそに、私は不思議な気分だった。彼の「やれ」という言葉を聞いた途端、まるで靄が全て晴れたような気分で、それまで感じていた痛みも、麻痺ではなく回復したかのように取り除かれた。
 私は腕を上げた。同時に、エヴァムもひどく歪んだ形相で、こちらにむかって腕輪をつきつけるような姿勢をとった。エヴァムの白い肌が、赤銅色に輝いていた。空の赤、太陽の赤、そして腕輪の赤――とても美しかった。
 私は笑い、一番の魔法を使った。エヴァムも何か魔法を使ったのがわかった。そこから先は、記憶になかった。視界の端に、ぼろぼろの身体をひきずりながらこちらへ走ってくるあの人の姿を見たのが最後だった。


 それからどうしたかって? 私は、夢をみたんだ。またあの赤い夢だった。今度は波に揺られていて、赤い海の真ん中で浮かんでいた。どこかで懐かしいような歌が聞こえた。私は、今になってもその歌をどこで耳にしたか思い出せない。
 しばらく、海を仰向けで漂って、赤い空を見ていた。すると、どこからか人影が降ってきた。何にもない空から、ゆっくりとな。顔は逆光で見えなかったが、幼いころから慣れ親しんだ気配があったので、カネル師かと思った。
「つかまえた」
 その人物は私を抱き、そのまま海へ沈めた。私はちっとも苦しくはなかったが、無性に悲しくなって涙を流した。それは、海の赤と交じってすぐに溶けてなくなってしまった。
 そこで夢はおしまいだった。気がつくと、私はカネル師の部屋にいたのである。ひどく憔悴したライアが師や他の弟子と何か話していて、私には気づいていないようだった。そして、弟子側の人間はすべて退出し、残ったのは私と師だけであった。師は、ほうと溜め息をついた。
「先生?」
 カネル師は驚いた様子で振り返った。あの大魔法使いが包帯やら何やらで痛々しい姿は貴重だったかもしれない。当時は、その姿を見ることがとても辛かった。
「やはり、君は出てきたか」
 何のことかさっぱりわからなかった。とにかく、私はその前に起きた出来事を思い出し、尋ねた。
「エヴァムは? どうなったんです?」
 カネル師は何度か私を見て目をそらすことを繰り返し、いくどかためらってから私を窓の前に移動させた。この時点で私には違和感があった。師の腕は私よりもさらに細い。それなのに、子どもならともかく大人の私をやすやすと片手で持ち上げるなんて信じられなかった。
 師は窓辺に立ち、杖で窓を叩いた。ちなみに、その時は夕闇が去って、かすかに青が空に残っている状態だった。窓は鏡となり、ぼんやりと映っていた室内の様子がよく見えた。私は言葉を失った。
「君は、腕輪の一部となったのだよ」
 そこにあったのは、あの腕輪だった。
「これは、夢ですか……?」
 私の擦れた声の問いに、眉を細めた師は目を細めながら否定した。
「いいや、現実だ。嫌になるくらいね。……すまない、私が言うことではなかった」
 そこに、おちゃらけた様子はなかった。重い口調で、私は思わず二の句を次げなかった。そのままどれくらい沈黙していただろうか。私は意外なほど早く、自分の変容を自然に受け入れていた。それどころか、なんだか少しほっとした気分だった。
 悲しいことに、私は自分が人間でなくなったこと自体はそれほど苦ではなかったのだ。これで、もう誰も傷つけない――そんな馬鹿なことを思ったのである。それを過ちと知ることもなく。
「俺は死んだ、ということですか?」
「ああ、肉体はもう葬った。裏の崖にね」
 私は驚いた。てっきり、それほど時間が経っていないと思っていたのだ。いろいろ聞きたいことはあったが、まず出たのは、何といってもエヴァムのことだった。
「先生。エヴァムのこと、俺には尋ねる権利ありますか?」
 カネル師はまた何度か逡巡し、深く息を吐いた。
「私の昔話は覚えているかい?」
「散々、先輩たちに聞かされましたから。あれでしょう、魔王を滅ぼして世界を救ったとか」
 カネル師は自嘲するような様子だった。
「魔王ね。正確には少し違う。私たちは神を封印したんだよ」
 魔王も魔王であれだが、神とはまた突拍子もない。私は絶句した。カネル師は、私の様子を窺いながら、口をゆがめるように笑った。
「信じられないだろう? 私自身もそうなんだが、事実だ。その神というのがヴィーエ。エヴァムの体を乗っ取って今回の騒ぎを起こした張本人さ」
「なんですって?」
「あれは、かつての世界の覇者だったが、どうしようもないやつでね。世界を新しく、自分の思いどおりにいくように作り直そうとした。我々は、この世界を失いたくはなかった。いや、私とエヴァムはそれほどでもなかったかな。いや、やっぱりエヴァムもそうだったかも。とにかく、それを阻止してヴィーエを封印したのが、私たちの伝説。もう、エヴァムと私以外はみな死んでしまったけれど」
 その時点から数百年前の話だ。さすがに、ラーディラスでないとそんなに長い年月を生きられないだろう。
「ヴィーエは神々の中で最も力が強くてね、封印するのにも手間取った。そして、封印してもそれが永久に続くかどうかは定かではなかった。だから、私とエヴァムが見張り役になったんだ。しかし、エヴァムは腕輪を持って姿を消した。ディラン……一世のほうだな、に私を宮廷魔法使いとして迎えることを言い残し て。私は懸命に探したが、ラーディラスの気配は見つけられなかった。それから今まで、世界中を渡り歩きながら探していたんだよ」
 先生が時折ふらりと出掛けるのは、そういうわけだったのか。私は初めて合点がいった。
「まさか、こんなに近くにいるとはね」
 カネル師は声をあげて笑ったが、その姿は痛々しかった。どう声をかけていいのかもわからず、私は遠慮がちに尋ねた。
「大臣とはお会いになりましたか?」
「ああ……コリンを引き取りにきたからね」
「コリンはどうなったんですか?」
 こんな危険なところ、もういいだろう。帰ってきなさい。大臣がそう言ったであろうことを予想した。しかし、師の反応は切れが悪く、しばらくして残酷な答えが返ってきた。
「……死んだよ」
「え?」
「死んだんだ。君たちの数日後にね」
 死んだ? コリンが? 私は頭が真っ白になり、そして、最後に見た彼の姿を思い出した。ライアをかばって全身に傷を負った彼は、助からなかったのだ。それは間違いなく、私が元凶だった。私がヴィーエを解き放たなければ、きっとあの晩はいい時間が過ごせただろう。ライアとコリンの応酬を聞きながら、土産ものを手に取ったり食べたりして――。私は後悔した。しかし、もう取り返しがつかなかった。
「俺が殺したようなものですね……」
「殺したのはヴィーエだよ。しかし、君が彼の誘惑に抗えなかったのもある。たとえどんなにヴィーエの言葉の魔力が強くてもね。そして、そんなヴィーエが近くにいることも気づけなかった私の責任でもある。コリンは、気の毒だった」
 このとき、カネル師はコリンのために私を怒るべきだった。けれどもそれをしないところが余計に辛かった。その代わり、私のせいではないとも絶対言わなかったが。コリンは私のせいで死んだというのは変わらない事実である。千年経った今でも、そう思う。
 私は、ラーディラスはお互いを感じられないということを思い出した。
「ヴィーエはラーディラスですか?」
 カネル師は首を横に振った。きれいな銀髪が重く揺れた。
「ヴィーエは虎視眈々と私たちを狙っていたようだ。そのために、エヴァムを利用した。腕輪を通してエヴァムの内側に入りこみ、少しずつ支配していく。そうすれば、ヴィーエの魔力なんてほとんど私にはわからないからな」
「今、ヴィーエは?」
「エヴァムの肉体は、君によって破壊された。腕輪ごとね。エヴァムはヴィーエを全力で抑えこもうとして、ヴィーエの魂と融合した。ヴィーエはその一瞬の隙を突いて君の魂を取り込んだ。そして後に残ったのは、どこへどう転ぶかわからない赤石だけだ」
 あの素晴らしいほどの赤が、私の心によぎった。
「三者の魂が融合して赤石に宿った。この石はヴィーエの本性だからね。そして、君が出てきたということは、どうやらヴィーエとエヴァムが拮抗して、お互いを打ち消し合っているらしい」
 その理屈が、私にはよくわからなかった。まあ、私の側からわかりやすく言えば、三者とも表に出てくる可能性は持っているが、エヴァムがヴィーエを押さえつけているから、手が空いている私が出てこられるというわけだ。二人? ……今でも私のなかにいるよ。
「俺は、これからどうすればいいのでしょうか」
「……ヴィーエは、おとなしくなったからといってそのままにしていい相手ではない」
 カネル師は、少しためらいながら言った。つまりは、完全に滅ぼすしかない。それは、私やエヴァムの消滅も意味していた。この石を完全に破壊しなければ ヴィーエはまた世に解き放たれるかもしれず、石を壊したら私とエヴァムの魂をこの世に留めておくことができない。……そんな顔をするな、お前のための話なんだから。
「だが一つ問題がある。誰が破壊するかだ」
「それは、先生では駄目なのですか」
 師は微かに笑った。
「すまない、とっくにやっていた。しかし、そのなかにエヴァムがいるとなると」
 それは、かつての仲間を殺すことに抵抗があるということではなく、ラーディラス同士の問題だった。石には三つの意識が宿っている。特に、エヴァムと ヴィーエは本当にくっついているような状況なのだという。ただし、それでも魂の原型は残っているがな。掟とかそういうものでは全くなく、本当にラーディラスはラーディラスを殺せないのだ。言っておくが、でなかったら私などとっくにこの世から消えている。
 表に出てくるのは私だが、腕輪としての力は全体の一割程度しか持っていない。後の九割はヴィーエとエヴァムがほぼ同等に分け合っている。たとえ私が表に出ているからといって、私が強いとは限らないのだよ。
「壊せる人なんているのでしょうか」
「探すしかないな」
 どうやって? それは途方もないことのように思えた。
「基準は一つある。腕輪は媒介である肉体を失った。この場合、体を蝕まれていたエヴァムだな。実を言うと、君は腕輪の魔力を通して喋っている。神である腕輪の魔力を感知できない者には聞こえない。これはいくらか高度な素質がいる。つまりは、君の声を聞くことのできる者ということが第一条件だ」
 魔力が強ければその分感知できる者も多いというのは、半分間違いではない。人間同士の場合はな、伝達力が高いんだ。しかし、これに神の力が加わると、話は違う。神の力を感知できる人間はそうとう限られてくる。わかりやすく言えば、魔法の才に恵まれた者だ。せめてそれくらいのことができる人間でないと、腕輪を壊すことなんてできっこない。
 こら、慄くな。声が聞こえるからと言って、壊すことができるとも限らないんだ。あくまでも私と会話ができるのが一つの基準になっているだけだ。とにかく、腕輪を破壊するだけのでかい魔力が必要なんだ。
 それ以外にも、魔法を使う能力に長けていることが必要になる。違いがわかるか? 素質だけ持っている人間が野に隠れていることもある。しかし、素質と扱 う能力はまったく違うんだ。魔力を制御できないでいたずらにぶんぶん振り回す阿呆もいるが、こういうやつには私たちを消滅させることはできない。でかい魔力は制御が大変で、たとえ元の魔力が大きくても、それを扱う才能に恵まれてなければ何の役にも立たない。魔力だけを過信すると、痛い目をみる。
 神を消滅させるほどの魔力とそれを確実に制御できる能力が、とりあえず必要なものだった。あとはおいおい話していくとするか。
「君には、何もしてやれなかったね」
 カネル師はすっかり別人のように気落ちしていた。まあ、無理もないか。私は、エヴァムと師の間に何があったのか知らなかった。だから、二人がお互いをどのような存在だと思っていたのかもわからなかった。ただ、師にとってエヴァムは大切な存在だったろうということはぼんやりと理解できた。もしも二人が再会した瞬間にあの丘にいれば、何かわかったかもしれない。
「そんなこと言わないでください。先生らしくない。それに、先生は俺を弟子にしてくれました。俺の人生ではそれだけで十分お釣りが返ってきます」
 ありがとう、とカネル師はか細い声で言った。私はそんな師は見たくなかったが、状況が状況なだけに仕方がなかった。
「ただ、コリンだけは残念です」
 もしも彼が私の代わりに取り込まれていたら。そんなことも考えたが、きっと彼はそれを拒んだだろう。
「大臣は」
「公には、王家に反感を抱いていた身元不明の希法士が起こした事件とされている。一度捕えられたものの、警備の隙をついて脱走し、人でごった返したなか暴挙に及んだ。レイフォードがそうお触れを出した。そして、我々で始末したことになっているらしいよ」
 他人事のようにカネル師は言った。合っているような合っていないような、不可思議な話になってしまった。ともかく、世間から見たら、師に武勇伝が一つ増えたことになったのであろう。
「あれは自らの行いが不利になるような措置はとらなかった。言いたいことはたくさんあるけれど、息子を亡くしたばかりの今は何も問えないな」
 私は、大臣の誘いを受けてしまった愚かな自分を後悔した。結局私たちは何も得られなかったし、私は何も聞けなかった。これでよかったはずはなかった。しかし、後悔しても私が人間に戻れるはずも、死んだ人間が生き返るはずもなかった。
「俺、これからどうすればいいんでしょうか」
 カネル師は困った顔でこちらを見た。
「待つか、探すか。残念ながら、今のところ心当たりはない。人間が存在し続ける限り、時間だけは無駄にある。何年、何十年、何百年もかかってでも、君たちを消滅させることのできる者を見つけるしかない」
「探す?」
「ああ、世界を何周してでもね」
 途方もないことだった。私はエアトンの片隅、ローハインの工房に閉じこもっていた。世界はその中で完結させてしまっていた。その何千倍も広い世界全体から、いるかいないかもわからぬ人物を探さねばならないなんて、海中に落とした小石を見つけるようなものだった。
「待つかい」
「考えてもいいですか」
 私の答えに、カネル師は意外そうな顔をした。私も自分が意外だった。きっと、今までの自分ならひたすら待っただろう。それに、いざ行動を起こしたら、取り返しのつかない大惨事を巻き起こした自分だ。それでもその答えが出なかったのはなぜか、今でもよくわからない。
「わかった。もう夜も深くなってきた。私も寝よう。君は、どうする?」
「そうですね、隣の部屋に運んで下さいますか」
 了解、と師はどこか颯爽と私を隣の部屋まで連れて行ってくれた。ああ、もう自分の足では動くこともできないのだな、と私はぼんやり思った。
「腕輪になるって変な感じですね」
「正確には、君たちは赤石だよ。腕輪は、封印のためのものだ。文様が刻まれていただろう」
 あのときの私はあまり覚えていなかった。この赤い石しか頭になかったのだから。そう言われてみればとても美しい彫刻があったことを思い出す。ちなみに、今のとは微妙に違うぞ。
「あれはエヴァムが作ったものでね。私は昔から、魔法では彼に勝てなかったんだ。いま君が嵌っている腕輪は、残念ながら私の作だ」
「こういうのはライアが得意でしょうが、あいつは」
「……今はそんな状況じゃないね、彼女は。三日間ほとんど寝ないでコリンを必死で看ていたんだが、亡くなってしまったからね。かなり参っている」
 私はあの憔悴した様子の彼女の姿を思い出し、心が痛んだ。あの子にも気の毒なことをした。私が黙りこくっていると、カネル師は、私の机に私を乗せた。視点がいつもと違って、とても落ちつかなかった。
「じゃあ、おやすみ……次室」
 わざわざそう言うと、師は部屋を出て行った。私は一人取り残された。寝れはしなかった。どうやら、この姿になると睡眠は必要ないらしい。いや、辛くもない。そういうものなんだ。
 その晩はずっと起きて考えていたが、一向にまとまらなかった。朝が来て、カネル師が迎えにやってきたが、私は何も言わなかった。師もそれを察知したのか、特に何も聞かずにいてくれた。私は、ひとまず自分の墓が見たいと頼んだ。
 私の墓は、ローハイン工房のはずれに位置する。まあ、めったに誰も来ないような場所だな。私の部屋とは違って、海が見渡せるようなところに、私は葬られたのだ。もっとも、遺体がどのような状況だったのかは詳しく知らされていないが、思うに、ほとんど残らなかったのではないかな。
「いい景色ですね、ありがとうございます」
 簡素な墓だったが、誰が持ってきてくれたのか、花が飾られていた。私は自分の死後は適当にしか考えなかったが、こうして誰かに葬ってもらえるほどの人生だったのか考えると、心が静かになった。そこまでしてもらう価値など、私にはありはしなかったのだから。
 海は見晴らしがよく、とても美しかったが、反対側の街や山はひどい有様だった。よほどエヴァム……ではなくヴィーエが荒らしたんだろう。街は穴ぼこだらけだったし、平原は爪痕のようにえぐれていたし、最も近くにある山は無残にも頂が削り取られていた。私は、自分の立場も考えずに怒りがこみ上げた。
 数年ぶりに外へ出たあの日、私は世界を美しいと思った。私は世界に対して畏怖と愛情を抱いていたのだ。それが、こんな有様になってしまうのはひどく悲しかった。ああ、世界はあんなにも美しかったのに。私が見ていた景色がすべて失われてしまった。
 海は静かに波音を立てていた。その先はシェスカにつながっていたのかな。遠くから船がやってきていた。その背にはおそらく、より大きな世界が構えていたのだろう。
 遠くに、微かな島影が見えた。うっすらとした灰色の姿に、私は心ひかれた。今まで、工房から見える海にそれほどの感動は覚えなかったのに、なぜかそのときはとても切なくなった。自分の墓ごしに見える海が、なんだか輝いて見えたのである。
 そして、私の口から自然と言葉が出た。
「先生、探してもいいですか?」
「え?」
 いきなりのことに、師も驚きを隠せていなかった。
「俺たちを消滅させてくれる人間を探したいです」
「いいのかい」
 私は、はい、と言った。もう自分が頷くこともできないことに気づいた。人間のときのように歩くことも何もできない。それでも――。
「すみません、正直に申し上げると、死ぬ前に世界をもっと見ておきたいんです」
 窓から見える風景が私のすべてだった。しかし、世界はそれだけではないのだ。あの美しい景色が破壊されたのを見て、私は、それまでの世界のすべてまでもが壊されたような気がした。同時に、他の景色を目にしたくなったのである。他の、美しい世界を。私は、世界を愛している。そのときにはっきりと理解した。
「それに、向こうがやってきてくれるとは限りませんから。それなら、自分で探しにいきます」
「どっちにしろ、何年かかるかわからないよ」
「はい、いいんです。たとえ千年かかってもいい」
 このとき、私は完全に解き放たれた気分になった。ローハイン工房の次室に閉じこもっていた生ける亡霊のような日々は、このとき終わりを告げたのだった。





2009/02/14


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