第二章 終わりと始まりの螺旋





 幸運にも嵐に遭うことなく、ライアたちを乗せた船は順調に航海を続けた。ライアがエアトンから乗ってきたものに比べると、今度の船は少し規模が小さかったが、彼女にとってはあまり関係ないことのようだった。
 ここでも、ライアの身の置き方はあまり変わらなかった。じっとしているよりは、と何か仕事はないか常に聞きまわっていた。とは言っても、素人の少女に任せられるものは少なかったが。
 彼女の言ったとおり、確かに時間はあって、フェリクスとはお互い手が空いたときに話しこんでいた。
「父さんは元々マティアスで工房士をしていたんだ。でも、何年か前に工房をやめてさ。研究って言っても、商人みたいなこともやってるよ」
 海風に髪をはためかせながら、フェリクスは遠くの水平線を眺めた。北上するにつれて視界に入るコスモスの島々は少なくなっていく。
「実は最近まで、コスモス経由でグランリージの北とシェスカを往復していたんだ」
 フェリクスはよく自分のことを語った。それに比べて、ライアはまだ若干口数が少なかった。時々旅芸人をやっていたときのことを語るくらいか。それはフェリクスが喋りすぎるからということではなく、なるべく彼の方がたくさん話すように彼女が誘導しているように見えた。
 それでも、彼女は笑う回数が増えた。ああ、ライアだ、と私は思った。おい、馬鹿みたいなんて言うなよ。ようやく、自分の記憶していたあの子と一致するようになったんだ。
「創世神話は知ってる?」
 フェリクスにそう問われたライアは首を横に振った。魔法工房では、そういうことは教えていなかった。実際、私も昔に聞いたきりで、詳細はあまり覚えないままであった。
「主神は世界のあらゆるものを創造したけれども、そのなかで最も愛したものは宝石だった。主神は彼らに自分と同じ神の位と力を与え、宝石たちはこの世を治める主神に忠実でよく従った。その後、他にも神の位を授かった者がいても、けして宝石たちと同格にはなれなかった。彼らは、この世界で主神の次に権力のある存在だった」
 ライアは興味深そうに耳を傾けていた。旅芸人時代も、こういうものには触れていなかったのかもしれない。ああいう人間が語るのは、たいていもっと劇的な作り話だ。
「主神はあるとき、突然姿を消した。お前たちの中で最もふさわしいものが後継者になるように、と宝石たちに言い残して。彼らは、我こそが新たな世界の主と互いに争った。その結果勝利したのが赤い宝石」
 フェリクスはちらりと、ライアの腕にはまった私を見た。そのときの行為には特に意味がなかっただろう。そのまま続けた。
「しかし、彼はあまりにも傲慢だった。他の者に対して驕った態度をとりつづけ、それに反発した宝石たちは罠にはめる形で赤い宝石を封印して追放した。けれども、赤い宝石が元々最も主神の寵愛を受けて力を授けられ、神々の争いの勝者になったわけで」
 風は強く、波はやや高かった。当時の私は、その話を心穏やかに聞ける心境ではなかった。かといって去ることもできない。
「ここからは神話というより昔話? 他の石たちを恨んだ赤い宝石は自らの力で封印を解き、今度は世界を破壊しようとした。神々は赤い宝石を押さえるために人間の力も借り、赤い石を再度封印した。そして、人間に世界を委ねると、自分たちも表舞台から姿を消した」
 そこまでくると、私の記憶にも新しい出来事だった。
「宝石たちに力を貸した人間。その一人が、君のお師匠さんって言われているよね?」
「あ」
 小首を傾げていたライアだったが、そう言われてようやく思い出したらしい。弟子の中にはこういう話をしたがる者もいたけれども、師は直接この話を誰かから憧れ交じりに振られると嫌がっていた。若気の至りと答えるときもあれば、それは作り話だとはぐらかすときもあった。
「不思議だよね。何百年も前の話だよ。実際その生き証人がいて、君はその弟子だっていうんだから」
 ライアは複雑そうにした。
「私はまだそういうことに疎くて、先生がどれだけすごいのか実感があまりないの。もちろん、私でも知ってるくらいには有名な人だから、工房を探すときにまっさきに向かったんだけど」
「ローハイン師ってどんな人?」
 フェリクスは期待に満ちたまなざしを向けてきた。師に幻想を持ちすぎて弟子入り後に拍子抜けした者たちは、最初同じ目をしていた。
「うーん、とね。気さくで、思ったよりも普通の人かしら。私は下っ端だから、直接魔法を教わることは少なかったんだけど。でも……ああ、この人はお師匠さんなんだなってしみじみ思うことはあったわ」
 そういえば、ライアがカネル師のことを他人に語っているところを見たことはほとんどなかったな。あ、当たり前か。彼女が弟子入りしたころは、私自身が工房に関わらない人間と接触することはほとんどなかったのだから。もしかしたら、エアトンの街に出たときに、外の人間には話していたかもしれない。友人もいくらかいたようだったからな。
「へえ、一度会ってみたいな」
 フェリクスは父の影響からか、石にまつわる神話や伝説に詳しかった。アルノルドは現在、産地や種類の異なる鉱石の相性を調査しているらしい。
「フェリクスたちはエアトンに行かなかったの?」
 アブファムとグランリージ北部を行き来していたのなら、誰もがというわけではないが、多くの人間はエアトンを通るはずだった。
「父さんはアールヴには近寄らなかったよ。戦争に関わりそうな国は避けたんだ。だからエアトンも行ったことない」
「そうなの……」
 ライアは南西の海を見つめた。
「とてもいい町よ。うん、いい町だった……」
「ライアは、あまりエアトンの話をしないね」
 ライアは息をのんで、フェリクスを見つめた。
「そう?」
「うん、ニールの母さんがエアトンの話をしたときも、なんだか辛そうだった」
 ライアは大きな目を歪ませる。その様子を見たフェリクスは慌てた。
「ごめん、僕、何かまずいこと言った?」
「ううん、ちがうの。そうじゃなくて」
「工房が辛かったの?」
 ライアは無言で否定した。せっかく戻ってきたはずの笑顔も完全に消えてしまった。
 フェリクスは何も言わず、彼女を隅に座らせると、自分もその隣に座った。どれくらいそうしていただろう。落ちついてきたライアはぽつぽつと工房での話をしはじめた。
 門前払いをくらっても食い下がって無理やり弟子になったこと。それで工房の人間と距離があったこと。私から指導を受けるようになったこと。コリンが加わったこと。三人で下らなくも楽しい日々を過ごしたこと。ヴィーエの一件で、それに終止符を打たれたこと――つまりは私とコリンが死んだという話だが。
「兄さんはね、第一印象は無愛想」
 ライアはいたずらっぽく言った。本人がすぐそばで聞いているなど夢にも思わなかっただろう。
「山の動物みたいだった。最初は警戒して全然心を開かなくて、私やコリンが近寄るとすぐ逃げちゃうの。でも慣れてくるととても親切でね、工房の人達の評判は良くなかったけれど、私もコリンもあの人が好きだった」
「コリンは?」
 ライアは困ったように笑って、言葉もなく何度か溜め息をついた。そして、意を決したようにフェリクスをまっすぐ見返した。
「自信家なお坊ちゃん」
 そりゃそうだろう。私はひそかに同意した。
「最初ね、私だけが兄さんの指導を受けていたの。コリンは別の人をつけられていて。でも、彼ったら何て言ったと思う? 自分が次室の指導を受けられなくて、どうしてそっちの飛び入りは受けられるのかって。どうせなら自分も次室がいいって。それで、彼の指導役だった人が機嫌損ねて、あとで先生がこっそり謝ってたの見ちゃった」
 それは初耳だった。私は師に同情したと同時に、そういう板ばさみになって弟子に頭を下げることがあったのかと意外に思った。
「もう、私もさすがにこの人とは気が合わないって思ったの。でもね、打ち解けてくると逆に話しやすかった。彼は誰かに媚びる必要も卑屈になる必要もなくて、いつも物怖じせずに堂々としていた。主張すべきところははっきりと言ってしまえて、それで相手と衝突することもあったんだけどね。納得できないことは嫌い、でも一度受け入れたものはその分大事にした人だったわ。気が強くて負けず嫌いで、でもふとした瞬間に優しくなるの。それを感謝すると慌てて」
 そう語るライアは、穏やかな顔つきになっていた。
「誰かの幸せを素直に喜べるところもあった。あと、結構冗談好き。笑うこと、楽しいこと、ちょっと羽目を外したりとか、そういう瞬間が楽しくて仕方ないんですって。だから気が合ったのかしら、お互い相手がふざけたときは便乗したりして」
「好きだったの? そいつのこと」
 ライアはフェリクスの方を向き、しばし瞬きをしたあと、ゆっくりと頷いた。
「一方的にね」
「どうして? 興味ないとか言われた?」
 今度はふるふると首を横に振った。
「何も。向こうはアールヴ指折りの大貴族。私は孤児で、蔑まれる旅芸人をやっていて、無理やり魔法使いの道に飛びこんだだけの人間。違いすぎるでしょ。お互い魔法使いを目指さなかったら、出会うこともなかったでしょうよ」
「工房では同格だったんだろ?」
 ライアは眉をひそめながらわずかに天を仰いだ。我々の工房についてどう説明しようか迷ったのだろう。
「入った時期が一緒なだけ。私たち、工房の中でも立ち位置が違うの」
 彼女は俯いて、悲しそうに笑った。
「彼はいずれ都に帰ったでしょうね。都の魔法は自分が発展させるって情熱を燃やしていたから。先生にも食ってかかることあったし。私は、教わることを教わったら医療士の学校に進むつもりだった」
「学校を卒業したら、自分の身分がどうのこうの言わずに堂々とできてよかったんじゃないか? だって、医療士っていったら、どこでも歓迎されるだろ。貴族だって、末息子だったら――」
 彼の言葉を遮るようにして、ライアは再びフェリクスを見つめた。泣きそうな顔だった。
「もう彼はいない。だからこんな話をしても無意味だわ。私は彼が好きで、でも叶うはずもなくて、彼は死んだ……私のせいでね。それだけの話よ」
 両端が少しだけ上がった彼女の唇から、長い溜め息が漏れた。
 あのときそばにいなければよかった。どうして自分が代わりに死ななかったのだろう。自分は身寄りがないから、死んでも悲しむ人なんてほとんどいないのに。
 ライアはそう言いながら己を責めた。直接殺したわけじゃないけれども、自分が原因でコリンは命を落とすことになった、と。
「兄さんだってそう。あのとき、止めればよかった。コリンを死なせるなって言われて、私は追いかけずに彼を引きずって丘を下りたの。私は選択を間違えた……兄さんを止めていれば、あの人だけでも助かったかもしれない。それで兄さんを失って、コリンも結局死んでしまって。私は何もできないで、ただコリンのそばで祈ることしかできなかった」
 ライアは自分の手をじっと見る。そのときの彼女の指は、とても白く見えた。工房にいたときにあった浅い傷はおおかた癒えていた。
「命が逃げていく感覚ってあるのね。医療士が治療している間も、ずっと手を握っていたの。助かってほしかった。でも、ふとした瞬間に、どんどん冷えていくの」
 ライアの歯がかたかたと鳴った。フェリクスが何か口にしようする前に、彼女は続けて言った。
「こんな私が医療士なんて笑っちゃうわよね。目指したときの覚悟ってどこに行っちゃったのかしら。そんなもの、あのとき消え失せてしまった」
 彼女の声も手も、次第に震えていった。
「私は大切な人たちをこれ以上失うことが怖かった。あの人たちがもういない現実が苦しかった。エアトンを出たときね、私、ほっとしたの。あの二人の抜けた工房に残されなくてすむから」
 ライアは膝を抱えて、顔を伏せた。私は何も言えなかった。フェリクスの手が彼女の頭に触れようとした。しかし、その指先は何度か宙をさまよったあと引っこんでしまった。
 声をあげることなく泣いていたライアだったが、しばらくして顔を上げた。
「変な話してしまってごめんなさいね。でも、ちょっとだけすっきりした」
「ううん、僕の方こそごめん……」
「そんな顔しないで。むしろ感謝してるくらいだから」
 まだ目が赤かったものの、ライアは弾むように立ち上がった。
「工房の人には、何も言えないからね」
 大きく伸びをすると、ライアはその場を去った。フェリクスは心配そうに彼女を見つめるだけだった。
 ライアには、小さく狭いながらも個人的な空間が与えられていた。そこに入ると、彼女は声を押し殺しながら再び涙を流しはじめた。床に倒れて袖を自分の目に押し当てながら、ずっとそうしていた。時折、私やコリンの名を呼んで、特にコリンには何度も謝っていた。
 この期に及んでも頭を撫でてやることも声をかけてやることもできない。そんな自分が心底情けなかった。この姿では手を伸ばせもしない。
「ライア、俺はここにいるんだ」
 コリンはいないけれども、自分はお前のそばにいる。そう何度も呼びかけたけれども、とうとう彼女がそれに気づくことはなかった。
 虚しさだけがあった。きしむ天井を見上げながら、私はずっと彼女の抑えこんだ嗚咽を聞くことしかできなかった。たった一月も経っていないはずなのに、三人が一緒だったころがひどく懐かしく思えた。ここにコリンがいたら――そんなどうしようもない願いがぐるぐると回った。
 彼女をここまで悲しませたのは、他でもない私だ。私の行いがコリンの命を奪い、私自身にも死をもたらした。
「お前が責めるべきなのは自分ではない、俺なんだよ」
 この声が届くなら……何度でも伝えたかった。本当に不便な身体になったよ。でも、これこそが私への罰だったのかな。
 彼女が悲しめば悲しむほど、私は自分の犯した罪を自覚せざるをえなかった。彼女の心の傷は、他の誰でもない、私がつけたのだ。
 ライアは泣き疲れてそのまま眠ってしまった。起きたのはかなり時間が経ってからで、彼女は気まずそうに外の様子を窺うと、また自分の部屋に閉じこもった。
 自分の荷袋を引き寄せると、ライアはその中から物を二つ取り出した。一つは私の作った護符、もう一つはコリンが余った材料で作っていた銀細工だった。
 自分よりも課せられたものが多いライアを待っている間、彼が手慰みで作ったものだ。彼がそうした暇つぶしをすることは多かったので、いつのものだったかは覚えていない。けれども、ライアはやけにそれを大事そうに指の腹で撫でていた。
「ライア」
 外からフェリクスの声がして、ライアは慌ててそれらをしまう。
「食事はどうする?」
 ライアはしばらく考えてから、まだ残っているなら欲しいと告げた。
 フェリクスに誘われて、ライアは甲板に出た。日が沈んで間もないようで、西の空には橙、薄緑、青の色彩が美しく広がっていた。どこか妖しい色合いであった。
「ごめんなさい」
 パンを受け取りながら彼女は謝った。
「どうして?」
「いつもフェリクスには何かしてもらってばかりだもの」
 足下に置いた灯りに照らされながら、フェリクスは柔らかく微笑んだ。
「そんなこと気にしなくてもいいのに」
「私はあなたに何もしてないでしょ?」
 ライアの横に座ったフェリクスは微笑しながらしばし考えこんだ。
「多分、今の僕には余裕があるから、君にあれこれできるんだと思う。君は余裕なくて精いっぱいなんじゃない? だったら余裕ができたときに返してよ。それでいいじゃないか」
「余裕、か……」
 ライアは黙々と食事を無気力そうに口に運んだ。エアトンにいたころの、街中の露店で売っているようなものから工房の賄いまで嬉しそうに食べていた彼女の姿が脳裏をよぎった。シェスカでの生活が長かったとはいえ、食べることが好きなところは私よりもずっとアールヴ人らしかったのに。
「確かにないわね。全然、ない」
「昔の仲間に会うんだろう? もしかしたら、重い気持ちが少しはなくなるかもしれないよ」
 ライアは唇の片端だけ動かした。
「うん、そのためにわざわざプリムサズまで行くのよね……」
 フェリクスは笑みを崩さないまま小首を傾げた。ライアは、どこか申し訳なさそうに彼に視線を送った。
「昔一緒だった人たちに会うのはね、とても楽しみなの。生きていくための術をたくさん教えてもらって、かわいがられて……。それなのに」
 彼女の唇から前歯がわずかに覗く。
「どうしてだろう。ここまで来ておきながら、たった一年しかいなかったあの工房のことばかり考えるの。一年しか一緒にいなかったあの人たちのことばかり思い出して……。本当に自分が情けなくて弱い人間なんだって思い知ったわ」
 ライアが見上げた空は、いつの間にか日の光の名残さえも失せていた。エアトンでは見られないような北の星々も遠くに見えた。
「私、逃げたの。当てなんかないのに、工房を逃げ出して別の場所に行ったら悲しみがなくなるような気がして。そうやって逃げても、どうしようもないのに」
 だんだんと彼女の声に圧力が加わった。もしも私が人間の姿をしていたなら、あの子の肩をつかんで止めただろう。私が、もうそれ以上聞いていられなかった。
「本当はあのまま時が止まってほしかった。コリンと一緒にいたかった。兄さんのところで二人でずっと修行していたかった。いつまでも、ずっと……。罰があたったのかしら。私がそんなこと願うから、あの二人は死んじゃ――」
 そのとき、フェリクスは彼女の両頬を軽く弾くように触れた。
「そんなこと言っちゃいけないよ。それじゃ彼らに失礼だ。彼らの人生は、君に左右されるためだけにあったわけじゃない。そうだろう?」
 ライアは目を丸くした。そうやって、どれくらい彼と向き合っていただろう。だいぶ間があってから彼女は俯いた。
「君が幸せにならなければ、それこそ君を助けてくれたコリンの死が無駄になるじゃない。図太く生きてもいいじゃないか。彼がどういう人だったのかは全然知らないけれど、一生悲しまれたら逆に辛いんじゃないの?」
 ああ、そうだな、と私はひそかに同意した。きっとあの子だって、ライアを悲しませるために死んだのではないのだから。
 私だって、あの子が私を思い出して悲しむと、辛かったさ。あんなに近くにいたのにな。いや、こんなこと私が言う権利はないな。私は、自業自得だ。
「……そう思えたらいいんだけど」
 彼女の言葉に、フェリクスは慌てたそぶりを見せた。
「心の傷なんて今すぐ癒すものでもないね。無理に元気出す必要もないよ」
 溜め息が一つこぼれた。
「そうだよな、僕こそ無神経だ……」
 ライアはとっさにフェリクスの袖をつかんだ。
「ううん、もう一度言うけれど、私はフェリクスと話すことはむしろ嬉しいのよ。だって、あれから誰かに泣き言なんてめったに言えなかった。先生にさえ、全部は……」
 彼の服を離したライアはそっと私の上に手を置いた。
「本当にわがままばかり」
 彼女の指の隙間から見える星を見つめながら、私はライアとフェリクスの会話を聞き流していた。
「工房から逃げても私は行く場所なんてないのよね。親に捨てられた孤児には、もっと惨めな生活しかない。さっき言ったとおり、仲間に会いに行くというのも、工房を出る口実。もちろん、みんなには会いたかったけれども」
 自分で自分を納得させるように、頷きながらライアは喋った。
 ライアは、芸人時代の仲間にもお互いの命があるうちに一度再会したいと語った。この機会を逃すとこれから先何年も会えないだろうし、その間に何が起こるのかもわからないから。
「……先生の言葉を借りるんだけど、会えるときに会っておいた方がいいのよね。戦争になって旅が続けられなくなったとき、最初はアールヴに帰って親を探そうと思ったの。でも、二人はとっくに病気で死んでいた。実の親なのに私は顔も知らない。赤ん坊の私がどんな子だったのか語ってもらうことも、どうして私を捨てたのか直接問いただすこともできなかったわ」
 ライアに身寄りがないのは知っていたが、私はその詳細もあまり聞いてはいなかった。彼女が言うには、ライアの両親は貧しいうえに身体が弱かった。赤ん坊のライアを孤児院に預け、ろくに働くこともままならずに若くして揃って亡くなったとのことだ。
 話しているうちに、ライアの瞳が少し暗くなる。
「人ってどうして死んでしまうのかしら。言いたいことも全部言えないで、みんな私を置いていく。兄さんだってコリンだってそうよ。みんな、みんな私を置いていくんじゃないかって、それが怖い……」
「僕は置いていかないよ」
 フェリクスは強いまなざしでライアを見つめた。
「絶対に君を置いていかない。約束する」
 その言葉を聞いたライアは彼の顔を見て、泣く一歩手前でなんとかこらえた様子だった。我に返ったフェリクスは、暗い中でもわかるくらいに顔を赤らめた。
「こんなこと言われても、困るよね」
 唇を震わせながら、ライアは首を横に振った。
「ううん、ありがとう……」
 言葉の最後の方はあまり声になっていなかった。彼女にとって、少々熱心すぎるほどのフェリクスの励ましは力になったのかもしれない。私は、それについてはフェリクスに感謝している。その夜、二人はライアが食べ終わったあとも、とりとめのない話をし続けた。
 翌日も、二人は一日のほとんどを一緒に過ごした。船旅が続くと、さすがにライアもすっかりフェリクスと打ち解けたようだった。彼がライアの話を丁寧に聞いてくれたおかげか、ライアが話すことも日に日に多くなっていった。
 暇な時間になると、それぞれが自分の知識を教え合うようになっていた。ライアは芸のことや魔法のこと、フェリクスはやはり宝石の話が多かった。あとは、自分の旅で出会った人についてかな。
「こんな話は知ってる?」
 ライアは小首を傾げる。
「人は死ぬと土に還るだろう? だから、北の鉱山では、人は死ぬと宝石になるという言い伝えがあるんだって。まあ、あくまでも迷信だよ。でも、もしもそうだったら、石が愛しくなってこないか?」
 彼女は黙ったまま視線を落とし、私と目が合った。少なくとも私はそう感じた。
「僕の母さんは病気で死んだんだ。今はマティアスのアイベルクで眠ってる。実際にはありえなくても、石のどれかが母さんだったらと思うと、なんとなく大事にしたくなってさ」
 フェリクスは胸元の護符につけてある藍玉を摘んで彼女に見せた。
「これ、母さんが一番好きだった石なんだ。これはマティアスじゃなくてエクシーアで出た石なんだけどね。綺麗で、母さんの目に似てるからかな。手に取った瞬間母さんが笑ったような、そんな気がしたんだ。だから、ずっと持ち歩いていて……」
 ライアは親指でそっと私を撫でた。それで何かが伝えられたなら、どんなに嬉しかったことか。
「これこそ自己満足だよ。母さんなわけがない。でも、僕は母さんだと思うことにしてる。死者をどう思うかは僕の勝手だからね」
「コリンや兄さんも、石になるかしら」
 彼女は不安そうな顔をしながらフェリクスを見上げた。
「もしそうなって、いつかまた巡り会えたら、僕は素敵だと思うよ」
 そこまで喋ると、フェリクスは頬を掻いてそっぽを向いた。
「ごめん、死者をどう思うのかは僕の勝手で、君の勝手でもあるから、気にしないでほしい」
 船員に話があるからと言い、フェリクスは早歩きで去っていった。その背中を見送りながら、ライアは掌で私を包むように触れた。
 フェリクスの話とは違うが、私は奇妙な縁でこうして石になってしまった。もしもライアが私と会話できて、私がここにいることを知ってもらえたなら、少しは彼女の心を軽くすることができただろうか。コリンの代わりにはなれないが。
 そんなことを思いながら、私は声を出した。
「ライア、俺のことわからないか?」
「コリン……兄さん……」
 それは、私への返答ではない。私は何度目かの静かな落胆を味わった。フェリクスが羨ましかったよ。彼は私とは違って、何かすればライアが応えてくれるのだから。
 ふと目をやると、その彼が立ち止まってこちらをじっと見つめていた。憂いを帯びた顔で視線を落としていたライアはそれに気づかない。彼は眉を寄せるような表情でしばらくそうしていたあと、背を向けて行ってしまった。


 そうこうしているうちに、私たちを乗せた船はサクラーツェにある港、コスタスに到着した。途中でアブファムに立ち寄ったとはいえ、エアトンを離れてから船での生活が続いたライアは解放されたような表情だった。
 コスタスからプリムサズは近いというほどの距離ではない。国境を越えるからな。しかし、プリムサズが栄えた宝石の産地ということもあり、人の行き来はそれなりにあった。ライアたちはここで、とある商隊に同行させてもらうことになった。
 ここで印象的だったのは、アルノルドはマティアスそのものを意識的に避けていることだ。フェリクスの話では、彼の母親の墓がある町はベネディーラとの国境沿いらしい。フェリクスは一度そこを訪れたいと言ったのに、アルノルドは別の予定を主張して聞き入れなかった。商隊についても、マティアス関わりのところはどんなに条件が良くても候補から外してしまった。
「父さんはマティアスが好きではないみたい。でも、母さんが少し可哀想……」
 フェリクスは残念そうに呟いたが、父親に従った。ライアは事情を聞くのはためらったようで、ただ彼を慰めていた。
 コスタスからプリムサズは、おおよそ数週間ほどの旅だった。もちろん荷運びくらいはしたものの、船よりも仕事は少なかった。移動しながらでも十分に雑談ができた。
「医療は資格がないといけないんだろう?」
「ええ……」
「魔法自体はどうなの?」
 フェリクスの疑問に、ライアはしばらく考えたのちに答えた。
「魔法には資格はいらないのよ。技術を磨くだけ。特に希法士は工房修行しなくても不自由ないし。ただ、生まれつきの魔力がないとね」
「生まれつきの魔力? 希法士の?」
「えっとね、工房士にも医療士にも魔力はあるのよ。それを利用して人々の生活に還元しているし。希法士は、生まれつき持っている魔力が他の魔法使いとはちょっと質が違ったりするの。しかも修行してもなかなか身につかないような魔法が簡単に使えたり」
 フェリクスは魔法大国マティアス出身で、しかも父親のアルノルドが工房士だったのに、魔法については驚くほど疎かった。まあ、幼いときに故郷を離れて、各地を回っていたせいだろうかと私は思っていた。
「じゃあ、ライアも魔力はあるんだね」
「ちょっとだけね。でなければ修行すらもさせてもらえないわ」
「そういうのってどうやって知るの?」
 ライアは、自分の荷を見つめた。商隊から預かっている荷物を抱えているので、身動きが取りづらかった。
「それについてはあとで。フェリクスが素質あるかどうかもきっとわかるわよ」
 フェリクスは期待に弾んだ様子だった。
「ライアは工房で調べてもらったの?」
 その問いを聞くと、彼女は一瞬固い表情を浮かべた。しかし、それを作り笑いで隠した。
「ううん。昔の……知り合いが教えてくれたの。そのおかげで、医療士になろうと思ったの」
 日暮れが近くなり、一行は平原の一角で野営をすることとなった。約束どおり、ライアはフェリクスに一対の結晶石を持っていった。え、ああ、結晶石を知らないか。魔力を調べる道具だよ。もう今では古典的と言われてしまうな。
 二つの結晶石を両手で持ち、石と石の間に意識を集中させる。すると、何もないはずの空間に光が生まれるんだ。この光の質や強さで、素質を判断する。昔の魔法使いだったら誰でも一度はやることだ。
 ああ、結晶石は他にも使い道がたくさんある。彼女も別に魔力の有無を確かめるためだけに持っていたわけじゃないさ。道中の勉強に利用するためだったんじゃないかな。
 まずライアはお手本を見せた。黄色みがかった穏やかな光が両手の間に生まれ、それは数十秒ほど輝くと空気に溶けるように消えた。
「すごい!」
 フェリクスは目を輝かせた。周囲の人間も魔法が珍しいらしく、興味深そうに二人を遠巻きに眺めていた。ただ一人、アルノルドだけが渋い表情を浮かべていた。それは、ありふれたものに対する冷めた感情……というわけではないようだった。
「僕もやってもいいかい?」
「もちろん、どうぞ」
 ライアからフェリクスに結晶石が渡った瞬間。
「フェリクス。お前は幼いときにやったはずだよ」
 アルノルドが口を挟んできた。どこか苦い声だった。フェリクスはきょとんとした。
「え、そう?」
「ああ。そのときは何も起こらなかった」
 落胆したフェリクスに、ライアは助け船を出した。
「あの、特に子どものうちは魔力が安定しなくて、成長するにつれてまた変わるんですって。もしかしたら今は魔力があるかもしれないわよ」
 フェリクスの顔が、ぱっと明るくなった。彼は期待をこめた視線を父親に向けた。
「やってみるね」
 アルノルドは身を乗り出したが、ふと我に返ったようで、不承不承といった態度を隠さずに頷いた。
 フェリクスはわくわくしながら、結晶石をかざした。その直後、強烈な閃光が彼の手から発せられた。まるで雷のようだった。
「わぁっ!」
 彼の驚嘆の声とともに、闇に食われるようにそれはすぐに収まった。フェリクスはライアに結果を尋ねる。彼女は呆気にとられ、何度も瞬きをする。わずかに唇も震えていた。
「初めて見たわ、今みたいなの……。いえ、私だってそんなに多くの例を目にしてはいないんだけど」
「安定していたらお嬢さんみたいにしばらくは光るさ。それが一瞬だったということは、まだ不安定な証拠だ」
 アルノルドはほっとした様子で、穏やかな声色で言った。ライアは戸惑うように、彼のことを見つめた。
「ちぇ。ライアだって僕と歳変わらないのに」
「おいおい、仮にもお嬢さんは工房士だぞ。魔力を安定させるのも修行のうちだ。そうだろう?」
 ライアはびくりとしつつも、アルノルドの言葉にこくこくと頷いた。
「父さんもやってみてよ」
「ああ、また今度な」
 アルノルドはフェリクスの手から結晶石を回収する。そして、苦笑いを浮かべながらライアに返却した。
 二人のやりとりを見ていた他の者たちも何人か試し始めた。隊の面々は思いのほか盛り上がっていたが、ライアは心あらずといった様子でフェリクス親子をちらちらと見ていた。
 おそらく彼女もわかったのだと思う。フェリクスの手が光を放った瞬間、彼が身につけていた護符から魔力が吹き出した。まるで、光を抑えこむように。
 あれほど激しい反応は、私すらもなかなかお目にかかったことがないほどものだった。よほど強い魔力……そう、希法士でなければ一瞬とはいえあんな風に輝くことはない。
 私はようやく、彼の周囲に漂う奇妙な違和感の正体に思いあたった。あの護符は外敵から身を守るのではなく、内にある力を強制的に抑えこんでいたのだ。まさか彼にそれほどの力が秘められていたとは思いもよらなかった。彼を取りまく妙な気配をようやく理解できた。もし生身だったらもう少し気づくのが早かったかもな。封じるのにかなり無理をしなければならないほど、フェリクスの魔力が強大だということだ。
 その後、火の番以外が眠りについたとき、ライアはこっそり結晶石を取りだした。星空にかざすようにして、長い間それを眺めていた。
 翌日になり、前夜の出来事が楽しかったのか、フェリクスはそれまでよりもライアに魔法について尋ねるようになった。あまり無駄話をしないように、とアルノルドは言っていたが、息子の扱いには困っているようだった。無理にやめさせるのもやぶ蛇になるのではないかと思っていたのではないだろうか。
 その日の夜、フェリクスが早々に眠りについてしまった隙にアルノルドはライアを呼んだ。 小枝を集めて作った小さな焚き火を挟み、ライアを真向かいに座らせる。取っ手がついた壷に水を注ぐと、彼は火にかけた。
 両者の間に沈黙が流れる。アルノルドはしばらくの間、ゆらめく炎を瞳に写しながら考えこんでいたが、とうとう口を開いた。
「お嬢さん、申し訳ないが、あまりあの子に魔法の話をしないでもらえないだろうか」
 ライアは何も言わず、大きな目でアルノルドを見つめた。彼は力なく地に視線を落としていた。ライアは音が聞こえそうなほど強く唇をかみしめていた。
「既に察しているかもしれないが、あの子は魔法の才に秀でている。幼いときからそうだった。きちんとした教育を受けさせるように、都にやるように、と言う者もいた。しかし、私はそれを拒み、魔法には一切触れさせないようにしてきた」
 重々しい空気の中、ライアは遠慮がちに返答する。
「……私は魔法使いとしてまだ力不足ですけれど、それでも彼は何か他の人とは違うように感じました。昨日の光、魔力が安定していないからといっても、あそこまで強く輝く人は見たことがありません。けれど、なぜ彼に魔法を学ばせなかったのですか?」
 アルノルドは膝に両手を置いて、長く息を吐いた。
「私も親だからね、あの子の才能には早くから気づいていた。同時に、魔法使いにさせたくはないという恐怖もあった。あれはあまりにも力がありすぎた」
 ライアも黙ってしまった。彼が希法士であろうことは理解したようだった。
「本格的に危機感を抱いたのは戦争が始まるよりも少し前だった。これまでは表向き、魔法使いの戦争利用は統一法により禁止されていた」
 ライアは工房にいたころに学んだ魔法史概説の一節を諳んじた。アルノルドは彼女をうつろに見つめながらわずかに頷いた。
「水面下ではとっくにそんな決まりは破られていたがね。しかし、いよいよシェスキの西方進出が現実味を帯びてきたというときに、マティアスは独自の法でもって、堂々と魔法使いを軍に組み入れた」
 当時は、魔法使いには戦争に参加してはならないという掟があった。これを破った魔法使いには手痛い制裁があった。まだ古い統一法が生きていたころの話だよ。
 マティアスは当時から世界の魔法の最先端を行く大国であった。しかし、なにせ魔法使いに比重が偏りすぎていて、軍事や商業との格差があった。これについては後でまた話すが、そもそも魔法使いが優遇されすぎていたがために、民も他の職業に就きたがらないほどだった。自国だけで魔法使いは飽和状態で、行き場のない者も多かったという。私も生前は噂でしか聞かなかったが、魔法の軍利用については何代にも渡って訴えていたようだ。
「そうなると、魔法使いも軍人……いや、むしろ兵器として扱われることは目に見えていた。私はね、息子にはそうあってほしくはなかったのだよ。けれども」
 もう一度、沈黙と長い溜め息。
「あのままマティアスにいたら、フェリクスはきっと利用されただろう。各国、優秀な魔法使いの奪い合いになって、そんな状況にあの子を放りこむくらいならいっそのこと才能そのものをつぶしたかった。だから私は、あの子を連れて旅に出ることを選んだ。親の勝手と言われればそれまでだが、戦争に使われるよりはマシだ」
 それは、彼なりの親としての愛情であったのだろう。あのご時世、子どもを連れて工房も捨てて故郷を去り、ひたすら放浪するのは並大抵のことではなかった。
「おじさまは、彼が魔法使いになれば、必ず国に目をつけられると考えているのですか?」
「そうだよ。身内の贔屓目なしに、あの子が魔法使いになれば頂点に近い位置にまで上りつめられるとね」
 火が爆ぜた。アルノルドは沸かした湯を慎重に器に入れて、茶か何かの粉を入れて混ぜるとライアに手渡した。
「君が手紙を届けにきたハロルドって男がいただろう。彼にはその点でずいぶん世話になった」
「あの首飾りですか? 魔力を封じていますよね」
 彼女の言葉に、アルノルドは薄く笑った。
「わかるかね」
「私の兄弟子……あ、ハロルドさんも一応兄弟子にあたるんでしたね。私の面倒を見てくれた人が同じ研究をしていました。二人ともローハイン先生から教わったのかも」
 このようにライアの口から私の話題が出ると、どうもいつも複雑な気持ちになったな。
「だから、それでたまま見覚えがあったというか、前に見たものに似ていると思ったんです」
「ハロルド……彼との出会いは偶然だったが、ずいぶん助けられた。ハロルドもフェリクスの素質には驚いていて、本格的に学ぶことを勧めてきたが、最終的には私の意向をくんでくれた」
 アルノルドは、すぐに消えていきそうなほど弱く溜め息をついた。
「もしかしたら、自分の才能に気づいた方が、自分に何ができるのか知った方が、あの子は幸せになれたかもしれない。しかし、私は後悔していない」
 確信的な口調に、ライアは何も言えなくなったようで、黙って器の中身に口を付けた。最後の一口を惜しむように、ゆっくりと時間をかけて飲み干した。





2012/05/31


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