自由か死か (中)


 東京で、僕はいきなり出鼻をくじかれた。
 期待に胸をふくらませて入学したのだが、僕が指導を受けたいという准教授は、ちょうど一年間ほど研究に専念するために外国へ行ってしまっていたのだ。
「一応、一年間ということだけど、あの先生のことだからしばらくは帰ってこないかもねぇ」
 履修相談に乗ってくれた学科の老教授は苦笑いを浮かべたが、僕は笑えなかった。
「でも、僕はあの人の授業を受けたくて、ここに入学したんです」
「まあまあ。一応、今回は一年って本人が言っていたから、一年で帰ってくるだろう。それに、一年次はそんなに大して専門授業は取らないから、一年生のうちは基礎科目に集中しなさい。二年生から専門授業がたくさん取れるから心配しなくてもいいよ」
 確かに、一年生は基礎授業ばかり履修するから、それほど痛手ではなかった。けれども、せっかく親の反対を振り切って、妹まで東京に連れてきて入学したのに、その最大の理由が不在なんてこれほど悔しいことはなかった。
 くすぶりを抱えたままだったけれど、大学生活自体は悪くなかった。もちろん不自由なことはたくさんあったけれど、中学高校と比べるとだいぶマシだった。簡単なアルバイトやサークル活動ができるようになったのが大きな変化だ。大学のサークルは、高校までの部活のように、常に出席しなくてもよいところが嬉しかった。
 そして、僕は最初の恋人ができた。同じ学科に現役で入学した、利絵という女の子だった。少し冷たい印象のある美人で、実際かなりの皮肉屋だったが、とても聡明な彼女に僕は惹かれた。
「あ、新入生代表だ」
 とある飲み会で、隣に座った利絵は、開口一番僕にそう言った。
「実はね、私、首席狙ってたんだ。取られちゃって残念」
 そう言いながらくすくす笑っている彼女に、初めは良い感情が持てなかった。しかし、授業などが重なってよく話すようになると、彼女との会話は意外と面白かったのだ。
 同じ学科とはいえ、そこに所属する学生の興味の対象はばらばらだ。利絵と僕は、そのなかでも同じような分野に関心が持っていた。途中で知ったのだが、彼女もまた、僕と同じ理由でこの大学に入ったのだ。僕らは自然に付き合うようになった。
「せっかく入ったのに、まさか海外なんてねー」
 二人で、僕らと入れ違いに国外へ行ってしまった先生についてよく愚痴った。
「奥田君なんて、一浪までして入ったのに」
「いや、そもそも僕は高三のとき、受験しなかったんだ」
 利絵は眉をひそめて僕のことを見つめた。
「妹が身体弱くてね、僕がついていなくてはいけなかったんだ」
「ご両親は?」
「いるけど、僕でなければだめだったんだ」
 何それ、と利絵は口を歪めた。僕はその続きを言おうかどうか迷ったけれど、そのときの雰囲気のせいか、つい口に出してしまった。
「妹は、僕がいなければ生きられないんだ」
 利絵はきょとんと僕を見つめた。少し誤解されるような言いかたをしてしまったので、僕はなるべく丁寧に、僕ら兄妹の関係を説明した。利絵は僕の家に来ることはなかったので妹とも面識はなく、この事実を滑稽譚のように聞いていた。
「それ、本気?」
「本気。頭おかしいと思われるかもしれないけれど、本気で僕は言っている。昔、学者に調べてもらってそのような結論ももらっている。まあ、眉つばものだけどね。何て言えばいいのかな、とにかく、妹は僕に力をもらわなければ生きられないんだ」
 利絵は目をそらした。当然のことだ。僕だって、たとえ恋人であってもこんなことを言うような人間がいたら、気持ち悪く思える。
「変な話をしてごめん。でも、本当だよ」
 利絵は、中にある氷ごと飲み干すような勢いでグラスをあおった。
「それが、いつもさっさと帰っちゃう理由?」
 それまでの彼女とのデートでも、たびたび妹から呼び出されることがあった。彼女としては面白くなかっただろう。傍から見ると、本当に僕らの関係は奇妙なのだ。
 利絵は、はっきりと音をたててグラスをコースターに置いた。
「そんな話、信じろって言うの」
「正直、なかなか信じてもらえないと思っている。でも、僕がいないと、妹は生命が保てない。小さい頃からずっと経験を積み重ねて証明されているんだ」
 利絵の切れ長な両の目が、僕の表情を探る。
「妹さんを放っておいたことは?」
「実は、何回か。時間がなくて生命力の受け渡しが十分できなかったときがあって、そのときはたいてい病院送り。で、いつも母親に叱られるんだ」
 当時も、母は頻繁に電話をしてきた。本当に心配なのだろうが、僕らがちゃんと一緒にいるのか常に監視されているようで、僕には窮屈だった。一度、利絵といるときに掛かってきたことがあって、盛大に怒鳴られた。
「じゃあ、本当に妹さんはあなたが生命線なのね」
 利絵は、グラスの淵をなぞった。高い音が微かに聞こえた。
「……ごめん、いきなりそんなこと言われても、どうすればいいのかわからない。ちょっと頭冷やさせて」
 長いまつげの影を頬に落として彼女はそう言うと、自分の分の代金を置いて出て行ってしまった。僕は、美佳子について利絵に話したことを少しだけ後悔した。混乱するのも無理ない話なのだ。僕だって、自分が当事者じゃなかったら信じられない事柄だ。もしかしたら奇妙なことを言う男として拒まれるかもしれない。それが何よりも不安だった。
 数日後、利絵に学内のカフェテリアへ呼び出された。先に買っておいたのだろう缶コーヒーを渡しながら、利絵はゆっくり口を開いた。
「こないだのことなんだけどね、他の誰かが言うんだったら、私は信じない。けど、奥田君がそう言うなら、私はその話を本当だと思うことにする」
 彼女にしては珍しく、力の弱い笑みだった。
「ありがとう」
 僕は声を震わせながら、利絵の手を握った。彼女と僕の間に生命力が行き来するはずなどなかったが、その手の温かさがぼんやりと僕の冷えた手に伝わってきた。僕の心のどこかが溶けるように、僕は静かに涙を流した。
 その後も、僕の生活は美佳子を中心に回ったが、心は利絵にあった。他の誰でもない、彼女だけに僕は安らぎを感じた。学生らしい討論をするのも楽しかったし、何気ない会話をだらだらと繰り返すのも好きだった。
 その年の彼女の誕生日、僕は念入りに美佳子の手を握った。いつもよりも多い生命力を妹に渡した。その分、反動が僕の身体を襲ったが、それは構わなかった。
 遅くなるかもしれない、と僕は言い残して家を出た。今日だけは利絵とずっと一緒にいたい。ささやかな我が侭だった。
 遠くへ出かけて食事をして、結局その日は利絵の部屋に泊まった。美佳子には、外泊するというメールを出したが、返事は来なかった。罪悪感はあったけれども、どうしても利絵と共に過ごしたかったのだ。彼女とともにいる幸福が、その瞬間は何よりも大切だった。
 二人寝静まった真夜中、ふと携帯電話が震えた。見ると、美佳子からだった。ああ、あれだけやっても彼女には全然足りないのだ。半覚醒の頭でそんなことを考えながら、急いで行くと告げて、僕は慌てて支度をした。
「ごめん、利絵。行かなきゃいけない」
 利絵はこちらに背を向けて寝ており、微動だにしなかった。無理やり起こすことはできず、僕は彼女の家を後にした。
 利絵の携帯に、妹のところに行かなければならないので帰ることを改めて連絡し、僕は冬の夜空の下を走った。自分は何をしているんだろう、と考えることはせず、ひたすら無心で走り続けた。
 自分で救急車を呼ぶこともできないくらいに弱っていた美佳子を発見したとき、すでに妹は呼吸もうまくできなくなっていた。僕は何度も謝りながら、妹の手を強く握った。
 美佳子の手は、まるで乾いた喉を潤すかのように、僕の力を吸い続けた。そのたびに僕の意識がふつふつと途切れるようになったが、美佳子の顔色も呼吸も安定するときまで、なんとか堪えた。気がついたら、朝日が昇っていた。僕は、虚ろな心でそれを見つめていた。
 その後、利絵からは何の連絡もなく、学校で姿を見かけることもなかった。心配して何度か連絡を取ろうとしたが、いつも一方通行だった。些細な不安は、一週間経ってようやく利絵からメールが来て行きつけの店で顔を合わせたときに、一気に肥大化した。
「別れて」
 冷たい響きで、彼女は言った。無理やり表情をはぎ取ったかのような顔で、目は伏せ気味だった。
「あなたは、妹さんのそばにいるべきで、その他の人は近付けちゃいけないわ」
「でも、利絵、僕は」
 僕の言葉を、利絵は手で制した。彼女は指が長くて、きれいな手を持っていた。
「あなたのことが嫌いになったわけじゃない。でも、あなたの恋人になるには私は器が小さいのよ」
「そんなことない、そんなことない」
 必死で否定しても、利絵は受け入れてくれなかった。自分の分の代金をテーブルに置いて立ち上がると、利絵は軽く口を歪めた。
「私はあなたがいなくても生きていけるけど、彼女はあなたなしでは生きられないもの」
 利絵は踵を返して出て行ってしまった。僕は追いかけられなかった。ただ黙って、二人分のカップを見つめることしかできなかった。
 それからしばらくして、利絵からメールが届いた。今後は良き学友でいたい、というものだった。僕は、ごめん、としか返せなかった。それからの二人の関係は、本当にただの友人のようなものだった。一時、僕と彼女が恋愛関係だったという事実を忘れさせるほどに。
 利絵は、けして僕を友人以上の存在として扱わなかった。僕がもう一度彼女とやり直したいと言おうとしても、すぐにそれを察知して話のきっかけを徹底的に潰した。彼女は僕を嫌うような態度を見せたことなどなかった。けれど、僕らに一時流れた感情の再生を、利絵は完全に拒んだのだ。
 そして、毎週の授業を経て、テストや春休みが終わった頃、彼女は大学からいなくなっていた。共通の知人から、彼女は留学したと少し経ってから聞かされた。利絵とはかつて夢を語り合った。どちらも海外に強い関心があり、向こうの大学で学べたら、ということも話題に上がった。彼女は本当に実行したのだ――大学の友人の誰にも相談しないで。僕は呆然として、言葉が出なかった。
 こうして、僕は利絵を完全に失った。その傷はそうそう癒えそうにもないと思えた。聡い彼女との会話は何よりも充実していたし、見かけとは裏腹にとても優しい彼女とのやりとりが、僕の幸せだった。心を満たしていたはずの想いは、一点の穴があくことで、全て流れてしまっていた。
 他の友人からは失恋なんてと慰められたが、恋と呼ぶにはあまりにも彼女の存在は重みのあるものだった。それに気づいたのは、利絵がいなくなってからだったのだけれども。
 結局、二年生になっても、僕が敬愛する准教授は帰ってこなかった。せめて、一年のときに授業が受けられたなら。学生生活の小さなひずみが、次第に増していった。どれも、ただ今までのように我慢していればいつかはどうにでもなるようなものだと思った。だから、僕は一生懸命心を押さえて、全てに見て見ぬふりをした。それが一番楽だったから。
 利絵を失って、また僕にやってきたのは無為に過ごす時間だった。サークル自体、そこまで熱心ではなかったし、長く続けられそうだったバイトもあったけれど、やはり緊急時には美佳子についてやれないのでやめてしまった。
 結局、僕は中学生や高校生の時と同じように、勉強に時間を費やした。それが一番慣れていて良い方法だった。もう身体に勉強が染みついていると言って良かっただろう。幸い、そんな僕だったから、テスト期間はよくもてた。頼りにされるのは苦ではなかったし、学友との軽い付き合いは心が楽だった。
 美佳子も高校二年生になり、生来の不便な体質以外はすこぶる良好な生活を送っていた。月に一度は母が来てくれて細々とした用事をやってくれていたし、美佳子の高校卒業後の進路もある程度方向が定まっていたので、それを思うとこの年はある意味平穏だったと言えなくはなかった。


 そして、僕らはそれぞれ三年生へと進級した。嬉しかったのは、准教授が帰って来てくれたことだ。僕はその年が初対面だったけれど、先生は気さくに話してくれ、僕の当時の研究内容にも深い興味を示してくれた。もちろん、指導教授についてもお願いした。
 先生のご指導で、原文で書かれた資料も大分読み解けるようになった僕は、ますます研究にのめりこんでいった。卒業論文のテーマも早々に決まり、学部のなかでも最も先行しているのではないかとされた。それを誇りに思っていたし、資料と向き合って先生や同じゼミ生たちと討論する喜びが何にも勝っていた。
 学生としてはこの上なく充実していたが、一つ厄介な問題が出てきた。三年生の秋には、就職活動が本格化したのだ。その頃になると、僕はひそかに大学院への道を望んでいたが、自分の意思で諦めた。幼いころから美佳子の医療費がかさみ、さらに東京での暮らしが我が家の経済を圧迫していたのは事実だった。奨学金もあったけれども、少しでも働かなければという思いがのしかかった。
 大学院は行こうと思えばいつだって行ける。先生がそう仰ったのを受け、僕は就職の道を選んだ。確かに、少し惜しいような気はしたが、年々老けこんでいく父を見ていると、自立したいと思うようになった。研究はどこかに所属していなければできないものでもなかったし。
 友人たちとどこへ就職したいか夢を語り合ったが、彼らはみな興味の向くまま、自分の思うがままに企業にエントリーをしていた。似たような志向を持つ友人は、海外を飛び回るような職を志望していた。やはりそれを羨ましいと思ってしまった。
 散々憧れて、徹底的に学んだ彼の国々の土を、僕は踏めないでいた。もしも世界を股にかけるような職についたとしても、さすがに妹を連れてあちこち行くわけにはいかないのだ。もったいない、と仲間は言ってくれたが、こればかりは仕方のないことだった。
 妹は、そのまま東京の大学への進学を希望した。僕もなるべく東京に留まらなければならなかった。けれど、そうすると、自然と選択肢が狭まった。満足いかない企業でなければ条件が合わないことのほうが多かったし、実際面接を受けて嫌みを言われて落とされることもあった。採用してくれそうな企業もあったけれど、美佳子が「発作」を起こして最終面接をすっぽかしたという事件も経験した。
 結果、僕の就職先はこじんまりとした会社で、時間の融通も多少聞いてくれる場所だった。給料は若干安かったけれども、上司が僕の事情を汲んでくれたのはこの上なくありがたかった。残業も少なく、美佳子が呼び出しにも応じられたそこは居心地が良かった。業務の内容も海外と日本の間に立つようなもので、わずかに触れる異国の香りが僕のささやかな楽しみとなった。
 しかし、どうも僕の人生というものは、平穏を掴みかけると一気に全てが崩れるのである。社会人になったら、給料をもらっている手前、仕事が優先なのは僕だって十二分に承知している。だけど、美佳子が苦しんで病院に運ばれたと聞かされたら、僕は駆け付けないわけにはいかなかったのである。
 たとえ事情があろうと、新人のくせに早退や遅刻を何度か繰り返せば、社内からは冷たい目で見られるものだ。気がつけば、僕は同僚のなかで浮いた存在になっていた。それはとうの昔に慣れていたはずの身の上ではあったが、大学時代の身軽さに心が緩んだのか、僕は職場の孤立に胃を痛ませるようになっていた。
「やる気があるなら、いつでも歓迎するぞ」
 卒業式の日に受けた恩師の言葉が、ぐるぐると頭のなかをめぐった。正直なところ、学生の頃に戻りたくて仕方がなかった。思えば、あの四年間が僕にとって最も幸せだったように感じられる。たとえ、辛い出来事もあったとしても。
 それでも、いま自分は仕事を持っているのだ。その現実に向き合うと、肩に重圧がのしかかった。少しでも結果を残さなければ。そう頑張れば頑張るほど空回りして、とうとう社長に呼び出された。
「君は、実に優秀な人間だ。我が社にはもったいないくらいだよ」
 実情の半分にも達していない褒め言葉から始まった社長の話は、簡単にまとめると退社を勧めるものだった。ここまで至る経緯は幾通りも考えられたが、結果はどうせ同じなので僕は考えないようにした。僕は心を空っぽにしながら、どうにか社長の話の大筋を追おうとした。
「君、せっかく語学が堪能なんだし、どうせなら翻訳者として働いてみないか」
 何もかもが崩れ落ちた荒野に、ぽっと置かれたような言葉だった。ぽかんと口を開けた僕に、社長はほのかな笑みを浮かべた。
「ちょうど知り合いに翻訳の仕事をまとめている人間がいてね。いい人材が不足しているから、ぜひ彼に君を譲りたいのだけれども」
 一時期考えてみた道だから、翻訳業についても調べたことがあった。絶対的な資格が必要なわけではないから、なりたいと思っている人間は山ほどいる。確かに秀でた人間の割合はやや少ないかもしれないが、代わりはいくらでも揃っている業界なのだ。不足して他業界から呼び寄せるほどではないはずだった。
 僕は、社長なりの思いやりなのだと悟った。問題児である僕をそのまま捨て置けばよいのに、わざわざ新しい場所をくれるわけなのだから。
「ありがとうございます。ぜひご紹介頂きたいです。今まで、お世話に、なりました」
 胸がいっぱいで、それしか言えなかった。その代わり、申し訳なさや情けなさがこみ上げて来て何度も頭を下げた。こうして、僕の初の社会人生活は、四ヶ月で幕を閉じた。
 会社を辞めて母に電話をすると、予想以上に喜んだ声が返ってきた。
「良かったわね。昔から翻訳とか憧れていたものね。時間も自由になるし」
 彼女が本当に言いたかったのは、最後の言葉だけであろうというのは、なんとなくわかった。この年齢になっても、いまだに僕の人生は母の監視下に置かれているように思えた。
「本当、いい社長さんね。陽太のこと、ちゃんと理解してくれて」
 母は、僕のことを何も知らないのだ。それまでの五年間、僕が何を考えて生きていたのか、何も知らなかったにちがいない。感情をぶちまけようと思えばできたかもしれない。けれど僕は、喉まで出かかった言葉をこらえて、なるべく穏やかな声色を作った。
「言っておくけれど、まだ正式な話ではないんだ。資格が絶対必要ってわけじゃないけれど、向こうの会社で試験を受けて、それでよければ、仕事がもらえるんだ」
 社会を海に例えるのなら、僕はいかだのようなものだった。しかも、嵐のなか、必死でもがいている木の葉のようないかだだ。たいした経験もなく、個人的な縛りも多い。順風満帆とはほど遠いのだ。それなのに母が浮かれたような声を出すので、僕の不安は駆り立てられた。
「大丈夫よ。お母さん、陽太がどれだけすごいのか知っているから。きっと出来るわ。陽太だもの」
 僕の成績も進路も本当はたいして興味なかったくせに。僕は必死でその言葉をのみ込んだ。
 翻訳の仕事もピンからキリまである。専門的に学んだわけではない、語学の成績が多少良かっただけの僕に、いきなり生活できるだけの仕事が来る可能性なんて皆無だった。本当は通訳にも興味があったが、そちらは資格が必要だったし、拘束時間を考えると怖くて挑戦できなかった。
「じゃあね。美佳子をよろしくね」
 明るい母の声が途切れた。無機質な音が耳障りだと感じながら、電源ボタンを押した。
 美佳子は志望通り、無事に私立の女子大に進学していた。彼女も僕と同様、自由な動きが取れず、入りたかったというダンス部への入部を断念したらしい。その代わり、前々から憧れていた飲食店でのアルバイトが決まり、短時間で週に二回シフトに入るのが限界だったが、それでも楽しんでいた。妹は妹の収入があると思うと、少しだけ心が軽くなった。
 母との電話からしばらくして、僕を採用してくれるという翻訳会社からの返事が来た。半分会社員、半分フリーの翻訳者といった妙で特殊な立場だったが、まずは細かい仕事を請け負うようになった。大学で英語以外も真面目に勉強していたのが良かったらしく、仕事の幅は予想よりは広かった。
 安い仕事を少なくやっているのでは、家賃もまともに払えない。会社員時代のささやかな蓄えを食いつぶしながら、僕はいくらでも仕事を受けた。もちろん、正確さも求められるから神経は使ったが、なるべく多くの仕事をこなすように最大限の努力をした。
 幸い、元の会社の社長が新しい会社になにか口添えをしてくれたのか、ただ翻訳家として登録している人たちや普通の社員とは異なる仕事が与えられた。給料が高いわけではなかったが、ライフスタイルにはよく合った生活が送れた。
 僕が妹優先にしても、それを咎めたりする人間がいなくなったということは、想像以上にストレスを軽減するものだった。大学時代の友人にこの状況を話したところ、「会社としてそんな放任主義でいいのか」と苦笑されたけれども。


 ふわふわとした生活をいくらか続けたころだろうか、僕は会社に呼び出された。こういうことはたまにあることだったので、何の仕事だろうと気楽に構えて行ったのだが、それは思いのほか難儀な仕事だった。
 簡単にいえば、ヨーロッパの一地方に伝わる詩をうまく翻訳できる人間を探している、というものだった。確かに僕はその言語をかじってはいたが、せいぜい絵本程度の文章を訳せるくらいで、詩を原語のニュアンスを損なわずに日本語に置き換える技術は持っていなかった。詩というのは、その言語で表現するのが一番美しいのであり、翻訳となると骨が折れる作業だ。
「ああ、そうですか」
 会社の応接室に座った若い女性は、困ったように俯いた。聞くところによると、彼女は春川さやかという名前で、出版社の人間だった。その詩集に魅せられて出版を企画したものの、自分で詩として翻訳するのは難しいと言った。日本語とその国の言葉の両方に精通して、翻訳のセンスも持ち合わせていないと失敗してしまうだろうと、彼女は予測していた。それは僕も同意見だった。
 かといって、僕にそれが務まるかといったら、それも違う。僕だってせいぜい片言が精いっぱいで、どのような意味が込められているのか説明することはできても、芸術として読者に伝える自信はやはりなかった。まだまだ駆け出しの、ようやく自分のスタイルを作りかけた一翻訳家には荷が重い仕事だった。
 沈黙が流れたが、ふと僕はあることを思いついた。
「もしかしたら、適任の人を知っているかもしれません。少々お時間を頂いてもよろしいのでしょうか」
 女性の顔がパッと明るくなった。期待されて駄目だったら申し訳ないと思いつつ、僕はこの話を持ち帰った。
 心当たりの人物はいた――僕の大学の恩師だ。都合のいいことに、彼の研究対象がその地域に多少かぶっており、文学にも精通していた。多少浮世離れしたところはあったが、言動がウィットに富んでいて、知的な洒落も飛ばせる人間だった。時々、あまりにも高度すぎて、学生の誰にも理解されないこともあったが。
 それまでの仕事はたいてい自分でなんとか解決してしまったので、あまり他人に頼むということは考えつかなかったが、そのときは先生の顔が浮かんだ。もっとも、研究者としての本業が忙しいのは在学時からわかっていたことなので、引き受けてくれる保証はなかったが。
 僕は不安に駆られながら、先生にメールを打った。今の時期は学生の相手でお忙しいだろうから、返事にはしばらくかかると思っていたが、意外なほど早く反応が返ってきた。真夜中、急に電話が鳴ったのである。この人はたまにこういうことをする。
「おい、面白そうな話を持ってきてくれたじゃないか」
 受話器の向こうで、先生が子供みたいな笑顔を浮かべていることは想像できた。メールに添付した資料の補足を伝えると、ぼりぼりと音がした。理由もなく頭を掻くという先生の癖で、それを聞いた途端、懐かしさがこみあげてきた。
 そんな僕の感傷なんか気にも留めず、先生は一方的に話し始めた。話が長いのも変わらないと僕は苦笑した。
 結論から言えば、先生も言葉の意味はつかめるけれども、詩集の翻訳を務められるほどではないとのことだった。僕は隠れて落胆したが、先生が知り合いの研究者に心当たりがあるので話を通してくれる約束をしてくれた。
「横のつながりってすごいですね」
「おう、研究者はいいぞ。お前も帰ってきていいんだぞ」
 僕は力なく笑った。時間の自由は他の社会人と比べて多いから、少し立場をいじれば学業と両立も可能だったろう。けれども、やはりまだ生活は苦しく、自分の思う通りに生きることはできなかった。
 先生が紹介してくれたのは、他の大学で教鞭を執っている教授で、その世界では高名な方だった。僕は、在学中に何冊か著書を読んだことがあった。あの人と友達をやっているくらいだったからやはりどこか変人だったけれど、さすが先生が推薦した人物で、こちらの期待以上にすばらしい訳をしてくれた。僕どころか、会社の人間もみな唸るくらいの出来だった。
 春川さんが頑張るなか、僕と恩師がときおり翻訳担当の先生を交えて茶々を入れることを繰り返し、原稿は仕上がった。こうして出来た詩集は翌年に発売された。日本では少しマイナーな詩だったが、逆にそれが目を引いたことと翻訳者の威光もあったことが合わさって、いくらか評判になった。最初は重版がかかるかどうか微妙だという声もあったが、気がつけばどこの本屋でも置いてある存在になっていた。
「ありがとうございました」
 僕への献本分を持ってきてくれた春川さんは、ぱっと花が咲いたような笑顔で頭を下げてくれた。聞けば僕よりも一歳だけ上の彼女は、まだ編集者としても若手であり、このような成功を収めたのは奇跡だというのだ。しかし、現地ならともかく日本では埋もれがちな素材に目をつけたのは彼女だったので、僕は大いに称賛した。春川さんははにかんだような仕草を見せた。
「奥田さんに先生を紹介してくださらなかったら、きっとこの企画はつぶれていました」
「正確には僕の先生の紹介ですよ」
「いえいえ、奥田さんのおかげです」
 紹介しただけで印税が入ってくるわけではなかったのでこのときはあまり実感はなかったのだけれど、その後、彼女と僕の会社の取引が増えたらしかった。これだけは、僕が目に見える形で会社に貢献できた出来事だった。
「またなにかあったら、よろしくお願いしますね」
 そう告げて社に戻ろうとする彼女が、ふと利絵に重なった。見かけも状況も全然似ていないはずなのに、僕から去っていく姿がいつかの利絵に見えたのだ。ああ、行かないでほしい。僕は思わず彼女を呼び止めた。小動物のように小首を傾げる彼女にどぎまぎしながら、僕は食事に誘った。
「あの、今回の件で僕も仕事が増えましたし、これも春川さんのおかげだと思うんです。良かったら、お礼に食事でもおごらせてください」
 もっとうまい台詞は出てこないのかと、我ながら情けなくなった。しかし、春川さんが綺麗に笑って頷いてくれたことで、全部どうでもよくなった。可愛らしい人だ。僕は彼女が好きなのだと、その時に感じた。
 何度か会ううちに、僕らは名前で呼び合うようになり、お互いに仕事相手や友人以上の感情を持つに至った。久しぶりにできた恋人に僕は浮かれたが、そうすると僕の前に利絵の幻影が現れるようになった。
「あなたは、妹さんのそばにいるべきで、その他の人は近付けちゃいけないわ」
 記憶のなかの彼女は、何度もその言葉を僕に吐いた。傷ついた彼女の精いっぱいの忠告だった。今の利絵が僕を見たら彼女は嘲笑するだろうかと、不安が胸によぎった。
 さやかはこの時期、美佳子という妹が僕にいるということしかまだ知らなかった。話すことを躊躇ったのだ。頭がおかしいと思われるかもしれない、離れていくかもしれない。その恐怖が僕に囁きかけつづけた。せっかく新しくできた愛おしい存在を再び失うことが怖かったのだ。
 けれども、さやかと付き合っていくなら、いずれは彼女の知るところになる。実際、彼女と会っているときに美佳子に呼び出された経験も数度あった。さやかは笑って送り出してくれたが、もうさすがにこれ以上は隠せない。自分の心に限界を感じた僕は、いつか利絵に告げたときのように、さやかに僕たち兄妹の奇怪な関係を語った。
 さやかは、呆然としていた。カップを口元に運ぼうとした手が、静止したまま動かなかった。人の少ない喫茶店のなかで流れる音楽がやけにはっきり聞こえて、意識がゆらゆらと現実に近づいたり遠のいたりした。首筋の脈の音が大きく感じた。
「どういうこと?」
 そう小首を傾げる姿がまた、いつかの利絵にそっくりだったのだ。真っ当な人生を歩んできた彼女たちには、僕らの非常識な供給と補給の図式は理解しがたかっただろう。僕はこれまでの人生の全てをさやかに話した。さやかは真顔で、静かに相槌をうって聞いてくれた。こんなに自分の生い立ちを他者に語ったのは、利絵以来だった。いや、利絵以上だったかもしれない。
 前の会社を辞めていま翻訳の仕事をしているのはこういう訳なのだというところに至ると、二人の間に沈黙が流れた。気がつくと、さやかは途中からメモをとっていた。彼女の癖だった。一生懸命ペンを動かして状況を自分なりに整理しようとする姿に、申し訳なさを感じた。
 さやかの右手が紙の上を行ったりきたりして、やがて銀のボールペンがテーブルに倒れた。
「うーん、複雑怪奇ね。それ、作り話ではないんでしょう?」
「だったら、僕はとっても楽に生きられて、今みたいな生活も送っていなかったと思う」
 つい気だるげにそう呟いてしまうと、一瞬、さやかが悲しそうに僕を見た。それに気づいてしまって内心焦っていると、彼女は俯いて小さく言った。
「そんなこと言わないで。私、ちゃんと受け止めるから」
 かぼそい声で一瞬僕は耳を疑ったが、彼女はもう一度、僕の目を見て口を開いた。
「私、信じるから。受け止めるから。だから、そんな悲しいこと言わないで」
 僕は無言で、指一つ動かすことができなかった。恐る恐るという様子でさやかが呼びかけてきて、僕は我に返った。発した声は掠れていた。
「いいの? 僕はいざというとき妹を優先しなけばならない。今までもこれからも、妹中心の生活をせざるをえない。たとえ君になにかあっても、妹が助けを求めているなら僕は彼女のところに行かなければいけないんだ」
 さやかはこくりと頷き、いつものように咲いた花のような笑顔を僕に向けてきた。風に揺れて細かな花弁がちらちらと揺れている様子を連想した。
「まかせて。年上に甘えなさい」
 たった一つの差じゃないか。僕は苦笑し、気がついたら涙が出ていた。嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
 僕はこんなにも、他人から否定されるのを恐れていたのか。さやかは僕に対して受け入れると言ってくれるような人なのに、これほどまでに誰かを信じられなくなっていたのか。僕は心から彼女に申し訳なくなった。
 さやかはそんな僕の肩をやさしく撫でた。彼女がいま僕のそばにいる。ああ、なんという幸福なのだろう。触れられたぬくもりが身体全体に広がって、僕の心を静かに溶かしていった。





2009/09/10
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