見習いクロウの最後の一年

第三話 少女の溜め息は炎ゆ

 夏になると、陽光の勢いは増す。そういうときは雲が待ち遠しかった。雲に入れば、暑さも和らぐ。こういうときは、快晴よりも曇りのほうがジェミアでは喜ばれた。
 同じ時間に出ているはずなのに、春とは違い、空は真昼のように明るくなった。眩しさでつい目を細める。
「ラーヴァ、大丈夫?」
 相棒は力なく返事をする。彼は暑さに弱かった。
「クソー、噴水ニ入リタイ! 思イッキリ水遊ビシタイ!」
 その気持ちはクロウもよくわかる。ジェミアは真下にある土地よりも比較的涼しいが、それでも住民にとって夏は暑いのだ。
「兄さんが言ってたんだけど、地上では夏になると海に出かけるんだってさ」
「海ッテ、大キナ水タマリノ?」
「そうそう、あれ、地上で見るとすごい迫力なんだって。それでちょっとしょっぱいんだ。それで、みんなで泳いだりして遊ぶんだって」
 ジェミアから出たことはほとんどないクロウにとっては未知の世界だ。
「今度さ、川に行こうよ。川だって涼しいよ」
「今度ジャナクテ今行キタインダ!」
 ラーヴァを宥めていたクロウは、角を曲がったとたんびっくりしてしまう。最近は顔をめったに合わせなくなってしまった幼なじみがぼんやりと立っていた。
「あ、アンジェリカ。おはよう」
 クロウは手を控え目に振った。しかし、アンジェリカは不機嫌そうに彼を見ただけで、返事をすることもなく行ってしまう。
 一瞬おぼえた違和感に首を傾げ、彼女の荷物に金色の光がないことにクロウは気づいた。
 級持ちとなった専門職従事者に贈られる、オリーブバッジ。これは身分証にもなるので、常に携帯している者も多い。アンジェリカは、私服のときはたいていバッグにつけていた。しかし、今はどこにもない。
 覇気のない友人を見つめて、クロウは細い溜め息をこぼす。
「もうずっとああだよね。顔色悪いし、まだ落ちこんでいるのかな」
「別ニ、アノ嬢チャンハ前カラアンナ子ダロ。アンナニ目ヲ吊リ上ゲテイタラ、ソノウチ顔ガ裂ケチャウンジャナイカ」
 けたたましく笑うラーヴァを、クロウはとがめる。
「ちょっと、そんな風に言わなくてもいいじゃないか」
「オ、昔カラオ前、馬鹿ニサレテタジャナイカ。ナンデ庇ウンダ?」
 馬鹿にされていたわけではない、とクロウは口をとがらせる。
 彼女とは幼学校に入る前からのつきあいだ。
 三歳のときから既にクロウはいじめられっこで、いつも他の子らにノロマだのグズだのとからかわれていた。
 そんなとき、必ず走ってきて「いじめはよくない」とみんなを叱るのがアンジェリカだった。利発な彼女は、子どもたちの中心に存在した。
 正義感に厚く、弱きものには慈愛にあふれ……と思いきや、彼女はクロウに対しても怒った。そのころから早口だった。
「どうして言い返さないの。怒りなさいよ。馬鹿にされたくなければ、きちんとすればいいでしょ。ボールは怖がらずちゃんと取る、はさみはきれいに切る、人の言うことはちゃんと聞く!」
 問題点はわかっているのに解決できない。それで揶揄されたら泣いてしまう幼なじみは、彼女にとって腹立たしいものだった。
「リフジンっていうのはね、女の子に生まれたとか、髪の毛がまるまってるとか、お父さんお母さんがいないとか、どうしようもないことを言うの!」
 アンジェリカは自分なりの基準を設けていた。相手自身の責任の範囲で悪いことや情けないことをしたときだけ怒るのだ。
 そのはっきりとした性格が、クロウは好きだった。自分が優柔不断で態度があいまいになってしまいがちだからか、どんなときでもはっきりしているアンジェリカは接していて気持ちのよい人物だ。自分にもかなり辛辣な意見をぶつけてくるとはいえ。
 だから、そんな彼女が意気消沈している現状は心苦しかった。
 なんどか彼女のもとを訪れたりしたが、今のように拒否されるばかり。確かに、あまり親しいとは言えない間柄になってしまったが、それでもクロウは彼女に元気になってもらいたかった。
「同ジ専門職デモ、鳥使イト菓子職人デハ勝手モ違ウダロウ? 確カニ、アノオ嬢チャンガツンツンシテイナイトナンダカ落チツカナイガ、相手ノ領域ニ踏ミコムノハホドホドニナ」
 鳥使いにはコンクールというものがないし、クロウも芸術の分野にはそんなに明るいわけではない。
「オ前ハ、オ嬢チャンガ困ッテ、頼ッテキタトキニ誠心誠意コメテ助ケテヤレ。アレコレ構ッテヤルダケガ友人ジャナイト思ウゾ」
「……うん」
 クロウは空を見上げる。太陽がまぶしく、空の青はいっそう鮮やか。夏がきたのだと実感するはずなのに、クロウはあまり明るい気分になれなかった。
 どこかで、窓鉦の涼しげな音が鳴っていた。


 地上の主要な国に夏が訪れると、ジェミアへの観光客は増加する。ラーヴァは暑さに呻くが、それでもジェミアのほうがずっと過ごしやすいのだ。
 そうなると店はどこもかしこも旅行者でいっぱいで、地元の人間が外食できない日すら存在する。
 鳥使いも観光客相手の仕事に人手が割かれてしまう。
 観光客の相手は主に先輩たちの仕事なので、クロウはその分、鳥たちの面倒を見なければならない。
「ナア、クロウヨ。俺モソッチノ飯ガイインダガナア」
「だめだめ。病気がひどくなるよ」
 鳥たちは相変わらず彼にわがままをぶつけるが、クロウもあしらいがうまくなった。
 気持ちに余裕が生まれたことを、彼は実感する。前は、鳥使いとして力がないからせめて鳥たちにはよく思われたかった。しかし、彼らに対して甘くなったり、卑屈な態度を取ることが誠意ではないとわかってきた。
「アーア、最近ノクロウ、ツマンナーイ」
 けらけらと笑う声が小屋全体に広がる。
「悩ミトカナイノ?」
「悩み……? うーん」
 思い浮かんだのは、アンジェリカのこと。もう久しく彼女のつんけんした声を聞いていない。それがなんだか寂しかった。
「ナニナニ、好キナ子デモイルノ?」
「いや、別にそうじゃなくて」
「心配シナイデ。私タチ、アナタノ先輩ノ告白ニ協力シタコトモアルンダカラ!」
 若い鳥たちが騒ぐ。
「誰? 誰? 現役?」
「ドウヤッテ?」
「誰トハ言ワナイケドォ、エット……」
 鳥たちは異様に盛り上がる。デューパールやレインアローとはちがい、彼らは小屋のほかには、鳥類園か研究所など決まった場所にしか行かない。そのせいか噂話が大好きだ。
「あの、みんな、静かに」
「ダーイジョウブ、大丈夫。ア、モウオ仕事終ワリダヨネ。帰ッテイイヨ。アトハ好キニシテルカラ」
 こうなったら埒があかない。クロウはなにも聞こえないふりをして、そのまま中庭に出た。
 鳥たちは興奮しているのか、扉を閉めても声は筒抜けだった。どうしようか考えていると、真っ赤な顔をしたクレインが走ってきた。
 彼はクロウには目もくれず扉を勢いよく開け、何かを怒鳴っている。クロウはそのまま聞かなかったふりをして事務室に戻った。上司には、大部屋のあとデューパールの小屋という順で回ったということにしておいた。
 他の仕事に人手を割かれ滞ってしまった事務仕事を日暮れまでに半分終わらせ、その日の仕事を終える。通用門に向かうクロウの頭を、力の入っていない手がそっと触れた。
「よー。お前もこんな時間まで残業か?」
 いつになく疲れた様子を見せるトーレスだ。影使いは影使いで、夏は忙しい。余所からの人間が増えると治安の悪化が心配される。見回りでずっと市内をぐるぐると移動するのだ。
「クロウ、なんか食べにいかない?」
「いいよー。今日僕が多めにもつよ。好きなの食べなよ」
 日が長くなっていたから忘れがちになるが、食堂に入るような時間の余裕はなかった。そこで、いつものように市庁舎のカフェへと足を運ぶ。
 カフェに入ると、すでに満員だった。せわしなく早歩きするシャーロットと目が合う。
「あ、二人とも。いらっしゃい……と言いたいところだけど、ごめん、今日は市民より観光客優先なの」
「えー、俺たちのささやかな喜びを奪うのかよ。同期のよしみじゃん、ちょっと顔きかせてくれないかねぇ」
 おどけてみせるトーレスの足を、シャーロットは軽く踏んでやる。妙な声をあげたトーレスがしゃがんでも、彼女は気にもとめない風に言う。
「また明後日来てよ。あーあ、アンジェリカに戻ってきてほしいわあ」
 クロウはうつむく。
「……アンジェリカ、今朝会ったけどまだ元気ないみたい」
 シャーロットも暗い顔を一瞬見せるが、すぐに笑顔をつくる。
「あ、そういえば近所よね。ついでだから、アンジェリカの家に持って行ってほしいものがあるんだ」
 シャーロットは事務員を呼ぶと、自分は給仕に戻っていった。事務員が渡してきたのは、大きな封筒だった。
 それを預かったクロウは、トーレスとともに店を出た。途中で立ち寄った屋台で、ナスとトマトのグリルライスを買い食いしたのちにトーレスとは別れ、彼は自分の家の方角へ向かった。
 寄ったアンジェリカの家の呼び鈴を鳴らす。しかし、返事はない。
 すでに空や町は紺色に染まっていた。クロウは家の様子を確かめるが、居間などは照明がついていない。しかし、アンジェリカの部屋だけは小さな灯りが見えた。
 もう一度鈴を鳴らす。けれどもやはり応答はない。しばらく待っても出てくる気配はなく、クロウはしかたなく郵便受けに預かった封筒を入れ、自宅へと向かった。
 途中一度だけ振り向いたが、幼なじみの家はしんと静まり返っているだけだった。


 帰宅しても、クロウはアンジェリカのことを考える。どうしたら彼女がまた元気になれるのか。けれども、同じ専門職とはいえ、自分と彼女の職業はかなり違うのだと実感せざるをえなかった。
 季節菓子職人は、専門職のなかでも人気が高く、なりたがる者が多い職業だ。鳥使いや影使いのような生まれついての超自然的な能力はいらず、とにかく華やかで見栄えがするのが大きな要因となっている。
 彼らは四季の折々に通じ、そのときそのときにふさわしい菓子を作る。ジェミアは空中都市ゆえに、季節の移り変わりは大まかなことでしか感じられない。季節菓子職人は、旬の食材やあらゆる文化知識を使い、市民の生活に華を添える存在だった。その素晴らしさは地上にも知れ渡り、鳥使い同様、ジェミアでも指折りの観光資源となっている。
 しかし、初等学校の適性試験で、志望者の半数以上が不合格となる。それは単に技術が未熟という理由ではない。
 発想の豊かさはもちろん、広い知識を求められる。そのため、常に勉学に励まなくてはならない。また、顧客と相談して作品を作ることも多く、コミュニケーション能力も欠かせない。そしてなにより、重い鉄板や粉袋、作品の入った箱を動かすための体力が必要だ。
 浮かれた夢をみていた子どもたちはここで挫折し、普通科コースに進む。残った者たちがその後の厳しい修行に臨むのだ。
 菓子職人の見習いは、コンクールなどのイベントでしかポイントを貯められない。そのせいで、期限ぎりぎりまで見習いでいる子どもも多い。先輩の級持ちと争うことも多く、入賞も容易ではない。
 アンジェリカは見習いのときから将来を有望視されていた。出場したコンクールは全て入賞。見習いだけのコンクールでも圧倒的な実力差を見せつけ、イベントでも彼女の菓子は人気だ。玄人の間でも彼女の名前は知られていた。
 そんな順風満帆な職人街道を邁進していたというのに、五月のコンクールで、彼女は選外という結果を出してしまった。級持ちになった直後のコンクールでも先輩にまじって評価を得ていたため、周囲も騒然となった。
 本人のショックはそれ以上で、なにが悪かったのかもわからない。そのときは地上でも高名な職人がゲストとして来ていて、彼がアンジェリカの作品をまったく評価しなかったという。
 結果を聞いて呆然としていたアンジェリカは、すぐに気を取り戻して、どこが悪いのか問うた。しかし、明確な回答は保留とされた。
 確かに、コンクール出場や入賞に早くも慣れてしまっていた彼女だが、五月のときだって自分の実力を発揮した出来のはずだった。なにも評価されなかった作品と向かいあい、彼女は悩んだ。
 他人からもたくさんの助言をもらったものの、いまだに答えを出せていない。
 彼女が菓子づくりに迷うようになったのは、それからだ。見習いのときでさえほとんど失敗はなかったはずなのに、簡単なミスが連続した。
 プライドの高い彼女はそんな己が許せず、挽回しようと躍起になる。しかし、そうなればなるほど、歪みは大きくなった。
 七月にも中規模のコンクールがあった。しかし、アンジェリカはエントリーすらしなかったという。理由は、なにも出せるものがないから。
 そして、とうとう休暇を急遽与えられることとなった。本人は反抗したが、上司直々に説得され、七月に入ってから休職扱いになっている。
 こうした状況は、アンジェリカの心はますます乱すばかりだった。
 友人たちとは距離を置き、一日中図書館か自宅のキッチンにこもっている。誰かが様子を見にきても追い返すだけ。
 たまに他の場所に出たかと思えば、商店街の花や食べ物を飽きずにじっと眺めて涙ぐんだりして、慌ててその場を立ち去る。また、知り合いと出くわしたらあからさまに避けるようになった。
 そんなアンジェリカの最近の様子を聞いたり実際に目にすると、心が苦しくなる。
 長いつきあいだから、彼女が転んだときは自分で立ち上がらなければ気が済まない性格だと知っている。それでも、手助けくらいはしたかった。
「マダオ嬢チャンノコトヲ考エテイルノカ?」
 寝ているはずだったラーヴァに声をかけられてびっくりする。
「うん……」
「アレダケ何年モケチョンケチョンニ言ワレツヅケテルノニ、ヨク親身ニナレルナ」
「アンジェリカは、自分にも他人にも厳しいだけだよ。それに、八つ当たりで理由なく怒る子じゃない」
 クロウは幼いときのアンジェリカの言葉を思い出す。
「リフジンっていうのはね、自分ではどうしようもないことを言うの!」
 どうしようもないこと。高所恐怖症はどうしようもないことに含まれるのだろうか。
「そういえばさ、初等学校卒業する前、アンジェリカがいちばん心配くれていたな」
「……アレヲ心配ッテ言ッテイイノカ?」
 鳥使いの道に進むにあたり、絶対条件である鳥との意志疎通能力はクロウも満たしていた。しかし、レインアローに乗れるかどうかは危ういわけで、アンジェリカは何度も言った。
「ちょっと、大丈夫なの? 鳥とお話していればいいってわけじゃないんでしょ? 飛べなかったらどうするの? それで見習いのまま終わったら大変じゃない」
 それでもクロウは鳥使いになることを選んだ。そして、今も行く末を周囲から心配されている身だ。
「オ嬢チャンノ心配ハ正シカッタナ。俺、イツカアノ子ガオ前ニ『鳥使イヤメロ』ッテ言ウト思ッテタケド、ズバットソレヲ言ウコトハナカッタナ」
 いつかのときも、どうなろうと構わないという言葉だけで、諦めろとは言わなかった。クロウは頷く。
「かなりきつい子だけどさ、アンジェリカはアンジェリカなりに、見守って、応援してくれてたんだと思う」
「ダカラ、次ハ自分ガ、トカ思ッテルノカ?」
 クロウが肯定すると、ラーヴァは考えこむ。
「クロウヨリアノ子ノホウガ自我ガ強イシシッカリシテイル。ソレヲ踏マエタウエデ、オ前ガデキルコトヲスレバイインジャナイカ?」
「うん、そうだね……」
 アンジェリカを励まそうと思うこと自体、身の丈に合ってないのかもしれない。それでも、クロウはいつもの彼女に戻ってきてほしいと願った。
 翌日の昼休み、クロウは中央市庁舎の敷地の外れを目指した。
 ここには、ジェミア唯一の図書館がある。町の規模にしては多すぎるほどの蔵書量が自慢だ。
 菓子職人は勉強が大事。アンジェリカは常日頃そう主張している。教養がなければ、芸術的な季節菓子は作れないと。
 だから、ここに行けば彼女に会えると確信していた。
「アンジェリカ」
 案の定、彼女は歴史書が並んでいる部屋の席にいた。いつも以上に渋い顔で、机においた分厚い本を見下ろしている。
「や、やあ……」
 刃のような視線を向けられ、怯んでしまう。彼女とのつきあいは長いはずなのに、やけに緊張してしまった。
 声をかけてみたものの、次の言葉が思いつかない。
「さ、最近、どう?」
 とりあえず口に出したものの、この場では一番の禁句だったような気がして、クロウは大量の汗をかいた。
 アンジェリカは目をそらす。長いまつげが彼女の肌に影を落とした。
「どうもこうもないわ」
 気まずさが増すばかりだった。
 迷った末、クロウは彼女の向かいの席に座る。それにも文句を言われるかと思ったが、アンジェリカは本とスケッチブックを見つめるばかりで、苦情はなかった。
 彼女はアイディアを書き留めるために、いつも小さなノートを持ち歩いている。
 クロウは前に中身を見せてもらったことがあった。歳時記の書き写しや他の職人が作った菓子の感想、目に入ったものの写生、ふと思い浮かんだ図像。そんなものであふれていた。
 今持っているもので何冊目になるのだろう。気づくと表紙の色が変わっているので、いくつも消費してきたはずだ。
 アンジェリカはメモ書きしているところをあまり人に見せたがらない。表紙を立てて鉛筆を走らせるのだ。今も赤い表紙をこちらに向けている。それが彼女の心の壁のようにも思えた。
「……あんただって知ってるんでしょ。この間、私が選外だったの」
 クロウは何も言えなかった。アンジェリカは構わず続ける。
「自己最低どころか、順位も出ないなんて」
「でも、コンクールは入選する人がいれば落選する人も必ず出るものでしょ? たまたま今回がそうだっただけで」
 アンジェリカは乱暴に立ち上がった。思わず周囲の人々がこちらに視線をよこしてくる。
「ア、アンジェリカ……?」
 彼女はスケッチブックを広げた。真っ白で、なにも書かれていない。
「紙を前にしても、いろんなお菓子を食べても、どんなものを見ても、全然浮かばないの。こんなこと、今までなかったのに」
 いつもの鋭く明瞭な口調を感じさせないほど、声が震えている。
「だって、初めてコンクールで入賞できなかったのよ? 選外だったの。見習いのときも、級持ちになっても、何かしら評価はもらえていたのに」
 前回のことはクロウもよく覚えている。
 級持ちになってから初めてのコンクール。アンジェリカは過去最高の順位を獲得した。これ以上ない、幸先のよい始まりだった。
 それが、まさか五月の催しで何も賞を得られなかったなんて、彼女自身も周囲の人間も予想していなかった。
「そういうときもあるよ。アンジェリカだったらまた――」
 彼女の目つきが一瞬で鋭さを増す。
「あんたにはわからないわ! いっつもいっつも落ちこぼれのくせに、偉そうなこと言わないで!」
 怒鳴った直後、アンジェリカは息をのみ、涙で瞳を濡らした。
「……次も、その次も、もうこれから先ずっと、今までのように評価がもらえないかもしれない。その怖さなんて、あんたには理解できないでしょ。こんな時期でもまだ級持ちになるまでまだまだ遠いあんたがどうして私を慰められるのよ。私のことよりも自分のこと心配しなさいよ」
 クロウは口ごもる。それでも、彼女になにか言葉をかけたかった。
「確かに僕はそうだけどさ、劣等生が誰かを心配してはいけないっていうのはちがうよ。能力と気持ちはちがう」
「だから?」
「いや、その。とにかくアンジェリカ、一回の失敗でそこまで考えることはないだろ。次のコンクールは、またいつもどおりの結果が出るかもしれないじゃないか」
「次?」
 アンジェリカは冷たく微笑む。
「こんなになんのアイディアも出ない状態でコンクールに参加するなんて。もう、私……一生出られないかもしれないわ。出たくない……」
 そして、小刻みに震えながらクロウを一瞥し、無言で去ってしまった。
 細い後ろ姿は今にも折れてしまいそうだった。クロウは思わず追いかけたくなったが、この状態で彼女を元気づける言葉は思いつかない。
「あのー、静かにしてくださいね?」
 いつの間にか館の職員が近くにきていた。アンジェリカに気を取られてまったく意識しておらず、クロウはわざとではないとはいえ大きな声を出してしまった。一斉に周囲の厳しい目が向けられる。
「ご、ごめんなさい」
 また失敗してしまった、と落胆する。いつも彼女を怒らせてばかりだ。
 とぼとぼと出たところで、待機していたラーヴァがやってくる。
「オ疲レサン。サッキ、オ嬢チャンガ通ッタケド」
 クロウはうなだれる。
「ラーヴァ、失敗だったよ。怒らせたっていうか、刺激しちゃっただけというか」
「……ソウカ」
 ラーヴァはクロウを慰めるように肩に止まる。
「どうすればいいかな」
 しばらく沈黙したあと、ラーヴァはくちばしを開く。
「嬢チャンサ、ヤッチマッターッテ顔シテタゼ」
「やっちまった?」
「クロウヨ、仕事終ワッタラアノ子ノ家ニ行カナイカ?」
 アンジェリカが苦手なはずのラーヴァがそんな提案を出すとは思わず、クロウは目を丸くする。
「アレダト、モウ一度話シテミテモイイカモシレン」


 ラーヴァの提案に従い、急いで仕事を片づけて定時で上がったクロウは、再びアンジェリカの家を訪れた。今日は居間にも他の部屋にも灯りが確認できたが、反対にアンジェリカの部屋は暗かった。
 呼び鈴を鳴らすと、アンジェリカの母が出てきた。
「あら、クロウくん」
「こんばんは、おばさん。ご無沙汰してます」
 専門職コースに進んでからはアンジェリカの家を訪ねる頻度も減り、見習いになったあとはほとんど近寄らなかった。
 思えば、先日、封筒を届けにきたときが久しぶりの訪問だった。アンジェリカはクロウの母や姉と仲はよく、時折やりとりしているのだが、クロウは本人としかまともに顔を合わせていなかった。
「鳥使いはどう?」
「……まだ見習いです。恥ずかしいんですけれど」
 アンジェリカは同期のなかでも級持ちになった時期は早かった。そんな彼女の家族に、まだ自分が見習いであることを告げるのは気まずい。
 しかし、アンジェリカの母は優しい表情を浮かべる。
「別に、まだ何ヶ月かあるのでしょう? それに、人にはそれぞれのペースがあるんだから、恥ずかしがることはないわよ」
 彼女と同じ茶色の瞳を持つ人にそう言われると、なんだか新鮮だ。
「アンジェリカは……」
「ああ、あの子ならちょっと散歩よ。気分転換に」
「あの、まだ落ちこんでいますか?」
 見上げた顔の様子で、それが是だと伺えた。
「たった一回の失敗なのにね。でも、あの子にとってはその一回が大きいのね」
 アンジェリカの母の笑みに、すこしだけ苦みが加わる。
「おばさんは普通の人だからよくわからないけれどね、あの子もあなたもまだ十三歳じゃない。それで人生決まるのは過酷だと思うわ。お菓子職人になってくれたことは嬉しいけど、ときどきハラハラしてもどかしいときもあるのよ」
「おばさんは、アンジェリカにやめてほしい?」
 クロウの問いに、彼女はわずかに首をかしげた。
「苦しいならね、それもひとつの道だと思うわ。でも、きっとあの子はそんなことしないでしょ?」
 クロウは頷いた。それを見て、アンジェリカの母はほっとした様子をみせた。
「クロウくん、悪いけれどあの子を呼んできてくれる?」
「いいですよ」
「ありがとう。あなたもお仕事でいろいろあるでしょうけれど、あまり無理しないようにね」
 クロウは頭を下げて、アンジェリカの家をあとにした。
 このあたりは彼の地元でもあるので、土地勘は十分にある。あの少女が選びそうな道を順に回り、やがてふらふらと歩いている人影を見つけた。
 クロウは最初、それが自分の幼なじみがどうか判断に迷った。アンジェリカといえば、いつもは早足で目的地まで一直線という歩き方なのに、どうも頼りない。別人と言ってもいい。
 しかし、やはりそれはアンジェリカなのだ。図書館でのやりとりが脳裏をかすめる。クロウは逡巡したうえ、勇気を出して声を出した。
「アンジェリカ!」
 ゆったりとした足取りが、ぴたりと止まる。
 彼女は振り向かない。夏のやわらかな空気は二人の間で停滞してしまい、まるで時が止まったようだ。
 通りの向こうにある噴水の音以外、なにもなかった。
 クロウはさらに声をかけようとしたが、一瞬声が喉に引っかかってしまう。深呼吸してもう一度呼ぼうとしたとき、彼女が振り向いた。
「クロウ……」
 薄手で簡素なワンピースを着たアンジェリカは、自分の服装を見下ろすと少しバツが悪そうな顔をした。いつもはきちんと整えている髪も、今は適当にくくっただけだった。
「なに? まだなにか言いたいの?」
「えっと、昼間のことを謝りたくて」
 アンジェリカは顔をしかめただけで、沈黙する。
「あ、あ、あと、おばさんが呼んでたよ」
 彼女はうつむき、唇を歪ませる。
「まだ帰りたくない。気分転換できてなから」
「でも、いくら夏でも夜になったらその恰好じゃ寒いでしょ?」
「放っておいて」
 突き放す言い方だったが、声は震えていた。
「放っておけないよ!」
 思わず出た自分の声の大きさに驚き、クロウは慌てる。これではいつもと真逆だ。
 アンジェリカも一瞬動揺するそぶりを見せたが、また元の態度に戻ってしまう。
 彼女は近くにあったベンチに座りこんでしまう。クロウもつられて横に腰かけたが、拒まれはしなかった。
 無言が続く。噴水の音の変化を聞きながら、クロウは変化していく空をぼんやりと見上げた。日が沈むまではまだ時間があった。
 ふとアンジェリカは口を開いた。
「クロウさ、私の作ったお菓子、どう思う?」
 今さらそんなことを聞かれるとは予想していなかった。
「え、美味しいけど」
「味以外に、なにか感じない?」
 そんなことを言われても困ってしまう。クロウは、彼女の質問の意図がわからなかった。
 アンジェリカは霞のような声で言う。
「心弾まないって言われたの」
「え?」
「五月のコンクールの特別審査員に。『君は評判通り上手だね、でも食べていて楽しくない』って」
 アンジェリカは両手を頭の側面にやる。
「私、まったくその意味がわからなかった。見た目も味も完璧だったはずなのに、食べていて楽しくないと言われるなんて予想もしなかった。どうしてそう思うのか聞いても、理由はとうとう教えてもらえなかったの」
 だから彼女なりに考えてみた。甘さ、舌ざわり、飾りの状態、季節に合っているか。けれども、それらに評価に値しないほどの欠点は思いつかなかった。
 それは周囲の職人も同じで、彼らから考えつくだけ意見を集めたものの、どれもしっくりこなかった。
 手探りで、日ごろ紙に書きとめたアイディアをいくらか改変してみるが、むしろひどくなるばかり。作ってみなくても美味しくないとわかるし、レシピを見ただけで心が浮き立つどころか沈んでしまう。
 そんなことをくりかえすうちにどんどん自信は失われていく。普段の仕事でさえ、自分が正しいのか間違っているのか判別がつかなくなってしまった。
「あんたなんかに、なんて昼間は言っちゃったけど……本当はそんなこと言う資格なんて私にはなかったのよ」
「資格なんて、そんなの」
 クロウは内心動揺する。彼女はよほど追いつめられているのだと察してしまった。
「もうこれ以上考えても一生答えは出ない気がして」
「アンジェリカ、発想を変えようよ! どこがダメで心弾まないのか、じゃない。どういうものに心が弾むのか、とかさ!」
 アンジェリカは真顔でクロウを見つめる。
「どういうものに?」
 クロウはぶんぶんと首を縦に振る。
 アンジェリカは呆然とした。ダメだったところを探してばかりで、そんなことをまったく考えていなかった。
「私、私は……」
 アンジェリカは、小さく震えた。
 菓子にどんな感情を抱いていたのか。顧みても、思い出すのは自分がどれだけ素晴らしい作品を生み出せるのか、彼女はそればかりを考えていた。
「美味しくて見た目も綺麗で、その場にふさわしいものだったら、それで私は満足していた……つもりになっていたのかな」
 アンジェリカは下を向き、自分の指をじっと見つめる。
「クロウはお菓子、好き?」
 クロウが即座に首肯すると、アンジェリカは力なく笑った。
「そうね、聞くまでもなかったわ。私も……好き。トーレスも、シャーロットも、この町の大半の人は好きだと思う」
 ジェミア市民は享楽的な気質を持っており、音楽や芸術、服飾、運動など、遊ぶ文化が発達している。もちろん、食べることも大好きだ。
「お菓子は夢なのよ。料理やパンとちがって、お菓子は食べなくても生きていける。だからこそ、それを食べる喜びというものがある。そして、ジェミアは花の種類が限られているし、海があるわけでもないし、畑だってそんなにない。そう、季節を感じられるものは少ない……。お菓子も季節も、ジェミアにとっては憧れなの。だから、季節菓子職人は、誰かに幸せな夢を与える人だって思うんだ」
 クロウは彼女を見つめがら控え目に頷く。クロウ自身、甘いものを前にすると、特別に心が浮き立つ。
 カフェに寄るのは習慣で、それについて今まで意識しなかったが、普段の食事では味わえないなにかを求めているのかもしれない。
 彼女は、絞り出すような声で言う。その「誰か」のことを、いつの間にか省みることもなかった、と。
「私は、みんながあっと驚くお菓子を作りたかった。コンクールに出るからには評価がほしい、ありきたりなものじゃだめ。そんなことばかり」
 アンジェリカには才能があった。他の菓子職人も舌を巻くほどの技術とセンス、そして知識。
 それらを駆使して作り上げれば、華やかで美味しく、評価の基準をすべて満たす作品が出来てしまう。
「アイディアはどんどんわいてくる。努力すれば、腕を磨いて知識を増やせば、それで結果が出せた。だから、賞を取れない人は努力が足りない人たちなんだって思ってた」
 アンジェリカは大きくかぶりを振る。
「私、すっごく嫌な子。ずっと、落選した誰かの落ちこむ顔を見ても、励まそうなんて思いもしなかった。そんな人間、誰も幸せになんかできないわ。自分のことばかりで、他人のことを置き去りにしていたの。だから、相手がどんなお菓子を食べたら嬉しいかなんて考えなかった」
 アンジェリカは、口をへの字に曲げたまま目を押さえる。
「慢心していたんだわ。あの子たちとは違うって。自分のことばかり。それが作品に出たのよ」
 実際にその方針で評価を得てきたのなら、それもしかたない。そう思いつつ、クロウは面食らった。
 彼は欠点ばかりで、ようやく前進しなくてはと足掻くようになった段階だ。トーレスやアンジェリカのような実力がある人間は、躓くことなどない。そう感じていた。
 才能がある者でも悩むし、それゆえの問題も起こる。それは、クロウにとって思いもよらぬ現実だった。
 アンジェリカは月を見つめる。不十分な円の光は、街灯とまざりながら彼らを照らす。
「今まで偉そうにしてたのが馬鹿みたい……本当に、馬鹿みたい」
 アンジェリカの目から、滴が二粒、三粒とこぼれ出す。
 クロウは焦ってしまう。アンジェリカに泣いてほしくない。元気を出してほしい。その一心で、必死に言葉を探した。
「でも、僕、アンジェリカがいろいろ怒ってくれるの嫌いじゃないんだ」
 アンジェリカは、まるで不気味なものを見るかのような目をクロウに向ける。思わず涙も引っこんだ。
「は? あんたなに言ってるの?」
「だって、アンジェリカは理不尽なことは言わないだろ? いつだって悪いところを指摘してくれるじゃないか」
「……バッカじゃない? 意味わかんない」
 指で目尻のあたりを拭いながら、アンジェリカは笑う。クロウはほっとした。
「ようやく笑った」
 きょとんとした彼女は、バツが悪そうな表情を浮かべるが、それでもすぐに笑顔に戻る。
「僕は、いつものアンジェリカがいいと思うよ」
「あんなにいろいろ言ってるのに?」
 クロウは思いきり頷く。
「むしろ、怒って厳しいこと言わなきゃアンジェリカじゃないよ! 初等科のころだって」
 クロウは具体例として、今までの出来事を思いつく限り口にしていく。長い付き合いだけあって、話題はいくらでもある。
 彼としてはまったくの善意のつもりだった。しかし、思い出話に幼なじみの頬が徐々に引きつっていったことに気づけないクロウであった。
「昔さ、アンジェリカと一緒に花冠作ったよね」
 やや精神的に疲労したアンジェリカは、力なく天を仰ぐ。
「あー、せっかくあんたが作ってくれるっていうから待ってても、時間はかかるし出来はイマイチで、ほとんど私が完成させたようなやつね」
 クロウは苦笑いを浮かべる。小さいころから二人の関係は変わらない。
「それが風に飛ばされて、木に引っかかって。取りに行ったのはいいけど、僕が下りられなくなって二人で泣いたね。そうしたら父さんとラーヴァが通りかかって助けてくれたんだ」
「あったあった。もう、あんたってばあのときから」
 アンジェリカは小言を始めそうになったが、珍しくクロウは遮った。
「……あのとき、アンジェリカは下りられたけど、僕が一人になるから一緒にいてくれたんだよね」
 彼女はそっぽを向く。
「別に、あんたが落ちたら私のせいになりそうだし」
「そのときのこと思い出してさ」
 彼女とは生まれたときからの付き合いだからか、思い出はいくらでもある。
「あれから花冠作らなくなっちゃったね」
「花冠ねえ……」
「でも、アンジェリカは女の子らしいものが好きだったよね」
 彼女の顔は、薄暗いなかでもよくわかるほど赤くなった。
「別に、それほどでも」
「そう? 女の子の夢だって言ってたじゃない」
 恥ずかしくて震えたアンジェリカは、ぽかぽかとクロウを拳で叩く。
「ちょ、アンジェリカ? 待って、待ってったら」
 その瞬間、彼女の手が止まった。きょとんとして表情を覗きこもうとしたクロウのことなど考えず、彼女は顔を上げる。ぶつかりそうになったクロウはとっさに仰け反った。
「それ、それよ!」
 鼻が触れあいそうなほど近く、彼女の目の光もよく見える。
「女の子の夢! お花、冠……そこに白いレース……」
 アンジェリカは目を輝かせた。ついさっきまで虚ろな様子でいたのが嘘のようだ。
「そうよ、これ! どうして私ったらこんな簡単なこと思いつかなかったの! やっぱり定番をどう見せるかが大事よね!」
「アンジェリカ?」
「いいアイディアが思いついたわ!」
 アンジェリカは周囲を見渡して慌てる。
「どうしよう、スケッチブックがない! 私、先に帰るわね」
「え、ちょっと」
「あとで、またあとでね!」
 風のような速さで、彼女は去ってしまった。残されたのは、一人と一羽。
「ナンダァ? アノ嬢チャンオ礼ノ言葉スラ忘レタノカ?」
「うーん、でも、元気になってよかったじゃない?」
 久しぶりにあんなに生き生きとした幼なじみを見られたのだ。ラーヴァはいまひとつ納得しきれていないようだが、クロウは満足だった。


 カーテンを閉めていても、強い日差しは容赦なく室内に侵入する。
 ラーヴァに起こされる前に目覚めたクロウは大きく伸びをした。久々に清々しい気分だった。
 いつものように朝食を口にして、出勤の準備を終えたクロウが玄関の扉を開けると、両手を腰に当てて背筋をピンと伸ばしたアンジェリカが立っていた。その不意打ち具合は、トーレスに似ている。
 まさかいきなりはち合わせるとは思わず、クロウは固まる。対照的に、アンジェリカはズイッと彼に近づく。
「クロウ、今日は暇?」
「え?」
「え、じゃなくて。今日は残業ない日よね?」
「うん」
「じゃあ、あんたの好きな三色柑橘のケーキごちそうするから、仕事終わったら食べにきてよ」
 クロウはきょとんとした。アンジェリカは目をそらす。
「このあいだはひどいこと言ったでしょ。そのお詫び。……ごめんなさい」
「そんな、別にいいのに」
 アンジェリカは肩をいからせながら言う。
「もう! 私、悪いことをしてそのままでいるのが我慢ならないの! そんな自分が許せないの! それくらいわかってよ!」
 長い付き合いなんだから、とアンジェリカは仁王立ちする。クロウは気圧されてしまし、なぜか謝ってしまった。それでアンジェリカにまた叱られる。
「とにかく、食べにきてね。今日のは絶対美味しいから。なんならトーレスが一緒でもいいわよ。でも、ラーヴァはちゃんと籠に入れるとかして、受付で待っててもらってね」
 早口でそう捲し立て、彼女は駆け足で行ってしまった。去っていくアンジェリカのバッグに金色の光が反射していた。
「チョットハ素直ニナッタガ、マダマダダナ」
 ラーヴァは笑う。つられて、クロウも苦笑した。
 夏の日差しは厳しいが、こういうときに冷えた菓子を食べるときが何よりの至福だ。三色柑橘の甘酸っぱい味を思い出すと心が浮き立つ。クロウは仕事終わりが待ち遠しかった。
「さて、今日もお仕事がんばりますか」
「オウ、遅レヲ取ルナヨ!」
 意気揚々とクロウは石畳を歩く。
 アンジェリカの元気が戻ったのなら、自分も奮って仕事に取り組みたかった。彼女の復活に、勇気をもらったような気分だ。
 クロウのポイントは現在八二三。残り六七七。卒業期限まであと七ヶ月。



 第二話へ 第四話へ

 目次に戻る